あぱかば・ブログ篇

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カテゴリ:思い出話( 78 )


2016年 02月 11日

声は力になるか

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横浜、日野にある父のお墓に行ってみた


以前、自宅で幼児・小学生の塾を開いていて、生徒に毎回かならずかけていた言葉がある。
それは、帰り際に「さようなら」とか「ありがとうございました」とか挨拶されたら「気をつけてね。」と返事することだった。
別に自分でこうしようと決めたわけではなく、心から、“気をつけて”帰ってほしいと思っていた。
小さい子供たちが、どうか危ない目に遭わずに帰れますように。
本当はそれぞれのおうちまで送り届けたいくらいだったけれど、それは無理なので、せめて声だけでもかけていたかった。

他の生徒の質問に答えて解説したり、日誌を書いたりしていても、どんなときでも、誰かが帰るときには絶対に顔を上げて手を留めて、その子に目を合わせて、「気をつけてね。」と言う。
うちには毎週2回ずつかよってきていたので、週2回ずつ、生徒たちは私の「気をつけてね。」という声を聞くことになる。
というか他の子に言っているのも耳にしているはずだから、彼らはうちに来ていた年月、膨大な数の私の「気をつけてね。」を聞いてきた。
それが口先の挨拶ではなく、心から、みんなの帰り道が身悶えするほど心配だったということを、わかってくれていたかいないのか、まずわかってくれていないと思うけど、それでも、人の生の声を聞くことはそのこと自体が力になると私は信じている。

私が「気をつけてね。」と声をかけると、みんな「はあい。」と返事して去る。
このほんの2,3秒のやりとりが、子供の帰り道を、守る力があったのかどうかは、わからない。
でも、そうやって大人が真剣に自分のことを案じてくれていたということは、いつか、何十年もたってからかもしれないけど、いつか、彼らが大人になったとき、同じ心持ちになることの道標となるのかもしれない。

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本文と関係ありませんが。
きのうのお弁当。
さばの一夜干し焼き、菜の花のポン酢マヨネーズ和え七味風味、たけのこ煮、キャベツの胡麻辣油風味浅漬け、黒豆、ゆかりごはん



今日は父の39回目の命日で、夫に促され、6年ぶりにお墓参りに行ってみた。
私の教室にかよってきていた子供たちのように小さかった私は、父にどんな言葉をかけていたのか、まるで覚えていない。
父に、いたわる言葉を、かけることができなかった。
まったく無念だ。
だから、今生きていて、未来のたくさんある人に、たくさん、生の声で、言葉をかけたいと思う。


by apakaba | 2016-02-11 22:25 | 思い出話 | Comments(0)
2016年 01月 17日

友達と、大学受験に行ってみよう

30年前のいまごろ、高校で同じクラスの平田くんという人が「お前、早稲田受けるんだろ? 俺も受けるから一緒に行こうぜ!」と言う。
平田くんはすごく勉強ができなくて、成績はクラスでも最底辺というくらいだった。
「ええーあんた早稲田なんてどうして受けるの? 絶対合格しないのに! 受験料の無駄だよ!」
昔も今も、私はヒドかった。
平田くんは
「受かんないのは初めからわかってるよ、記念記念。“早稲田受けて落ちた”って言えば、親にもカッコがつくだろ?」
ハンサムな顔でニヤッと笑う。
彼はものすごくハンサムな顔をしていて、春のクラス替えのとき、私が友達に「あいつ、やたら顔がよくない? ピカイチだよねえ」と言ったことで、あだ名は「ピカイチ」に決まってしまった(堂本光一さんはそのあと登場しましたね)。

「そんな受験生もいるのか」と、とても驚いた。
私が親だったら絶対許さない。
でも彼は「親はどうせ受験のことなんてわかってないから。“息子は早稲田を受けて落ちた”っていう事実が大事なんだよ!」と言うのである。
彼は大学への行き方も調べてくれて、当日の朝、いっしょに早稲田に向かったのだった。

親のお金をなんだと思ってるんだよ……とむかっ腹が立ったが、同時に、「たしかに、友達と一緒に行くのはいいものだな」とも思った。
平田くんは、なにしろ受かる気ゼロの人なので、周りの受験生とちがって、へらへらと明るく、気楽そのものである。
電車やバスの中でもべらべらしゃべって、「じゃあ俺はこっちの校舎な。昼メシ一緒に食おうぜ。大隈銅像の前にいるから! いいよなあ楽しいよなあ。大隈銅像で待ち合わせなんて、大学生みたいじゃん?」と、完全に“遊びの日”の顔である。

一人になって、大教室の試験会場に座ると、みんな暗い顔をしている。
この年の倍率は25倍くらいだった。実質倍率でも12倍くらい。
前から人の頭を数えて、「1、2、3、4、……ここまでの人数で、たった一人しか合格しないのか……」と考えたりした。
しかし、すぐに「じゃあな、ともかくお前はがんばれよ!」と笑って立ち去った平田くんのことを思い出し、
「いや、でも、あいつみたいなフザケタ受験生もいっぱい紛れ込んでるわけだ。だから見た目ほどには、デキる奴は来てないわけよ。大丈夫だ。」
と考えると、とても落ち着いた。

お昼に会うと、「いやー難しいね。ていうか俺には意味不明だよ! はははっ! どうせわからないから、ずっと寝てたぜ!」と大笑いしている。
「帰りも一緒に帰ろうぜ!」と言われて、結局一日中、親友のようにともに過ごした。
特別仲のいい友達でもなかったけれど、この日だけは、もしかしたら、彼が頼りだったのかもしれない。
あとの大学はすべて一人きりで行ったが、早稲田の入試日が一番、気持ちが楽だったように思う。
今になると、私が合格したのは、平田くんのおかげのような気もしてきた。
当然、彼は落ちて、浪人して他大に進んだが。


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今日も、受験のない人生を生きるコーシロー


きのう、娘が友達と一緒にセンター試験(ブログ記事はこちら→May the Force be with you.〜センター試験)の会場に行ったという話を聞いて、30年忘れていた平田くんのことをとつぜん思い出した。
大学受験って、なんともいえない心持ちになるんだな〜。


by apakaba | 2016-01-17 10:54 | 思い出話 | Comments(0)
2015年 12月 11日

野坂昭如氏と、父の死

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老犬になったコーシロー
だがこの犬を連れていたおかげで、野坂氏が私に話しかけてくれたのだろう


野坂昭如氏の訃報を聞いて以来、しきりと父のことが思い出される。
父は45歳で亡くなったので、当たり前だがいつまでも年を取らない。
私の人生の最初のほうでいなくなってしまった人なので、「今生きていたら何歳だろう」と数えたこともほとんどない。
しかし、野坂氏死去でなぜか反射的に父を思い出した。
訃報を読むと、父より1歳上の人であった。

同時代に生きた同性の有名人、それもジャーナリズムと文学と場は違えど文章を生業にしてきた野坂氏を、父はどう見ていたのだろうか。
野坂氏の作品を、父は読んでいただろうか。
私は、父のことをなにも知らないのだ。
私のイメージの中では、野坂氏も父も、とにかくやたらと酒を飲んでは酔っぱらう男、というひとくくり。
あの世代の人は、そんな男ばかりだった。

ただ、「ソ、ソ、ソクラテスかプラトンか……」というCMを父がひどく気に入っていて、しばしば口ずさんでいたことだけははっきり覚えている。
あのCMを見るたび、父はニヤニヤと上機嫌だった。
歌詞に出てくる人名も全部教えてくれた。
そして「野坂はあんな風だがインテリだ」というようなことを言っていたような、少なくともにおわせていたような気がする。

なぜそんなにはっきり覚えているのかと不思議で、あのCMの放映年を見てみると、私が9歳、ぴったり父の死んだ年だった。
父に関する記憶の一番最後にあたるからよく覚えていたのだろう。

父は死んで、野坂氏はその後も長く生きた。
しかし同じように脳に血液が流れなくなる病気になった(野坂氏は脳梗塞、父は脳出血)。
きのう、YouTubeであのCMの歌い踊る姿を見てみたら、46歳にしては野坂氏は体のキレがよく、髪もいっぱいあって体型の崩れもなく、ほとんどカッコイイ。
そのCMを気に入っていて、放映年に亡くなった父は、ハゲ・デブ・チビの三重苦。
父は、もしかしたら、野坂氏の白いスーツ姿にあこがれていたのかもしれない。
無頼を気取り、酒を飲み、文章を書き、酒瓶を手にして踊る白いスーツ姿に、同世代の男として自分を投影していたのかもしれない。
すべて想像するしかないのだが。

私は野坂氏の作品をたった三つしか読んだことがなかった。
『アメリカひじき』『火垂るの墓』『エロ事師たち』、すべて大学1年生のときに読んだ。
苛烈なしつこさと軽妙な語り口、そしてひけらかすわけでもなく本人の核にがっちり裏打ちされた教養の見える文章で、とくに『エロ事師たち』がよかった。
破天荒なストーリーと、義太夫を思わせる“日本語を読む喜び”を強く感じた。
主人公スブやんがあるきっかけでインポテンツになってしまったときは、「スブやんはいつ回復するんだろう、がんばれ!」と、復調の瞬間を読みたくて先へ先へとページをめくっていた。
諸行無常を感じる話だった。
むちゃくちゃな話だが、正しく日本文学の系譜を引く文学作品だった。
そう、昔は、選ばれた人間だけが文章を書いていた。

父は文学を志したことはなかったのか?
父はなぜジャーナリズムへいったんだろう。
そんなことも知らない。
野坂氏は反戦を訴え続けていたけれど、父ならどういうスタンスで今の日本を書いていただろう?
「父ならこう考えるだろう」という仮定をすることもできないくらい、父のことを知らない。

きのう突然に思い出したのだが、私は野坂氏に話しかけられたことがある。
きのうまで知らなかったが、ご近所に住んでいたそうだ。
10年近く前、いつものように川沿いの遊歩道で犬の散歩をしていると、野坂氏が焦った声で「あのう、うちの犬を見かけませんでしたか?」と尋ねてこられた。
そのときは野坂氏だとちっとも気づかず、「いえ、見ませんでしたねえ」と返事すると、おろおろしながら犬の名前を連呼しつつ行ってしまった。
その心底動揺している様子から、かなりの犬好きと見受けられた。
野坂氏は遊歩道をうろうろと往復しながら、悲しそうに犬の名前を呼んでいた。
あとから「あの人のことを知っている気がする」と必死で思い出したら、野坂氏だったのだ。
だが一発でわからなかったのは、脳梗塞で倒れたあとで、昔とは感じが変わってしまっていたからなのだろう。

人が死ぬと、それをきっかけにして、記憶の底に埋もれていたいろいろなことが、予告もなくいきなりブワッと浮かび上がってくることがある。
現に、私は野坂氏に会ったことを、この10年近く一度も思い出したことがなかった。
しかし彼の死によって、このあとはずっと忘れないであろう。
悲しいことに、父に関する私の記憶は、無いに等しいというくらいに少ない。
せめてあと10年、生きていてくれたら。
9歳の女の子が19歳になって、『エロ事師たち』を読む年齢まで生きていてくれたら。
「ああ、野坂はなあ……」と、同時代の男として、講釈を打(ぶ)ってくれたかもしれない。

野坂氏の死去は、友人を亡くしたときのような直接的な悲しみにはつながらないが、忘れていたさまざまな悲しみを浮かび上がらせる。
父がどんな人だったのか永久に知ることができない、というのは、子供の頃や若かった頃にはほぼ感じたことのなかった悲しみである。
その悲しみは、逃げてしまった犬を探して、泣きそうになりながら心細そうに歩いていた、老いた野坂氏に重なる。
とても悲しく、心細い。


by apakaba | 2015-12-11 16:28 | 思い出話 | Comments(0)
2015年 08月 22日

母と私と娘、絵を見て思い出すことなど

残暑お見舞い申し上げます。


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私の母は絵が好きで、勤めをリタイアしてからは絵手紙や水彩画を描いている。
旅行に行くと旅先の絵を描いて、部屋に飾ったり。
ちゃんと描くとまともな絵を描くが、これはだいぶコミカル。
漫画好きな娘がこのうちわを気に入って、母からもらってきた。
このコロモを着ている魚は佐渡の名物「ブリカツ丼」のゆるキャラ「ブリカツくん」というらしい。

生家には小学校2年生まで住んでいた。
その壁に、鉛筆描きの父の似顔絵と私の似顔絵が貼ってあった。
なぜ姉(長女)の似顔絵はなかったのか、知らない。
姉が自分の顔なんて貼らないでとか描かないでとか言ったのかもしれないし、そもそも描いていなかったのかもしれない。

父の似顔絵は似ていたが、私の似顔絵はあまり似ていなかった。
と、自分では思った。
私は小さいころ目がとても細くて一重まぶたで、母からしばしば
「この子は朝鮮人の子みたいな顔をしている。あんたは朝鮮人の子だわ。」
と言われていた。
朝鮮人というものがどんな顔をしているのか当時はわからなかったし、その断定口調も意味不明だったけれど、あまりにもそれをしょっちゅう言われることは不快だった。
何人(なにじん)に見えるかということより、実の母親からまるで「自分が生んだ子ではない」と言われているように聞こえるのが、子供心に受け入れがたいことだった。

ただまあ、昔の大人というのは、たいした考えもなくそういうわけのわからない断定口調でものを言うところがあった。
私は、自分が小さかったころの気持ちをかなりよく覚えている方で、自分の子育てのときには、自分が言われて嫌だったことを言わないようにしている。
とくに娘には気を遣う。
生まれた日から今日に至るまで、娘の顔を見る日は欠かさず「かわいいねえ」と口に出している。
「『コシヒカリ』ちゃんはまつげが長くてピュンってなってるところがかわいい。ののちゃんに似てる。」
と、よく言う。

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(ののちゃんとか、天才バカボンのバカボンママとかはじめちゃんとかって、まつげがピュンってなってるでしょう。
あれのことを言いたいのです。)

娘は「えええ〜、ののちゃんに似てないよ。どこが!こんな顔じゃない!」と抵抗しながらも、私なりの“かわいい”という表現だとわかっているから、まんざらでもなさそう。
そう思うと、どうして母が何かにつけて「朝鮮人の子に似ている」と私に言っていたのか、ますますわからない。
私が思ったとおりの顔に生まれてこなかったことが、悔しかったのだろうか?
昔の大人は不思議。

それよりも、あの似顔絵はどこへやってしまったのか、その方が今はちょっと気になる。
自分の顔に似ていなかったけれど、当時の自分の顔より少しかわいく描けていた。
思ったとおりの顔に生まれてこなかったから、せめて絵だけでもかわいく描いたのだろうか。
あれはあのボロかった家から引っ越すときに、処分したのかなあ。
今になると見てみたい気がする(けっこう覚えているけど)。


by apakaba | 2015-08-22 18:10 | 思い出話 | Comments(0)
2015年 08月 15日

30年前の8月15日に

母と私は30歳離れていて、私と娘は30歳離れている。
30年前、私は今の娘と同じ、高校3年生だった。
夏休み、今の娘と同じように、予備校の夏期講習にかよっていた。
8月15日の朝、テレビでは「戦後40年」の特番が組まれていた。

身支度をしながら、どうしても耳に入ってくる「辛気くさい」言葉の数々に、無性に苛立った。
毎年毎年、おんなじことばっかりやって。
3日前の日航機墜落事故はいったん措いて、今日はこれなのね。

靴を履いてドアを開け、母に
「終戦終戦って言ってるけど、もう40年も経ってるのにいつまでやってるんだろう? もう戦争なんてずっと昔のことでみんな忘れちゃってるわよ、戦争のことを覚えている人もどんどん死んでいってるんだし。」
という言葉を投げた。
すると母は、
「そうよ、もう忘れているわよ。昔のことだもの。」
と、ふつうの声で同調したのだった。

ただ苛立ちをぶつけたかっただけだから、少し意外だったが、そのまま夏期講習に出かけた。
私は御巣鷹山の方がずっと気になっていた。

どうして母はああいう返事をしたのだろう。
そのあともたまに思い出したが、なんとなく聞きそびれて30年が経った。
多感な年頃の女の子にあれこれ戦争のことを話しても、ますますいらいらするばかりだと判断したのか、母自身が忘れたがっていたのか、ただ受け答えが面倒だったのか、本当に当時の私と同じように戦争特番にうんざりしていたのか。

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30年経って、今さら確かめることもしないけれど、30年経って実感するのは、やっぱり敗戦した日のことはどんなに時が経っても日本人みんなで考えようということだ。
そして、人間は思っていたより忘れないもので、思っていたより死なないものだなということだ。
日本人は30年前よりも長生きになって、戦争体験者は当時の私の予想よりもずっとたくさん生きている。
心強い。
私はまちがっていた。


by apakaba | 2015-08-15 07:09 | 思い出話 | Comments(0)
2013年 02月 11日

父の命日に

ここに亡父の話題をちょくちょく書くので、もしかしたら私はファザコンとか同情を引こうとしているとか思われているかもしれない。
私は、むしろ薄情な娘だった。
小学校でも活発にふるまっていたし、死んだ当日は驚きと恐怖で泣いたが、その後、父への思慕で泣いたこともなかった。
実はお墓参りにもぜんぜん行っていない。

私が父の死を“ネタにした”のは、小学校4年生のとき一度きりだ。
学年の修了を記念してクラスで詩集を作ることになったが、皆「もうすぐ春」「クラス替えしても云々」といった平凡なものしか書けなかった。
みんなとちがうことを書いて、目立ちたかった。


人はなぜ死ぬのでしょう
人が死ぬとたましいが
天に帰るといいます
死んだ人たちは天国で
楽しく遊んでいるかもしれません
でも
残された人の心は冷たく
こおりついてしまいます

もうすぐお父さんの一周忌
お父さんが死んでからの一年は
とっても早かった
病院のろうかをかけていったとき
目を真っ赤にしていたしんせきの人たち
それを 私は わすれない


こんな詩を書いた。
「ぐすん」と一粒涙をこぼしている自分の顔のイラストまでつけた。
書きながら、すでに「お父さんをネタにして、心にもないことを書いてる。」と、いやな気持ちになっていた。
だが他人にはウケるだろう。
担任の若い女の先生は、感動していた。

数日後、先生のところへ行って、
「やっぱりあの詩はやめようと思うんです。なんか、暗いし!べつの詩に書き直しました。」
と、平凡な、春を待つ詩を出したが、先生は取り合わなかった。
「だめよ、詩というのは自分の正直な気持ちを書くの。暗いなんて関係ないわ。」
そのまま、詩集は発行されてしまった。
作文や詩には自信があったが、自分の得意なことでこんなうそを並べて、人の気を惹くなど、二度としない、と決めた。

自分がそう決めると、こんどはひとが父を“ネタにしている”ことがやたらと気に障る。
私の怒りは母に向けられた。
母と表立って対立してはいないが、母が父のことを親戚や他人に語るのがいやで、中でも、父が脳出血でソファに倒れ込み、意識が遠のく最後のときに、両手で母の顔をなでたという件(くだり)が苦痛だった。
「きっと、目がだんだん見えなくなっていったのね。まるで“子供たちを頼む”と言っているみたいだった。」
と、いろんな相手に何度も何度も語るのを、“芝居がかったことを言って”と、冷ややかに聞いていた。
聞き手が、
「そりゃそうよね、こんなに小さい子を置いていくんだから、つらかったんでしょうねえ。」
と、私に目を向けるのもうんざりだった。

しかし、父が死んだ年齢に自分が近づくにつれ、その芝居のワンシーンのような光景が、他のどの思い出よりもリアルな悲しみとして感じられるようになってきた。

父は「もうだめだ」と悟ったと思う。
人生が閉じられる瞬間、思春期の長女と幼い次女を残していかなければならない無念を、まだ若い妻に「頼む」と託していたと思う。
父のつらさも母のつらさも、胸を引き裂かれるようにわかるようになると、子供のころには父のことで泣いたことなどなかったのに、今は涙が出る。
父を“ネタにした”自分も母も、どうでもいいこととなり、それからは父のことを頻繁に書くようになった。
年月がたって、世代が変わったということだ。

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コーシローはすでに私と父の年を追い越してしまった。

36年前の今日、私の今の年齢で、父は亡くなった。
今日は、この36年の間で、もしかしたら最も特別な日かもしれないと思っている。
今日は、半分死んだ人のような気分だった。
片目はいつもどおり、片目はこの世ではない場所から見ているような……「今日が人生最後の日だとしたら」と、何度も思った。

今日、受験生の「コシヒカリ」は第一志望の高校に落ちてしまった。
めそめそしている姿に「息子どもとちがって、女の子はめんどくさいなあ」と呆れながらも、泣くことのできる素直な幼さをうらやましく感じる。
でもきっと、それもご先祖様の采配。
娘に合う学校に入れる。
父は、会うことのなかった孫娘を、バカっかわいがりしている。

by apakaba | 2013-02-11 17:05 | 思い出話 | Comments(4)
2012年 11月 16日

ラジオのジャーニーから

来年の3月にジャーニーが来日公演をするというので、J-WAVEでは今朝たてつづけにジャーニーの曲を流していた。
ジャーニーって、アメリカのロックバンドですよ(一応)。
私が高校生のころ大流行りしていたけど、まだバンドがあったのかということに、まず驚いた。
おじいさんバンドの来日公演が続くなあ……

ボーカルはスティーブ・ペリーではなく、アーネル・ピネダという人らしい。
ラジオから流れてくるアーネル・ピネダなる人の歌声は、スティーブ・ペリーほど金属的な響きではないものの(スティーブ・ペリーって、金属的というか磨りガラスを引っ掻くような音が声に交じり込んでいませんか?)、モノマネ芸人が歌っているみたいにやたらとそっくり。
この人はフィリピン人歌手で、スティーブ・ペリーそっくりに唄えるということで採用された、と今日初めて知った。
気になってwikiで見てみたのだ。
その来歴に、朝から度肝を抜かれた。
映画の中にしかないような貧乏成り上がり物語。
私と同い年だし、がんばってくださいアーネル・ピネダよ。

私にとって、ジャーニーは特別だ。
特別に好きだったということではなくて、高校生のときにつきあっていた男の子が、学校でバンドのボーカルをやっていて、よくジャーニーを唄っていたからだ。
私も唄うのが好きなので、今でも、アルバム何枚分も唄える。
今日は壮絶な少年時代を過ごしてきたアーネル・ピネダ版ではなく、磨りガラスを引っ掻くようなオリジナルボーカルで、車の中でジャーニーをかけてみた。

その彼とは、つきあっていた期間は高校時代の短い間だけだったが、小学校・中学校・高校・大学と、すべて一緒だった。
大学以外は(彼は大学を浪人して留年してしまったようなので)、二人ともすべて同じ卒業アルバムに収まっているわけだ。
私は、自分がバンドに加わる気はさらさらなかったが、やっぱり興味はあるので、彼からジャーニーの楽譜をもらって、家でひとり、ピアノでバラード何曲かを弾き語りしたりしていた。
ひとりジョナサン・ケインというわけですな。

でも実は、ジャーニーではないバンドの歌をやる彼のほうがカッコいいと思っていた。
オジー・オズボーン・バンドをやっているのも好きだったし、一度だけだが彼がドラムで出たライブがあって、そのときグレッグ・キーン・バンドの『Jeopardy』を、ドラムを叩きながら唄って、それが今も忘れられないほどカッコよかった。



斜めに顔を傾けてマイクに向かうのも、ふだんの、センターに立っているボーカルのときとはちがう姿でセクシーに見えたし、曲の途中で入るドラムの「ズダダッ」という繰り返し部分には痺れた。

それもこれも、まさにうちの3人の子供たちの年齢くらい(中学生から大学生)に、関わりがあった人なんだな。
ジャーニーを聴いたり、『Jeopardy』を聴いたりしながら自分の子供を見るのは、とても奇妙なものだ。
今、あの人が元気でいたら、きっとラジオから流れてきたアーネル・ピネダ版ジャーニーを耳にして、私と同じことを考えていると思う。
“あれ?スティーブ・ペリーにずいぶん似てるな、でもスティーブ・ペリーの声のほうが……”
“ずっと昔、唄ってたなあ。”
“あのころ一緒にいた女の子は、ええと”
ええとー、今こんな感じでやってます。えへへ。

(その人のことを以前に書いたと思ったらこれだった→「あぶない夜(声がいい男)
これすら9年前に書いたんだなあ。早いなあ!)

by apakaba | 2012-11-16 22:43 | 思い出話 | Comments(2)
2010年 11月 30日

済州島のおもひで

いや、まだ行っていません、というか実現するかどうかもわかりませんが。

きのう、B賞、どうでしょうと題し、済州島行きの微妙な当選をした話を書いた。
義母は私が声をかけたことですっかりノリノリになってくれて、B賞そっちのけで独自に検討をし始めたようだから、しばらく結論は出ないだろう。

私は韓国に行ったことがない。
でも“済州島”という言葉を聞くと、アザヤカに一片の写真がよみがえる……私の写っていない、楽しげな観光写真だ。

大学4年の9月、私は就職の内定が出ずに落ち込んでいた。
30社くらい落ちつづけていた。
学校に行かずバイトと旅行ばかりしていたから成績はぎりぎりで、卒業がそうとうあやしかった。

仲の良かった女友だちは皆、イイトコの内定をもらっていた。
私が仲良くしていた子のひとりは青田買いで朝日新聞社の記者職、もうひとりはNHKのBS2のキャスターに就いた。
ふたりは、私に気を遣ってあまりはっきりとは言わなかったのだが、9月に韓国旅行に行った。
前年の春休みにもふたりでインドへ行き、インドで知り合った男子学生ふたりと、計4人で済州島へ行ったらしい。

深く考えないことにしていたがやっぱり置いて行かれたような感じがして、くやしかった。
気を遣っていることがありありとわかるので、いかにも平気なふりを装い、
「韓国、行ってきたの?写真見せてよー。」
と、まだ内定がとれていない私は言った。

今まで、彼女たちは何度かふたりでインドへ行ったりネパールへ行ったりしていて、その前後には私にも旅行の話題をしきりとしてきた。
お土産を買ってきてくれて、写真も「見て見て!あのね、ここはね……」と、見せてと頼む前からどっさり押し付けられていた。
それが、今回は私に隠れるようにこそこそと計画をすすめ、いつ行ってきたのかあやふやな返事しかせず、「あたしたちばっかり楽しんで、眞紀ちゃんは大変なのに、悪いかなあって思って……」と、むしろ傷つくことを言われたりする。

「私はぜーんぜん気にしてないよ!旅の話を聞くのは楽しいよ。韓国は行ったことないし。」
気が進まない様子の友だちから、無理に写真を見せてもらった。
いつもどおりに旅の思い出バナシを聞かないと、不自然だと思った。
けれども、「これは済州島といって、韓国の一番南の端にある島なの。」と言われて、海の写真を見たら、
「ああ〜、置いて行かれたよーっ!!!!!!!」
と、叫びたくなった。
水着姿の男女が波と戯れている写真。
あまりにもガックリしたから、友だちの水着のデザインまで、今も覚えている。
ひとりは大人っぽいビキニ、もうひとりは茶色のボーダー柄ワンピース。
ああ、楽しそう……男子もいるじゃん……私が就職活動でしょぼくれた毎日を送っている間にこの人たちはよお〜〜〜〜〜。
あのときだけは、心からくやしかったなあ。

まあそれが私の“済州島”の唯一の思い出です。
済州島と聞くと、そのショックな写真しか、頭に思い浮かびません。

by apakaba | 2010-11-30 22:15 | 思い出話 | Comments(3)
2010年 11月 26日

障害児とのキャンプの思い出

ブログを通じたお友だちで、みかちさんという人がいる(ブログこちら)。
発達障害の勉強をつづけている方で、お仕事も多方面で活躍している人だが、彼女のブログを読んでいて「私も昔、こんな活動に関わっていたことがあった……」と、急に思い出した。

小学校6年生のときに、新しくできたクラスの友だちに誘われて、障害児と健常児(このネーミングもどうかと思うが、便宜的に使う)がボランティア指導員とともに遊ぶ、というグループ活動に参加していた。
誘ってきた子の妹さんが知的障害児だったので、その子と妹さんや、彼女の数人の幼なじみはみんなその活動に入っていた。

チロリン村という名前のそのグループは、月に1回集まっていて、木登りしたり、カレーなどを作ったり、マイ竹箸を削って作ったり、横須賀の猿島(横浜南部の人間なので)に探検に行ったりした記憶がある。
もっとも重要なイベントは、夏休みに静岡のどこかへキャンプに行くことだった。

私は6年生なので、新入りだがいきなり班長になった。
私の班には、「みよちゃん」という名前の知的障害児が入った。
各班に一人から数名の障害児が入る。
みよちゃんは私が班長だということもあまり理解してくれていない様子だったが、私は初めてのキャンプ、初めての障害児を引率する役職に、とても緊張していた。

もう30年も前のことなので記憶がかなり褪せているが、ところどころははっきりと覚えている。
ひとつは、生まれて初めて、川で泳いだこと。
高い岩の上から飛び込んだりもできたし、流れが速くて淵もあり、今なら安全面で保証できないということでとても許可されそうにないような川だった。
私たちの小学校の若い女性教員もボランティアとして参加していて、初めてその音楽の先生の水着姿を見て非常に違和感があったことと、水着の隙間から陰毛がはみ出ていて、子供心に仰天して凝視してしまったことも覚えている。

夜中に、指導員の一人が恐ろしい話をして(その内容もはっきり覚えている)、皆でしーんと静まり返り、そのあと数人の若い指導員とともに河原まで散歩に行って、河原に寝ころんでうとうと眠ってしまったこと。
河原の石がごつごつと背中に当たり、とても寝にくいが睡魔に負けた。
夜が明ける前に宿泊所に戻ったものの、抜け出したのがばれて上層部の指導員にこっぴどく怒られたこと。

私は、班長なのに、自分が遊びたい誘惑に負けて、みよちゃんを置いて河原に出かけてしまったのだった。
翌日からはしっかりとみよちゃんが眠ったのを見届けた。
体力がもたないので、私も寝た。
みよちゃんはひどく痩せていて、薄い布団を頭からかぶって仰向けになって寝ていると、まるで魔法で消されたように、この世からいなくなってしまったみたいだった。
「みよちゃんは薄い」と、帰ってから母に報告した。
みよちゃんは、おそらく泣いたり駄々をこねたりもしたと思う。
そんなような覚えも、ぼんやりとある。
でもみよちゃんが宿泊中にたびたび機嫌を損ねたことは、きっと6年生の私にはさほど大変な思い出にならず、それよりみよちゃんのあまりにもはかない体——薄い寝姿を、夜中にはっと飛び起きては班長として確認したことが思い出に残っているのだった。

みよちゃんは私のことなど絶対に覚えていないと思う。
あの子が何年生だったのか忘れたが、下級生だったことはたしかだ。
でもみよちゃんの親御さんは、新米班長だった私のことは知らずともチロリン村のことは覚えていると思う。
私が川で泳いだり飯ごう炊さんで失敗してまずいコメにガックリしていたころ、みよちゃんの親御さんはまったくちがう時間を過ごしていたと思う。
毎日、心配していただろうなあ。
大船駅で解散するとき、迎えに来ていたのだろうなあ。
解散前に合唱した「あの青い空のように」を、涙ぐんで聞いていたのかもしれないな。

by apakaba | 2010-11-26 22:13 | 思い出話 | Comments(4)
2010年 08月 15日

個人的な記憶、日本人の記憶(終戦記念日に)

犬の散歩をしながら、ふと「自分の記憶の一番底にある“植物”は、なんだろう」と思いついた。
おしろい花?ねこじゃらし?ぺんぺんぐさ?生家の裏庭にあった柿の木?……いや、ちがう、それらよりもずっとずっと底にあるのは“はまゆう”だ。

そんなことを探り始めた理由が、自分でもわからなかったが、よく思い返してみたら、散歩道の途中で、はまゆうを目の端に見かけていたからだった。
最初に解答を見ていて、それから設問を考えただけのことだった。

はまゆうがなによりも親しい植物だった、という人は、さほど多くないと思う。
私は、物心ついたときにはあのつるつるした長い葉っぱを撫で、図太い葉っぱのわりには、かぼそく可憐な花びらが開くさまを知っていた。
生まれて初めて覚えた植物の名前も、はまゆうだったかもしれない。

「このはまゆうは、眞紀と同い年よ。」
と、幼いころにさんざん母から聞かされていた。
「これはお父さんが××島に取材に行ったときのお土産なの。」
その××島がどこなのか。
私は、子供のころずーっと“沖ノ鳥島”だと思っていた。
しかしこれはかんちがいで、沖ノ鳥島は水没におびえるただの珊瑚でできた岩にすぎない。
そんなところではまゆうが育っていたわけがない。

気になって、ゆうべ母に電話してみた。
“××島”は、鳥島のことだった。
でも、
「あれ、鳥島だったっけ?硫黄島だったかも?」
と母が言い始めたのでまたびっくりした。
「お父さんって、い、硫黄島にも取材に行ったことあるの!?」
「うん、行ってたわよ同じくらいの時期に。」
「ひええー。すごーい!でも、なんの取材で硫黄島や鳥島に行ったの?」
「忘れちゃったあ。ずいぶん昔のことだもん。観測所の閉鎖だったかな?硫黄島は、なんだっけ?」

母に、40年以上前の、父にとっては数ある取材対象のひとつのことを詳しく思い出せというのは難題に過ぎた。
やや呆然として電話を切った。
お父さんは、硫黄島にも行っていたとは……。

父は共同通信社の社会部にいた。
私が9歳のときに過労で他界した。

今朝になって、ネット検索で調べてみたら(こういうときには本当にコンピュータはありがたい。いい時代だ。)、アホウドリの大生息地として有名な鳥島は、「1965年に群発地震が発生したことにより気象観測所が閉鎖された」とある。
母が「観測所の閉鎖で……」と言っていたのはこのことか。
母によれば、八丈島から人夫(人夫という言い方は時代を感じる)が来て、解体した資材を運び、父はその様子を取材し、八丈島の人夫に頼んではまゆうの株を自宅へ送ってもらったそうだ。
私の生まれ年は1967年だから、はまゆうとぴったり同い年ではないが、母のなかでは「あのころ仕事で留守がちだった夫から送られてきた、とんだ大きなお土産」と、なかなか授からなかった二番目の子供(=私)の誕生が重なっていったのかもしれない。

もうひとつの「そういえば硫黄島にも行った」というほうも気になり、検索してみた。
父が生きていて、私が生まれた年に近くて、硫黄島がニュースに登場したこと……これか……「終戦後、米軍の統治下にあった硫黄島は、1968年6月26日、小笠原諸島と共に日本に返還された」。
これに行っていたのか。

私は父の仕事(記事)を、一行も読んだことがない。
今になると、それが、無念でたまらない。
父は、海外旅行へはたった一度、母とふたりで香港・マカオに行ったきりだった。
仕事ではなく、完全に遊びで、数日間の海外旅行。
香港土産にお決まりの絵皿を作って、絵皿の中では母とふたり「初の海外でうれしくてしょうがない日本人旅行者のおじさん」の見本のような笑顔を向けていた。
けれども、父はふつうの人が決して行かれないところへ行っていた。
宮内庁記者として昭和天皇ともじかに話していたし、横須賀支局時代には米軍基地に入って米兵を相手にスラング混じりの英語で取材し、全島が天然記念物の、鳥しかいない鳥島にも、太平洋戦争の激戦地硫黄島にも行っていた。
ほかにも、もっともっと、いろんなところへ行っていただろう。
そんなふうに飛び回っていたのは、現在の私よりもずっと若い、30代半ばだった。

チャーター船から鳥島の絶壁が近づいてきたとき、どう見えた?
お母さんにはまゆうを送ろうと思ったのはなぜ?
硫黄島のどんなところに、戦争を感じた?

父と話をできないことが、今、たとえようもなく悲しい。
でも、人の記憶はどこかで受け継がれるし、そうでなければさらに悲しい。
たまたまはまゆうを見かけただけで、こんなに過去のことに思いを馳せることもできる。

今日は終戦記念日である。
戦後65年経って、記憶の風化が危惧されている。
でも私は、記憶の風化ということについては楽観的だ。
人はそんなにたやすく、昔のことを忘れないと思っている。
8月になると、毎年きまって原爆と終戦の特集番組が組まれるが、子供たちは飽きることなく戦争特集番組を見る。
とくに長男は、3月に広島を一人旅してきたばかりだから(旅行記)、とりわけ熱心に見ている。
自分の個人的な記憶でなくても、日本人の記憶として、子供たちが確実に引き継いでいることを感じる。

私は、ありきたりの旅先へ旅行し、書いても一銭にもならない文章をつづるだけのただの主婦だ。
それでも、「どこかへ行きたい。なにかを書きたい」という衝動は、父親から引き継いでいる性質だと思う。
もし今でも父が生きていたら、キカイ音痴ながらもどうにかPCを開いて、私のブログを読んで「うちの娘はおもしろいモノを書いているんだよー。親譲りだなあ!」などと、古い記者仲間に親バカ丸出しで紹介しているかもしれない。
そして孫どもに、昭和6年生まれの父は戦争の話をいつまでもしゃべっていたかもしれない。
ちょうど終戦の日、こんなことを思っていた。

by apakaba | 2010-08-15 13:18 | 思い出話 | Comments(4)