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2006年 02月 26日

1990年の春休み. remix version2

2,
 デリー初日の宿さがしはつらかった。日本を出て4日目のことだ。
 成田からタイのバンコクを経て、インドのデリーへとやって来た。
 インディラ・ガンジー空港に到着したのがすでに夜中の12時を回ったころだった。
 寒い。蒸し暑いバンコクで着ていたTシャツの上に、あわてて長袖のシャツとトレーナーを重ねる。いまは2月の初旬である。
 ガイドブックによれば、デリーでは最低気温が摂氏10度を下回ることもあるという。おとなしく空港内で朝が来るのを待てばよかったのだが、デリー市内まで行くバスがちょうど出るところだったので反射的に乗り込んでしまった。
 これが悲惨な長い夜の始まりだった。

 「空港から市内までのこの道路はすごくきれいなの。ちょっとハワイみたいな感じなのよね。インドに来たぞって気分にさせてもらえないのよね……。」
 インドはこれで3度目だけれどハワイには1度も行ったことのないはずのHさんが、隣の座席で言った。
 「へえ……。」
 うまい相槌が見つからず、生返事をして窓の外を見る。私の方はインドもハワイも未経験なのだ。
 街路樹のヤシの木以外、暗くてほとんどなにも見えない。
 インドの名物の〈野良牛〉はいつ見られるのだろうか、と少しの間注意して道端を眺めてみるが、期待に反して生き物の姿はどこにもなかった。なんとなく寂しいというか侘びしい気分のバスである。
 バンコクとの気温差に、まだついていけずにいるからか。
 体の芯が重たかった。

 海外旅行といえば、高校生のころに家族でマレーシアとシンガポールに数日間行ってプールと海で泳いで日焼けしたという経験しかない私は、この旅にある〈気負い〉を持っていた。
 大学時代、国内ならいろいろなところへ一人で行っていたが、海外への完全な自由旅行など生まれて初めてのことである。
 病気や盗難などが心配だった。私はそれほど丈夫なほうではないので、Hさんにも出発前から何度も
 「眞紀ちゃんは体をこわすんじゃないかなあ。大丈夫かなあ。」
 と言われていた。
 そしてもう一つ、それらのトラブル以外に多少の不安を感じていることがあった。
 それは、こんなに長い間Hさんと二人きりでいるということである。いくらふだん仲がよくても、24時間べったりと一緒にいたら、お互いのいやな部分が目につくこともあるだろう。
 それに、海外自由旅行の初心者である私にとって、Hさんは頼りがいのある先輩ではあるけれども、同時に、彼女の手前、思いきり初心者らしいふるまいをしにくくなるのではないかという変な気兼ねもあった。

 Hさんは大学2年と3年の春休みに、2度インドを旅行していた。
 彼女は高校生のころに岩波新書から出ている『インドとイギリス』という、搾取する側、宗主国としてのイギリスと、搾取される側である植民地であるインドとの相関関係を記した本を読んで以来、インドに興味を持ち始めたという。
 書棚にはインド関係の本が硬軟取り混ぜてずらりと並んでいる。
 ふだんは倹約してつつましく暮らし、いろいろなアルバイトで旅費を稼ぎ、春休みになるといざインドへ発つ。
 その動機といい、あこがれの地へ実際に行くための努力といい、帰ってきてからのさらなる傾倒ぶりといい、まさに〈正統派・インド好き〉と呼ぶにふさわしい。
 それに比べて私のほうは、彼女に
 「眞紀ちゃん、最後の春休みにインドとその周辺の国に行ってみない?」
 と誘われて初めて、
 「インドか。そんな国もあったなあ。行ってみようかな。」
 と思い始めたようなものである。

 Hさんが前回・前々回の春休みに一緒にインドに行ったのは、Oさんというクラスメイトであった。私はこの人とも親しくしていた。北海道にある彼女の実家にHさんと共に泊まりに行ったこともあるし、私の結婚式の二次会のパーティーではOさんが司会をしてHさんがスピーチをした。私に息子が生まれたときには、素早いことに産後2日目にそろってお祝いに来てくれた。
 ついでにいうとOさんもはっきりした顔立ちの美人なのだ。Hさんと二人でインドのバザールなどを連れ立って歩いていたら、相当に人目を引いたことだろうと思う。
 4年生になってから、Oさんはフリーのキャスターという仕事を始めたので、卒業旅行どころではない多忙な身となった。それで、今回のHさんの旅の相棒として、私にお鉢が回ってきたのである。

 彼女と一緒に旅行に行こうと決めてから、私も行き先の国々に興味を持ち始めはしたものの、やはり彼女の由緒正しいインド熱を身近に知る者としては多少の引け目を感じてしまうことは避けられなかった。
 インドの旅の思い出をたくさん共有しているOさんと比べて、私のことをもどかしく感じたりしないだろうか、という懸念もあった。
 こんなことをうじうじ考えているなんてみっともないから口にこそ出さなかったけれど、私は日本を発ったときから、経験の差によって彼女との力関係が上下にわかれてしまうかもしれない、というようなことをたびたび考えていたのだった。
 ターミナルに着いてバスを降りたとたんに、さっそくその考えていたことが現実となった。


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仲よくゴミをあさる牛と豚。北インド、アムリトサルにて。

 「ハロー、マダーム!リキシャー?チープホテール?」
 私たちの周りに10何人ものリキシャマンが一斉にわっと群がってきた。
 リキシャとは、全インドに普及している乗り物で、座席を自転車で引っぱるサイクルリキシャと、小型オート三輪の後部を座席にしたオートリキシャがある。都市部ではオートリキシャが主流であり、いま私たちを取り囲んでいるのも、ダッ、ダッ、ダッ、とやかましいアイドリングの音をさせているオートリキシャだ。料金は、乗る前に行き先を運転手である〈リキシャマン〉に告げて、お互いの交渉によって決まるのがふつうである。
 といったことを、私はHさんから聞いてもいたし、ガイドやインドの旅行記も少しは読んでいたので、知識としては知っていた。しかし実際に彼らを目の当たりにすると、やはりその圧倒的な商売っ気にあてられ何も言えなくなってしまった。
 「安いホテルに案内するから俺のリキシャに乗れって言ってんのよ。何がマダムよねえまったく。オーケーオーケー、アイウォント、トゥーゴー、トゥー、メインバザール!ハウマッチ!」
 Hさんは興奮しやすいたちなので、ハワイ風の幹線道路からいきなりインドらしい喧噪のただ中に放り出されて、いまや明らかにボルテージが上がっていた。傍目から見てもわかった。
 それにしても彼女ときたら、夜の闇に紛れ込みそうな黒い顔に歯だけを職業的ににやにやとむき出したみすぼらしいなりの10数人の男を相手どって、立派に値段交渉をしているではないか。安宿の密集する、ニュー・デリー駅前にあるメインバザールという場所まで、できる限り安い値段で行こうとしているのだ。

 「10ルピー?ノーノー、トゥーイクスペンシブ!」
 高すぎるわよ!もっと安く行ってくれる人はいないの?
 大げさなジェスチャーをつけて、山ほどのリキシャマンを絞り込んでいく。
 私はその姿を見て感心してしまった。
 そして、私もちょっとやってみたいなあと思った。
 けれどもHさんに対する照れくささが先に立って、どうしても体が動かなかった。
 私が一緒になって値段交渉を始めたら、彼女はきっと「おっ、やってるやってる」と私のことを先輩らしい目で見るにちがいない。インドの旅に慣れているHさんがやったほうが話が早いのだ、彼女を見ながら徐々に慣れていけばいいのだ、と自分に言い聞かせていた。
 もちろん彼女はそんな私の意味のない葛藤など知る由もなく、
 「ねえ眞紀ちゃん、この人に決めない?信用できそうだよ。」
 と一人の男を指した。

 口々に誘い文句を並べ立てるリキシャマンたちの中で、彼だけが愛想笑いを全くしなかった。
 やせていて、背が高い。ひそめがちな眉の下に笑いを含まない鋭い目、とがった鼻、口の端になぜかいまいましそうに5センチほどの小さな葉巻、ビリーをくわえている。年は30半ばくらいだろうか。少しだらしなく伸びた口髭を落としたら、案外若いのかもしれない。
 インド人の顔はまだ空港にいた人々とリキシャマンたちしか見ていないが、その中で一番ハンサムだと思った。私はやたら友好的にニコニコされるとかえって「なにか企んでいるんじゃないのか?」と不信感を抱いてしまうのだ。
 「パハール・ガンジ、メインバザール。」
 Hさんが告げると、リキシャマンは黙ってオートリキシャをスタートさせた。
 ババババとひしゃげたエンジン音が、ことさら大きく聞こえた。

(つづく)

by apakaba | 2006-02-26 16:46 | 1990年の春休み.remix ver. | Comments(19)
2006年 02月 25日

1990年の春休み. remix version1

このブログで、1990年に初めて海外自由旅行をしたときの日記を、ほぼそのまま書き写してアップしている。
読んでくれている人は多くないだろうけど、読んでくれている人はしっかり読んでくれていてとてもうれしい。

自分で書いたものという気がしない。
人に読ませる文章を書くことを意識していない22歳の女の子をひとり雇って、しょーがねーなと内心イライラしながら載せてやっている編集者の気分だ。

実は、この日記を数年後に新しく書き直した原稿が、先日、ひょっこり出てきた。
いつ書き直しを試みたのか思い出せないがおそらく10年以上前だと思う。
16年前の、だらだらした書き方に較べて、だいぶ形になってきている。
それでも現在の自分の目で見ると、ださくてヘタだ。
かっこよく書こうとして力んでいる様子でもあるし、全体に暗くてくどいわりには若さが鼻につく。

あまりの長さに疲れたのか、育児で時間がとれなくなったのか、旅行のほんの前半、パキスタン入りしたところまでで、その原稿はとぎれている。
ものはためしで、この別バージョンも、本編を追う形で、数回アップしてみようかと思う。
どうせ埋もれていて、10年以上も忘れていた原稿だ。
これもそのまま、直さずにアップしてみよう。
本編をつづけて読んでくださっている皆さんには、きっと比較するとだいぶちがってきたなということがわかると思う。
日記形式をやめ、時系列も多少崩すことを試みている。
『かっこよく書きたい』という欲望が芽生えはじめたばかり、おそらく25歳ごろの、私の文章です。
キャ〜、それでもまだ若い!はずかしー!



1990年の春休み. remix version1

1,
 旅の46日間をともに行動したHさんは、大学卒業後××新聞社の記者となった。
 彼女とは映画や芝居を観に行ったり、家に泊まったり長電話したりといったことをよくしていた。大学の4年間、同じクラスだった。友だちの多い彼女にとってはどうだか知らないが、私にとって彼女は、大学時代を通じての数少ない親しい友だちだった。

 私たちは容姿も性格も全然ちがう。
 彼女は華やかな顔だちをしたかなりの美人で、誰とでもとりあえず仲よくつきあえる。別にお調子者とか世渡り上手とかいうわけではなく、真面目ないい人である。何に対しても一生懸命で、感動的なことにはとことん感動するし、正しくないことには心から怒りを感じ、自分の力の及ぶ限りそれを直したいと考えるような、清らかな倫理観の持ち主なのだ。新聞記者という今の職業は、そんな彼女の性格にぴったりの〈天職〉であると私は思う。

 彼女はそのくせ、けっこう自分をさらけ出すのを嫌い、自分が周りからどう見られているかを気にする人でもある。常に他人と自分との距離を測りながら人に接するようなところがあって、人とのつきあいのなかで何かしっくりいかないことが起きたときには、他人を傷つけまいという気遣いと自分を守りたいという本能とが同時に働き、結果としてどっちつかずの宙ぶらりんな笑顔をその美しい顔に浮かべてしまうことがままあるのだ。つきあいが浅いと、彼女のあいまいな笑顔に惑わされてその真意を測りかねてしまうけれども、親しくなれば、そうした自己防衛的な面も含めて誠実な愛すべき人物であるということがわかってくるのである。

 一方私は目立たない地味な顔をしているし、愛想もかわいげもないほうである。Hさんとは逆にまるで開けっぴろげな性格で、人からどう思われようと気にならない。だから思ったことをずけずけ言って相手を傷つけてしまうということがある。Hさんは私のこういう性格を羨ましく思うこともあるそうだが、ときには私から見た彼女の気に入らないところをずばずば指摘され傷つけられるという実害を被ってもいるので、すっかり私の性格と取りかわりたいとは思えないようだ。私と一緒にいると、自分が私を守るお姉さんであるかのような気持ちになってくる、と旅行中に言ったことがある。私のつっけんどんな言動を横で見ていて、相手が気を悪くしないだろうかとはらはらし、
 「ちがうんですよ、この子はこういう態度をとっているけど悪い子ではないんです、誤解しないでやってください。」
 とかばいたくなってくるというのである。実際に彼女は大学受験のとき1年浪人したため1歳年上で、家族に妹がいるし、私には姉がいるので、もともとそういう姉らしい、あるいは妹らしい性格を持ち合わせているのかもしれない。
 こういう性格のちがいは旅という特殊な状況のもとでは普段より際立つもので、私たちは旅行中よくそのことで衝突したり、かと思うといやに自省的になったりしたものだ。

 たとえばインドの首都デリーのホテルでのことである。実になれなれしいボーイが一人いて、朝っぱらから私たちの部屋に入ってきてしまった。右手に飲みかけのコーヒー、左手に食べかけのサンドイッチを持ち、両の頬がとろけてぽたぽた滴り落ちてきそうな満面の笑みをうかべている。彼は愛想のいいHさん一人に狙いを絞り、彼女を相手にさんざんはしゃいだ。自分の食べかけのサンドイッチを食べろと無理強いし、朝食は?なにか運ばせようか?なにが食べたい?などと聞きまくり、彼女と肩を組んだ写真を私に撮らせたりした。彼女は顔だけ笑ったままで、
 「わかったわかったもうあんた帰んなさいよ。」
 と日本語で言っていた。
 私はそのときボーイのずうずうしさに腹を立て、ただ黙って二人を見ていた。そして、Hさんがしつこいおちゃらけたボーイをうまく受け流すのに感心した。同時に、なぜもっと毅然とした態度であの男を追い出してしまわなかったのか、と歯がゆくも感じた。彼女は無益な衝突を嫌う人なのだ。腹が立ったら啖呵を切ってしまうタイプの私とは逆に、できる限り笑顔で旅を続けたい、という姿勢を持っているようなのである。行く先々になれなれしいしつこい男は現れて、そのたびに私は彼女のあいまいな態度を感心と苛立ちを覚えつつ眺めていた。

 旅をするときの人数は少なければ少ないほどよい、というのが私の持論で、実際に大学時代はいろいろなところへ一人で出かけて行った。とりわけ、北海道と三宅・八丈・屋久などの離島によく行った。
 「一人旅以外は旅じゃない。日常生活の地理的な移動にすぎない。」
 偏屈者を思われそうだから口に出したことはなかったが、一人旅の楽しさにとりつかれほとんど有頂天だった当時の私は、そんなふうに考えていた。
 しかし、あの学生時代最後の春休みの、俗に言う〈卒業旅行〉は、どうしてもHさんという得がたい友人と二人でなされなければならなかったのだ。それは必然といってもよかった。

 あのころは、それまでの20年あまりの短い人生のうちで、最も深い倦怠を胸に抱えていたころだった。これだと思える確かなものを、なにひとつ見つけられずにいた。就職活動にしても、大学の勉強にしてもだ。ようするにぱっとしない、冴えない日常だったのである。
 私が一人旅を偏愛していた理由のひとつは、旅立つ前に抱えている〈日常〉が、旅の間にひとつひとつなくなり軽くなっていくような気がしていたということだった。いわば、一種の若者らしいロマンチシズムである。
 しかし旅をしながらHさんと毎日顔をつきあわせて、笑ったり相談したり気まずくなったりをくり返すということは、彼女には失礼な言い方になるが、大学生活の〈日常〉そのものを旅に持ち込んでしまうということだ。抱えているものは軽くなるどころか、一つ言い合いをするたびに増えていってしまう。
 それでも、いや、だからこそ、あの旅には彼女が必要だった。
 旅をしている最中にはそんなことは考えもしなかったけれども、あれから何年もたって当時とはまるで異なった生活に身を置くようになった今では、揺れていた自分の姿も、あの旅でのHさんの存在の意味もきちんとよく見える。
 酒を飲み過ぎて喉が渇いてたまらないのを癒すために、また目の前にある酒のグラスに手をのばしてしまうように、あのときの私は外的にも内的にもさらに大きく揺すぶられること、重いものを持たされることを無意識のうちに欲していたのである。
 一般的に若い女性があまり行かないアジアの国をまわり、驚く。感動する。怒る。くたびれる。そのあいだじゅう一人の友だちが一緒にいて、その人に対しても驚く。感動する。怒る。くたびれる……。絶えずそんな揺さぶりにさらされ続けていたかったのだと思う。なんのために、と問われてもうまくは言葉にできないけれど、あの時期にはそういうやり方が一番似合っていたのだ。

 結婚し、子供を持つ身となった現在でも、あの旅の記憶は鮮明なままだ。
 インド・パキスタン・ネパールと、トランジットとして数日間滞在したタイの4カ国をまわるということ以外にほとんど具体的なプランを立てない旅である。初めての経験ばかりだった。しかしその毎日の体験に慣れっこになり、旅に飽きてしまうというほどには長く行っていなかったので、思い出がどれも刺激的で瑞々しいのである。
 けれども、鼻から頭の芯まで突き通すようなスパイスの香りや、来る日も来る日も至るところで流れていた人気映画のテーマソングや、夜行バスの想像を超える振動と寒さ以上にもっとはっきりと、手でさわれるように思い出せるものがある。
 あのときの〈気分〉だ。
 学生最後の、もう一生やってこない〈春休み〉を過ごしたときの気分だ。

 子供のころから春休みが好きだった。宿題もなければ来年どんなクラスになるのかもわからない、暖かくなってきた陽気のわりには友だちと遊びに行くこともない、そんな中途半端さをもてあました気分は春に似合ったふわふわした心地よさを感じさせた。
 大学2年・3年・4年の春は、大学に合格してから入学するまでの春休みのことをよく思い出した。
 入学の手続きなどで何度か大学へ行った。
 地元の高校に比べて大学への通学時間はとつぜん長くなり、その道のりをなんだかとらえどころのない気持ちでかよった。
 山手線のドアにもたれて代々木競技場前の通りの街路樹をぼんやり見ていた。柳は新芽が芽吹き始めていてきれいだった。
 それからは春が来るたびに、その春休みに気持ちが帰っていった。漫然とした毎日に浸りきった自分の心が、知らず知らずに入学前の〈気分〉を懐かしんでいたのかもしれない。
 しかし最後の春休みには、その入学前の春休みに気持ちが向かうことなどまるでなかった。ただ体の周りをぐるぐる回っているような感じだった。

 大学4年生の1年間にいろいろなことが重なって、私は困憊していたのである。
 過ぎてしまえばまったくたわいのないことばかりだけれど、当時はそれなりにもがいたりがっかりしたりしていた。
 最ももがき苦しんだのはなんといっても就職活動である。
 マスコミ関係に的を絞って試験や面接を受けたが、どこにも通らなかった。30社近く受けた。もっと受けてもっと落ちている人も中にはいると思うけれど、私にはこれでもかなりきつかった。後半は、
 「どうせ通らないや……。」
 と受ける前からあきらめていた。終盤にはどうして自分がマスコミに進みたいのかすらわからなくなっていた。
 結局、最後にひとつだけ受けた一般企業の商社に決めることにした。クラスの人たちはとっくに就職先が決まって、旅行に行ったり卒業論文の準備にかかり始めたりしていた。
 一方、同じマスコミ志望だったHさんは、いわゆる青田買いであっという間に××新聞社の内定をとった。文章力や学力にそれほど大きな差があるとも思えなかったのに、彼女は勝者、私は敗者になってしまった。
 現在の私はマスコミに興味がなくなり、就職しなくてよかったと思っているし、彼女は新聞記者という職業に疑問や不安を感じつつ仕事をしているようである。
 しかしとにかく、みじめな気持ちだった当時の私は、彼女をうらやましく思わずにはいられなかった。おそらく彼女のほうも、私に対して複雑な気持ちを持っていたことだろう。3年生の後半から一緒に作文やマスコミ受験の講座を受けてきたのに、進む道は完全に離れてしまった。
 いつもつるんでいた私たちは、就職活動を境に
 「いつまでもこのままでいるのではない。それぞれの道に別れていくのだ。」
 という当たり前の事実を初めて自分のこととして感じるようになった。

 就職先が決まった秋に、宮本輝の『青が散る』という小説を読んでいた。
 主人公が大学に入学してから就職先が決まるまでの4年間が書かれた、題名どおりの青くさい青春小説である。
 この時期にこれを読むなんてあんまりにも時宜にかないすぎている、と我ながら赤面する思いで読み進めていたが、やはりタイムリーなだけあって主人公の心の動きが実にリアルに感じられたので、Hさんと一緒になった大学からの帰り道に
 「実はあたし、最近これ読んでるのよ。ちょっと〈はまりすぎ〉って感じなんだけど。」
 と本を取り出して見せた。それまでにもおもしろい本はよく紹介しあっていた。
 すると驚いたことに彼女はげらげら笑いだし、
 「ええっ、あたしもなのよ!恥ずかしいと思って言わないでおくつもりだったんだけどね。」
 と肩にかけた鞄から私のと同じ『青が散る』の文庫本を取り出すではないか。しかも読んでいるページまでもほとんど同じ場所だったのである。
 私は、こういう友人にはめったにめぐり会えないだろうなあ、と一緒に笑いながら思っていた。
 そしてそのとき、同時に非常な喪失感にとらわれたのである。
 べつに就職したからといっていきなり友だちでなくなってしまうわけでもないけれど、しかし学生時代とまったく同じかたちのつきあいをすることはもう二度とないだろう。いつまでも一つの場所にとどまってはいられないのだ。

 それは自分自身とのつきあいにしても同じことだった。
 漠然としてただ広がっているばかりの〈将来〉が、卒業と就職によってぐっとせまくなる。
 なんにでもなれると無邪気に考えていた時代が、過ぎていく。

 要するに、卒業というあらかじめ設定された終末を目前にしてセンチメンタルな気持ちになってしまった、ということなのだが、それにしてもこのころの私の消耗ぶりは本格的でありすぎた。
 母親が病気になったり、卒業論文に四苦八苦したり、恋愛沙汰に翻弄されたり、留年の不安につきまとわれたりしていたためである。
 私の家はもともと4人家族だったが、小学生のころに父が他界し、大学3年生の6月に、姉がそれまでの仕事を辞めてアメリカに留学していたので、以後、母と私の二人暮らしになっていた。
 その母が胆嚢炎という病気で、卒論の追い込みである12月に入院してしまった。
 以前から胆石の発作にたびたび襲われて手術をしなければならない状態だったのだが、検査のために通院している間に病状がどんどん悪化し、胆嚢に膿がたまってきてしまった。破裂寸前のところで胆嚢の摘出手術をしたため、命を落とさずにすんだのである。
 私にとっても本人にとっても、この病状の悪化の速さは予想外だった。
 その苦しみようは確かにただの胆石の発作とは桁違いだった。
 母は、
 「このまま死ぬのだろうか。きっと死ぬんだろう。」
 と感じていたという。
 私のほうは、
 「まずい。もう旅行どころではない。」
 と思った。しかし母は、学生時代最後の思い出になるのだから行ってきなさい、こっちは手術さえしてしまえばあとは心配いらないんだから、と言ってくれたのである。
 退院後は姉が一週間ほど帰国して母を看るということに決まってはいたけれども、やはり自分だけが旅行を楽しんでくるのは気がとがめた。
 だからといって、せっかく大丈夫だから行きなさいと言ってくれているものを無理に中止しては、かえって母の気持ちに背くことになるかもしれないと考え、迷った末、予定通りに出発することにした。

 手術直後、母は口を半開きにして間抜けな顔で眠っていた。
 しかし少しも苦しげではなくなっていた。
 安堵の思いよりもある驚きをもってその寝顔を眺めた。
 父を失ってから病気などしたことのなかった母を、いつの間にか私は〈決して壊れないもの〉だと思いこんでいたらしい。母は心も体も〈壊れない〉のだと。
 もう社会人になる年だというのに、私はまだまだ子供の甘えを持ったままだったのだ。
 私にとっての〈永久に強い母〉の姿はもはや像を結ばなくなった。母もまた、一つ処にとどまってはいてくれなかった。
 その10日後に、私はHさんと二人で一ヶ月半の旅に出発したのである。
 いろいろの出来事や人たちや思いをほったらかしにして。

(つづく。トホホ、長いな)

by apakaba | 2006-02-25 17:19 | 1990年の春休み.remix ver. | Comments(10)