あぱかば・ブログ篇

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2013年 01月 19日

普遍性獲得への今日的手法——「記録は可能か。」

ニナ・フィッシャー&マロアン・エル・ザニというドイツのアーティスト・ユニットを、つい先日初めて知った。
東京都写真美術館で開催されている、「記録は可能か。映像をめぐる冒険vol.5」に出品されていた『
成田フィールド・トリップ』という映像作品を見たからである。
展覧会では「記録としての映像」をテーマに、三里塚闘争や国際反戦デー、福島の原発事故、軍艦島などの映像作品が上映されている。
私は美術展の映像作品にはすぐ飽きてしまうほうなのだが、この作品は30分という長尺にも関わらず、見入った。
正統派のドキュメンタリーではなく、ドラマ仕立てにしているところが新鮮だった。
(以下、“映画”としてはネタバレになるので注意)

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大学生のカップルが、有機農業体験をするため、三里塚に赴く。
この二人は俳優ではなく、決まった脚本もなく、三里塚の歴史も知らない。
はじめは無邪気に畑に出たり、「あんなにすぐ近くに飛行機が見えるよ!」などとはしゃいでいたが、土地の人と知り合い、ここが、自分たちが生まれるよりずっと前から闘争の舞台であったことを知っていく。

彼らは三里塚闘争をなにも知らなかったからこそ、先入観なしでこの地の懐深くに飛び込んでいけた。
私の息子たちくらいの若いカップルは、しゃべりかたも服装もごくシンプルでナチュラルだ。
全編に流れるBGMは甘くやさしく、まるで国産小型車のテレビCMみたいな可愛らしい雰囲気である。
その甘くやさしいBGMをひっきりなしにかき消してくる、飛行機の轟音。
彼らはごく自然に、耳と心をこの地に向かってひらいていった。
思想でガチガチに固まることもなく、よそ者の気楽なスタンスのまま、彼らは轟音の中を自転車で散策し、団結小屋の鉄塔に上り、現地闘争本部(現在強制撤去)の古びた建物を見る。
デートのように、ふざけたり写真を撮り合ったりしながらも、ここに暮らし、闘争を続ける人々と語らうにつれ、二人の表情は深みを帯びてくる。
もう、知らなかった過去には戻れない。

ではこれからどうするか。
選択に悩むところで、映画は終わる。
男の子はこう言う。
「(自分の住まいに)帰りたい。今まで知らなかったことをいっぺんに知って、頭が混乱している。いったんここを離れて冷却期間をおいて、あらためて客観的にここのことを勉強したい。」
理性的にも見え、体のいい逃げ口上のようにも見え、見る者は“もし自分でも、同じことを言うかもしれない”と思わされる。
女の子はこう言う。
「まだ残っていたい。せっかく育ててきた野菜の収穫がもうすぐだし、ここの人たちともっと話して、この場所でここのことをもっと知りたい。」
誠実にも見え、感情に流されているようにも見え、見る者は“もし自分でも、同じことを言うかもしれない”と思わされる。
二人の迷いは、つまりそのまま、見る者の姿になる。

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ランチの「記録は可能か」?iPhoneがあれば簡単簡単。写美に来たら、大好物のシンガポールラクサ。

三里塚について、このような描き出し方が可能だったのか(まさしくタイトルの「記録は可能か。」に呼応する)、と驚いた。
国産小型車のテレビCMと見紛う淡い画面の中で流れていく、断片的・限定的と見えるイメージの積み重ねが、直情径行のドキュメンタリーよりもはるかに確実で強固な普遍性を獲得する。
これこそが、映像の力である。
最後に考えが割れてしまう二人を見ながら、三里塚という限定された闘争の枠を超えて、日本や世界のさまざまな社会問題が頭に浮かび、そのひとつひとつに対しての自分の選択を迫られているような気持ちになった。

ニナ・フィッシャー&マロアン・エル・ザニの仕事を、今後もさらに見ていこうと思った。

by apakaba | 2013-01-19 14:31 | 歌舞伎・音楽・美術など | Comments(0)


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