あぱかば・ブログ篇

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カテゴリ:映画( 96 )


2014年 12月 13日

『ゴーン・ガール』——「ニック」という名前から連想したもの

デビッド・フィンチャー監督、ベン・アフレック主演では絶対おもしろいにちがいないと思って公開早々見てきた。
(ネタバレになるかもしれないので、これから見る人はあとで読んでください。)

5周年めの結婚記念日に失踪してしまった妻の行方を探し求めるうち、自分が妻を殺した殺人犯ではないかと警察に疑いをかけられるようになってしまう平凡な夫ニックが、ベン・アフレック。
謎に満ちた美貌の妻エイミーを、ロザムンド・パイクが演じる。
ロザムンド・パイクの、表情筋の微小な動きで見せるものすごい演技は、アカデミー主演女優賞ノミネート確実といわれているくらいの芸域だが、やっぱり私はベン・アフレックのへなちょこ男ぶりに毎度律儀に驚嘆するんだなあ。

夫と妻という、家族の最小単位での結びつきにスポットを当てており、観客は当然、ふたりの成り行きを暴走列車の乗客になった気分で追って行くのだが、そのスポットライトの外側にいる人物たちがとてもいい。
妻エイミーの両親は、「アメイジング・エイミー」という児童書で大当たりしている人気作家夫婦。
主人公エイミーは理想的な少女で、妻エイミー本人はその幻影に長年苦しめられてきた。
虚像が実像を食うモンスターとなっているわけだ。
エイミーはNYの裕福な都会育ちで、両親は娘を愛しながらもその愛情はやや常軌を逸している。
家庭環境が、エイミーの極端な人格を作った。

いっぽう夫ニックの生い立ちはずっとシンプルだ。
双子の妹マーゴとはなんでも話せるベストフレンドであり、ふたりとも数年前に亡くなった母を今も追慕している。
父は老人ホームに入所しているが徘徊もしてしまう困り者。
ニックの普段着はとことんダサい。
経済的にはエイミーの家よりずっと劣るようだが、家族としての当たり前の情愛が流れている。

ニックという名前を聞いて、私は「彼はイタリア系か?少なくともカトリック系か?」と連想した。
ニックはニコラスの愛称であり、ニコラスはカトリック教会の聖人に由来する名前だからだ。
そういう目で見ていると、カトリック的家族愛を、兄妹の絆にも感じるし、とりわけほぼ映画にその姿を見せない“亡くなった母”が重要に思えてくる。
というのも、「エイミーは性格が複雑で、親しい友達ができにくいけれど、姑とは仲よくしていた」という証言があったのだ。

うそで固めたエイミーの性格であれば、姑との交流もうわべだけのものだったのかもしれない。
それは容易に推測できる。
あの行動を見ていれば、そう思うのがふつうだ。
けれども、もしかしたら、ひょっとしたら、カトリック的情愛の権化のようなもう一人の母親(亡き姑)は、孤独なエイミーのたった一つの錨だったのかもしれない。
実の両親でさえ児童書の執筆と売り上げで実質的に娘を金づるにしていた、異常な家庭育ちのエイミーが、唯一まともでいられる相手だったのかもしれない。
そう考えると、姑の死によって錨が外れ、素朴な家族愛はここに消滅し、彼女を決定的な破綻へと進ませる直接の原因となったのかもしれない。
そう仮定すると、エイミーという女性が、ただのサイコ女ではなく、悲哀をもった重層的な人物にも思えてくる——「ニック」という名前と母を偲ぶ双子の兄妹の様子から、そんなことも連想していた。
それはちょうど、『勧進帳』や『義経千本桜』をはじめとする歌舞伎の名作に、“頼朝”という登場人物は出てこないのに、通奏低音のごとく頼朝の影が物語にずうっと影響しているのと同じように。

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歌舞伎といえば、きのう初めて国立劇場へ行ってきた

こんなことはすべて私の思い込みであり、フィンチャーはまったく意図していなかったのかもしれない。
しかし、優れた作品は、見る者に想像をさせる。
ディテールの作り込みによって、見る者がさまざまに考えることができる余地をくれる。
フィンチャーの快進撃はまだまだ続くだろう。

by apakaba | 2014-12-13 23:25 | 映画 | Comments(4)
2013年 04月 10日

映画が好きだ! 『恋する輪廻 オーム・シャンティ・オーム』

シャー・ルク・カーン主演のインド映画『オーム・シャンティ・オーム』(2007年作品)が『恋する輪廻』という邦題付きになり、やっと日本ロードショーが叶いました!

世界一大好きな映画スターです。
90年代半ばにインドの田舎町で見て以来、世界一好きなまま。
20年近くになります。
その間、こっちはどんどん年を取っていくのに、シャールクはなぜ、まるっきり年を取らないの?
いやむしろ若くなっている!
昔はこんなカラダじゃなかったもん。

『オーム・シャンティ・オーム』は、このような話です。
「売れない映画俳優のシャールク(オームという名前)は売り出し中の女優に恋をしているが、彼女はひそかに大物プロデューサーと結婚していた。
彼女の存在を疎ましく思い始めたプロデューサーは彼女を亡き者にしようとする。
シャールクは彼女を助けようとして、巻き添えを食い命を落としてしまう。
落とした命は別の命となって生まれ変わり、30年の時が流れた。
30歳となった生まれ変わりのシャールク(またオームという名前になる)は、今度は人気俳優となっている。
だが徐々に前世の記憶を取り戻し……」

30歳の役を50歳に近いシャールクが演じても、なんの違和感もないから、自分の中の通常の時間の流れと、シャールクの異常な若さとがずれてずれてしょうがない。
アンチエイジングバンザイ。

ありきたりのラブストーリーのようでいて、オームの恋は死によって否応なく中断するし、後半は恋愛よりも生まれ変わりや復讐へと展開していくから、ストーリーに着目していると奇妙な気分になるのだけれど、なによりも私が感動したのは、「全編に流れる、“映画というもの”への愛」でした。

映画が好き……ほんとに映画が大好き!

冒頭から幕切れ、エンドロールに至るまで、“映画”へのあふれる愛情に深く深く、心を打たれました。
主人公のオームは野心に満ちた映画俳優、生まれ変わってもやっぱり俳優、ストーリーのほとんどは映画撮影所や映画館で進んでいくし、そして何よりも……往年の名優たち!
すでに亡くなったインド俳優から、80年代、90年代、ゼロ年代に活躍していた皆さんが次々と出てきて、私が夢中でインド映画を見ていた当時の、あのえもいわれぬ高揚した気持ちに引き戻され、まったく夢を見ているようでした。
ほんのちょっとしたセリフのやり取りの端々にも、昔のインド映画へのオマージュが散りばめてあり、インド映画を知っていれば知っているほど、ずっとにやにやしっぱなし、そしてぎゅっと甘く切ない気分に浸れる169分なのです。

今回この映画を見ていて初めて自覚したことですが、私はどうも、インド映画スターは“女優が好き”みたいです。
男優はシャールクしか見ていないのですが(もちろん、登場した男優の名前はほぼわかるし作品も見てますが)、女優のほうが圧倒的に胸躍ります(いや、でも久々に見たチャンキー・パンデはなかなかかっこよかった)。
ヒロインの多岐川裕美似のディーピカー・パードゥコーン(「ディーピカたん」と呼ぶにふさわしい)も愛らしかったし、ダンスシーンに出てきた女優さんたちの美しいこと!
ラーニー・ムケルジーのあのハスキーな声にまずメロメロ!
ウルミラーのセクシーなこと、プリーティのキュートなこと、そしてシャールクの相手役をたくさん務めていたジュヒーとカージョル!彼女たちとシャールクのツーショットは、私が20代のころ、ワンシーンずつ全部覚えているほどに見ていました。
彼女たちとシャールクの共演作品が、やっぱり私は一番好き。
そしてそして、レカのひれ伏したくなるような迫力の美貌!
でも、もっともっと見たかった。
マードゥリーも、マニーシャも、カリーナも、もっと見たいよー!
大輪の花のような女優あっての、インド映画。
すてきでした……。

私は、インド映画はとにもかくにも、ダンスシーンが大好き。
ダンスのないインド映画はぜんぜん見たくありません。
この作品は、今まで見た中でもトップクラスのダンスシーンの多さで、終始リズムで体が動いていました。
でも最近の傾向では、インド映画も徐々にダンスシーンが減っているようで、さびしい限りです。
スクリーンのダンスを見ているときの、脳内が幸福感で満たされる喜び……あれは他のなににも代え難いものです。
是非これからも、ダンスてんこもりなインド映画をお願いしたいものです。

こんな豪華絢爛なシーンは、見たことがありません。

前回のシャールク映画のレビューはこちら→インド映画の王道を進む、『ラ・ワン』
今回よりもずっとシリアスに書いていますが、どっちにしろ私はシャールクが世界一好き。
主人公のオームがスクリーンの中の恋するヒロインを見つめ、幸せに満ちた表情をしばしばしていますが、あの表情はまさに鏡。
スクリーンを見てとろける表情をするスクリーンのシャールクを見て、同じ表情を、私のほうも浮かべているのだから!

by apakaba | 2013-04-10 23:35 | 映画 | Comments(0)
2013年 02月 25日

祝・アカデミー賞4部門受賞!『ライフ・オブ・パイ/トラと漂流した227日』

映画には、当たり前だがおもしろい作品とおもしろくない作品があり、おもしろい映画は、さらにふたつに分けられる(もちろん、その基準は個々の判断だ)。
ひとつは、“見ている間は楽しんでいるのに、終わったとたんにその話のことをすっかり忘れてしまう”作品と、もうひとつは“何日経っても、見ていたときの余韻が体に残り、気がつくといつの間にかその映画のことを考えている”作品。
『ライフ・オブ・パイ/トラと漂流した227日』は、まちがいなく後者だった。
一度IMAX3Dで見て、いつまでも頭からこの映画が離れず、もう一度3Dで見に行った。

今日、アメリカで第85回アカデミー賞の発表があり、数々のライバル作が並ぶ中、本作は監督賞・撮影賞・音楽賞・特殊効果賞という今年度最多の4部門で受賞した。
二度見に行った作品がこんなに評価されたのはうれしかったけれど、少し不思議な感じもした。
もっと観客の動員数が多い作品もあるし、もっと観客の涙を絞り出した作品もあるし、もっと現在の社会の問題に焦点を当てた作品もあったはずだ。
それなのに、いくら原作がヒットした小説だといっても、主演は無名の新人だし、そこまで注目される作品だろうか?
これはやはり、“いつまでも、余韻から離れられない”という、映画本来の魅力を皆が感じ取ったからにちがいない。
あらためて今日、あれはいい映画だったのだなと思える。

公開されてから日が経っているので、すでにたくさんのレビューがネット上にも現れている。
今さら私が書くことなどなにもないけれど、「おめでとう!ライフ・オブ・パイ!」という意味で、簡単に感想を記しておく(結末箇所に触れるのでこれから映画を見る人は注意)。

南インドの旧フランス領ポンディシェリーで育ったパイ少年が主人公だ。
父親はすばらしい動物園を経営していたが、やがて一家はカナダへ動物ごと移住する。
貨物船での旅の途中にマリアナ海溝の辺りで船が沈没し、家族を失い、救命ボートで荒海に投げ出されたパイは、数種類の動物とともに漂流することになる。
最後まで生き残ったのはトラであり、パイはトラとふたりきり、太平洋で過酷なサバイバル生活に入る。
その異常な体験を、大人になったパイが、ある作家に語って聞かせる、というストーリーだ。

大人になったパイが語る「動物との漂流体験記」は、実はハイエナは船のコック、オランウータンは母親、シマウマは乗員の仏教徒、そしてトラがパイ自身の野獣性を表している(ボートに乗っていたのは人間だけ)——というのが、ネタバレというかパイも話している「もう一つのストーリー」だ。
本当にトラが乗っていたのかどうかも含め、この話にはこれでもかというくらいの符牒がちりばめられている。
全編に伏線が張り巡らされている。
それを、謎解きよろしく目を皿にして見破っていこうと試みるのも楽しい、しかし、私が見終わってまず最初に、なによりも強く感じたことは、謎解きではなかった。
もっとシンプルなことだ。

トラの姿は、神(信仰)の具現した姿だ、ということ。

トラは、観客が寓話的に期待するように(たとえばパイに忍び寄るサメをトラが撃退してくれるとかいったこと)、パイの生存を助けてはくれず、逆にほとんどずっと命をおびやかし続ける。
ほとんどずっと腹を空かせて怒っている。
パイはトラをどうにか怒らせないよう、飢えさせないよう、命がけで工夫を重ねていく。
だが満足しているとき(腹一杯食べ、水を飲んで海が凪いでいるとき)、トラは凪の水面のように静かだ。
なにもしていないその姿は、美しく気高く見える。
海に向かって佇むトラが、「なにを見ているんだ?」とパイに聞かれ、答えるわけもないが背中越しに少しだけ顔をパイに向けるところなど、一瞬のカットなのにグッと胸にくる美しさだ。
なにを考えているのかつかめない。
幼いころにパイの父親が忠告したとおり、「トラは友達じゃない。心が通じ合うことなどない」、だがただ存在するだけで、畏怖と美を存分に味わわせる。
飼い馴らすことなどできないけれども、とにかく共に生きる、いや、これほど共にいるのが困難なのに、共にいなければ生き延びられなかった、この得体の知れない巨大なもの——すべてが“神への信仰”のイメージに、ぴたりと重なる。

昔、真夏にイスラエルのネゲヴ砂漠をレンタカーで縦断したとき、
「彼らの言う“約束の地”がどこにあるかなど、どうでもいいことだ。とにかく彼らは、その“イメージ”を信じて、この苛烈な自然の中で生きていく。」と感じた。
神は姿を現すことがない。
神はイメージだ。
しかし極限の状態でなら……もしかしたら……像を結ぶことがあるのかもしれない、そう、救命ボートの上のトラのように。

冒頭とラストに、天国も用意されている。
インドの歌手ボンベイ・ジャヤシュリーの天上の歌声で始まるオープニング、動物園の映像はまさに天国だ。
脳内にセロトニンがあふれ出し、うっとりとした幸福感に包まれる。
そして冒険の話を語り終えた大人のパイが、家族を出迎えるラストの家の風景は、パイがインドを離れ、凄まじい体験をしつつさまよい続けた果てに再び築いた、もう一つの天国である。
そこでまたジャヤシュリーの歌声。
中盤は、嵐の轟音やトラの咆哮ばかりが耳に届いていたのに、最初と最後にこの世の天国を表現している。
天国と、そこから出てさまよった“227日”は、3Dの映像効果により、ますますお互いを引き立て合っている。

パイの初恋の少女が「なにか聞いているのよ」と、トラのしぐさを真似るほんのちょっとした表情や、船が出航した後センチメンタルになっているパイに、母親が「これからもずっと、人生は続くのよ」と言い聞かせるごく短いセリフなど、なんでもないように見える細部がなぜか心に残る。
「とびきりおもしろかった!」「感動して泣いちゃった!」というような映画ではないのだが、これがやはりアン・リーの力なのだろう。

さて、トラは、本当にボートに乗っていたのか。
パイの心の分身なのか。
私が感じた“神のイメージ”がトラだということと、“パイの野獣性の具現化”がトラだという解釈は、別のもののようで同じことだ。
信仰も、己の分身も、すべて自分の中に、たしかに存在するということ。
それは、はっきりと割り切れるものではない。
永遠に続く数、パイ(π)のように。

*アン・リー監督作品で一番好きな『ラスト、コーション』のレビューはこちら→『ラスト、コーション——セックスで露呈されていく相克』
当ブログで、なぜかつねに検索トップのレビューです。

*予告編ではコールドプレイの『Paradise』が流れているが本編では採用されず、ややガックリ。似合うのに。しかし音楽はコールドプレイの力がなくても、ほんとにすばらしい!

*インドの名優イルファン・カーンとタッブーが出演していて、インド映画ファンにはうれしい限り。イルファン・カーンの読み切れない表情はπそのもの。タッブーちゃんの老け方には驚くがやっぱり今もキレイ!

by apakaba | 2013-02-25 21:07 | 映画 | Comments(8)
2013年 02月 07日

夢の入る隙間などない——『故郷よ』

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ナターシャ・グジーという、チェルノブイリからわずか3キロほどの街「プリピャチ」出身の歌手がいる。
半年ほど前、彼女のチェルノブイリ事故のインタビュー記事を読み、その美貌と胸を打つ歌声とともに、プリピャチという地名が深く印象づけられた。
だから『故郷よ』という映画がプリピャチを舞台にしていると知り、どうしても見たいと思った。
映画は実際にチェルノブイリ事故で廃墟となったプリピャチで撮影されている。
ナターシャ・グジーの語った街の風景を映像で見て、さらに感慨深かった。

多くの日本人も同じであるだろうが、私も福島の原発事故がオーバーラップして、とても苦しい鑑賞になった。
光あふれ、のどかな風景が広がる冒頭。
だが美しい街のすぐ背後にはチェルノブイリ原発が迫っている。
真夜中の事故から一夜明けても、なにも知らない人々は、4月の温かい雨に打たれてはしゃぐ。
「雨に濡れないで!ああ、せめて家に入って……窓を閉めて……」と、スクリーンに向かって叫びたくなる。
福島の事故のあと、数日して初めての雨が降った日、夫と暗い顔を見合わせ、「子供たちが雨に濡れないように、ちゃんと傘をさすように言おう」と話し合ったことがよみがえったのだ。

現在も未来も続く悲劇の始まりだから、どのシーンも救いがたく暗い。
幸せに輝く結婚式のシーンも、見る側には、この結婚が事故によって壊れてしまうことがわかっている。
放射性物質をたっぷり含んだ雨が降ったりやんだりしている。
足元の湖の魚はすでに皆死んで浮かんでいる。
森の木々は赤く変色して枯れている。
事故を知らされていない人間だけが、この平穏な幸せがずっと続くと思い込んでいる。

ヒロインのナレーション「最悪の事態は音もなく起こる」という言葉通り、放射能には味もにおいもなく、音もせず、世界を着々と壊していくのだ。

映画では事故から10年経ったあとの登場人物たちも描くが、登場人物一人一人の“その後”は、犠牲者のひとつひとつの“例”を代表している。
プリピャチから離れ、新しい街で暮らし始めても同級生から「チェルノ野郎!」と差別の対象になっている少年。
事故の深刻さを知りながらそれを住民に言うことが許されない立場で、良心の呵責から、精神に異常を来す技師。
退去命令を無視して森に住み続け、森で採れたリンゴを食べて「なんともないよ」と話す森林警備員。
ヒロインはかつての美貌を保ちながらも、いかにも体調が悪そうであり、髪の毛も徐々に抜け落ちていっている。

とにかく見るのがつらい。
私は、映画はどこかに笑いや救済の要素がある作品が好きなのだが、『故郷よ』はそれが一切ない。
甘っちょろい夢など入り込む余地が、原発事故にはほんの少しも与えられないのだ。
事故に遭った人間が苦しみながら死んでいくような悲惨なシーンは、一度も出てこない。
ヒロインとの結婚式の最中に「(原発の)火災を食い止めるため」と呼び出されてそのまま帰らなかった消防士の新郎のその後さえ、病院で「とても会える状態ではありません。1600レントゲンも(放射線を)浴びたんですよ」と看護婦の口から語られるにとどまる。
目に見える被害を被るのはもっぱら動植物だけである。
一夜にして森のブナの葉は変色し、植えたばかりのリンゴの木は枯れ、魚は浮かび、小鳥は落ちている。
そして、犬や豚や牛などは住民の強制退去の際にすべて殺される。
だが、無抵抗のまま、死の理由も知らずに血みどろで死ぬ動物たちの姿は、プリピャチの住民の姿そのものなのだ。

最後まで見ても、湧き上がる気持ちは、怒りと絶望しか、ない。
だから、見て「おもしろい!」という作品ではない。
しかし社会的意義はきわめて大きい。
ナターシャ・グジーが音楽の力で人の心を動かしたように、映像でしか表せない力というものがある。
涙が出るような美しい自然、人々の平凡な営み、不気味な原発の姿、無邪気に雨を喜ぶ子供たち、広場のむなしいレーニン像、街のシンボルとなる観覧車、10年放置されてぼろぼろになったウェディングドレス——原発事故を考えるとき、ドキュメンタリー映画とは別のアプローチで、忘れられない鮮明なイメージを焼き付けている。

by apakaba | 2013-02-07 15:44 | 映画 | Comments(2)
2012年 10月 26日

『ホテル・ニューハンプシャー』覚えてる?

今年は夫の誕生日プレゼントを買っていないので、お詫びに焼鳥屋に入った。
映画の話になると、夫が
「エマ・ストーンはかわいいなあ。」
と言う。
私も、今年知った女優の中でエマ・ストーンは圧勝の魅力だと思ったので、『アメイジング・スパイダーマン(レビューは「アメイジング・アンドリュー!」へ)』を見て以来何本かつづけて出演作を見た。
「かわいいよねえ、いいよねえ。あとアマンダちゃんね。」
アマンダ・セイフライドのことだ。
夫は、ここしばらくアマンダちゃんにだいぶ入れ込んでいた。

私 :アマンダちゃんは、かわいいし、ちょっとロリっぽくて、エロティックでもあるし、すごくはすっぱな雰囲気も出せるし、ほんとにいいわ。
なんで海外はいい女優が次から次へと出てくるんだろう?
でもさ、あなたは新しい女優もなんだかんだと知ってるけど、“昔は映画も(娯楽の一つとして)見ていたけど今はまったく見てない”という人も多いよ。
そういう人ってすぐわかるよ。いまだに「女優ではナスターシャ・キンスキーがきれいだ」とか言い始めるからね!

夫 :(爆笑)ナスターシャ・キンスキー!それは……古いな!

私 :そりゃナスターシャ・キンスキーはきれいだったよ。でもさあ〜。魅力のある女優がじゃんじゃん出てきてるのにいまだにそれはどうなのよ?って。

夫 :ナスターシャ・キンスキーは……『ホテル・ニューハンプシャー』に、出てたよな!

私 :ん、そうだっけ?

夫 :出てたよロブ・ロウと姉弟で。

私 :バカねちがうわよ、ロブ・ロウと姉弟だったのはあの人だよ。ホラ。あの人。

夫 :ちがったっけ?誰?

私 :ええとあの人。同性愛者の人。体外受精の。『羊たちの沈黙』のクラリス・スターリングの。

夫 :ジョディ・フォスター?

私 :そうそう。

夫 :そうだっけ?よく覚えてないな……でも出てたろナスターシャ・キンスキー。あ、なんかかぶり物かぶって。

私 :あの人は「熊のスージー」ね。

夫 :ぎゃっはっは!そうだ!(やたらとツボ。アーヴィングの原作を思い出したのだろう)

私 :でしょ、ロブ・ロウとジョディ・フォスターは姉弟だけど近親相姦だよね。あの家に、なんか悪い旅の奴(テロリスト一味)が来て、ジョディ・フォスターはそいつらと親しくなっちゃって、ヨーガの体位を教えてやるとか言って連れ込まれて一晩中帰ってこないのよ。
それで姉ちゃんが好きなロブ・ロウは心配してるんだけど、ジョディ・フォスターが部屋から出てきて、「全部知ってしまったわ。ナントカの体位も、牛の体位も」とか言うの。

夫 :……そんなのぜんぜん覚えてない。

私 :それで私は「牛の体位?どういうのだろう?」って、ずーっと気になってたんだけど、最近ヨーガを始めてやっとわかったんですよ。
牛の体位というのはようするに四つんばいになって、胸と腰を反らせるポーズのことなのね!それを毎週やってるわけだ私は。“これは『ホテル・ニューハンプシャー』だなあ”って、思い出すわけよ。

夫 :よくそんなセリフ覚えてるなあ。うーん、君の記憶力はすごいですよ。俺なんかまったくかないませんよ。

私 :いや映画の記憶力に関しては、私なんか「アキタコマチ」の足下にも及びませんよ。

いかにも飲んでいるときの意味のない会話だな……

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本文と関係ないけど今日のランチ。野菜の素揚げフォー。からかったです。そしてすごい分量でした。しかも生春巻と揚げ春巻とえびせんべいがつきます。油バンザイ

by apakaba | 2012-10-26 22:50 | 映画 | Comments(8)
2012年 08月 09日

インド映画の王道を進む、『ラ・ワン』

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世界で一番好きな俳優です。

少し前に、スーパースター・ラジニカーント主演の『ロボット』を見て、おもしろいことはおもしろかったが、私はやっぱりシャールクが好きなんだなあ……という気持ちを再確認した。
今度は正真正銘、シャー・ルク・カーン主演の本作『ラ・ワン』だ。

初めてシャールクの映画を見たのは、1996年、南インドのケララ州のコタヤムという田舎町の映画館だった。
それまでも、インド映画はアニール・カプール(『スラムドッグ$ミリオネア』の“みのもんた”役の人。『ミッション・インポシブル』最新作にもスケベなインド人役で出ていた)など見てはいたが、さほどおもしろいと感じられなかった。
コタヤム以来、彼はずっと、世界一好きな俳優だ。
どんなに悲しいときも、いらいらしているときも、彼の映像を見るとそれだけで幸せいっぱいな気持ちになる。
カッコいいなあ……と見入って、にやにやと自然に笑っている。
こんな人、他にどこにもいない。
他の俳優は、どんなにすばらしい名演をする人であっても、顔を見ただけで確率100%でにやにや幸せになれるなんてありえない。

10年くらい前だったか、シャールクが来日したときに、私はファンクラブ(現存しない)に入っていたおかげでシークレットライブに行くことができた。
いっしょに行った友達からは、あとで
「あんたぜんぜん醒めてたじゃない。前に出たりもしないし後ろの方に突っ立ってるだけで。」
と言われたけれど、そうじゃなくて、ナマシャールクのあまりのカッコよさに立ちすくみ、動けなくなってしまったのだ。
それくらい、とっぴょうしもなく、彼はカッコよかった。

本作のタイトル『ラ・ワン』とは、主人公の名前ではなく悪者の名前である。
ロンドンでゲームソフトを開発する仕事のシェーカル(シャー・ルク・カーン)は、心優しい父親。
ゲーム好きの息子プラティークから、史上最強の悪者キャラを作ってほしいと言われて、新作バトルゲームで「ラ・ワン」というキャラクターをつくりあげた。
対抗する正義のキャラクターは、ラ・ワンより力の弱いプログラムにして、たやすく敵を倒せないような設定にした。
正義のキャラクター「ジー・ワン」はシェーカル自身の魂を込め(シェーカルの思考をプログラミングしている)、顔も瓜二つにつくった。
新作ソフト発表会のパーティーの最中、ラ・ワンのプログラムは暴走を始め、実体化して仮想世界から
現実世界に飛び出してくる。
そして、ゲームの対戦相手だったシェーカルの愛息プラティークの命を奪うために、執拗な追跡を始める。
シェーカルは息子を守ろうとして実体化したラ・ワンに殺され、妻ソニア(カリーナ・カプール)は悲しみのうちにロンドンを去ってインドへ里帰りすることを決心する。
プラティークは父親そっくりなジー・ワンも実体化させ、力を合わせてラ・ワンを倒そうとする。

見るまでちょっと不安だった。
やたら目に刺激的なだけの、CG使いまくった安い映画だったらイヤだなあと(俳優が演技する映画が好きで、CGが好きではないので)。
だがそんな心配はまるで無用であった。
ちゃんとしたインド映画だった。
「ここはあの洋画に似てる、あそこはあの洋画に似てる」と、微妙にあちこちパクリを感じつつもしっかりとインドのよさがあふれている。
前半はヨーロッパロケ(ここではロンドン)、後半は主人公たちがインドに里帰りしてインドロケという常套の組み立ても、私は大好き。
両方の舞台の風景を楽しめるし、やっぱりインド映画は画面いっぱいの山のようなインド人エキストラが魅力だと思うからだ。

シャールクがすばらしいのは当然として(冒頭の登場シーンからずーっとにやにやしっぱなしの気持ち悪い私)、カリーナ・カプールはよくなったなあ。
デビューしたてのころは「誰この一般人のおばさん!」と驚いたが、若いのにおばさん風だった昔より、実年齢が追いついた今のほうが、ずっと色っぽくて美しい。
さすが名門カプール家の血。
本当にすてきな女優さんになった。
彼女が夫を失ってインドに戻り、楽しかった恋人時代や新婚時代を回想するシーンでは、『スタンドバイミー』のカバー曲とともに胸に迫って、涙が止まらなかった。
ハンカチ出して本気で泣いているのは私だけみたいでしたがね。

私はシャールクのダンスシーンがとくに好きなので、たっぷりのダンスシーンがカットされていなくてよかった。
踊っているシャールクは、大輪のバラのようだ。
誰もが目を惹かれ、華やかさ・あでやかさにうっとりして、顔がほころんで幸せな気持ちに満たされる。

サンジャイ・ダットやプリヤンカ・チョプラ、そしてラジニカーントも顔を出していてインド映画ファンには痛快。
特筆すべきはインドに戻る後半、プラティークを追ってきたラ・ワンがインド人の肉体をとって現れるときの(ラ・ワンはなににでも変身できる)、悪役アルジュン・ラームパールの美貌と存在感である。
ラ・ワンという名前は、そもそもインドの叙事詩『ラーマーヤナ』の悪者ラーヴァナにちなんだ名前である。
インドの秋の祭りに、ラーマ王子の矢でラーヴァナが倒されてラーマ王子の勝利を喜ぶというハイライトがある。
ラ・ワンがインドに着いたとき、ちょうど巨大なハリボテ(インドではお祭りのたびに神様の巨大ハリボテを製作する)のラーヴァナが燃やされるのだが、そこでラ・ワンが
「(悪は)また何度でも蘇ってくるのに、なぜ毎年勝利を祝う?なんの意味もない」
というようなことを、祭りの見物をしていた少年たちに言う。
そこでラ・ワンの頭と、バックのラーヴァナ像の頭がぴたりと重なる。
ラーヴァナは10の頭を持つ異形の姿だ。
火焔に包まれる悪の魅力。
悪いとわかっていても、目を離せない美しさ(だからこそ、冒頭のプラティークは悪に魅せられて父親に悪者キャラをねだるのだ)。
悪に魅力がなければ、正義も輝かない。
泥臭い表現なのに、モデル出身のハンサムなアルジュン・ラームパールの後ろに燃えるラーヴァナが重なり合う一瞬は、ゾクッとくるおそろしさと映像美であり、インド映画におけるこういう見得を切るようなシーンは、歌舞伎に通じる様式美だなあとも思う。

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スンゲエ色男なアルジュン

その映像や音楽を手がけるスタッフも、世界の超一流をそろえているから、二昔前くらいのインド映画っぽいダサい部分がまったくない。
ダサいのはシェーカルの髪型だけ。
だがこの映画の真の主人公は、前半であっけなく死んでしまうあのダサいシェーカルなのだろう。
息子に大甘で、妻にはでれでれで、会社では能力はあるのにちょっぴり不思議ちゃんな彼は、しかし、父親として、夫として、そしてなによりすべてのインド人の心の奥深くにがっしりと根付いた『ラーマーヤナ』の、ラーヴァナを倒すラーマ王子の化身として、肉体は消えても生きつづけている。
インド映画はこういうモチーフをこよなく愛する。
永遠につづく、善と悪との戦い。
それでもあきらめずに、善の道を進め。

最新VFXを駆使し、レディー・ガガのプロデューサーが曲を提供しても、やっぱり、『ラ・ワン』はきわめてオーセンティックなインド映画だった。
それが、ひさびさのカッコいいシャールクを堪能するとともにもっとも満足したポイントである。
だからこそ、エンドロールにふたたび流れた『スタンドバイミー』で、また涙が止まらなくなってしまったのである(私だけなのか?!)。

by apakaba | 2012-08-09 10:31 | 映画 | Comments(7)
2012年 07月 20日

アメイジング・アンドリュー!『アメイジング・スパイダーマン』

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マスクを取って……顔を見せて……!!

お断り:
今日のブログは、『アメイジング・スパイダーマン』を見ていない人にはまったくおもしろくありません。
見た人でも、サム・ライミ版贔屓の人にはまったくおもしろくありません。
現在、私は新スパイダーマンに完全に参っています。
3Dの効果とか原作コミックとのストーリーの比較なんか、どうでもいいです。
私は、映画ではなによりも“俳優の演技”に注目してるので。
俳優の話しかしません。
バカみたいなことしか書かない(書けない)ことをご承知ください。



“目”を見る『スパイダーマン2』

サム・ライミ監督、トビー・マグワイア主演の3部作のふたつめのごく簡単な感想だ。
8年前に書いたが、「浅く水を張ったような、大きな瞳だ」とトビー・マグワイアの目の演技に注目したのは自分で気に入っている。

アメコミヒーローものの主演という難しい大役も、彼にかかると難なくリアリティーが生まれる、トビー・マグワイア。
だから、新生スパイダーマンのピーター・パーカー役が、アンドリュー・ガーフィールドに決まったと聞いて、見る気がなくなっていた。
スパイダーマンシリーズは、のび太くんのようなトビー・マグワイアでなくちゃ。
だってあの人って……え、なにに出てたっけ?
テリー・ギリアムの『Dr.パルナサスの鏡』?
あれはヒース・レジャーとジョニー・デップとジュード・ロウとコリン・ファレルを見るのに忙しくて……
『わたしを離さないで』?
あれはひたすらキャリー・マリガンがかわいくて、それしか覚えてないし。
『ソーシャル・ネットワーク』?
あれはザッカーバーグ役の主演が最高だったし、脇ではジャスティン・ティンバーレイクが光ってたから、その他のことは、うーん。

そんな“ザ・目立たない脇役”のアンドリュー・ガーフィールドが、よりによって名優トビー・マグワイアを忘れさせるほどのことを、ヤッテクレルのか。
はんぱなイケメンぶりも足を引っ張りそう。
ピーター・“のび太”・パーカーをやれるのだろうか。


結果・・・「新ピーター・パーカーには、心臓ぶち抜かれました。」
2回見にいっちゃったし。
あそこまで彼がやるとはね。

ストーリーは、ピーターが両親と離れ離れになり、成長して毒グモに咬まれて蜘蛛男になり敵と戦うという、スパイダーマン創世記にまた戻っている。
新ピーターは、ぜんぜんのび太じゃなくて、頭脳明晰だし、ちょっと頼りないだけのまあまあのイケメン。
だが、蜘蛛男になってからは、見てて酸欠になりそうなくらいにカッコいい。
トビー・マグワイアのときには罰ゲームじみて見えたあの赤と青のスパイダー・スーツも、鍛え抜いたスリムな肢体に長い手足の彼が着ると、よく似合っているばかりか、私服のときより肉体の美しさがきわだっていてセクシーに見える。
(そのうえ、夜通し敵と戦って、ボロボロにケガをしてメイおばさんの元に帰ってきたときの、かわいいこと!)

そして彼は、しばしば、マスクをはずす。
まるで帽子のような気軽さで、かぶったり脱いだりしている。
最後の戦いのシーンなど、ほぼ脱ぎっぱなしである。
マスクを脱いで素顔を見せたまま、罰ゲームじみたあのコスチュームで戦っているなんて、トビー・マグワイアのときにはありえなかった。
トビー・マグワイアがマスクをはがされるときは、“ああ、もうダメだ。絶体絶命。のび太に戻っちゃう!”と思わされるときであった。
逆に言うと、トビー・マグワイアはフルマスクをかぶった瞬間、「今、のび太がスタントの人に交代しましたー」って感じだった。
アンドリューの戦いぶりは、マスクをかぶっても、やっぱり「中に、ピーター・パーカー(=アンドリュー)が、入ってる」と思えるのである。
もちろん、シーンによって本物が中に入っていたりスタントマンが入っていたりするのだろうが、マスクをしばしばはずす、しかもトビー・マグワイアの肉体より、アンドリュー・ガーフィールドの肉体のほうが蜘蛛男のイメージに断然マッチしていてカッコいいことにより、「ピーター・パーカーは、スパイダーマンなのだ」ということを、前作以上に強く意識させられるのである。
それが新監督の意図するところだろう。

ガールフレンドとのいちゃつきシーンも、ふたりとも前作よりずっと見目麗しくてすばらしい。
アンドリュー・ガーフィールドのほうは少し鼻声、ヒロインのエマ・ストーンのほうはハスキーな低音で、ふたりそろっているとすごくセクシー。
エマ・ストーンという女優は今作で初めて見たが、かわいらしさと上品さとはすっぱな雰囲気が交じり合っていて、魅力たっぷりな人だ。
太りやすそうな体も、あやうくてかわいい。

あやうい感じ、というのは俳優には重要で、主演のアンドリュー・ガーフィールドは、ハンサムといえばハンサムだが仰天の二枚目というほどでもない。
むしろ、ほんの少し、“気持ち悪い”ときもある。
トビー・マグワイアもそうだった。
いまひとつつかみどころのない、茫洋としたピーター・パーカーは、少しだけ不気味だった。

だって、なんといっても、蜘蛛だからねえ。
体からねばねばした糸が出るとか、蜘蛛のように壁を上るとか、まあ異形のものですよ。
歌舞伎で「狐忠信」という役があり、親狐を殺された子狐が忠信という人間に化けて静御前に付き従っているのだが、忠信役はただ子狐のかわいらしさを表現するだけではだめで、やはり“人間とはちがう、異形のもの”の不気味さを漂わせていなければならない。
だからこそ、正体を知った静御前は震え上がるのである。

蜘蛛に咬まれても人格が著しく変わるわけではないけれど(もちろん、人間的に成長はしていくにせよ)、スパイダーマンには影の部分がなければ。
ほんと、アメリカ映画って、いい役者がいっぱいいるよね。

子供の命を助けられたブルーカラーの男が、同僚に呼びかけてスパイダーマンに協力するシーンで、「エンリコ!ウォルスキー!」などと呼びかけるその名前は、皆東欧系や南米系の、移民の名前ばかり。
このあたりはいかにもアメリカ映画らしい配慮だ。
インド俳優イルファン・カーンの起用もうれしい。
しかしなんといっても、アンドリュー・ガーフィールドの抜擢は、大きな賭けだったはずだが大成功だったと思う。

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キマッタぜ……!!!!!!!!!!!!

『スパイダーマン』は、アメコミヒーローの中でも一番好きなヒーローだ。
武器らしい武器もなく、さほど強くないところがいい。
股関節がグワッと開く身体能力にしびれるし、腰を落として片手を上げるキメポーズにもしびれる。
かならず登場する、NYを所狭しと駆け回る……ではなくスイングしてまわるシーンも大好き。
舞台となるNYの夜景もいい。
失望するかと心配していたが、新生スパイダーマンのアンドリュー・ガーフィールド、あんたはまったく……
A・M・A・Z・I・N・G・だ!

by apakaba | 2012-07-20 16:09 | 映画 | Comments(4)
2012年 07月 15日

2011年8月〜12月に観た映画(DVD)つづき

前回のつづき。
最近観た映画の備忘録です。

第9地区
エイリアンものかぁ、と斜に構えて見るとあとで正座することになる、急展開のおもしろさ!
30歳の若手監督がここまで撮る(ストーリーの組み立て・グロシーンの作り込みのていねいさ・ドキュメンタリーを装う手法など)とは……と驚いて調べると、南アフリカ共和国出身。
本作の舞台もヨハネスブルクであり、アパルトヘイトの黒い歴史がエイリアンとの共存の伏線となっていることにまた感心。
まだまだ、新しくおもしろい作品はつくられるのだという希望を感じた一本だった。

理由
主演ショーン・コネリーを圧する存在感のローレンス・フィッシュバーンがお見事。
黒人差別はアメリカ映画界の永遠のテーマだが、本作も、差別意識を巧みに使って、誰が悪いやつなのかを混乱させる作りがスリリングだ。

水曜日のエミリア
おもしろくなかった……という理由は、「そんなのナタリー・ポートマンのほうがいいに決まってるじゃん!」と誰もが叫びたくなる話だから?
ナタリー・ポートマンが妻から奪い取ろうとしている不倫相手の男が、また魅力ゼロ。
なんであんな男にがんばってるの?
不倫男の妻も、ババアだし美しさは当然はるかに劣るしヒステリックで魅力ゼロ。
まあナタリー・ポートマンがきれいで上手だから、べつにいいんだけどね。

トゥー・フォー・ザ・マネー
アル・パチーノとマシュー・マコノヒーという画面が暑苦しくなるおふたり。
元フットボール選手とスポーツ情報会社の経営者が組んで、フットボールの試合の予想を立てて顧客から手数料をとり、巨万の富を築く。
驚異的な的中率を誇っていた元選手(マコノヒー)だったが、徐々に経営者(パチーノ)に不信感を抱くようになっていく。
カラダ自慢のマコノヒーは本作でもムキムキさせてます。
まあまあの作品だが、やっぱうまいわ、ふたりとも。

アジャストメント
いかにも!フィリップ・K・ディック!
人は自分に課せられた運命を、どこまで自分の手で変えることができるのか。
自分の存在・自分の記憶は、どこまでほんものなのか。
そうしたものへの根本的な疑念を描き出すのがディックのSF小説。
本作も見事にディック世界であった。マット・デイモンはなにやってもうまい。

トゥルー・グリット
たったいまマット・デイモンはなにやってもうまいと書きましたが。
本作は、どうもおもしろくなかったのね。
父親を殺された少女が復讐を誓って、保安官と犯人を追う話。
アメリカ西部開拓時代やキリスト教文化について、そうとう知識がないと日本人にはただの時代遅れ気味の西部劇にしか見えないのだろう。
実は暗喩に富んだ作品だというのは町山智浩氏の解説でわかるが、やっぱり見ているときにわくわくしないのは映画として致命的だった。

黒く濁る村
ひさびさにノワールな韓国映画。
韓国映画ってなんでこんなにドロドロとおもしろいんだろう。
山奥の村で起きた、キリスト教徒たちの集団自殺。
指導者だった父親の死の知らせを受けて村へやってきた青年は、この村がなにかを隠していることに気付き、しばらく留まることにする。
会う村民の誰もがあやしく見える、そのうちに忍び寄る、暴力の気配……。
ストーリーが破綻していようとなんだろうと、見ている間中ぞくっとこわい、韓国映画はほんとに好きだ。

フルメタル・ジャケット
まだ見てなかったキューブリック。
ヴェトナム戦争さなか、地獄の訓練を受ける新兵たちの日々から始まり、月日が流れてテト攻勢での戦いに至るまでを全編男まみれで描く。
キューブリックといえば、網膜に焼きつくほどの完璧な画面だが、この映画ではトイレでの血みどろシーンでよく現れていたと思う。
オリバー・ストーンぽい反戦なつくりではなく、しつこい場面描写のわりには主張はあっさり。
ストーンズの挿入歌『Paint It, Black』がかっこいい。

ヒア アフター
評判がいまいちだったので心配だった本作だが、やっぱりイーストウッド。
胸に迫る感動。
3人の、出自も現在の状況もまるで異なる主人公たちが、死の体験を経て結ばれていく……というスピリチュアル世界モノの触れ込みだったのに、見てみたらいつものイーストウッドらしい、人間と人生を信じたくなる直球映画だった。
マット・デイモンが双子の子供マーカスの霊視をするシーンは泣けた。必見。


うーあと一回で、2011年分は終わらせます。

by apakaba | 2012-07-15 14:21 | 映画 | Comments(6)
2012年 07月 14日

2011年8月〜12月に観た映画(DVD)

今日のブログはおもしろくありません。
と、最初に言ってしまう。
映画好きの友達から「最近マキさんが映画レビューをちっとも書かない」と言われて自分の映画のカテゴリを見てみたら、うん、ほんとに書いてない。
(1本でレビューしているのはよほどおもしろかったときです。)
備忘録が、「2011年7月」で止まってしまっている!
というわけで、このつづきの、1年前からの備忘録をつけていきまーす。
備忘録です。レビューではありません。
おもしろくなくてすみませーん。

彼女が消えた浜辺
ペルシア美女がひしめくイラン映画。
友達同士で海辺の別荘に遊びに来たところ、そのうちの一人の女性が失踪してしまう。
突然なにも持たずに帰ったのか、目の前の海で溺れたのか、だとしたら自殺か?
ある種の密室ミステリーで、ふだんは隠れている醜い感情が、失踪から時間が経つにつれむき出しになっていく様子がつらい。

人生、ここにあり!
イタリアでの大ヒット映画。
へんな邦題だけど本当にこの映画を言い当てている。
精神病院が閉鎖されて行き場を失った元患者たちを、熱血漢の労働組合員が指揮して仕事に就かせ、皆が一体となって生きる意味を見いだしていく。
……とかいうとすごくつまらなさそうなんだけど精神病患者たちの演技が最高。
実話を元にしているということでイタリアを見直した。

デイブレイカー
イーサン・ホークが好きですよー。
近未来、人口の95%がヴァンパイアとなっている世界。
人間の血を飲むことに罪悪感を覚えるイーサン・ホークが、ある方法で人間に戻る。
青白かったヴァンパイアが人間に戻ってきれいな肌の色と活き活きした目を手に入れたところがよかった!
まあ気持ち悪いシーンが多かったけど。

メタルヘッド
ジョセフ・ゴードン=レヴィットが好きですよー。
途中まで猛烈におもしろかったが終盤失速したのは、ジョセフがいい人になってしまったからかな。
ジョセフ演じる、招かれざる「マレビト」が、しょぼいナタリー・ポートマン(しょぼいナタリー・ポートマンって!!!)や不幸な家族を暴力的なやり方で次々と救済していく。

スーパー!
非常に……スプラッタでしたね。
冴えない男が自分の元を去った妻を取り戻すため、手作りコスチュームでヒーローに変身する。と、いわれても、なにがおもしろいのかよくわかんないと思うけど、常識ではありえない暴力で正義を貫く(横入りした男の頭をレンチでかち割るなど)表現を超えて、見たあとはハートウォーミング。
エレン・ペイジがとくにモノスゴイ。どんな役でも最高の女優。

愛する人
泣いたわ……今思い出しても涙が。
アネット・ベニングとナオミ・ワッツの女優競演には非の打ち所なく感動した。
14歳で出産した子供をすぐに手放してしまったことを生涯悔やみつづける女性(アネット・ベニング)。
母に捨てられて育った娘(ナオミ・ワッツ)は、有能なキャリアウーマンとして生きながら、刹那的なセックスをくり返してきたが、妊娠をきっかけに、会ったことのない母親を探し始める。
というのはまったくの導入部で、この映画にはたくさんの“母”が出てきては、母を求め、母を忌み、母をおそれては慕う姿がコラージュのように現れる。必見。

エリックを探して
『麦の穂を揺らす風』では生真面目すぎたケン・ローチだが今回はコメディでさわやかほのぼのな気持ちにさせてくれた。
パニック障害の主人公エリックを救うのは、元サッカー選手のエリック・カントナ(本人出演)。
カントナの姿が見えるのは主人公エリックだけ、という設定は、常識的に考えればなにかしら精神を病んでいることになりそうだけど、そこが映画的には“もうひとつの真実の世界”になるのだ。

しあわせの雨傘
フランソワ・オゾン作品は一応ぜんぶ見ることにしているが、カトリーヌ・ドヌーヴが至上の演技。
ブルジョワ主婦から一転して、病気に倒れた夫のかわりに工場をたて直し、昔の男も彼女の魅力にメロメロ、そしてついに……というオーソドックスなストーリー。
ドヌーヴの愛らしさ、女性らしさ、芯の強さがあふれる。
音楽も映像も、全編がちょっと古き良き時代の映画という雰囲気を醸し出していて、オゾンはうまいなあと思う。

リッキー
オゾンもう一丁。
これもハートフルでよかったなあ。
平凡なカップル(シングルマザーと、新しい恋人の男)の間に生まれた赤ちゃん「リッキー」の背中から、翼が生えてきた。
リッキーはどうして翼を持っているのかはぜんぜん語られず、けっこうすんなり家族に受け入れられていくのもおもしろいし、リッキーがほんとに天使みたいにかわいい。
オゾンは一皮むけたか?


うむー。疲れた。
今日はここまでです。

by apakaba | 2012-07-14 23:09 | 映画 | Comments(8)
2012年 02月 13日

ミカエルは天の使いだ!——『ドラゴン・タトゥーの女』

“フィンチャーが『ミレニアム』シリーズを撮る”と知ってから、公開に間に合わせようと、この年末年始は原作のシリーズをぶっとおしで読んでいた。
厚い文庫6冊を読み終えて準備万端。
今回は、三部作の一作目にあたる。

オープニングが、呼吸を忘れるほどのすばらしさだ。
ツェッペリンの『移民の歌』のカヴァーが爆音で響き渡り、不吉な予感が画面からドロドロと流れ出るような、極限まで暗い、絶え間なく挑発的な映像。
胸がどきどきする興奮と、ビーンと体の芯がしびれるような陶酔感が同時におしよせる。
このオープニングを見るためだけにもう一度劇場に来てもいいと本気で思った。
自宅ではぜったいにこの息を呑む感覚は味わえないであろう。

ストーリーはどちらかというと古典的な“密室サスペンス”もの。
大富豪ヘンリック・ヴァンゲル老人が、40年前に失踪したままでいる親族の少女ハリエットの行方をさがすため、雑誌『ミレニアム』の記者であるミカエル・ブルムクヴィストに極秘の調査を依頼する。
ヴァンゲル一族が住むのはスウェーデン北方の街ヘーデスタから、さらに橋一本のみでつながったヘーデビーという孤島(だから一種の密室事件である)。
最初は乗り気でなかったミカエルだが、いつの間にか謎解きの魅力にからめとられ、島に住み込んで調査をすすめる。
だが一人ではこの一族の謎を解くのは不可能と知り、助手としてリスベット・サランデルという若い女性調査員を雇う。
彼女は極端に無口でやせっぽちで無表情で反社会的と受け取られる外見をしているが、調査の腕は超一流だ。
二人の力で、謎は徐々に解かれていくのであった。

三部作、文庫6冊分をぶっつづけで読んでもまったく飽きさせなかった原作を、フィンチャーがどのようにまとめあげるのか……たいていの場合、原作がいいと映画は失望するものだから……と、(フィンチャーならやってくれる!という)期待も大きかったが同じくらいに(セオリー通り、失望パターンかも、という)心配もあった。
見てみての感想は、
「やっぱりフィンチャーはすごい」
よくもあれだけの長編を、158分にまとめたものだ。しかも少しも飽きさせることなく。
原作を読んでいなくても、きっと次々出てくる登場人物たちすべて「こいつが犯人か?」と、いかにもあやしそうに思うだろうし、読んでいる者には、あの暗く寒い島の風景が、夢中で読みながら思い描いていた風景とぴったりと同じ(よりクリアであり、いかにもフィンチャーらしい、さらに暗く不吉なトーン)であることに興奮するだろう。
カーチェイス・アクション・派手な爆発シーンなど、映像ならではの強みもたっぷりと見られる。
原作を読みながら「これが映像になったら、どんなにいいだろう」と想像したものだ。

主演がダニエル・クレイグだと知ったとき、かなりとまどった。
原作のミカエルは一本気な正義漢だが、さして腕っぷしが強いわけでもなく、どちらかというと気さくでハンサムな優男といったイメージだ。
身の危険が迫ったときは、小柄なリスベットに命を助けられたりしているへなちょこなのだ。
だがきわめて女性にもてるし、きわめて女性関係にだらしない。
自分からアプローチしなくても、引きも切らず女が列を成して「抱いて!」とせがんでくるタイプ(しかもすべてに誠実に対応することができる)。
ダニエル・クレイグは、もっと男くさくてマッチョで、ピンチのときも一人で敵をやっつけてしまえそう。
これじゃ原作者スティーグ・ラーソンが意図していた“ふつうの男と女の役割を逆転させたかった。女のようなミカエルと、男のようなサランデル”という構図が崩れてしまわないのかな?
だが、さすがにダニエル・クレイグは、そんなジェームズ・ボンドなままのダニエル・クレイグではありませんでした。
きっちりと、へなちょこになっていた。
映画評ではリスベット役の新人女優ルーニー・マーラの好演ばかりに注目が集まっているが、彼女がいいのは見る前からなんとなく予想できただけに(初登場シーンの後ろ姿の歩き方だけで“この女、ふつうの人間とちがう”と十分感じさせる)、ダニエル・クレイグの見事なミカエルぶりは、原作を読破したばかりの私にはよけいにうれしかった。
黙っていればいい男だが、そこはかとなくがさつで隙がある。
そこが憎めない。
鉛筆をくわえる、資料のページをめくるたびに指をなめる、飛行機の中でスコッチと水の瓶をいっぺんにカップに空ける、めがねを聴診器みたいに耳から顔にぶら下げてしまう。
“ブンヤっぽい(雑誌記者だけど)”とでもいったらいいのか。
そのへんの細部の作り込みが、ものすごくミカエルをミカエルらしくしている。

ひとつ残念なのは、ミカエルとリスベット・サランデルのつながりと、ミカエルの放埒な女性関係をもう少し描いてほしかったというところだ。
158分、謎解きが忙しいのは察するが。
調査会社の上司アルマンスキーが目撃する、ミカエルの冗談でリスベットが大笑いするというちいさなシーンは、是非挿入してほしかった。
ミカエルに惹かれていくリスベット・サランデルの心情は、続編ではますます大事になる。

さらに、彼が女好き……というより来る者を決して拒まない、しかも完璧に満足させてしまうという天与の資質は、『ミレニアム』シリーズをとおして非常に重要なことだと思うからだ。
年増でも、人妻でも、少年のように痩せたカラダでも、筋肉隆々の巨大な女でも、彼は迫ってこられれば等しく誠実にベッドインして満足させる。
ミカエルは、すべての女にとって、天からの使いのような男なのだ。
大天使ミカエル。
彼の前でなら、すべての女は心も体もありのままをさらけ出せる。
ものすごい才能だ。
つまり彼は、すべての女の欲望の対象であると同時に、すべての男のあこがれの対象にもなりうるのである。

原作の題名は『ミレニアム』ではなく、『女を憎む男たち』だという。
この大長編小説は、つねに男が女を不当に蹂躙しつづける。
各章のはじめに、スウェーデンでの性暴力についてや、アマゾネスの伝説など、フェミニスティックな示唆に満ちた挿話が載せられている。
ステキな北欧の国スウェーデンという、多くの日本人の幻想は即座に打ち砕かれる。
過酷な過去を持つ孤高のヒロイン、リスベット・サランデルは、女性の怒りと復讐心の権化としてある。
そのリスベットでさえ、ひととき心をゆるしたのがミカエルなのだ。
ミカエルだけが、暴力をふるう側の男と、ふるわれる側の女たちとの、唯一の橋になっているのだ。
このあたりの描き込みがやや少ないばかりに、ミカエルがただのへなちょこないいヤツになっているように見える。
続編でさらにベッドシーンを充実させることを、強く希望する!
そしてダニエル・クレイグの局部が見たい!
毎度思うが、なぜモザイクなのか。
あのきたならしいモザイクのせいで、監督の意図とはかけ離れた絵になってしまっていることだろう。
必要があるからこそ局部を映しているはずなのに。
フィンチャーだって怒ってるぞきっと。
第二作『火と戯れる女』が待ちきれない。
ああ、なんとかして、ダニエル・クレイグのモザイクを取っ払えないものだろうか……!?

by apakaba | 2012-02-13 21:09 | 映画 | Comments(9)