カテゴリ:1990年の春休み( 96 )


2010年 02月 01日

1990年の春休み.95 最終回

<初めて読まれる方へ>
この旅行記は、私が大学卒業旅行でタイ・インド・パキスタン・ネパールを一ヶ月半まわっていたときの日記を、不定期に載せているものです。文章(註・レート換算含む)はすべて22歳当時のままです。
前回までのあらすじ
ついに長かった旅行も最終日。
冷涼なカトマンズからバンコクへ飛び、暑さで早くもバテバテ。

3月11日(つづき)
 暑い。暑いということはわかっていたけれど、やはりゼツボー的に暑い。長袖でジャンパーさへ着ていたカトマンズから一気にこれよ。空港ですでにTシャツに替えはしたのだが。
 おカネを替え、バスを待った。
 外に出るともうぐったり。湿気がすごいのだ。あの乾燥しきったパキスタン・インド・ネパールを経験した私にとって、これは過酷である。
 そしてバスはちっとも来ない。バスはどんどん来ているのだが、カオサンロード(*1)に行くバスが来ないのだ。来ていたのかもしれないけど、わからなかった。
 白人は決まってカオサンに行くものと思い込んでいたから、白人にバスをきいたらぜんぜんちがう。日本人もアテにならない奴らばかりだった。

*1・・・バックパッカーのたまり場として有名な道とその一帯。

 このバス待ち時間のせいで、アユタヤをあきらめなくてはならなくなった。今日の夕方に(おみやげの)買い物をすませ、アユタヤへ明日の朝一番で向かおうとしていたのである。あーあちくしょう。でももういいかげん疲れた。ゆっくり買い物をしましょう。ということにきめた。

 私はもっともっと精力的にいろんなところへ行ってみたかったのだ。この旅行中。
 ブラブラする、ほっつき歩く、ということを重点的におこなってきたように思う。
 でもどれもこれも、なんてできないよ。終えてみれば、いやー楽しかった!と思えるにきまってるんだし。

 バスの中は暑かった。本当に暑かった。信じられない……という感じ。立ちっぱなしで、すごい混み方だし。
 しかし、あっこの塔は見たことがあるぞ、とか、あっここを左へ曲がるのよ、とか、だんだんとワカル場所になってきた。これはうれしかった。

 ひと月半を経て、戻ってきた。

More

by apakaba | 2010-02-01 18:27 | 1990年の春休み | Comments(10)
2010年 01月 29日

1990年の春休み.94 ネパール篇

<初めて読まれる方へ>
この旅行記は、私が大学卒業旅行でタイ・インド・パキスタン・ネパールを一ヶ月半まわっていたときの日記を、不定期に載せているものです。文章(註・レート換算含む)はすべて22歳当時のままです。
前回までのあらすじ
カトマンズ最終日の夜、レゲエミュージシャンのイスルの家でのホームパーティーへ。
ネパリの若者たちと馬鹿騒ぎしてホテルに帰った。
そしてこの日はネパールを発ち、バンコクへ。

3月11日(月)晴
 まんだら屋の良太(*1)に会いたいがために、早起きして朝食に行く。

*1・・・カトマンズのレストランのレジに座っていた、ハンサムなネパリ青年。ポカラへ行く前に私が一目惚れして通い詰めた。店名がマンダラというので、勝手にまんだら屋の良太(そういうマンガがあったでしょう)と命名。

 しかしちょっと早すぎたようだ。まだテーブルのセットもできてなかった。イスをおろして、テーブルを拭いて、ということをやっている。そして良太は一人もいない。うーむ。
 ネパールのおいしい食事もこれが最後ね、と思いつつbreakfastを頼む。しかしこれではずいぶん待つことになりそうだぞ。私は腹具合があまりよくなかったのでトイレに長居していた。
 ここには女性がぜんぜんいない。何人か出入りしている人はみんな男だ。こわそうな顔のオヤジが伝票を山のようにテーブルにまいている。うーん良太とどういう関係なんだろう。ここの息子なんだろうか。
 それにしても彼はどうしたんだろう。まさか夜番なのだろうか。そう思うとすごくそんな気がしてきた。
 そうだきっとそうなのだ。私はがっっっくりしてしまった。
 もう二度と会えないのか。と本当にかなしくなった。

More

by apakaba | 2010-01-29 22:12 | 1990年の春休み | Comments(6)
2009年 09月 04日

1990年の春休み.93 ネパール篇

<初めて読まれる方へ>
この旅行記は、私が大学卒業旅行でタイ・インド・パキスタン・ネパールを一ヶ月半まわっていたときの日記を、不定期に載せているものです。文章(註・レート換算含む)はすべて22歳当時のままです。
前回までのあらすじ
カトマンズで迎えるホーリー(春を迎える大きな祭り)の日。
レゲエミュージシャンのイスルとその日本人妻の文子(あやこ)さんと知り合う。
イスルと文子さんに誘われて、私とヒロは夜になってからホームパーティーへ行った。

3月10日(つづき)
 私はラム酒を飲んでいたが、ヒロはカジュラホの苦しい思い出(ラケシュという悪者インド人にラム酒を勧められてすっかり二日酔いになった)があるので、ラムは匂いさへイヤだ、と言っていた。
 文子さんの作ったまぜごはんが実に久々でおいしかった。カンドーして全部食べちゃった。イスルはあんまりおいしいと思ってないみたい。せっかく作ったのにかわいそう。
 味覚がちがうというのは、いくら愛し合っててもケッテー的に相容れないものだ。イスルも料理するらしいが、日本の味はウケないだろう。

 イスルはまたジョークも通じないので弱る。(私が弱るわけじゃないが)
 文子さんがSUNILのファンだと言ったり、イスルより年上だからおネエさんよ、などとふざけたりすると、ムッとしてしまう。あーこりゃめんどうだ、と思った。
 イスルにつられてここに来たのに、すっかり文子さんの側に立つ人々になってしまった。イスルがムッとしているので文子さんがキスすると、けっこうマジでやってしまっていた。私はちょっとあせってしまいました。周りは気にせずさわいだり、ヒューヒューとはやしたてたりしているのだが、まあ私もそのようにしていたのだが、どうしても素人のキスは生々しくていかん。とくに知っている人同士のキスはとても平静の気持ちでいられない。

 少しいっしょにいたり話したりするだけで、こんな人、となんとなくわかってしまうのはどうしてだろう。この旅行中でそれは何度となく思った。相手もそう思っているのだろうか。
 自分では意識的に(ヒロに見合うくらいに)ハイにしているつもりだが、やはり見抜かれるのだろうか。
 こんな人、とすぐわかる(わかったような気になる)ということは、相手が開けっぴろげということか。こっちが洞察力があるとかいうことじゃなく。こっちに来てからは、平たく言えば第一印象、を、ほぼ絶対的に信じている。相手もそうなのかなー。
 よく開けっぴろげ、と親しい人には言われる私ですが。自分で自分のことなんかわかんねえや。

c0042704_23383896.jpg


唄うウイーン男とSUNIL。壁には“神様”ボブ・マーレー。


 もっと文子さんとはなしたかったのだが、何しろ大さわぎでそうもいかない。
 ヨッパライと入れ替わりに、年のよくワカラナイ男が来た。
 彼はたしか26歳くらいで、オーストリアでホテルかなんかをやっている。なかなかにイイ男なのだ。少し前髪が長すぎるのだが。色白で、もの静かで、このバカ騒ぎ軍団とかなりちがう。
 しかしオーストリアに行ってからものすごく変わったのだと文子さんは言っていた。
 ウイーンはいい所か、ときくと、いい所だ!ととてもほめていた。
 カトマンズとぜんぜんちがう国で、抵抗なくやっていけるのだろうか……オーストリアがどんなところか知識がないからわからないけど、beautiful place,peaple are kind.でしか説明できないというのはかなしい。
 ウイーンに行けば、彼も孤独な外国人だ。ネパール人の目から見た(我々と同じ旅人として、我々とちがう国の人として)オーストリア、ウイーンのことをもっとくわしく聞きたかった。

 イスルはギターで唄い始めた。これを待ってたのよこれを!ボブ・マーレーを唄った。あっというまにみんなで大合唱よ。曲を知らないから唄えないのが残念。これはヒジョーに気分がよかった。歌を唄うのは。
 やっとイスルの本領発揮である。やはり歌を唄う人は歌を唄ってる時が一番カッコイイのだよ。あとでわかったのだがそれはBuffalo Soldierだった。
 ああいう場で、みんなでなんとなく唄ってしまえるのってとてもキモちがいい。ウイーン男もギターを抱えたので、ちょっとビビった。あんなに静かそうなのに、そんなことヤルのかーと思って。しかし奴はけっこうな声で唄っていた。
 奴のほっぺたに薄く赤いのがついていて、最初はキスされたのかと思っていたが、ホーリーの染料の赤であった。

 ところがウイーン男はだんだんと本性を表し始めた。奴はけっこうなれなれしいのだ。最初は仲よくなれてウレシイという感じだったのだが、けっこうスキンシップをする奴なのだ。もしかしたら単にスケベなのかもしれない。
 うーんわからない。最後に写真を撮るときなんか、うしろから思いきり抱きつかれてかなりマイッタ。
 あの声デカ男はヒロを、こいつは私を気に入ったようだ。しかし(大江)千里(SUNIL)は二人を均等に扱ってくれる。そういう人は信用できる。SUNILは人柄のよさと育ちのよさを感じる。

 深夜になってしまった。別れぎわに文子さんは写真のことをやたら何度も言っていた。あんなにいっぱいあるのにまだほしいのか〜!と思った。
 あの、リモコンシャッターのカメラはよかったなあ。セルフタイマーよりずっといい。
 帰りはトーゼン、タクシーもリキシャもいないから歩きである。私はとにかく声デカ男がイヤなので、SUNILが熱心に話してきたのをいいことに、すたすたと3人で行ってしまった。
 しかしあのバカデカ声がどんどん近づいてきて、とうとう追いつかれてしまった。歩きながら、こりゃ絶対だめだろう、という写真を奴が撮った。まぶしかったなああれ。

c0042704_23401962.jpg


絶対だめだろう、と思ったけど意外と撮れていた。
やだなあこの絵。
「深夜にヨッパライが騒ぎながら外国人の女の子を連れて帰るところ」。


 ブリクティ(我々の安宿)の前まで、ウイーン男とSUNILが来てくれた。
 もうみんな寝静まっている。門限破りみたい。Y.W.C.A.のあの門番兄ちゃんを思い出した(遙か昔のパキスタンのラホールでの話)。
 二人がベルを思いきり鳴らすが誰も出てこない。ラジュー(若いハンサムなマネージャー)はどうせ香港姉ちゃんとエクササイズだし、ランがやはり起きてくるのだろうか。
 かなり不安になったころ、眠っていました、という顔のランがあけてくれた。
 ああもう本当にごめんなさい。あれだけさんざんこき使っておきながらとどめをさしてしまいました。夜から出て行って、夜中に見知らぬ男を連れて(連れられて)寝ているアナタを起こしました。もうランには何もかも申し訳ないのだ。

 彼らは部屋まで上がってくるというので、ゲッと思ったが、他意はなかった。単に部屋を見て、おやすみ、と言っただけだった。去り際のいい奴に悪人はいないのだ。

by apakaba | 2009-09-04 23:42 | 1990年の春休み | Comments(6)
2009年 08月 28日

1990年の春休み.92 ネパール篇

<初めて読まれる方へ>
この旅行記は、私が大学卒業旅行でタイ・インド・パキスタン・ネパールを一ヶ月半まわっていたときの日記を、不定期に載せているものです。文章(註・レート換算含む)はすべて22歳当時のままです。
前回までのあらすじ
カトマンズで迎えるホーリー(春を迎える大きな祭り)の日。
レゲエミュージシャンのイスルとその日本人妻の文子(あやこ)さんと知り合う。
ホテルブリクティの部屋は排水が悪くて水浸し。
修理にがんばる使用人のランと相棒のヒロを捨てて、待つのに飽きた私は眠ってしまった。


3月10日(つづき)
 目がさめたらヒロも寝ていて、ランはいなくなっていた。
 妙に静かになっている。寝るときやたらウルサくて起きたときすごく静か、というのは、なんだかすごくヘンな気分になる。時間の流れを感じる、ということでしょうか。

 部屋の中はとても静か、ということは、外もバカさわぎをしていないのだ。イメージとちがうお祭りである。人がどんどんくり出して、笛や太鼓がうるさいくらいで……なんて思っていたら気抜けするほど静かなのだ。
 ベランダに出てみると、閑散とした道に、数人赤いヒト(*1)が通る程度。

*1・・・ホーリーでは、赤を主とした染め粉を投げつけ合う。

 あの赤さには驚いたが、人の少なさにがっかりしたほうが大きかった。
 しかしよく見ると、屋上や窓に子供がたくさんひそんでいて、手に水風船を持って、投げる相手を狙っている。私たちのベランダにも、たまに飛んできた。と思っているうちに、激しくたくさん飛んできた。
 赤いのが入ってなくてよかったけど、ガラスに当たったり足もとすれすれに当たったりして、身の危険を感じてきた。日本人の若い女がボーッと外にいたら狙われて当然なのだ。投げていいか?という目くばせをさかんに送ってくる男の子、女の子。そのたびにコワイ目でダメ!という顔をする。
 大人の男にはさすがに当てないようだ。すたすた通りを歩いている。
 みんないたずらっぽい目をしているのだ。でも反射神経がよくないとヒサンな目にあってしまいそう。あまり楽しい気分にはなれない。かといってヤメてしまえ、という気持ちもない。(無邪気に祭りを楽しむには)年齢がいってしまったようである。

 などと思っていたのだが、下のフロントに降りていくと、あの経営者軍団?というかナンというか、あの若い連中が、ギャッハッハッハー!という勢いでドカドカ帰ってきた。私たちがつられてニコニコすればすぐにでもべっちょりとつけてきそうだ。(赤いヤツを)
 そうはいくもんか。ととっさに真からイヤそうな顔をする。
 本当はいっしょに赤くなってガハハー!とやりたいのだが、染め粉が取れやしないと聞いたので。心のせまい日本人になってしまいました。
 ドカドカと手を洗い、香港ねえちゃんが作ったごはんをつまむ。我々もぼつぼつと食べた。

c0042704_15141341.jpg


文子さんとイスルの家。みんなヨッパライです。


 今日は文子さんとイスルの家でパーティーがあるので、行く約束をしていた。暗くなってからやっと外に出た。拘束されて外に出られないのはやはりなんとなく苦しい。
 手ぶらで行くのは失礼なので、お菓子を買った。いつもチョコレートとミネラルウォーターを買うお店である。カトマンズではドーナツにかねがね魅力を感じていたのだが、その店にはなく、ついいつもケーキを買ってしまうので、とうとう食べられなかった。
 乾き物と、クッキーを買った。そして軽く食事をしてから行こうと決めた。

 久々にchineseにしましょう。ということで、中華飯店に入る。黄色と赤のヒジョーにお手軽っぽい小さな入り口だった。ところが。実はそこはかなり高級っぽいところだったのでした。意外に奥が深いのだ。
 そこでホントーに失敗、信じられないほど待たされてしまったのでした。停電にはなるし。
 日本人が3人くらいで隣のテーブルにいた。
 我々は明日はタイに戻るので、この余ったネパールルピーをなんとか円にかえようとして彼らに持ちかけてみた。
 レートはいくらか、とか、あーだこーだとやってるうちに、明日空港で土産でも買ってしまえばいいと思い始め、こっちから言い出しながら断ってしまった。
 ルピーだと大金でも、日本円にするとがっかりするほど少ないのだ。それならネパールのものを買ったほうがよっぽどいい。

 (サーブが遅いので)怒り狂いながらワンタンスープetc.を食べ、ジャスミンティーをぐびぐび飲んですっとんで出た。というつもりだったのだが、もうあまりにも時間が遅くなってしまったので、ヤメよう、ということにした。明日は早いし、少ししかいられないし、帰りの足がないし。Uターンしてホテルに戻ってきた。
 まだ奴らは騒いでいた。パウンドケーキ(安っちい)をおみやげだヨーン!と出した。きっとヨロコんでくれると思ったのに、ラジューは笑いもせず、いらない、あんた方が食べなさい、と言う。予想外の反応にとまどってしまう。香港ねえちゃん(ラジューの彼女)はちょっとニコニコして受け取ってくれた。あまりおいしいものではなかったのでしょうか。ショックである。

 TEL.をかりて、イスルの家にTEL.する。文子さんは、いいからいらっしゃい、と言ってくれた。そんじゃあ行くかあ、とまた気が変わる。
 Uターンなどせずにまっすぐ行っちゃえばよかったよ。

 ところが。我々はまたここでやたら時間をくっちゃうのよ。
 リキシャがぜんぜん走ってないのだ。かなり歩いたのに。
 非常に焦る。夜遅いし。ホーリーだし。
 へとへとになり、気分が果てしなく下降していると、そこへまたしても訪れてしまうのよ。正義の味方が。
 まさかカトマンズで2度もトヨタ車に乗るとはね。
 またしても男二人連れの、服装のいい人々なのだ。
 しかし車内はいくらカトマンズが寒いからといって、こりゃー眠っちゃうゼという暖かさだった。ヒーターがついているからガンガンかけちゃうのかな、と思ったりした(なければつけようがない)。
 こういう親切なヒトには、自己紹介もあいそよくおちゃらけてやってしまう。彼らの若いほうはナント、今噂の(?)British armyなのヨー。ヒロはコーフンしていた。

c0042704_15173393.jpg


メガネのほうがお坊ちゃまなSUNIL。ギターの男がイスル。イスルはやっぱりカッコイイです。

 イスルの家は、もうほとんど食べるものはなくなっていた。べつにいいけど。文子さんはティカ(額に付ける赤い印)をつけていて、うーん似合う。
 それからはもうおちゃらける一方なのだ。お客は最初3人いて、あとからもうひとり来た。ひとりは大江千里と荻島真一を足して2で割ったような奴(SUNIL スニル)。
 彼は文子さんの気に入りで、外務省かなんかのエライ人の息子で、中山外相や海部さんのことをよく知っているのだ。親しくしているらしい。
 SUNILはスゴイ学歴を持っていて、俳句をやっていて、しかもやたら人なつっこい。
 日本人にそっくり、日本人みたい、と言うと、がんとして、いや、ぼくはネパール人だ、と言う。よく言われるらしいがそのたびにぼくはネパール人だ!と言い返すという。ネパール人であることが誇りなのか、他国人に見えるのがイヤなのか。前者のように見えるが。

 もうひとりの男は、ほとんど話さなかったが、すでにたくさん飲んでいたらしく、静かに深く酔っていた。目の焦点があやしかった。
 あとのひとりは、もうむちゃくちゃにウルサイ奴なのだ。
 声がデカくて顔もハデ。ヒロは完全につかまっていた。とにかくバカ騒ぎなの。写真を撮る、というより、シャッターを切るのがやたら好きで、どう考えてもフィルムのムダ使いなのだが、ばしばし撮ってしまう。この家にくだらない大量の写真があるのも、コイツのせいか、そうかそうか……と納得した。

c0042704_15191531.jpg


バカ騒ぎ大好き、写真大好きなのはこの人。撮るのが大好きだから、彼が写っているのはこれ一枚きり。こうしてみると、やっぱりイスルはいい男だよねえ。

by apakaba | 2009-08-28 15:27 | 1990年の春休み | Comments(4)
2009年 06月 23日

1990年の春休み.91 ネパール篇

<初めて読まれる方へ>
この旅行記は、私が大学卒業旅行でタイ・インド・パキスタン・ネパールを一ヶ月半まわっていたときの日記を、不定期に載せているものです。文章(註・レート換算含む)はすべて22歳当時のままです。
前回までのあらすじ
カトマンズで、レゲエバンドのボーカリスト・イスルの家に遊びに行く。
奥さんの文子(あやこ)さんと対面し、いろいろと興味深いお話を聞かせてもらう。

3月9日(つづき)
 どうしてモノ売りがドルを欲しがるのかもきいた。
 香港にドルが流れ、ゴールドを動かすのに使われるそうだ。なんかこの話はああそうだったのか……とひどくコーフンした。
 どこだか忘れたが、商売上手な民族がいて、交渉のとき仲間と話すにはその民族の言葉を使うのだそうだ。文子さんは吉祥寺で民芸品の店をやっているが、その仕入れの時は必ずこれでやられるらしい。
 他にもセーターの選び方やいろんなことをきいた。
 おヒルをごちそうしてくれるかと思って期待を寄せていたがそれはひどく甘かった。なにしろ来ることも知らなかったんだから。

 外に出て、文子さんといっしょにタクシーに乗った。メーターで乗っている。文子さんは日本人とは思われないらしい。顔がねー(ネパリっぽい)。でも色白なのだ。うらやましい。
 少年がボーイをしている、表通りからちょっと入った店に入る。我々の気に入りなのだ。文子さんは、
 「へー、こんな店知らなかった。でも、アブラミなんて変な名前じゃない?」
と、我々が少しも気づかなかったことを言って驚かせた(看板にAburamiと書いてあった)。我々は果てしなく笑ってしまった。文子さんは先に行ってしまった。

 我々はとりあえずリコンファームに行ってみた。が、しかし、土ヨウは休日で、Royal Nepalは閉まっていた。
 もう明日に賭けるしかない。通りの向かい側にあるNirula's(アイスクリームショップ)に、ついフラフラと入ってしまった。

 おみやげリストをチェックし、おみやげをバカスカ?買い込む。
 和紙のレターセットとカレンダーは、パッと見たときはすごく魅力的だったが、いざ選ぶとなるとひどく迷う。自分用には来年のカレンダーを買った。
 ボックス(きれいな細工の箱)の店では、すっかり主人が私になついてしまい、長居をした。彼はカシミールの人で、ムスリムだった。すごくなつかしくなってしまった。もう(ムスリムばかりいたパキスタンが)遠い昔のことのよう。
 ネパールはなかなか負けてくれないという話だが、ここではねばっただけあってけっこう負けてくれた。
 カシミールの話や家族の話をえんえんときいてあげたんだもん。とうとう写真まで撮ってしまった。わざわざ奥の革製品のところに連れて行くのよ。値が張るからね。そういうところが、こっちの人はとても子供っぽいのだ。

c0042704_21465662.jpg


 ホテルでやはり水びたし。リコンファームだの水だのでやたらここのホテルの人を呼んでしまう。
 たしかその晩に、私はヒロを泣かせてしまった。団(ダンラジ。ポカラの人)の写真を私のカメラで撮っていたのを、ヒロが早く現像してほしかったのだ。そのせかし方が異常だったので、私は不愉快になり、思わずきついことを言ってしまった。どう言ったのか忘れたけど。好きな人ならしかたがないわよね。

3月10日(日)曇
 待ちに待った、というはずだったのだが、きのう文子さんにきいてすっかりユーウツになってしまった、ホーリーである。(*1)

*1・・・インド亜大陸で行われる、春を祝う祭り。服や顔を汚すことが無礼講になる。

 石をぶつけられたり、あの赤い染料をぬりたくられたり、水風船(なつかしすぎる)をぶつけられたりするのだ。
 のどかに見物しようと思っていたのだがそれはまったく認識がちがっていたのでした。ただでさえ少ない服を再起不能にされてはたまらない。今日は完全にオフにすることにした。

 とにかくリコンファームである。私は、リコンファームの重要性をぜんぜん知らなかったし、一日前でもちゃんと乗れた、という話しかきいていなかったので、けっこう大きくかまえていたのだ。しかし、帰国シーズンだし、乗れないということはゼッタイ許されない。
 再びギャーギャー大さわぎして、なんとかすんだ。
 TEL.は本当に(かけるのが)つらい。受付の、相手の女性はイライラしてるし。
 やっぱりメニートラブルジャパニーズなのね。ラジューはすぐにOK,OK,Don't worry.Be happy.と言う。よく、いろんなところで、Are you happy?ときかれる。慣れないうちは、すごくヘンな感じだった。べつにいいだろ?かまわないよね?これでOKでしょ?というような微妙な表現を、ぜんぶAre you happy?と言ってしまうのだ。まあとにかくすんでよかったことだよ。

 外に出られないので、かなしいラン(ホテルの使用人)が朝食?をつくってくれた。
 ランは料理もできるのだよ。1時間かかるというので、部屋に戻った。
 おなかがすいてから実際に食べるまで2時間かかる、ということはもう経験ずみだったので。
 ランの食事はカラかった。でもおいしかった。ネパールに入ってから大衆の食べるものを全く食べていなかったので、新鮮である。

 我々の部屋がもう末期的なので、つまりを直してもらった。
 ラジューとラジューを小型にしたような奴と、最後にはやはりランが必死で直してくれた。我々にかかりきりとも言えるわね。一応、下着のパンツなどは片づけたが、じっと待っているうちにだんだん眠くなってきてしまった。
 ヒロとランを捨ておいて寝てしまった。

by apakaba | 2009-06-23 21:56 | 1990年の春休み | Comments(5)
2009年 06月 18日

1990年の春休み.90 ネパール篇

<初めて読まれる方へ>
この旅行記は、私が大学卒業旅行でタイ・インド・パキスタン・ネパールを一ヶ月半まわっていたときの日記を、不定期に載せているものです。文章(註・レート換算含む)はすべて22歳当時のままです。
前回までのあらすじ
ポカラからカトマンズへ戻り、ポカラ以前に泊まっていたカトマンズのホテルBHURIKUTI(ブリクティ)でまた旅装を解くふたり。

3月9日(土)曇
 リコンファームをしなくてはならなかった。朝早くからリコンファームリコンファーム!と大さわぎして、電話をかしてもらったが、まったく出ない。おまけにラジュー(このホテルのマネージャー)はいない。みんな役立たずだ。かなしいラン(使用人)も何もできない。どこに電話してもだめなのだ。しまいにはマニラにもかけた。番号案内も苦しかった。電話で、外人と話すのは本当につらい。あの、出ない出ない……とイライラしながら待った、呼び出し音が耳から離れない。

 11時にイスル(*1)の家に行くと約束していたので、リキシャで行った。

*1・・・もうお忘れかとおもいますが。カトマンズからポカラへ飛ぶ飛行機で知り合った、ネパール人男性。
レゲエなバンド活動をしているとのことで、恰好もぶっ飛んでいる。
詳しくは76回分の後半をどうぞ。

 しかし、ナントカ大使館(わすれた)とまったくちがうところで降ろされてしまった。それからがつらかったのよ。思いがけず大変だった。
 その大使館の門を叩き、MAPを見せてもらおうと守衛に頼んだ。きっとヘンな奴らだと思ったことでしょう。ところが、その大使館の前に停めていたクルマが、連れて行ってくれるというのだ。ふたりの男だがヒジョーに服装がいい。品もあり、信用できそうだ。守衛を待っている途中だったので、悪いとは思ったけれど、確実に行けそうなので乗ってしまった。

 リキシャとちがってぜんぜん震動がない。トヨタカローラなのだが、眠ってしまいたくなるような快適さだ。
 リキシャに較べて、激しくリッチになった気分。こんなにクルマ(日本車)が快適だったとは……としみじみ思った。
 WISCONSIN MEDICAL COLLAGEというところのそばで降りた。そこまで行けばすぐにわかった。

 黒い大きな犬が玄関の前にいた。レンガで道らしきモノが作ってあるのだが、ひどくハンパで、瓦礫の一歩前というカンジ。イスルがひとりで掃除をしていた。
 家の中はやけにカッコイイ作り。大きな額に、イスルと文子さん(アヤコさん。イスルの奥さん)の写真がベタベタと貼ってあった。
 写真で見る文子さんは、とても30とは思えない若さで、でももしかしたらあまり仲よくなれないかもしれないというタイプ。斎藤由貴に似ているのだ。
 「うれしいよ・・・ヤッタネ!」などと額に書いてある。うーんスゴイ。私なら思っても書けない。

 そうこうするうちに、文子さんが帰ってきた。となりの家におフロをかりに行っていたということだった。玄関でイスルが私たちのことを説明している。文子さんは「そんなこときいてない」と言って怪訝そうである。うーんこれはマズイかなあ、来ない方がよかったかなあ、と、ふたりで小さくなってしまった。しかしぜんぜんそんなことはありませんでした。

 文子さんは写真の印象とぜんぜんちがって、とてもサッパリしてしっかりした人だった。少し話していたらすっかり好きになってしまった。
 イスルが出かけてから、ずっと話していた。文子さんはかなりインテリジェントな人で、日本ではモノを書く仕事をしていたという。
 モノを書く仕事というコトバにはビビッと反応してしまう私は、何をやっていたのか具体的にきいみた。
 イベントの取材をするというのだ。仕事の話はおもしろかった。と言うか、文子さんの話はとにかくなんでもおもしろかった。
 またしても国際結婚なのだ。微妙なところが、いくら説明してもいくら話し合ってもわからなかったりするので、すごくもどかしいみたい。冗談が通じなかったり。ケンカばかりしているらしい。だんだんとイスルより文子さんがメインになってきた。

 読書のシュミもとても信頼できる。本棚を見ると、どんな人なのかわかってしまうものだ。うちの本棚は……ちょっとマジな本が少ないみたい?そんなのでわかっちゃうってコワイ。でも私もよくそれで判断する。
 しかし、この家にいるとぜんぜん本を読まなくなるのだそうだ。なんとなくわかる。そして食べて飲んでばかりいるという。なんとなくわかる。私ももうとてつもなく太ったもん。

by apakaba | 2009-06-18 22:54 | 1990年の春休み | Comments(2)
2009年 06月 16日

1990年の春休み.89 ネパール篇

<初めて読まれる方へ>
この旅行記は、私が大学卒業旅行でタイ・インド・パキスタン・ネパールを一ヶ月半まわっていたときの日記を、不定期に載せているものです。文章(註・レート換算含む)はすべて22歳当時のままです。
前回までのあらすじ
ポカラを離れ、最悪なバスで首都カトマンズへ戻ったふたり。
もう、この時点で旅は終わってしまったのかもしれない。
でも残り5日、なんだかんだといろんなことがあるのだ。

3月8日(金)つづき
 もっとカトマンズについて知ればよかった、と思う。
 何故か私はカトマンズについて、ネパール語についてぜんぜん勉強しようとしなかった。
 旅の終わり近くになって、もうめんどくさくなっていたのかな。買い物のときも、How much?ですませてたし。地理もぜんぜん覚えられなかった。

c0042704_206532.jpg


民主化要求デモの最中で物々しいカトマンズ。


 あの、夕食を食べたところは、ダルバール広場というんだっけ。
 オムライスを頼んだら、あまりにも全くちっとも来ないので、私は怒り狂ってしまいました。和食メニューのある2Fの店なのだが、入った瞬間、んーあまりよくない、と思った。
 日本人が3人(男2女1)となりにいたのだが、目も合わせない。ネパール衣装を着ていて、私たちのようなカッコの女ふたりの旅行者なんて相手にできないよ、という様子。すごーくイヤな感じ。
 キャピキャピのままに来てしまう女の子の集団も困ってしまうが、あまりに旅慣れた奴というのもいまいましい。
 旅慣れた奴でもいい奴はいるのだが、ヘンに先輩面をしてるような日本人はサイテーである。
 その3人は互いに口もろくにきかず、漫画を読んでいた。一度感じワリイ、と思うともうオシマイである。国際電話もかけなくてはならないし、私は相当にイラついていた。
 店の兄ちゃんに怒りをぶつけたが、なかなかこなかった。やっときたオムライスはカラかった。
 
 とにかく果てしなく下降した気分で外に出る。ヒロとともに、International Telegraph Officeへ。
 母に電話すると、美奈子(ヒロの昔の旅の相棒でクラスメイト。今回は来なかった)から、成績発表が届いていて、卒業できるとのこと。あ〜〜〜よかった。
 これで卒業できるのね。教授に国際電話をかけなくてもいいのね。多分大丈夫だとは思っていたけれど、やはりホッとした。

 どしゃ降りの雨なのでリキシャをとっつかまえた。ふっかけてきたがビショビショになってしまうといやなので、テキトーに値切って乗った。
 フィルムを出しておいた店(ポカラへ発つ前に、現像を出していた)をさがすのに、予想外に時間がかかってしまった。やっとたどりつくと、トーゼンのようにもう閉まっていた。ザンネン。8時過ぎだもん。

 おみやげを買わねばならない。遅かったがとりあえずみやげものを見る。
 BHURIKUTI(ホテルブリクティ。ポカラの前にカトマンズで泊まっていたところへまた戻ってきた)に帰ると、ラジューが戻ってきていて、3Fの部屋に替われという。同じ値段で、もっといい部屋になるのだそうだ。
 見に行ったがこれといって変わったようにも見えない。ラジューがそれほどすすめるなら、まっいっか!と入った。
 しかしその部屋は思いきり水が出てしまう部屋なのであった。前も出たけどはるかにすごい。部屋中びっしょり。病気になってしまいそうなのだ。アメーバのようにじわじわと赤いカーペットをぬらしていくのである。

c0042704_2092224.jpg


ふたりでシャワーを浴びると、ついに部屋のドアから廊下にまで水が出てしまった。

by apakaba | 2009-06-16 20:10 | 1990年の春休み | Comments(5)
2009年 05月 30日

1990年の春休み.88 ネパール篇

なんと、これを中断してから1年が経っていた。
まだ、完結していなかったのね。

1年前の連載の最後
読んでくれていた人はほんの数人だと思うけど、このままでは自分がキモチワルイので、完結まで書くことにする。
うん。自己満足だけど、いいの。
それからバリのつづきを書く!
というわけで……


<初めて読まれる方へ>
この旅行記は、私が大学卒業旅行でタイ・インド・パキスタン・ネパールを一ヶ月半まわっていたときの日記を、不定期に載せているものです。文章(註・レート換算含む)はすべて22歳当時のままです。
前回までのあらすじ
ネパールのポカラで、ホテルの息子であるダンラジ(団羅辞と当て字をしてみる)に恋する旅の相方ヒロと、醒めた目で見守る私、そして新しくこのホテルに泊まりに来た医学生の真人。
3人で食事をしながら、恋の話をする。


3月7日(つづき)
 私たちは明日の早朝に、ポカラを発つ。せめて最後の夜の思い出にと、団と姉二人をわれわれの部屋に招くことにした。
 ヒロは結局、fade out作戦をとることにしたらしい。それ以外、道はないもんね。
 ケーキをおみやげに買った。ケーキを切る兄ちゃんがやたら私になついてしまい、振り切るのが大変だった。時間がおしていたのである。我々は夜、団とTVを見ることになっていたのだ。

 自転車をぶっとばして帰ると、あと15分でTVは終わるところであった。「早く早く!」とお姉さんたちにせかされた。ケーキを渡したがちっともカンドーしてくれなかった。やけにいそいでいたのだった。私はアップルパイを食べたかったのだが、そんなものはどこかへぶっとんでしまった。

 私ははっきり言ってぜんぜんTVを見る気がなかった。ほとんど団がうっとうしくさへなっていた。何故だろう。団のせい?で、私たち二人の平和、というか、均衡が破られてしまったように感じたからかもしれない。
 ヒロと団のために、ほとんど「奉仕の気持ち」のような気分になっていた。

 TVはアニル・カプール(インドの俳優)はすでに終わり、ホーリーの歌を続けてやっていた。いわゆるMTVってヤツよ。部屋の中はやたらクラかった。そしてお父さんのブリティッシュアーミー時代を思わせる、さまざまなものがあった。
 団は本当にお腹の具合が悪いようだった。

 9時になってTVが終わったので、部屋に帰った。そして団の姉たちを部屋に呼んだ。思い出作りのために、写真を撮ろうという作戦である。
 しかし団はもうまったく生気を失っていた。
 真人はばんばん写真を撮っていた。お姉さんたちは果てしなく何度も何度もくり返し私たちの撮った写真を見ていた。彼女らはとてもいい人たちだから、こっちから言い出さない限りいつまでも同じことをくり返すのである。

 私はそのとき、真人とけっこう親しげに話していた。やはり奴はなかなかにおもしろいのだ。真人は女の子をけっこういい気分にさせるのである。
 一方ヒロは、せっかく団との最後の夜なのに、部屋に人はあふれかえっているし、肝心の団は体調がサイアクなのでもうおしまい、という感じ。
 みんなが夜中に引き上げてから、もういいの、所詮はこうなのよ、これが私と団のカタチなのね、というようなことを言っていた。
 私と真人はなんとなく納得できなかった。でも本人がいいと言ってるんだし、団が端から見ても本当に具合が悪そうなのだ。
 ヒロはこそこそっと団に薬を渡していた。団はすごくびっくりしたようであった。

 真人は尻ポケットに歯ブラシをさしていて、やたらと念入りに磨くのであった。ヒロに、なんだかすまなかったなどと謝っていた。真人は本当にいい奴である。出会って数時間しか経っていないことが信じられない気がする。この人となら、とても仲よくなれるかもしれない、と思った。
 ヒロは、部屋に戻ると、「明日は早起きだから、早く寝よう」などと言って、テキパキと支度をしていた。
 もう私にはなにもいうことなどありませんでした。

c0042704_04839.jpg


真人撮影。別れる日の早朝、近所にあるジャーマンベーカリーにパンを買いに行こうとしている。


3月8日(金)晴
 とうとうポカラともお別れである。
 ヒロは、ゆうべすでに団とのことを清算したかのように見えたが、やはり気持ちは高揚しているらしく、やたら早くから起き出し、屋上に上がっていった。5:30くらいか。まだまっくらである。
 私も、今日こそは日の出をゆっくり味わいたかったので、ヒロに遅れまじと大急ぎで支度して上がっていった。
 すると、バッドタイミングなことに、団とヒロが睦まじく密会めいた雰囲気で寄り添っていたではないか。私は、だだっと駆け上がったそのままの格好(非常口ポーズ)でUターンしてしまった。
 見なかったことにして降りていこうとしていたのに、団に見つかり、Maki--!と、テレ隠しのためか妙に明るい声で呼び止められた。
 それを無視して立ち去るのも、今さらわざとらしいので、しぶしぶ戻り、これ以上離れられないくらいに二人と離れて、まったく別の方向の景色を楽しむふりをしていた。
 しかし、困ったことにヒマラヤを望む特等席は当然ながら若い二人に取られてしまっており、私はといえば、ゴミ捨て場になっている空き地を眺めやるばかりで、かなり苦しい状況だった。

 二人はしばらく小声で話していたが(内容は現在まで謎)、やがて私のほうへ団が来て、おどけたそぶりで、来年もまた来てね、いつか結婚したらダンナさんとも来てね、といって営業スマイルを見せた。もう腹具合はよくなったようである。
 私も団の笑顔を愛してきたはずなのに、なぜかそのときうまく笑顔を返せなかった。
 ヒロとさんざん話していて、なによしらじらしい、という気持ちがあったのかもしれない。でも、団のことで自分が醜い気持ちになるのも、これが最後だもんね。

 そして団はエクササイズにあっさり行ってしまった。ヒロは妙にボーゼンとしていた。
 私としては、せっかく仲よくなった真人と、もう少し話をしていたかったけれど、カトマンズ行きのバスがもう来てしまった。往復とも飛行機ではお金がかかるし芸がないので、帰りは陸路と決めていたのである。
 バスのステップに足をかけると、真人が見送りに出てきていたので手を振った。
 彼は手を振り返すかわりに私にシャッターを切った。
 この写真を、私は手にすることができるのかな。真人とまた会えるのかな。私は、また会うと思った。
 ずっとつきあう友だちになるような気がした。

c0042704_024872.jpg


真人撮影。カトマンズ行き長距離バスに乗る直前、手を振ったところ。


 ヒロのほうは、真人などまるっきり眼中にない様子で、バスに乗ってからもぜんぜん口をきかない。きっと団と過ごした日々のメモリーに突入しているのね、と思い、通路の反対側の席に座ってこっちも黙っていた。
 きのう自転車で走った道を進んでいくと、なんと!団が、道ばたに立っていて手を振っていた(らしいのだ)。
 私の席からはまるで見えなかったが、ヒロは、朝日にふちどられた窓を信じがたいすばやさで開け、そこから身をのり出し、髪をなびかせて、JR東海ばりの美しい別れのシーンの主演女優となってしまった。
 「ダンラジ!」と、私に向かって振り向いたときの、あの嬉しそうな輝いた笑顔。
 アタシはその美しさにたじたじとなってしまったよ。
 彼女にとっては、本当に嬉しいハプニングであった。もし私の側のシートにいたら、団がいることに気がつきもしなかったことだろう。さらに、もし私と席を逆にしていて、私だけが最後に団に手を振ってもらっていたら、なんて考えたくもない。彼はまったく、最後の最後まで計算尽くのように上手に登場してくるのであった。

 その直後、ヒロは完全に燃え尽きた様子で眠りこけてしまった。
 緑におおわれた山の中を、ひどいガタガタ道はつづく。舗装はむりとしても、もうちょっと、石をどけるとか穴を埋めるとかできないの?ヒロはよく眠れるものだ。
 私は、座席を左側の最後部に移動した。崖っぷちを走っていて、左側からの眺めが大迫力なのである。
 崖のすぐ下は、青い川がすごい速さで流れている。その激しい流れは、去年カヌーで下った、日本三大急流のひとつ球磨川を思い出させた。

c0042704_01528.jpg


 バスが左側に傾いたら、というようなことは、いっさい考えないことにして、川の写真を果敢に撮る。
 すっごい震動、なんてもんじゃなく、インド国境越えの最悪バスのときよりももっと、ヤバイほどジャンプする中で、頭をがっつんがっつん窓に打ちながらアタックした。
 胃が口から飛び出そうなほどジャンプする上に、土埃がものすごくて、これまでの旅で最も埃を吸わされた日となった。それに本当にくたびれた。
 フロントガラスにも埃がびっしりついてしまい、このままでは前がぜんぜん見えなくて本格的にあぶない、と思っていたら休憩のときに水をかけて洗っていた。
 私の頭と顔も洗ってもらいたい。

 シートにしがみついて必死でうとうと(というのも変だが)しているうちに、道は舗装道路になり、街なかに入り、夕方の4時にカトマンズに到着した。
 ポカラに較べて、ほんとに都会だ。
 大通りを行き交うたくさんのオートリキシャやタクシーを見て、いよいよ本当にダンラジとは離れたのだ、という感慨を新たにした。
 ポカラにいたのはたった4日間なのに、行く前とあととでは私たちの心のあり方は、決定的にちがってしまっていた。ヒロは美しい恋をして、そして別れた。私は傍観者として、ふてくされたり物見高く見物したり、よき理解者たらんとムリをしたりした。
 旅のなかでもうひとつ夢の旅をし、そしていま現実世界のカトマンズに戻った、というような感じがしてならない。
 なんとなく、しらけた気分で降り立った。

by apakaba | 2009-05-30 00:17 | 1990年の春休み | Comments(6)
2008年 05月 26日

1990年の春休み.87 ネパール篇

<初めて読まれる方へ>
この旅行記は、私が大学卒業旅行でタイ・インド・パキスタン・ネパールを一ヶ月半まわっていたときの日記を、不定期に載せているものです。文章(註・レート換算含む)はすべて22歳当時のままです。
前回までのあらすじ
ポカラを自転車で観光する私たち。恋する相方と、傍観している私の温度差はどんどん開いていき。意外とオトナな団羅辞の振る舞いに、私は少々とまどう。

3月7日(つづき)
 帰り道は、いつのまにか私とサラダ・ヒロと団の二手に分かれてしまった。カジュラホの苦い経験(*1)があるので、またかよーと脱力。

*1・・・もうお忘れでしょう。ラケシュというインチキガイドが、ヒロばかりを気に入って、私をすっかり煙に巻いてヒロと二人きりになったことがあったのだった。

 無口なサラダは、とくになんの感想も持っていないようであった。
 彼がヒロと団の恋愛について、なにか知っているのかどうかもわからなかった。ホテルパゴダの門の前に自転車を止め、私とサラダはなにをしゃべるわけでもなくただ黙々とあとの二人を待った。

 団がひそかに二人きりになるチャンスを狙っていたのかな、とも思ったけれど、べつにもうどっちでもいい。まったくレンアイは当事者以外はぜんぜん面白くない。かといって当事者になればなったで、第三者に気を遣ってやっぱり面白くないか。ゆきずりの愛はムズカシイ、なんちゃって。

 かなり長く待って、やっと二人は帰ってきた。我々と別の道を通り、そこでヒロの目に虫が入ってしまったという。まったくなんて好都合な虫なんだ。
 ヒロは激しい興奮状態にあった。虫を見るために、団がものすごく顔を近づけてきたので(オマエが入れたんじゃないのか!?)、ドキドキしてしまったのだという。
 ヒロは、ドキドキした自分にもかなり驚き戸惑っているのだった。そういう(顔が近づくとか)状況になって息苦しいようなトキメキを感じるなんて、もう本当に何年もなかったことだというので。それはそれでめでたいことだが、なにしろ相手がねえ。多難だなあ。

 サラダは帰り、団もきのうと同じようにあっさりと去ってゆき、中庭に残された我々はなんとなくボーゼンとしてしまった。
 二人とも、連日の体の疲れと、「これからどうなることやら」という果てしない思いにとらわれて、くたくたとベンチに座り込んでいたのである。
 そして我々はそこで、けっこうケッテー的な出会いをするのであった。ちょっと大げさだけど。

c0042704_1636331.jpg


それはこれ。

 いつのまにか、のそっと日本人の学生風の男が現れた。ここに新しく来た泊まり客らしい。明るくてじゃまにならない、蛍光灯のような人だったサイトーくんに較べ、今度の男はなんとなくぶしつけな感じのするやつで、なんとも言い難く、最初はイヤだった。会話のテンポがものすごく合わないヤツなのである。一人ボケつっこみがどうしようもなくついていけない。
 ただでさえ連日の過密スケジュールで疲れているし、ダンラジとの恋の行方で二人ともグッタリした気分だったのに、なんでこんなやつの相手をしなければならないのか、と苦痛さえ感じていた。あの登場のしかたはサイアクであった。
 我々は今まで出会った人の中で最もヒドイ応対の仕方をしていた。

 彼は秋田大学医学部の学生で、真人という。
 真人も真人で、やたらきついことをずけずけと言うのである。
 私とヒロの顔のつくりが正反対だとか(彼女ははっきりした顔立ちの正統派美人で私は寝ぼけた小さめのつくりだと言いたい)、ヒロは肩幅が広いとか、なで肩(私)はなにを着ても似合わないとか、二人同時に傷つけるとは大変なヤローである。
 それでも、だんだんとペースが合っていくにつれキョーレツにおかしな奴だということがわかってきた。
 仲よくなったしるしに、夕食を食べにひとつ覚えのガイジン用レストランへ。
 私とヒロはまた魚料理にした。サカナが恋しいのだ。
 ところが彼女はほとんど料理に手を付けない。ザッツ恋わずらいという有様である。

 真人はこのときに、音を立てて、ぐーんといい奴に早変わり?したのでした。愛について、非常に「ワカル」のである。ヒロの話を聞いて、
 「要するにアレだろ、“胸がいっぱい”なんだろ。」
 とさらっと言ったときには、もうこいつは絶対に!ワカル奴だと確信しました(ここまで書いて、なぜか真人のことを「奴」とか「こいつ」とか記してあることに気がついた。口が悪くてすみません)。
 胸がいっぱいなんて、もう何年も忘れていたフレーズである。私は胸がいっぱいというコトバに胸がいっぱいになってしまいましたよ。でも「しかたがないからお別れのキスでもさせてもらえば」というのにはずっこけた。ちがうっつーの。
 でもヒロは本当に胸がいっぱいでサカナがのどを通らなかったのだ。真人は私も本気で団を好きなのかと思っていたようである。それも笑っちゃうんだけどサ。でもその方が設定としてはおもしろいじゃん。
 真人は、
 「こっちがひろみでこっちがまきって感じがするよなー。」
 と言ってウケていた。言われてみるとそんな気もする。

by apakaba | 2008-05-26 17:18 | 1990年の春休み | Comments(2)
2008年 05月 13日

1990年の春休み.86 ネパール篇

<初めて読まれる方へ>
この旅行記は、私が大学卒業旅行でタイ・インド・パキスタン・ネパールを一ヶ月半まわっていたときの日記を、不定期に載せているものです。文章(註・レート換算含む)はすべて22歳当時のままです。
前回までのあらすじ
ポカラ最終日、団羅辞の案内でポカラ観光。

3月7日(つづき)
 次に、また別のお寺に行った。ここにたどりつくまでの道がすごく悪く、川のようなものを渡ったりしなければならなかった。おもしろいけど。ヒロはいやがっていた。
 団はきのうのサランコット行きで、私が相当ハゲしく強い女だと思ったらしく(山登りのペースが速かったから)、strongネ!とれんぱつする。よしなさい「ネ」は〜、と思いつつ、カラテや柔道の真似ごとをしておちゃらけた。

 本堂の中をのぞくと、カーリーの絵があった。
 カーリーにとられた首がアニル・カプール(インドの俳優)にそっくりなのでそう言うと、団はウケていた。

 再び三度自転車である。私は、「モモ」というチベット料理のゆで餃子に心惹かれていた。
 団に連れられ、モモの店へ。
 ガイジンレストランでステーキやスパゲッティーばかり食べていた私たちは、ぼちぼち土地のものが食べたくなっていたので、団に頼んでおいたのだ。
 私はどーしても日焼けがイヤだったので、またしても化粧直しをした。
 しかし、トーゼンのように、よくうつる鏡などないのです。手を洗うところがあったので、せっせと塗っていると、店の子供がじーっと見ていた。子供などおかまいなしである。

 私たちの席は、家族連れとアベック専用の、カーテンで仕切られた個室だった。壁やテーブルに落書きがたくさんあって、ファックだとかなんだとか、子供向けではないことも書かれていた。
 団は指差しながらどれもこれも「punk」「punk」と言ってあっさり片づけていたが、ちゃんと意味を知っているのだろうか?それとも、連れてきた若い女性であるアタシたちが気分を害さないように気を遣って、下品な落書きをさらっと受け流したのだろうか。そうだとしたら、私が考えているより彼は大人なのかもしれない。さすがホテルの息子(そればっかり)。

 期待していたモモは、とてもおいしかった。からいスープといっしょにくるのだが、このスープはもう体と正常な味覚をこわすために作られたようなシロモノだった。
 モモはステンレスのお皿にどっさり乗っかってきて、にんにくの匂いがすごい。
 団はお腹をこわしていて(そんなことちっとも知らなかったのだが)あまり食べなかった。もう十分、というつもりだったのに、なぜかもう一皿すつ来てしまった。泣きそうになりつつしかたないので食べた。モモ腹になってしまった。
 団はさりげなくトイレに立ち、そのまま払いを済ませてしまった。まったく彼氏のようなことをするやつである。やっぱり団は、意外に大人である。

 値段のわからないままモモの店を出て、遅ればせながらバスステーションに向かった。
 私はその途中、日焼けをおそれて、くのいちのような姿で自転車に乗っていた。ヒロと団は異様にウケていた。自分でも店のガラスに映った自分を見て情けなくも笑ってしまった。でもやっぱり、あのみすぼらしく薄汚い焼け方は許せないのです。

 私たちは、団のためにいっしょになって客引きを手伝った。彼が客引きなんてやるのはなんだか悲しいけれども、あのとびきりの笑顔で「OKネ!」などと言われたら、私もきっとフラフラとついて行ってしまうだろうなあ。あの笑顔は、やはり営業用の強力な武器なのね、そのために培われたのね、とまた思った。
 私たちは、バスを降りてきた日本人の女の子二人連れをすかさずつかまえ、「きれいでいいホテルよオ」などと言って、泊まらせることに成功した。
 それにしてもその二人は、ぎょっとするような「ブス」であった。彼女らだけでなく、どうしてこっち方面を旅行する日本人はみんな「ブス」なんだろう?きれいな人に会ったことがない。かといって「自分はどうなのよ」とは考えない。

by apakaba | 2008-05-13 18:14 | 1990年の春休み | Comments(6)