あぱかば・ブログ篇

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2009年 05月 19日

娘との手紙の交換

2007年1月に、「コシヒカリ」の道徳の授業に使うため、「○○さんが生まれた日」という題の手紙を書かされた。
そのときの話は、子供に宛てる手紙・ふたたびとして書いた。

先日、またも小学校から「子供に宛てる手紙」を書け、と。
同じ人間がそんなにちがう内容なんか書けないよ。
困ってしまい、前回とほぼ同じようなことを書いた。


「コシヒカリ」さんは背が伸びて、もう少ししたら私を追い越しそうです。
もうそろそろ抱っこできないのがさびしいです。
自分より大きい人を抱っこするのはおかしいし、そうしたら私にはもうコーシロー(犬)しか残っていません。
でもコーシローは私の生んだ子供ではないので、代わりというわけにもいきませんね。
あとは「コシヒカリ」さんの生んだ子に期待するしかありません。
よろしくお願いします。


トカナントカ。
現物がないので忘れたがこんなような内容。
前よりすっとぼけてみた。

「コシヒカリ」から返事が返ってきた。
それも授業で書かされているので、まあ、授業を媒介してやりとりしているわけだ。


お母さんの三谷眞紀さんへ
手紙を読んで、まず感動しました。それから笑いました。なぜなら、前と書いていることが同じで、幸四郎のことが加わっただけだったからです。
最初は、(書くことが思いつかなかったのかな?二行もあまってるし…。)と思いました。あとで、すごく失礼なことを思ったと思いました。
でも、同じようなことを書いたのは、前も、今も、まったく同じ気持ちだったんだな、と思いました。
私も同じことを書きますが、テレビや本で、親の大切さは知っているけれど、やっぱりあらためてこの手紙を読んで親の大切さがわかった気がします。それと、幸四郎のことは、わが子のように、私のかわりに、しっかりかわいがってください。私は、中学生になってもお母さんの最後の宝物です。いままでありがとうございます。これからもよろしくおねがいします。


なんか、道徳っぽいわね……と思いながらもありがたく読んだ。
今日、「コシヒカリ」の部屋に物を取りに行くと、
「おかーさん、わたしの手紙読んでくれた?」
と聞くので、
「読んだよ。ありがとう!」
とぎゅーぎゅー抱きしめると、
「ぐええ。あのー前のときのわたしからの返事は読んだんだっけ?」
と言う。
「前のときのは、読んでないよ?」
「あれ、そうなの、そのまましまっちゃったのか。待ってて……あれ、ないなあ。えーとえーと。あ!わかった!わたしの一番大切な物をしまうとこにしまってあるんだった。」
机の奥底の二重底みたいになっているところから、手紙を取り出す。
2007年1月に書いた返事を、私に見せないままになっていたのだった。
「ついでにこれも読んで。」


はいけい 母へ
この家に生まれて来てとてもよかったです。
お母さんにおこられてお母さんなんて大きらい!と思っても次の日になると、とっくになかなおりをしてきのうの事なんてすっかりわすれてしまうのはなぜだろう?と思って、それほどお母さんは大切なのかと思いました。
テレビや本などで、親の大切さは知っているけれど、やっぱり自分の親の方がとっても大切なのを知りました。
私も、いつかは大人になって子どもを生みます。
わたしも、お母さんの様に体は小さくても心のきれいな大人になりたいです。
とてもやさしい手紙をありがとうございました。
けいぐ大好きなお母さん♥


同じやりとりをしているのね。
とはいえ、2007年1月の手紙は、幼い分、道徳っぽさがなく真実味があってかわいい。
なによりも、その交換した手紙を、「わたしの一番大切な物リストに入っているんだ。」というのがうれしかった。
学校の授業でお互い“やらされて”いることなのだが、子供にとってはそんなに大切な物なのか。
今さら遅いが、知っていたら、もう少し、誠実に書けばよかった。

by apakaba | 2009-05-19 22:04 | 子供 | Comments(5)
Commented by ぴよ at 2009-05-21 08:01 x
>同じようなことを書いたのは、前も、今も、まったく同じ気持ちだったんだな

凄いなぁ~。子供ながらフォローが上手い!(笑)
そうか、コシヒカリちゃんはもう小学校6年なんだ・・・
前にお会いした時は本当に子供子供した感じだったけど、
すっかり女性らしくなったんだろうなぁ

自分が小学生の頃、道徳の時間って何やってたっけ?
少なくとも親に手紙を書かされた事はなかった。
でも父の日にお小遣いが足りなくて何もプレゼント出来ないから、代わりに手紙書いて誤魔化したなーと。
コッチは「金の掛からない手紙で済ませちゃえ♪」位の気持ちなのに、父親が妙に喜んでくれて罪悪感を覚えた事しか記憶にない(苦笑)
Commented by apakaba at 2009-05-21 08:40
今もまるっきり子供子供してます。
キョ氏にあいかわらず羽交い締めにされてキャーキャー喜んでいるレベル。
中学生になっても羽交い締めにされてるのか?
(それは、どちらかというとおじさんの立場が)
まーでも私よりはマシかな。
私はチビで本当に棒のような体だったから。

道徳は、ゆとり世代の子たちがこの授業を受けているんじゃないかな。
「ササニシキ」のときには(6年前)こんな手紙書かされなかったもの。
無理矢理書かされているという抵抗感もあるし、なんだかんだいっても感動しちゃうという単純な喜びもあり、といったところでしょうか。

道徳に関してちょっと長くなるので、つづき。
Commented by apakaba at 2009-05-21 08:40
「命の大切さを知る」というお題で「○○ちゃんの生まれた日」という内容で書けというのには、反対意見もあるようです。
母親がいないとか、生みの親じゃないとかいろいろ事情があるのに、いっせいに授業で扱うのは無神経ではないか、と。
どうなのかなー。
でも、学校(集団教育)ってこういう暴力的な状況がたくさんあって、それで耐性つけて社会に出る、という学習面もあるのではないかという気もするのよね。
あまりにも配慮しすぎていると、多くの子たちが命の大切さを(無理矢理ながらも)勉強する機会を失うことになるわけだからね。
トカナントカ、答えは出ませんけど。
Commented by 那由他 at 2009-05-21 11:45 x
「時には母のない子のように」の歌詞で、母親がいない子供のことを考えろ、みたいに問題になったと記憶してます。
ああ、そんな風に考える人もいるのか、何にも気がつかなかったなと、思ったことを覚えています。
養子であることをカミング・アウトしている親子の場合は、問題ないでしょうけど、適切な年齢になった時に、と思っている親御さんの場合、ウソをつかざるを得なくなったり、難しい問題に直面することになるでしょうね。
自分自身が、血縁の親子関係しか経験していないので、当事者の親御さん、お子さんの気持ちは、想像する他ないですし、そういう状況に人たちだって、個人個人で考え方、感じ方が違っているし、正解はないような気がします。

厳しい状況で、「耐性」がつく子供の場合と、壊れてしまう子供の場合とあるので、一概にどちらが良いとは、私にはわかりません。
どちらの立場に立つかは、教育現場の判断なのだろうなと思います。
Commented by apakaba at 2009-05-21 12:19
教育現場の、各先生たちの力、学校としての方針に芯が通っているか、といったところでしょうね。
まあ、あまりセンセイに期待をかけてもなあという気もしますが。
無神経が服を着ているような先生もたくさんいるわけだし。
どちらにしても、これは総意を得られることのない問題だと思うので、その学校の方針にどうしてもうなずけないのなら、なにかに訴えるとか、全力で逃げてしまう(道徳のときは欠席しちゃうとか別の学校に入るとか)しかないかな。

片親とか親がいないとか庶子とかって、その人が生きていればいつかは直面することですよね。
その機会を学校が用意することになる、という覚悟が、先生たちにできているのかなー。良心を信じたいですが。


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