あぱかば・ブログ篇

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カテゴリ:文芸・文学・言語( 103 )


2016年 07月 24日

家族、親子、夫婦、人間として生きることを見つめる——『親の介護、はじまりました。』

堀田あきお&かよ夫妻のことは、伝説の旅行雑誌「旅行人」の執筆陣にいらしたため、90年代から一方的にファンだった。
その後、たまにお会いできるようになってみると、そのお人柄がますます大好きになった。

ご夫妻の新刊『親の介護、はじまりました。(ぶんか社、上下巻)』を、涙をぬぐいつつ一気読みした。
かよさんのお母さんが大腿骨骨折をしたことから寝たきりになっていくまでの介護の日々を描いているが、お父さんや他の家族・親戚の方々、あきおさんのご家族、病院やヘルパーの方々など、多くの登場人物が入れ替わり立ち替わり登場する、にぎやかな群像悲喜劇になっている。
だが、劇であれば「群像悲喜劇」などと他人事の表現ができるけれど、これはフィクションではなく本当の話であり、それだけに、描かれているエピソードは、堀田夫妻が経験しているさまざまなことのほんの氷山の一角にしかすぎないであろうことが伝わってくる。

身をもって体験している人たちにしか書けない、ずっしりと重い現実のストーリーなのに、重さの先にある、人間なら誰でも感じ取れる「温かさ」を、見せてもらえる。
それはマンガならではの力だ。
幼かった子供を育て、やがて自分が老いて子供の世話になっていく、人間の当たり前の営みといってしまえばそうなのだが、その順番をたどっていくことの美しさやつらさが見える場面で、何度も泣いた。

あきおさんとかよさんには、個人的にも本当に感謝している。
次男の「アキタコマチ」が就職して料理人になる前に、旅行関連のイベントであきおさんにお会いした時、急にその場を離れたあきおさんが、いつの間にかお菓子を山ほど買ってくれて「仕事がんばってね」と息子に渡してくれたそうだ。
何度も会ったことがあるわけでもないのに、あきおさんは、そうした親戚のおじさんみたいな自然なやさしさを、子供に見せてくれる。

2年前、私が顔面神経麻痺の後遺症でこの世の終わりのように落ち込んでいたとき、またイベントでたまたまお会いしたかよさんは、「よしよし」と頭を撫でてくれた。
そして、ひらたくやさしい言葉で、力づけてくれた。
私は、その日から、病気でふさいでいた心が軽くなったのだ。
私は友達というより一方的なファンの分際だ。
かよさんは、そんな私にも、そんなふうに分け隔てなく接してくれる。
あきおさんとかよさんの、底知れぬ包容力とやさしさは、こんなふうにたくさんのことを二人で乗り越えてきた結びつきから来ているのだなあと、新刊を読んで改めてわかった。


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本文と関係ありませんが。
私が最初に読んだ堀田作品『アジアのディープな歩き方』へのオマージュということで……
井の頭公園内、ペパカフェフォレストのガッパオ。


苦しみを知っている人は、奥行きがちがう。
軽いタッチのマンガなのに、端々にグッとくるやさしさがちりばめられている。
私は、マンガの中で、介護の壁にぶち当たるたびかよさんが悲しんでいるときや落ち込んでいるときに、あきおさんがかよさんの手を握ったり、かよさんの肩に手を置いたり頭を撫でたりしている絵がとても好きだ。
それはいつも小さなコマで、ページの端っこでさりげなく描かれているのだけど、見るたびにあきおさんの手の温かさを感じ、まるで自分の体に触れられたかのように、気持ちが温かく、安らいでいくのを感じる。
そうすることで、かよさんがどれだけ救われただろう。
そしてそうすることで、あきおさんもかよさんの体の温かさをたしかめることができ、二人でがんばれるとたしかめることができたのだと思う。

この本は、介護を題材として描かれているが、介護に限ったことではなく、人間が、尊厳を持った人間として生きることそのものを見つめた本だ。
なぜ自分が生まれたのだろう。
自分の人生には、どんな意味があったのだろう。
なぜ今、こうした巡り合わせになっているんだろう。
その答えの片鱗をマンガの中に見るとき、涙があふれてくるのを、抑えることができない。
介護に関わっている人はもちろん、そうでない人も、どんな人にもおすすめする作品だ。


以前書いたブログで堀田夫妻のことを書いたのはこちら→大学生だった私へ……『旅をせずにはいられない、アジアの魅力』


by apakaba | 2016-07-24 16:04 | 文芸・文学・言語 | Comments(0)
2015年 04月 10日

おやゆびひめへの旅路

私が所属している影絵人形劇団の今年度の活動がスタートし、今日は新年度初めての集まりに出た。
まず今年度一発目の壁は、来月に迫った「土曜授業」である。

土曜授業というのは、小学校でこれまで休日だった土曜日にも授業をするようになったため、その授業時間を使って影絵の体験をさせるという活動のことで、今年は2年目となる。
昨年度が初めての試みだったが私は不参加だった。
土曜に仕事があったのが最大の理由だが、いわゆる素人劇団が、学校の授業時間を使って授業をやるなんて、そんな責任重大なことやっていいのかという恐れもあったのだ。
定期公演も授業時間を使って見せているが、あれはリッパに授業時間を使うだけの価値のあるものを作っているという自信がある。
だが、貴重な授業時間を2時間も3時間も使い、子供達に人形を作らせ、役割を振って発表まで持っていくなんて、学校の先生じゃないし経験もない我々おばさんたちが、できちゃうの?
失敗したら誰が責任取るの?
たとえば保護者から文句が出るとか(そんなヒマあったら漢字と計算でもやらせてください!とか)。
が、それはまるっきり私の杞憂で、昨年度の土曜授業は、実に才能豊かで能力も高い我が劇団メンバーが、力業で本番の発表まで形にしてしまえたのだった。
すごいねほんと。
尊敬するわあの人たち。
そこで、保育園もやめて土曜の拘束もなくなったことだし、私も1年遅れながら手伝うことにしたのである。

5,6年生用の題材は『おやゆびひめ』。
台本を作るにあたり、3月からぼつぼつと非公式に話し合ってきた。
外国の昔の童話というのは現代の人間からすると共感しづらい。
話し合いは三歩進んで二歩下がる状態だ。

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本文と関係ありませんが、今日のお昼、中華丼。
冷凍レトルトもの。


ストーリーは簡単。
花から生まれた小さい女の子おやゆびひめが、ヒキガエルにさらわれ、魚達に救い出され、コガネムシにさらわれたのち置き去りにされ、野ねずみの家に居候し、隣家のもぐらと結婚させられそうになる。
しかし瀕死のツバメを介抱してツバメの背中に乗って間一髪脱出し、花の国へ行く。
花の国の王子に見初められて結婚する。
覚えてますか?アンデルセン童話の一つだ。

話は簡単だが、レリゴーが大好きな現代の子供たちには、あまりにも主体性のないおやゆびひめの人物像に魅力を感じられないことだろう。
加えて、「見た目は関係ないよ、心がきれいならいいんだよ」的教育を受けて育っている今の子供たちは、姿の醜い生き物たちに対する苛烈ともいえる拒絶反応に、違和感を覚えるのではないか。
この辺りをどう扱うかでやや頓挫してしまっていた。

今日、少し意見を言ったのだが、私はやはり「授業時間を受け持っている」ことに、いつも立ち返るべきだと思う。
おもしろおかしい劇を作ることが目的であれば、アンデルセンを引いてくる必要はない。
大胆に現代的解釈を加えるにせよ、原作に忠実に書くにせよ、つねに「この話が書かれた時代や場所」を考えることが、作品を知ることになる。
19世紀のデンマーク。
結婚観も今とはちがうし、いかに冬が厳しく、暖かい国への憧れが強く、お日様の光を渇望していたことか。
そんな背景にちょっと思いを馳せるだけで、それはただの「童話」ではなくなり、「文学」を読むこととなる。
背景を知れば、「もぐらと結婚したらもうお日様の光を見ることはできない。さようなら、お日様」というセリフがいかに切実な響きを持つことだろう。

私は子供にそういう体験をしてほしい。
相手が小学生だって手加減しない。
まあやっぱり私は、教育現場が好きなんだろうね。


by apakaba | 2015-04-10 16:22 | 文芸・文学・言語 | Comments(0)
2014年 12月 11日

亀山郁夫×東浩紀 司会:上田洋子 『カラマーゾフの兄弟』からチェルノブイリへ——ロシア文学と日本社会

12月9日に開催されたゲンロン講座「亀山郁夫×東浩紀 司会:上田洋子「『カラマーゾフの兄弟』からチェルノブイリへ——ロシア文学と日本社会」は、片時も間延びした時間のない、エネルギッシュな議論が交わされた会だった。

五反田のゲンロンカフェは、ドストエフスキーを愛好し、亀山先生の新訳版出版によって若き日の衝撃的なロシア文学体験をふたたび胸によみがえらせたであろう、私のような聴衆で満員。
夫と大学生の長男も連れて行ったが、3人で興奮しながら帰途に着き、夫は翌朝亀山訳『悪霊』をKindleで買い求め、長男は東浩紀『弱いつながり』を1時間で読み切っていた(『弱いつながり』は、今年の私の読書ベスト10に入る名著だと思う)。

ドストエフスキーは、高校生から大学生にかけて、取り憑かれたように読みあさり、短編も含め読破した作家だ。
とりわけ『カラマーゾフの兄弟(新潮文庫/原卓也)』は、その疾走感、ドライブ感に完全に巻き込まれ、どんなに眠くても疲れていても目がカラカラに乾いても、読書を中断することができないほどだった。
それはすべての『カラマーゾフの兄弟』経験者に、ある程度共通する体験ではないだろうか。
ところが新訳の亀山版では、なぜかそのドライブ感がなかったのだ。
自分が年を取ったからなのか、それとも訳のちがいに因るところが大きいのか?
私と同じ感想を、夫も長男も持っていた。

しかし亀山先生が、心の底からロシア文学とドストエフスキーとロシアを愛しているというその熱が、ご本人を前にしてみて初めてわかった。
会場全体が、亀山先生の愛の熱で熱くなるのを感じた。
ドストエフスキーは、失語症的(どもっているような感じや同語反復など)な、異様な高揚感のある文体を持っている。
原文に忠実に訳せば訳すほど、わけのわからない(文として破綻した)文章となっていき、読みづらい。
亀山先生は、あえて言葉を整理し、現代的な言葉遣いを用いてドストエフスキーへの壁を低くしてくれたのかもしれない。
ロシアでは、ドストエフスキーは読みづらい作家として、人気がないという。
日本でドストエフスキーの人気が高いのは、亀山先生に連なる多くの諸先生たちが、稀代の作家の高い壁をよじ登り切り崩してこられたご尽力の賜物なのだ。
そう思うと、また胸が熱くなった。

議論はきわめて知的でありながら終始なごやかな笑いに満ちており、真にインテリジェンスの高い人が集まって話すのを聞くのはなんと気持ちのいいことなのだろう、と久々に感動した。
東氏の著書は昔から家族でよく読んでおり、私など知的レベルは足元にも及ばないながら、その活動を全力応援している。
彼の、“「人文」に拠って立つ”とでもいおうか、はっきりした真っ正直な立ち方にとてもシンパシーを感じ、同時に滅びゆくものへの哀惜も感じ、「それでもやはり人文の力を信じたい」という決意の固さになんともいえない美を感じるからだ。

ドストエフスキーに度肝を抜かれた高校生のころから、私も人文畑を進んできた。
私は現在一介の主婦で何者でもないけれど、人文は学問として確実に廃れてきており、これからの時代、ふたたび勢いを盛り返すことは二度とないだろう。
文章をどれだけ読んできたか。
文章をどれだけ書く能力があるか。
そんなこと、この時代にはどんどんどうだってよくなってきている。
人文にさっさと見切りをつけた人間が、うまく立ち回ってお金を儲けられる。
それでも、人文という立ち位置から社会に関与していく人間は、まだ死に絶えてはいない!
東氏が主催しているこの「ゲンロンカフェ」もそうだし、「思想地図β」も、チェルノブイリツアーも、福島第一原発観光地化計画にしてもそうだ。
強靭な知力と力のある言葉、誠実で胸を打つ言葉を彼が持っているからこそ、これだけの活動が(お金が儲かるかは知らないが)立ち上がり存続しえるのだろう。

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ゲンロンカフェ入り口。扉の右上に、大ファンのチームラボ猪子さんのサイン!彼ほどの天才なら、語る言葉は「マジヤバい」だけでもいいんだよ!

本当に感動的な講座だった。
先ほど「読破した」と書いたが、実は『未成年』だけ読んでいない。
なぜなら、私はあまりにも愛好する作家がすでに亡くなっている場合、本当に読破してしまうことを恐れてしまうからだ。
「これを読んでしまったら、もうこの人の新しい作品は読めない……」そう思うと、最後の一作品になるともうだめなのだ。
しかし、訳が変わると何度も別の読書体験をできるということが、『カラマーゾフの兄弟』でわかったのだから、亀山版『未成年』が出たら、新旧の訳を読み比べてもいいかな。
文学に、真の意味で「読破」なんてものは、永遠に来ないのかもしれない。
読書は、人文は、かくもおもしろく奥深い。

by apakaba | 2014-12-11 17:34 | 文芸・文学・言語 | Comments(0)
2014年 01月 28日

ナゼ今さら、2011年に読んだ本メモ

何故なら、ここに書いておかないとなんでもかんでも忘れてしまうからです。
前は今より仕事の時間が少なくて、ブログに読書感想も書いていたけど、だんだん面倒になってしまったな。
せめて、おもしろかった本のタイトルとコメントだけでも書こう。
2011年まで遡って、手帳にメモしていた分だけ発掘。

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贅肉がすごい


『オラクル・ナイト』 ポール・オースター(著),柴田元幸(訳)

読んでいる最中は引き込まれていたが、読後はわりとすぐに忘れてしまったなあ。


『香港路線バスの旅』 小柳淳(著)

この本は、ほんっとにバイブルだった。「あなたを香港・マカオに連れて行くよ」の旅は、この本のおかげでできた。香港バス乗車中の観察眼もさることながら、それを表現する文章力もすばらしい。


『河岸忘日抄』 堀江敏幸(著)

なんと何事も起こらない小説。でも手触りがいつまでも残る。


『アメリカン・デモクラシーの逆説』 渡辺靖(著)

おもしろく読んだのに忘れてしまった……でも新書って「あの本」と思い出せなくても、けっこう身になってる(はず)


『同時代ゲーム』 大江健三郎(著)

なぜかどうしてもおもしろくなかった。無念。『日常生活の冒険』は信じられないほどおもしろかったのに……!


『ひとはどこまで記憶できるのか—すごい記憶の法則—』 田中真知(著)

こうすれば覚えられるし忘れない!という記憶術皆伝の書、というわけではない。真知さんもいろんな本を書いているんだな。


『TRANSIT12号 永久保存版!美しきインドに呼ばれて』 ユーフォリアファクトリー(編集)

記事としてはごく一般的、行き先もごく一般的だけど、豪華な写真を見てると行きたくなるイメージ重視の旅本。


『ふしぎなキリスト教』 橋爪大三郎(著),大沢真幸(著)

もっと突拍子もないおもしろさかと思ったら案外ふつうだった。ある程度知識を持っていればさほど目新しくはない。


『居酒屋』 ゾラ(著),古賀照一(訳)

これはとんでもなくおもしろかったなあ。パリの腐ったにおいがステキ。


『ナナ』 ゾラ(著),川口篤(訳),古賀照一(訳)

無念、『居酒屋』はあんなにおもしろかったのにナゼ『ナナ』はイマイチなんだろう。群像劇が好きなんだよね。というかゾラも書くのに飽きてないか?


『星を継ぐもの』 ジェイムズ・P・ホーガン(著),池央耿 (訳)

これはスゴカッタ!最後50ページほどのクライマックスに向かってまとまっていくばらばらのピース。組み上がっていく快感がスゴい!しかし一つだけ、未来の話としてはありえない描写が……登場人物がみんな、やたら煙草を吸っている。今のアメリカ小説なら絶対ありえないね。


『リヴァイアサン』 ポール・オースター(著),柴田元幸(訳)

あれ?読んだ記憶がまったくないがメモにタイトルがある。自分はオースターファンだと思ってたけど、どうしてこうも忘れてしまうんだろう。読んでいる最中の興奮が好きなだけなのか?大丈夫か。いや、昔読んだものは覚えているから、さほどでもなかったか、年で忘れっぽくなったかだ。


『夜想曲集:音楽と夕暮れをめぐる五つの物語』 カズオ・イシグロ(著),土屋政雄(訳)

悪くもないがさほどよくもない、という感想。『わたしを離さないで』が強烈におもしろかったため、サラサラな印象。


『フェルメール 光の王国』 福岡伸一(著),小林廉宜 (写真)

しばらく「福岡先生もちょっと本書き過ぎでは?内容が薄まってるよ〜」と思って離れていたけど、これは心から興奮しました。 


『思想地図βvol.2 震災以後』 東浩紀 (著, 編集), 津田大介 (著), 和合亮一 (著), 藤村龍至 (著), 佐々木俊尚 (著), 竹熊健太郎 (著), 八代嘉美 (著), 猪瀬直樹 (著), 村上隆 (著), 鈴木謙介 (著), 福嶋亮大 (著), 浅子佳英 (著), 石垣のりこ (著), 瀬名秀明 (著), 中川恵一 (著), 新津保建秀 (著)

労作。東日本大震災について考えるのは、“理系”の人間だけがやることじゃない。おのがじし、自分の持ち場で考えることだ。あらためて“言論”の力を信じる気持ちになった。


『エージェント6』(上下巻) トム・ロブ スミス (著), 田口俊樹 (訳)

やっぱり初作の『チャイルド44』の疾走感が最高だったけど、完結編としての意味が大きい。アフガニスタンの砂漠のシーンもナイス。早いとこ、映画化切望!「主役はどの俳優かな〜」と想像しながら読むのも楽しい。


『僧侶と哲学者—チベット仏教をめぐる対話』 ジャン=フランソワ ルヴェル (著), マチウ リカール (著), 菊地昌実 (訳), 高砂伸邦 (訳), 高橋百代 (訳) 

無宗教で哲学者である父と、もと分子生物学者でダライ・ラマの弟子となった息子との対話。フランス人といえばカトリックと思ってたけどぜんぜんちがうのね。対談内容はオーソドックス。


『ミレニアム1 ドラゴンタトゥーの女』(上下巻) スティーグ・ラーソン (著), ヘレンハルメ美穂 (訳), 岩澤雅利 (訳)
『ミレニアム2 火と戯れる女』(上下巻) スティーグ・ラーソン (著), ヘレンハルメ美穂 (訳), 山田美明 (訳)
『ミレニアム3 眠れる女と狂卓の騎士』(上下巻) スティーグ・ラーソン (著), ヘレンハルメ美穂 (訳), 岩澤雅利 (訳)

6冊一気読み。こんなに読みまくるのって数年に一度しかないわ。とりあえず、日本人憧れの国のひとつスウェーデンなんて、ちっともいい国じゃないぞ!ってわかる。未完で作者急死が悔やまれた!続きを読ませて〜!


だいたい、こんなところ。
2011年は、3月に東日本大震災が起き、それ以来私は本を読むということがほとんどできなくなってしまい、ただただネットばかり見ていた。
読書量激落ち。
そのまんま現在に至るトホホ。
また2012年、2013年の読書メモも書いておこう。

by apakaba | 2014-01-28 14:18 | 文芸・文学・言語 | Comments(0)
2014年 01月 24日

取りっぱなしのメモは意味がない 「天上の舞 飛天の美」

昨年の11月、サントリー美術館で、開催四日目に「平等院鳳凰堂平成修理完成記念 天上の舞 飛天の美」を見てきた。
かなり感動したので「これはブログに書こう!」と決めて、iPhoneでメモをどっさり取った。
以前は鉛筆でメモを書いていたが立ったまま書くと字がうまく書けず、あとで読めないことが多い。
最近は展覧会に行くとiPhoneのメモ機能にどんどん入れている。

が!
メモを取ったら満足してしまい、それきり忘れてしまった。
気づけばすでに会期終了!
モノスゴクがっかり。

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あのころ、街はクリスマスムードであった

が!
今日になってiPhoneに入れたメモを読み返してみても、やっぱりなんのことやらさっぱりわからない。
展示物に添えられた解説文を写しているのか、感想を書いているのか区別がつかない。
そのときは気持ちが高ぶっていて「ようし!メモしたから大丈夫!」という気になっているが、鉄は熱いうちに打たないと使い物にならないんだね。

会期も終了してしまったし今さら意味がないんだけど、とりあえず書きなぐり(というのも変だが)のメモを載せてみる。
誰も読まないと思うし読んでもおもしろくないけど。

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インドから日本
人類の飛ぶことへの憧れ
天上世界への願いの強さ
如来を讃え供養
ヨーロッパの要素を含む
マーラの誘惑 飛天両足を跳ね上げて舞う 一人だけ躍動的
鍍金舎利かく 中国 ひらひら自由になびく衣
飛天文のきひらかわら 単純な線だけで芸術的
薬師寺水煙 逆立ち真っ逆さま 大胆な構図 火焔ではなく遺骨を安置
菩薩五尊像 中国 おどっている感じ
迦陵頻迦?キンナラ 阿弥陀経

法隆寺金堂天蓋付属 素朴な透かし木彫り
ぶつ三尊せんぶつ ありえない姿勢 軽やか自由
阿弥陀如来及び 四天王寺 片足上げかわいい ヨガらしい 二人でバランス
金銅迦陵頻迦華鬘 鳥の足リアル 不思議な気持ち あるのかもしれない
ぐみょうちょう 異形への畏れ?畏敬?かわいく不気味 二つを併せ持つ
文殊菩薩像光背 ヨーロッパ風?

第三章 菩薩しょうじゅ がくそうしながら舞う姿 
往生の喜びを保証する 死は怖い
ごうしょうまんだらず 飛天のポジションは自由
ちょっと離れたところをひらひら

第四章 国宝寺外初公開
鳳凰堂内下品じょうしょうず 復元図
あざやか!これを大きくして、みたい ありがたみがいきなりわかる
構図完璧(阿弥陀にしたがい、奏楽舞踊の菩薩が雲に乗り四季のある山水の中をやってくる)
屋敷の中に死にかけた人と悲しむ人?僧侶?
すごい賑やかさ。死ぬのが怖くない
脳内麻薬ドクドク 死を恐れないための人間の知恵 しがあふれていた。
雲中 頭部は丸彫り 下半身にかけて浮き彫り 壁にかけて下から見る
仏師の力の差が面白い。
いつまでも見たいものに戻る
放心の表情のようにも見える。
復元CGは必見。

by apakaba | 2014-01-24 23:08 | 文芸・文学・言語 | Comments(0)
2013年 04月 27日

ブッダのことば——スッタニパータ——

宗教書、と一応分類されているものの、ここには大宗教の体系的な論理は見あたらない。
もっと原初的で素朴な、ブッダという人間が口にしたことばを並べてある。
はっきり言ってとびきり面白い本というでもないが、たまにはっとするような詩的な美しい一文が目に留まることがある。たとえば——。
『地球の歩き方・インド編』の扉の頁に、必ず次の「ことば」が書かれている。
  ……寒さと暑さと、飢えと渇えと、風と太陽の熱と、虻と蛇と、…これらすべてのものにうち勝って、犀の角のようにただ独り歩め。……  (『ブッダのことば・蛇の章《三.犀の角》』より)
何度改訂を重ねても、これだけは扉に残っている。
いつからなのかは知らないが、少なくとも、私の手許にあるなかで、一番ふるい'89年度版の『歩き方』にはすでに記されている。
旅立つ前の下調べのときから、宿の豆電球のしたでも、移動中の乗り物のなかでも、否応なしにまず目に飛びこんでくることになる。
いつしか、広大無辺なインドの大地に対する憧れと旅心を、この短いことばに重ね合わせていく。
『歩き方』がガイドブックとしてすぐれているかどうかには賛否が分かれるとしても、こと『インド編』の扉部分に限っていえば、この章句を選び、ずっと載せつづけている編集者は大した人だと思う。

当然の成り行きとして、『インド編』の扉をきっかけに、本書を読んでみることにした。
まず、ブッダは話し好きで説明上手なひとだという感想を持った。
苦行してやたらと痩せてみたり、最期は悪くなった食べ物にあたって下痢して死んでしまったりと、なんだか人間くさい人だとは常々思っていたが、本を読んでますます、彼の地の大自然を体いっぱいに享受した、ひとりのインド人……というイメージを強くした。
とにかく動物や虫や植物を比喩に用いた章句が圧倒的に多い。
おそらく彼(なんてなれなれしく言っていいのだろうか)は、身の回りの自然を、とっても好きだったのだろう。
そしてそれは、当時からいまに連なるすべてのインド人も、同じなのだろう。
彼とその他のインド人を隔てる点はただひとつ、「悟った」かそうでないか、だ。

彼は、蛇の脱皮や、インドゾウやインドサイが悠々と歩く様を、実際に驚嘆しながら眺め、そこに霊的ななにかを見いだしてしまったのに違いない。
なにしろ、第一章『蛇の章』において、「——蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。」という比喩を、章句ごとにのっけから17回くり返し、冒頭にも引いた「犀の角のようにただ独り歩め。」に至っては40連発である。(その後、75連発だという話も聞いてさらに困惑。)

 “肩がしっかりと発育し蓮華のようにみごとな巨大な象は、その群を離れて、欲するがままに森の中を遊歩する。そのように、犀の角のようにただ独り歩め。” 
これなんかよく読むと意味不明でしょう。
象のような犀の角のように……?
でもブッダはドウシテモ、象を使った比喩をしてみたかったのだね。

それでも、唇が喜ぶにまかせて唱えているうちに、詩句が力を得て立ち上がり、歩き始めるような感じがするのである。(これを逆手に取ると危険なんだけど。「修行するぞしゅぎょうするぞしゅぎょうするぞ!」とかね。)

本書には数々の物語も登場する。
なかでも私が際だって興味深く読めたのが、『コーカーリヤ』という短い章段だった。
ブッダの弟子のひとりであるコーカーリヤは、他の弟子を中傷したために、からだじゅうに腫れ物ができて死に、のちに紅蓮(ぐれん)地獄に生まれてしまう。
ブッダは弟子たちに、紅蓮地獄とはどういうところなのかを説明する。
その説明というのが懇切丁寧で、このうえなく具体的で気持ち悪い。
  “(前略)また蛆虫(うじむし)の棲む水釜があり、罪を犯した人はその中で煮られる。出ようにも、つかむべき縁(ふち)がない。その釜の上部は彎曲(わんきょく)していて、まわりが全部一様だからである。”
  “そこには黒犬や斑犬(ぶちいぬ)や黒烏(くろからす)の群や野狐がいて、泣きさけぶ彼らを貪り食うて飽くことがない。”
といった具合で。
その紅蓮地獄は、五千兆年プラス一千万の千二百倍の歳になるまで出られないのだそうだよ。
なぜここまで、見てきたかのように具体的に断定できるの?
そして、「はじめ芥子粒ほどであった腫れ物が、やがて小豆ほどになり、大豆ほどになり……」などというように、すごく身近なものと、途方もない単位とを平気で並べてしまえる飛躍の大きさに、凡人はただ混乱するばかりなのである。
こうまでいわれると、もはや説明上手の次元を超えて、子供の空想のホラ話につきあわされている気分になってくる(蛇足ながら、地獄の名前に「アババ地獄」「アハハ地獄」「アタタ地獄」というのがあって、思わず笑ってしまいました)。

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このレビューを書くより10年前の1990年。コドモのような私。インドのどこかかな

“悟った”というのは、「コドモになっちゃった」ということに限りなく近いような気がする。
“音声に驚かない獅子のように、網にとらえられない風のように、水に汚(けが)されない蓮のように、犀の角のようにただ独り歩め。”
コドモは誰だって、天上天下唯我独尊だあ。
てんでばらばらに上下していた二台のエレベーターが、あるときぴたりと同じ階で扉を開けるように、ブッダは、思索を成熟させるために精進することと、子供の心を持ちつづけることはじつは同じだ、と、ことばを尽くして説明してくれているような気がした。

*2000年4月29日にサイトに書いたレビューを再掲。

by apakaba | 2013-04-27 23:24 | 文芸・文学・言語 | Comments(4)
2013年 01月 30日

擬音語?擬態語?それから?

朝9時ごろ、義母から電話が来た。
義母はスリランカ人の英語の先生に、英会話の個人レッスンを受けている。
その先生から、日本語における擬音語や擬態語について質問をされたので、その先生に解説するため、詳しく知りたいという。

急に言われてもねえ。
急に言われなくてもどっちにしろよくわからないけど、義母は私のことをしばしばこのように辞書代わりに使う電話をしてくる。

おもに擬音語・擬態語・擬声語の三種類があり、ひとつの言葉でも意味が二つに分かれていることもあるので分類しきれない。
たとえば“どんどん”は「ドアをどんどん叩く」なら擬音語だが、「この道をどんどん進む」だと擬態語だというように。

「じゃあ、“ひらひら”は?」
「雪とか蝶とかを“ひらひら”と表現しても、音が実際にしているわけじゃないから擬態語です。でも、たとえば紙を手に持って“ぴらぴら”といったときに本当に“ぴらぴら”という音が聞こえた場合は同時に擬音語にもなります。だから完全に分けることはできませんよ。」
そんなの自分で調べてよ……とも思うけれど、懇切丁寧な説明をするえらい嫁なの。

「だいたいわかったわ。そんなふうに説明してみる。」と言って一度電話を切るが、案の定、またすぐにかかってきた。
義母は一度電話を切っても、そのあとたてつづけに何度も電話してくることが多い。

「あのねさっきの“擬”っていう字だけど。あれって“疑う”という字をつくりに書くでしょう?それはどういう意味なの?“疑う”という“疑”と、意味はどう変わってくるの?同じなの?同じのわけないわよね?」

漢字の成り立ち方のひとつに、偏(へん)が意味を表し、旁(つくり)が音を表すものがあります。
“擬”の場合、“てへん”に“疑う”という字だけど、意味合いは“てへん”のほうにあって(もとは「まねる」という意味)、「ギ」という音を“疑う”の“疑”から取っているだけなので、“疑う”という意味はないんですよ。
たとえば“浜”という字の意味合いは、水に関係する偏の“さんずい”にあって、この字に兵隊とかの意味はないですよね。
ただ音が「ヒン(ヘイに似た音)」を表しているだけで。
それと同じです。

「はあなるほどね、ありがとう!」

しょっちゅうこういう電話がかかってくるので慣れているが、私がいないとどんなふうにこういう問題を解決しているんだろう?
忘れっぽさとか、こらえ性のなさとか(一度で用件が終わらず何回も電話してくる)、だんだん子供っぽくなっている義母だけれど、知的好奇心がまったく衰えないところはすごいなあ。
急いでいるときは面倒くさくもあるが、尊敬する。

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本文と関係ないけど、先月行った小岩のネパール料理店「サンサール」で出た餃子「モモ」。
義母は数年前に、一人でネパール旅行にも行った。
「モモがおいしかったわ!」と言ってた。好奇心旺盛。


by apakaba | 2013-01-30 18:21 | 文芸・文学・言語 | Comments(0)
2013年 01月 24日

エッフェル塔試論/松浦寿輝(ちくま学芸文庫)

エッフェル塔は、19世紀末の西欧の表象空間に突如出現した、世界で唯一無二の特権的「記号」である——建設の計画段階から、すでにパリじゅうの芸術家の耳目を一身に(ただし非難というかたちで)集め、爾来現在に至るまで、絶えずあらゆる場面での再生産をくりかえす(観光絵葉書・ミニチュア模型・雑誌のグラビア・スカーフや包装紙の図柄・絵画・切手etc)、孤高の、と同時にこのうえなく俗物的で凡庸な怪物である——。

本書は、表象文化論の第一人者である著者が、ただエッフェル塔一点だけを、500頁まるまる一冊にわたって考えぬいた本である。
「この多義的な記号をこれほど徹底的に読み尽くそうとした試みは、未だかつて世界中のどこにも存在していないはずである」
と著者自身が跋文のなかで語っているとおり、この本は、パリ礼賛の紀行エッセイや、塔をめぐるおもしろおかしい秘話の紹介などでは断じてなく、偏執狂じみたともいえるほど終始一貫したしつこさで、エッフェル塔を分析していく(著者の執着ぶりの理由は、跋文で明かされる)。
著者の考察は、美術史、思想史、社会学、政治学、建築学、土木工学、都市工学、流体力学、気象学といった諸分野を縦横無尽に走り抜け、それらを、微塵の重たさも読者に感じさせることなく、かの塔にふわりふわりとまとわせていく。

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エッフェル塔じゃなくて、今日の京橋。東京の建築は、美しいかな?

最近、私の読書傾向は「学者ばやり」だ。
学者の本が圧倒的におもしろくて、現代小説などにつきあっていられない(いうまでもなく、ダメな学者もいるが)。
本書の著者は、現在、東京大学大学院総合文化研究科教授である。
外見は昔ながらの教授風なのだが、その文章の華麗さは群を抜く。
実際、これほどの華麗な文章を書ける現代作家を、私は他に知らない。

  「肝心なのは、それ(=エッフェル塔)がただ頭上はるかにそそり立っているだけの高塔なのではなく、われわれを天に向かってまるで夢のように押し上げてくれる上昇機械としてあるという点なのである。(中略)人々は、空の高みに到達するために息を切らせて一歩一歩攀じ登っていくという昔ながらの苦役の代わりに、肉体の行使によっては実現できない機械的な等速度でゆるやかに持ち上げられてゆくという安逸な自動運動の快適さを、徐々に地上から遠ざかってゆくにつれて絶え間なく移り変わり裾野を広げてゆく視界の変容の快楽とともに、ここに初めて発見し、非日常的な娯楽として享楽するすべを学ぶことになったのだ(「第一部・3.虚空への上昇」より。カッコ内筆者)。」

これいったいなんのことだと思いますか。
ここはエッフェル塔の「エレベーター」について述べている箇所だ。

また、
  「いささか図式的ではあるが、ここに二つの異質な建築史的ディスクールを想定することができるのではないだろうか——すなわち、鋳鉄と錬鉄を素材とし、その開花の主要な舞台として十九世紀のパリを持つ鉄骨建築の流れを記述するディスクールと、(中略)高層建築のディスクールと。そしてこの二つのディスクールが、本来ならばありえなかったような仕方で、すなわちまったく必然性を欠いた仕方でたった一度だけ不意に切り結び、ショートを起こして火花が散ったとき、その接触点に唐突に生まれ落ちた畸形児——それをわれわれは、エッフェル塔と呼んでいるではないだろうか。
 華美と豪奢とスペクタクル性の洗練をめざす「記憶」のディスクールとしての「パリ」と、機能主義と資本主義の自動運動を誘発する「新しさ」のディスクールとしての「アメリカ」とが、それぞれみずからの文脈を踏みはずして不意に交叉してしまった、その交点に聳え立っている途方もない異化効果の記念碑とでも言うべきものがエッフェル塔なのだ(同)。」

これは、パリとアメリカの対比という文脈のなかで、「二つの建築史的言説の衝突」を論じた箇所である。

彼には酔わされる。
こんな文章を読みつづけていると、やがて痺れるような陶酔感・酩酊感にしばしば襲われるようになる。
酔うような本にめぐり逢うのは、めったにないことだ。
膨大な言語を軽やかに操る、稀有な書き手である著者の前に、私が言うことことばなど最早ない。
エッフェル塔をちょっとでもかっこいいと感じた人は、この本に直行すべし。
そして、「エッフェル塔なんて、どこがおもしろいんだ」と思っている人も、やはり直行すべし。
私は、パリに直行だ。

*2000年12月23日にサイトに書いたレビューを再掲。
*当時、松浦先生の本に凝っていて、1999年・2001年・2003年と1年おきにつづけて3回パリに行った。

by apakaba | 2013-01-24 19:48 | 文芸・文学・言語 | Comments(4)
2012年 11月 06日

女の不幸は、美貌を落とす?道綱母

今日も、Yシャツのアイロンがけでやけどをした。
最近、アイロンをかけるたびにやけどをしてしまう。
口の中も、うっかり熱いものを飲んだり食べたりしてやけどだらけ。
トシのせいで、だんだんと、危険に対する注意力が散漫になってきているんだな。

今日、たまたま『蜻蛉日記』の一節を読んでいて、作者「藤原道綱母」のダメさ加減に目を見張った。
だらだらだらだら、しつこい!
なんでなんでも二回ずつ言うの!
「さいふいふも(そう言いつつも)」
「おくれじおくれじと」
「すくみにすくみて」
「さいふいふ」
「いかにもいかにも」
わずか数行の文章に、この繰り返しの頻繁さよ。
こんなくどい文章、他に見たことない。
しかもずーっと夫(藤原兼家)を恨みながら21年間も日記書くとか、粘着質にもほどがある。
これじゃ兼家だって逃げたくなるわな。
だから息子(道綱)もボンクラになってしまうのに。

つくづく、編集の入らない文章ってダメだなと思った。
日本最古の女流日記文学とかいってもねえ。
女の幸せって、なんでしょうね。
もしも、彼女が現代に生きていて、腕のいい編集が入って、このdisり日記が商業ベースに乗って馬鹿売れしたりしたら、一躍流行作家になれたかもしれないのに。

そうしてみると、あらためて紫式部の超人ぶりにはただひれ伏すしかない。
どうしてあんな、突然変異じみた鬼才が生まれちゃったんだろう。

しかし、平安時代中期と現代とでは、人間の寿命や“老け方”は比較にならないちがいがあるだろう。
私はアイロンでやけどをして「あートシだわ。注意力が落ちてきたわ」と嘆いているが、今の私のトシは、平安でなら、もはや立派な“おばあさん(お婆さんでありお祖母さんになっている)”だろう。
20代すべてをすさまじいストレスと恨みに費やした道綱母は、不幸が顔に張り付いていたにちがいない。
若いころは美貌と歌の才能に恵まれているとの評判が高かった女性だが(だからこそ初めは兼家も惹かれた)、どんなふうにその顔が変わっていったのか、もしも写真というものがあるとしたら、見てみたい。
そして孤高の天才・紫式部の尊顔も、写真があったらなあー。
見てみたかったものだな。

追加:
インド映画と『源氏物語』
こんなの書いてたことをすっかり忘れていました。4年前か。

by apakaba | 2012-11-06 18:08 | 文芸・文学・言語 | Comments(6)
2012年 10月 17日

ハチノス、どう呼ぶ?

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数日前に次男「アキタコマチ」がつくったディナー。
豚ロースのソテーにマスカットとパセリバターソース。
もとは舌平目で作るものらしいが、舌平目が手に入らなかったので肉にしてみたが、やっぱり舌平目のほうがおいしかった気がする。
レモンであっさり引き締めたほうがよかったかな。

トカナントカ、高3の秋にしては、大学進学をしない「アキタコマチ」は気楽に暮らしている。
せめて語学だけでも身に付けろということで、英会話を始めた。
義母(おばあちゃん)がかよっているのと同じ、スリランカ人の女性の先生のおうちに上がってお話してくるらしいが、ほんとに身に付くのかな?

とりあえず、習うのがスリランカ人からというのが私にはおもしろく感じられる。
そのうち、スリランカのおうちに遊びに行かせてもらったりする機会もあるかな〜、なんて。

義母が「孫はがんばってますか?どんな感じですか」と先生に聞くと、先生は「『アキタコマチ』は、sweetだ」と言ったとか。
スイート?
って、どういうニュアンスなんデスカ?
英語にうとい私には実感しにくいが、おばさんの外国人にsweetと言わせるとはなかなかのオババキラーであることよ。

料理の話題を中心にしているという。
「アキタコマチ」は、この前、トリッパを一から一人で作った。
いつもは私がハチノスを買ってきて、下ゆでからすべてやっていたのだが、「オレが一人でやってみたい」と言うので初めて全部一人でやらせた。
おいしくできたので、きっと先生にも自慢したのだろう。
先生はスリランカ人といってもクリスチャンなので、なんでもタブーなく食べる。
トリッパも好きだという。

「でも何て説明したの?英語でハチノスって?beeのなんとやら……とかって言ったの?」
「ちがう。“ハチノス”という言葉は、日本語で言った。」
「へえ!それで先生に通じたの?」
「うん、先生はハチノスが好きなんだって。でもなかなか手に入らないから食べたいって。」
「へええー!それでハチノスって、英語でなんていうの?」
「それがねえ。ハチノスはねえ。なんと、英語で“タオル”っていうんだって。」
「タオル?」
「うん、towel。」
「柔毛突起ってやつですか……でもハチノスがタオルとは、国が変われば言い方も変わるんだなあ。」

でもタオルはどっちかというと、ハチノス(第二胃袋)よりもセンマイ(第三胃袋)のほうが似つかわしい気もする。
センマイは、なんていうんだろ。
ミノ(第一胃袋)は?
ギアラ(第四胃袋)は?

ハチノスを英語でタオルと呼ぶなんて、知らなかったな。
ていうか本当だろうか!
誰か教えて語学に詳しいひと。

by apakaba | 2012-10-17 16:30 | 文芸・文学・言語 | Comments(2)