2015年 06月 19日

誰も見たことのない『長靴をはいた猫』

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最後の練習日の私。ノイズキャンセリングイヤホンを調整しながらセリフを当てている


影絵の本番が終わった。
ノイズキャンセリングイヤホンを新調して、これでしばらくは大丈夫だと喜んでいたのも束の間。
聞こえがマシだった右耳が、いつの間にか少し聞こえなくなってきたため、左耳の響きを抑えるために左耳にイヤホンを突っ込むと、両方とも聞こえが心許なくなっていた。
それに気づいたのは、練習が始まってからだった。
あわてて左のイヤホンを外すと、やっぱり自分の声も人の声も頭にガンガン響いて、ふらふらする。
もともとは左耳が利き耳だったから、いまだによく聞こえないとつい左耳で聞こうとする癖が抜けない。
我ながら馬鹿みたいで、自分にいらいらする。
まだ本当の難聴までは時間があるだろうが、一気に右耳の具合が悪くなって両耳難聴になってしまったらと思うと不安でたまらない。

だから影絵で主演なんてもう無理なんだけどね。
20人以上の団員と一緒に練習して、声のパートの全権を任されるには、肉体的にも精神的にも負担がかかりすぎる。
練習期間中はずっと胃が痛くて、歯を食いしばりすぎてこめかみが痛い。
それでも、この劇団はいつもほんとにおもしろいことをやろうとしているから参加している。
参加すれば、明らかに情緒不安定になるとわかっているのに。

演目は『長靴をはいた猫』。
貧しい農家の三男坊が、親の形見に残された猫の悪知恵に従って、侯爵であるかのようにふるまい、富を手に入れお姫様と結婚するという、ペローの童話だ。
最初、私は乗り気ではなかった。
だから声の担当を外れようかなと考えていた。
しかし、劇団代表は、この童話を、勧善懲悪では割り切れない、物語世界の深さを表現したいという希望を持っていた。
ブーツで人間世界へと足を踏み入れ、時には手を汚すことも厭わずに、知恵で自分の求めるものを手に入れていく猫と、純粋な三男坊は、光と影のように表裏一体。
猫がワルなほど、三男坊の美しさは引き立つ。
猫の名前は「ボット」、フランス語で「ブーツ」の意味だという。
三男坊の名前は「アラン」、ありふれたフランス人の名前だ。
この構想はさすがだと思った。
急にやりたくなった。
おもしろおかしいだけのハッピーエンドではなくて、この世界が持つ割り切れなさ、ちょっとゾクッとくるおそろしさ、そういうわけのわからない迫力を感じさせたい。
代表の書く脚本は、私がボットをやることを前提として書かれていた。

劇団代表の構想に、さらに自分で役作りを加えた。
「ボットは、いなかった」
最初から、アランしかいなかった。
ボットはアランのもう一人の姿。
だから、アランに対して話すとき、アランのことを語るとき、ボットの口調はほんの少しやさしい。
だってもう一人の自分だから——。
劇を見てそんなことを想像する人は一人もいないだろうけど、いいのだ。
文学とは、こういった細部の作り込みの積み重ねで、この世界を垣間見せることだ。

発声の方法を変えて、口をあまり大きく開かずに喉から胸へかけて声を響かせる出し方にしてみた。
口をはっきり開けて声を張ると少年ヒーロー風になってしまう。
でも口を大きく開かず、しかもこもらせずにセリフを言うのはやったことがない。
今までの「田中真弓風」を捨て、「山田康雄風(ルパン三世ファーストシリーズ)」へと方針転換。
ダークでセクシーなワル。
最後までいい奴か悪い奴かよくわからない、目の離せない猫へ。

本番、マイクでその声を出すと、いちいちくだらない茶々を入れていた子供は静まり返る。
怖さを感じている。
怖さと同時に、魅力も感じていることが、ひしひしわかる。
そのうちに、画像の美しさ、芸術性あふれる音楽、人形の細やかな動き、芸達者な演技に引き込まれ、自然と私語はなくなる。
各パートの反省事項は尽きないだろうが、公演は大成功だった。

苦しんだ甲斐があった。
今回は異例の短い練習期間だったのに、各パートの能力の高さには感嘆するしかない。
病気の苦しみと引き換えにしてもやりたいと思えるのは、構想のおもしろさと、それを作り上げる団員に絶対の信頼があるからだ。
本当にありがとう。



高学年と低学年の2回公演をしましたが、低学年用をよりワルに作ったので、そちらを載せます。
(体育館の音響の調子が悪く、残念なことに「キーン」という高周波が入ってしまっています。)

いつまでやれるかなあー。


by apakaba | 2015-06-19 17:16 | 歌舞伎・音楽・美術など | Comments(0)


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