2017年 01月 12日

カフカの影が街を覆う__「METAPHOR カフカとの対話」とギャラリー・トーク


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ギャラリー・バウハウスのホームページより


御茶の水のギャラリー・バウハウスで、小瀧達郎写真展「METAPHOR カフカとの対話」が開催されている。
10日、ギャラリーのトークイベント「ギャラリー・トーク お正月カフカ プラハ×アフリカ×病室」へ行ってきた。
カフカ研究者の頭木弘樹さん、作家の田中真知さん、館長の小瀧さんによる鼎談である。

トークが始まる前に、小瀧さんの展示を見た。
ここ数年内に開催されてきた小瀧さんの写真展にはすべて行っているが、プラハの写真は、2012年の「VENEZIA」以来のすばらしさだ。
古いライカのレンズで撮られたカフカの街・プラハの、影と陰(sillouette と shadow)。
プラハを撮ることへの写真家の喜びと静かな興奮が、プリントされている。

ぐるりと一巡してみて、縦構図の写真が多いことにすぐに気づく。
元来が横構図であるはずの人間の視野からして、縦構図の写真というのは、それだけで意図的に切り取られた非日常への意志を予感させる。
小瀧さんの縦構図の写真は、視野をせばめられた不自由さが、風光明媚な風景写真となることをやんわりと、しかしはっきりと拒む。
展示作品すべてで、プラハという街を表す。
“この1枚”で完結する写真ではなく、ギャラリー全体をなんども歩き回り、断片を拾い集めるようにしてプラハを知っていく。
すべて見終わって初めて、プラハが立ち上がり、長く余韻が残る__そんな写真展だ。

川のほとりの街プラハをきっちりとらえた風景写真を見る。
中世から変わりのない美しい街のように感じる。
しかし、人影、彫像の輪郭、木の陰、ガラスのウインドー、いくら見ていても何を撮ったのか理解できない(だが惹かれる)光景、クローズアップで撮ったさまざまなもののさまざまなパーツといったものを見ていくうち、写真家にとってかならずしもプラハの“いい風景”が関心事なのではなく、ギャラリー全体でプラハという街を“表す”ことに関心があるのだと感じられる。
風景(=landscape)よりも、光景(=scene)や瞬間(=moment)を。
不思議な、ノスタルジックな、諧謔的な断片をバラバラっと撒く。
プラハにとって、欠けてはならないピース。


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陶然となるような小瀧さんの写真作品にかこまれて、トークイベントはスタートした。
いうまでもないことだが、真知さんも頭木さんも、徹頭徹尾人文系の語り口だ。
人文知が軽んじられがちな今の日本で、このように楽しく濃密なトークを聞けるのは快感でもあり、頼もしくもある。
プラハはカフカの生まれ育った街である。
頭木さんは二十歳の時に難病にかかり長期入院し、その後も入退院をくりかえしたという方で、ご自分が絶望の淵にある時にカフカの作品を読みふけったという。
カフカに関する予備知識がほぼない状態で聞いても、スルスルとカフカの人生や著作がわかってくるような気がする、大変お話の上手な方なのだった。

小瀧さんの写真、とりわけ、寄りで撮られた街角の断片(何なのか判別しがたい)を見ている時、しきりと諧謔的な精神を感じた。
「カフカに似ている。カフカみたいな街角だ」と思っていた。
カフカの文学作品に通じる、フッと笑うしかないような悪い冗談っぽさ、純粋がかえって仇になっていくような皮肉さ。
カフカとプラハが同義になる……だから展覧会名が「METAPHOR」なのか?
その印象は、お話上手な頭木さんによって明かされるカフカ本人の人となりを知っていくにつれ確信になっていく。
プラハが肉体を持ったものがカフカであり、カフカが遍在している街がプラハだった。

真知さんと頭木さんの対話を聞きつつ、しかしカフカという人は、一般的にイメージされている人物像よりも、はるかに“ふつうの”、さらには“健康的な”人だったのではないか、と思うようになっていった。
カフカは、精神的に異常性のあるタイプでもなんでもなく、たんに極度に感受性が強いだけで、言ってみれば「2クラスにひとりくらいはいそうな不思議ちゃん」タイプの人物だったように思える。
徹底的に弱くあることが強みとなるタイプの人というのは、洋の東西を問わずいつの時代にもいるものだ。
日本近代文学の作家たちだって、みんな極度に弱虫で偏食家で人並み以上に恋愛をしている。似たようなものだ。
そうなると、カフカと一般人を分かつものはたったひとつ、「書いた」ということになる。
プラハへの愛憎を終生持ち続けることでプラハの街と一体化し、もはや己の輪郭をぼんやりと失ってしまいそうなカフカは、書くことによって、書いたものによって初めて、くっきりと存在を刻印できたのだ。
それが、文学の力だ。

頭木さんから小瀧さんへの質問で、古いレンズを使う意味を聞いていた。
小瀧さんがこの展覧会のために使ったレンズは、30〜50年代の古いライカだという。
最新型のレンズはスペック勝負になっており、写りの正確さは古いレンズが敵うべくもないが、実際、人間の目はそんなには見えないわけで、「そこまで正確に写らない」古いレンズの方が人間の目に近い世界を映し出せるから、というようなご回答であった。
また、古いレンズは個体差も大きく、写りのクセもひとつひとつ違うので、自分(被写体)との相性もよりシビアになってくるのだと。
その話を聞くうち、もしかして、小瀧さんはみんなの認識と逆のことを言いたいのでは?と思えてきた。
古いレンズの方が撮り手の意志(腕)が入る余地があり、新しいレンズは緻密にできているからキカイ任せになりがちだ、と多くの人は思うだろう。
しかし小瀧さんの言いたいことはまったく逆で、古いレンズは個体差が大きい、つまり各々が不完全で愛すべき人間のように「性格」を持っている生き物のようなもので、撮り手はレンズに「いい被写体を見つけたよ。いい味出して写してくれ。よろしく」とお願いするような気持ちで、シャッターを切るごとにレンズにお任せするのではないか?
機械を扱うということは、元来完全な主従関係(というのも変だが)だが、古いレンズは使うというよりもっと人間くさく、「付き合う」「相棒」のような感覚のものなのではないか?
そんなふうに感じていた。
そうやって作られた写真は、暗室作業も含め、やはり芸術である。

文学・芸術は人間が生きる上で真に必要なものだという真理に肉迫する、すばらしい鼎談であった。
やっぱり、ギャラリー・バウハウスはいつも最高である!

以前書いたギャラリー・バウハウスに関連する記事はこちら。



by apakaba | 2017-01-12 17:48 | 歌舞伎・音楽・美術など | Comments(0)


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