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カテゴリ:歌舞伎・音楽・美術など

  • うるさいおばさん鑑賞者を、どうする
    [ 2012-05-04 15:04 ]
  • ドアノー展と、インド関係の日
    [ 2012-04-30 22:00 ]
  • 真・善・美への問い——W・ユージン・スミス写真展「楽園への歩み」
    [ 2012-04-23 13:48 ]
  • Brian Adams東京公演に寄せて、おもひでの数々
    [ 2012-02-19 00:43 ]
  • 押し寄せ、あふれ出す“イメージ”〜〜ジャン=ミシェル・オトニエル MY WAY
    [ 2012-01-26 23:14 ]
  • ポンガル@国分寺カフェスロー
    [ 2012-01-20 11:01 ]
  • 軽井沢千住博美術館
    [ 2011-11-02 17:13 ]
  • 交じることで無二を生み出す——南蛮美術の光と影 泰西王侯騎馬図屏風の謎
    [ 2011-10-28 12:03 ]
  • “詞”が歌のいのちだ
    [ 2011-10-23 00:10 ]
  • 震災後の文化的活動
    [ 2011-07-21 23:22 ]

うるさいおばさん鑑賞者を、どうする

東京国立博物館で開催されている「ボストン美術館展」に、次男の「アキタコマチ」が行ってきたという。
「すっごくよかったよ!もう絶対に行くべき!」
と、ひとしきり興奮して報告していたが、
「でも、おばさんたちがうるさかった。」

おばさんたちは最初から最後まで、ずっと「すごいわねえー」しか言わない。
オレらが「ヤバイ」と言うのをだめだとか言ってるくせに、そのかわりおばさんたちは「すごい、すごい」しか言わない。
美術の注目ポイントもなんだかちがうというか……
「龍って、想像上の生き物でしょう?それをこんなに……。すごいわねえ!」
とか、ずーっと言ってるんだよ。
若者より声は大きいし、ほんとに迷惑。
見に行くならおばさんたちには覚悟しないといけないよ。

やーん私もおばさんだけど。
でもそんなふうにうるさくしないもん。
「ボストン美術館展」には、私も行きたいとは思っているのだけど、すいている時間帯はないものかなあ?

by apakaba | 2012-05-04 15:04 | 歌舞伎・音楽・美術など | Comments(6)

ドアノー展と、インド関係の日



生誕100年記念写真展 ロベール・ドアノー(東京都写真美術館で5月13日まで)に行った。
期待外れという感想を持ったことが、自分でも意外。
ドアノーの写真は、ドアノー自身の魅力というより、パリの街はパリの力、ポートレイトはモデルの力に負うところが大きいように感じた。
両者拮抗せず、作家の力量より対象が勝(まさ)っているように思える。

みずからを“イメージの釣り人”と呼び、「待つことで得られる奇跡の瞬間」をとらえたと解説にあるとおり、たしかに、街角スナップは諧謔性十分だ。
とくに子供の写真はいい。
写真の中の子供たちは、残らず邪気なくいきいきしている。
だが、橋の上の絵描きをのぞき込む紳士や、ショーウインドーのヌード画を見る人々の反応の連作などは、おかしみはあるけれどそれ以上に少し「あざとさ」を覚えてしまった。

それは、占領下のパリの連作でも感じた。
完璧に“絵になっている”のだが、緊迫感よりもどこか芝居っぽいというか、役者が演じているような。
声も汗も感じられず、止まって見えるのだ。
彼の出過ぎない性格がそうさせているのだろうが、迫力には欠ける。

「物語の途中のような写真だ」と思いながらすすんでいくと、
“見た人に物語の続きを想像してもらえるような写真を撮りたい”
と、本人の言葉が書かれていた。
ずばり意図どおりということか。
ドアノーはもちろん一流の写真家である。
先日見たユージン・スミス展があまりによかったことで(真・善・美への問い——W・ユージン・スミス写真展「楽園への歩み」)、まだその余韻が残っていたから、やや好みではないように感じてしまったのだと思う。
ドアノーを見終えて、ますますユージン・スミスが恋しい。

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恵比寿に来たらお昼はシンガポールラクサにキマリ。
からいスープにシンガポールスリングの甘ったるい味が合う。



2年ぶりに、ニュースレター「インド通信」の発送作業に顔を出した。
敬愛するインド・アジア映画評論家の松岡環さん宅にて。
環さんのお部屋にあったシャールクのドデカポスター!
シャールク、久々にかっこいいです。



参加者プレゼントに、じゃんけんで敗退。猛烈ガックリ。
これはインド製のノートで、ゾウの糞を使った紙でつくられている。
とってもオシャレで、表紙にはヒンディー映画スターの4人が!
とっくにアラフォー以上となった3(スリー)カーンに加えてサイーフ・アリー・カーンを加えた4(フォー)カーン勢ぞろい!
え、なにがなんだかワカラナイ?
右上から時計回りに、我らがシャールク・カーン、サルマーン・カーン、サイーフ・アリー・カーン、アーミル・カーンです。
シャールクは大スターなのに、その名前からしばしばテロリスト扱いされてアメリカの空港で足止めされています。



この日の〆、キルケニーのハーフパイント。
発送作業のあとに再会を喜んで飲み、くだらない居酒屋に移動して飲み、アイリッシュパブに移動して飲み、こうなると昼のシンガポールスリングがジワジワと効いてくる、昼に飲まなきゃよかったね。

by apakaba | 2012-04-30 22:00 | 歌舞伎・音楽・美術など | Comments(0)

真・善・美への問い——W・ユージン・スミス写真展「楽園への歩み」

W・ユージン・スミス写真展を、「マグナムにいた人」というくらいの甚だ乏しい予備知識しか持たないままで見に行った。
たんに、開催している会場が好きなギャラリーだったという理由だ。
御茶ノ水のギャラリーバウハウスにはこれまでも何度も行っている。
本ブログでも二回、関連記事を書いた(是非!なんかやたらとがんばって書いてるわ!)。

横谷宣写真展「黙想録」——置換への断念/共有する感懐

gallery bauhaus 3周年記念特別展「The Collection II」



予備知識も先入観もなかったことで、無心に見ることができた。
見ながら、写真という表現手段での真・善・美について、頭の中にさまざまな言葉が浮かんでいった。

ピッツバーグと日立で労働者を撮ったシリーズは、まさに本人のいうとおり「『芸術』と『ジャーナリズム』は対立するものではなく、両者は対等」だと感じさせられる。
鉄鋼業の街で立ちのぼる煙は、幽玄と最もかけ離れた土地に幽玄をもたらす。
肉体労働に従事する下層労働者の表情は哲人であり賢者であり、黙りこくって汗にまみれた顔の皮膚には長編の物語が刻まれる。
言葉でないやり方で、我々はそれを読む。

久々に目にするゼラチンシルバープリントの美しさには、毎度陶然となる。
なんてきれいなんだろう。
まるで、中国青磁のとろりとした肌合いを愛でるときのような気持ち。

だがなんといっても構図だ。
構図の完璧さには、幾度となく喉の奥で「ウウッ」と唸った。

スペインの村を題材にした「スペインの村のパン」の構図。
石造りの貧しげな路地、女が焼いたパンを大きな台に載せて家の裏口に入ろうとしている。
大きな台を頭上に掲げているため、女は完全に陰になっている。
円形のパンに陽が当たり、石造りの家や道にも陽が当たり、道の奥に犬がぼんやりと写り込んでいることで、視線は路地の奥へと誘導される。

「World War II」シリーズ、「硫黄島 海兵隊による382高地の爆破」の構図。
黒煙と白煙のコントラストは、モノクロならではの力強さで、悲惨をきわめた戦争写真であるにもかかわらず、思わず「美しい」と感じずにいられない。
破壊の瞬間に魅入られてしまう。

同シリーズ「レイテ野戦病院」の皮肉に満ちた構図。
教会を臨時の病院として使っているらしい。
広々とした空間の最奥部には荘厳な祭壇、その手前のベンチに黒衣の女性たちが並んでいる。
一番手前には、顔と両手を真っ白な包帯でぐるぐる巻きにされた裸の男が寝かされている。
覆面プロレスラーのようになってしまった包帯の隙間から、両目がこっちを見ている。
これも、(包帯の下の顔を想像すると)悲惨なのに、まるでフタユビナマケモノみたいな外見になってしまった男の寝姿に思わず吹き出してしまう。
思わず笑ってからあらためて包帯の隙間の目と見つめ合う。
聖と俗ってなんだ?
善と悪ってなんだ?
フタユビナマケモノみたいな男が問いかけてくる。

人物を中心に撮った作品では、当たり前のことながら、内面が出ている。
「カントリー・ドクター」シリーズのセリアーニ医師は、まるで映画俳優のような優男だ。
一見カメラの前でポーズを決めているかのようだが、その目は完全に放心しており、ユージン・スミスのカメラなどないかのようである。
「シュバイツァー」のシリーズには、「アフリカの聖人」と讃えられた偉大な男は写っていない。
トレードマークの眼鏡の奥の目は、決してカメラを見ない。
無表情なその姿は、希望や意志の強さよりも、悩みと孤独を感じさせる。
背景となっている、色彩にあふれているはずのアフリカは、モノクロのプリントのなかではひたすら茫漠として寒々しい。
見事な描写なのに「アフリカの聖人」らしさが表れていないという理由で『ライフ』誌と対立し、これをきっかけとしてスミスは『ライフ』を去る。

代表作「楽園への歩み」の小さい女の子が、娘のワニータだ

そして大きな目がかわいらしい、小さい娘のワニータ。
「私の娘ワニータ」では、ネズミの死骸をきれいな箱に入れて花を飾り、その死を悲しんでいるワニータのあどけない表情をとらえている。
長いまつげにふちどられた目は残念そうにネズミを見つめ、唇が動いているので、なにかしゃべっているのだろう。
愛らしい声も聞こえてくる……音や声が聞こえてくる写真とは、撮っている人間がその瞬間を楽しんでいる証拠だ。
笑顔だけじゃなくて、悲しんでいるキミもほんとにかわいいよ。
もう少し成長したワニータのアップの写真もあった。
これはただ顔だけを大きく撮ったもので、背景などもいっさいない。
それによって純粋に娘の美しさに惹かれていることがありありわかる。

すてきな愛情の表現……と見とれていると、なんとその一枚は、私の見ている前で売れてしまった。
私より一足先に見学に来ていた女性が、
「これ、とってもいいわね!買って行こうかしら。サイン入りだし……」
と、60000円くらいだったサイン入りのプリントを、その場で買って持ち帰って行ったのだ。
だから、あのかわいらしいワニータのアップは、もうなくなってしまった。

私もその人に負けじ、と思ったわけではないが、展示即売をしているのを知って自分もほしくなってしまった。
有名な「ボブ・ディラン」のポートレイトを、オリジナルプリントではなく印刷ということでなんと10500円!しかもかなり立派な額装込み!
「これも最後の一点なんですよ。」
と、受付の方に言われたときの、えもいわれぬ優越感よ。おほほ。

毎日見ててもいい男!

というわけで、会期はまだ長いが、即売品はどんどんなくなっていくので、一刻も早く御茶ノ水へどうぞ。

by apakaba | 2012-04-23 13:48 | 歌舞伎・音楽・美術など | Comments(8)

Brian Adams東京公演に寄せて、おもひでの数々

ブライアン・アダムスを聴いていたのはおもに高校生のころだ。

あのころはデュラン・デュランを筆頭に“ニューウェイヴ”が全盛で、周りはみんなカルチャークラブやカジャグーグーなんかに夢中だった。
今になるとあれはあれでなつかしいものの、当時は好きではなかったから、“アメリカン・ロック!”な雰囲気(カナダだけど)を持ったブライアン・アダムスは希望の星だった。
「Kids wanna rock!」と彼が唄うのを爆音で聴くたびにスカッとしていた。

音楽雑誌を手にした友だちが、アルバム『Reckless』からのシングル『Somebody』がヒットしていたブライアン・アダムスの記事を私に見せては「眞紀の好きそうなタイプだよねえ」と言ってきたのもよく覚えている。

白いTシャツにブルージーンズ、鉄壁のソボクさは、厚化粧のポップロックな人々とは対極にあった。
放課後、教室の窓を開けると、階下の「音楽研究部」の部室から、後輩バンドがヘタクソに『Summer of '69』を演奏しているのが耳に入ってきた。

当時つきあっていた男子と、
「『Run to You』ってさ、一晩中キミのもとへ走りつづけるよ……とか言ってるけど、ものすごい体力よね。一晩中走るなんて。」
「……クルマで走るんでしょ……足で走るわけないじゃん。」
「えええー!そうなの!私ずーっと、ランニングする歌だと思ってた!」
とばかみたいな会話をしていたのも覚えている。

大学2年生のとき、我らが横浜文化体育館で(横浜市民はコンサートといえばここに行くものだ)来日公演があったが、大学の友だちは誰もブライアン・アダムスを聴かず、娯楽のお金もない貧乏学生ばかりだった。
一人だけ、誘えば行ってくれそうなクラスメイトの男子がいたので、チケットを買って「いっしょに行ってよ。」と頼んだ。

「ブライアン・アダムス……?『Cuts Like a Knife』しか持ってないな……」
「じゃあそのLP貸してよ。かわりに『Reckless』と『Into the Fire』のCD貸すから(当時はLPとCDが混在していました)。」
おたがい貸し借りして、予習も万全。
その友人と見たステージの最後に、アンコールにこたえて一人だけ袖から出てきたブライアン・アダムスは、ギター一本で『Into the Fire』をきわめてオーセンティックに唄いあげた。
もちろんステージ衣装は、白いTシャツとブルージーンズだった。
友人の男子は、にやにやしながら「浪花節だよなあ。」と言っていたが、楽しんでいたようだった。

その3年後、その男子と結婚した。
いっしょに住むようになって聴く音楽も幅がずっと広がり、ブライアン・アダムスはワン・オブ・ゼムになっていったが、『MTV Unplugged』はふたりとも気に入っていてよくかけていた。
その影響で、息子ふたりもいつの間にかブライアン・アダムスを聴いていたようだった。

去年の10月、来日公演があるとラジオで言っていたので、先行予約で日本武道館のチケットを二枚買った。
居ても立ってもいられないほど行きたい!と切望するほどでもないけど、行けば感慨深いだろうな……と思ったからだ。
ちょうど今の次男の年ごろにヒットを飛ばしていたこと、ちょうど今の長男の年ごろにコンサートに行ったこと、横浜中華街で友人としょぼい中華をお腹に入れてから文化体育館に向かったこと。
やっぱり、芸歴の長い人の歌というのは、いろいろと胸に迫るものがあるからねえ。

ところが夫はここのところ仕事が非常に忙しくて、開演時刻にはどう考えても間に合いそうにない。
すかさず次男の「アキタコマチ」が、
「もしお父さんが無理だったら、代わりにオレが行きたい。人生初のライヴ。」
とねだってきた。
息子と行くとは、トホホ……というより息子は母親と行くのはさらにトホホじゃ、ないのか?
「べつに気にならない。タダで行けるなら行きたい。第一、もったいないよ。」



行ってみたら、それはそれで、感慨深かった。
ブライアン・アダムスは、目を疑うほどに年老いていた。
あれでほんとに、まだ50代前半?
顔や首のしわが、まるでヨーダみたいだよ!
どう見ても70代後半のしわの深さと量だ!
それなのに……、ああ、あの声の衰えのなさ。
プロポーションも、ギタープレイも若いころと少しも変わらない。
アップテンポの曲では20代当時さながらにステージを駆け回って、すぐ次のバラードで少しも息が上がらずにぴたりと唄える。
首から上だけがグシャグシャに年をとっていて、首から下はまさしく“18 TIL I DIE”を地で行く永遠の若大将っぷり。

なにしろ人生で一番勉強ができた時代に聴いていたから、アルバムまるごと唄うことができる。
声を限りに、生ブライアン・アダムスと合唱し、飛んだりはねたり両手を振り回したりして暴れても、心の片隅で高校生だった自分が「なんという年月だろう。」と、呆然と立ち尽くしている。
かたわらの息子は、その自分と同い年だ。

『Straight from the Heart』などの何曲かでは泣いた。
異様な感慨深さに囚われた夜だった。
なんだろうね、こういう感じ。
彼のしわの深さには負けるけど……ライヴの間、自分の人生をふり返らずにはいられなかったね。
彼のつくる歌が、いってみればどれも似たような曲で、だからこそそういう力を持っているのだろうな。

by apakaba | 2012-02-19 00:43 | 歌舞伎・音楽・美術など | Comments(6)

押し寄せ、あふれ出す“イメージ”〜〜ジャン=ミシェル・オトニエル MY WAY



原美術館にガラスの作品を見に行くなら、晴れの日の昼間がいいなあと思っていた。
雪がキラキラ光る昼下がり、館内には期待通りに光が差していた。

つづき。原美術館を歩いて、見学してみる

by apakaba | 2012-01-26 23:14 | 歌舞伎・音楽・美術など | Comments(4)

ポンガル@国分寺カフェスロー



もう一週間も経つのか。
楽しかったイベントの余韻で、あれからあっという間に時が過ぎてしまった。

ポンガルとは、おもに南インドでおこなわれている収穫祭の名前であり、また、そこでおせち料理のように食べられる料理の名称でもある。
甘いものと甘くないものがあり、ミルク粥を煮詰めたような甘いほうのポンガルは、ポンガルの時期にしか(ああややこし)食べないので、まさにおせちと同じ位置づけである。

中央のマッシュポテトみたいなのが甘くないポンガル

去る1月14日に国分寺のカフェスローで、南インド料理を楽しみながら芸能を楽しむ「『 南インドのお祭り ポンガル 』 ~ポンガローポンガル!!」がにぎやかに開催された。
オーガニックなムードのすてきな会場で、絶品の南インド料理を、案内ページにあるように文字通り“食べさせられ放題(=永久におかわりできる、本場インド方式ですね)”にして、デザートにはもちろん、日本でめったに食べるチャンスのない甘いポンガルもいただくことができた。

料理人のおふたり、マサラワーラーさん。おいしい!明るい!彼らには、からくて酸っぱい南インド料理を食べたあとのような爽快感がある。極寒の中、このスタイルでココナッツを割る儀式をするところ

私は、演奏者のひとりである作家の田中真知さん(なんで作家が演奏をするのかという話はまたあとで)からご案内をいただいてうかがった。
このイベントはすごい人気だったらしく、あっという間に定員に達したため、友だちに声をかけるヒマもなくひとりぼっちで参加することになり、頼みの真知さんは出演してるしひょっとしてさびしいかもなあ……と思っていたが、それはまったくの杞憂であった。
ほかのイベントでちょっとお会いしたことのあるかたが何人かいてお話もできたし、それ以上に、私がひとりでカレーまみれの手(手で食べるから)を洗いに行ったり写真を撮ったりしているだけで、どんどんまわりの人から話しかけられるのである。
「そのカメラ、よく写りますか?いいなあそれ。」とか。
「これおいしそうですよねえー。」とか。
「ここの手洗い場、ホントに真っ暗ですね!ふふふ。」とか。
このたまらなくなつかしいフレンドリーな感じ……!
ああこれは、どこかの国の宿や食堂に集まった日本人のタビビト同士の感じだ……!
やっぱりこういうところに集まる人は、タビビトの雰囲気を持っている。

おせちにあたるスイートポンガル煮込み中。鍋から盛大に吹きこぼれるとその年は吉兆だという

主催者の井生(いおう)さんご夫妻も、初対面ながらまるっきりインドの旅の途中でばったり出会った人のような雰囲気の方たちでもう最高。
ご主人の明さんとは、このブログで連載中のバリ&シンガポール旅行記で登場するバリの成瀬さんのおたくにもご夫妻で行ったことがあるということで、バリの話をしたり、奥様とはインド映画の話をしたりしたが、もっともっとお話したかった!
日本でこれほど旅を感じることができたのは久しぶりで、ここのところ下火になっていた自分の海外旅行熱がボワーッと燃え上がってしまった。

これがスイートポンガル!

演目は、ハピドラム・バラタナティヤム・ガタムとモールシンである。
え、なにがなんだかわからない?
ハピドラムとは、2008年にアメリカで発明されたという、きわめて新しい楽器である(田中真知さんのブログ記事「あけましてハピドラム」へ)。
バラタナティヤムは南インドの古典舞踊である(堀友紀子さんのサイトへ)。
ガタムはインドの打楽器である(久野隆昭さんのブログへ)。
モールシンはインドの口琴である(竹原幸一さんのサイトへ)。
皆さんのパフォーマンスはいずれも壮絶にすばらしくて、これを絶品のお料理と司会の井生さんの楽しいトークとタビビトゴコロ満載の人々とひとときを過ごすことができるなんて、このイベントはあまりにもお得である。



壮絶にすばらしいという表現は奇妙だけれど、皆さんの演目を至近距離で見て、聴いていると、その強い魅力に引き込まれて呼吸をすることを忘れてしまいそうになるくらいなのである。
堀さんの全身の動きのあざやかさと、メイクを落としたあとのかわいらしい素顔には腰を抜かしたし、久野さんと竹原さんの超絶技巧と、二人そろってかなりのハンサムであることにも腰を抜かした(着席していたのでまめに腰を抜かしても大丈夫です)。
彼らの魅力については、真知さんのブログ記事「ポンガル@国分寺カフェスロー報告」をお読みになっていただきたい。
だが真知さんの記事を読んでも真知さんの魅力については書かれていないので、ここではハピドラムの音色について少し触れておく。

私は、その音色を聴いたことがないままにポンガルイベントに行った。
見たことも聴いたこともない楽器、しかもどんな音色か予想のまるでつかない楽器を生演奏で聴く、という体験は、そうそうあるものではない。
だからYouTubeなどの動画もあえていっさい見ないで行ったのだった。

真知さんは文筆業が本業でありながら、音楽の才能に秀でた人でもあり、以前から、作曲したりディジュリドゥという民族楽器を演奏したりしていた。
こんどはいったいどんな音を聴かせてくれるのか、と思っていたが、生演奏を聴いて腰を抜かした。
またなのか。
表現が一辺倒で本当にすみません。



驚いて目を見張ったというか耳を見張った?(なんかヘン)のは、真知さんがわざわざ、ハピドラムの音にわずかな“ノイズ”を発生させる仕掛けを施していることであった。
もともとのハピドラムの音色は澄んだ音なのだが、それはつまらないと感じた真知さんは、本体にいろいろ工夫を凝らして、叩くたび澄みきった音色に「ザーッ」「ジャーッ」「ザッ、ザッ、」というような共鳴音が交じるようにしているのである。
これにより、真知さんのハピドラムは通常のハピドラムにはない奥行き(“陰”といってもいい)を帯びた音色を獲得する。

聴きながら、頭の中でノイズを取り除いてみる。
すると澄み渡ったキレイな音色、一日中どこかのお店にBGMとして流れていそうな癒される音色になる。うっかり眠り込んでしまえそうな。
ところがノイズの交じった真知さんの音だと、眠れる音にならない。
ちょっとだけ耳障り。
ちょっとだけ不快。
そこが魅力になる。
この、あえてわずかに人の心を引っ掻くような音をご自身でつくったということにまた腰を抜かし……ともあれ、演奏中に私はしきりと、真知さんの敬愛する辻邦生さんの小説『西行花伝』を思い出していた。
西行が、生涯でたったひとりだけ命を懸けて愛した「女院」の声。
澄みきった美声とはほど遠い、高いと低いの二つに割れたように聞こえるお声。
西行はその悪声に、見悶えるほどの魅力を聞き取ってしまうのである。
真知さんのハピドラムは、あの女院の“二つに割れたお声”だなあ……。

すばらしい一夜だった。
是非、是非、またこんな集まりに行きたい!
当日の様子は下の動画で是非、是非、どうぞ。

by apakaba | 2012-01-20 11:01 | 歌舞伎・音楽・美術など | Comments(0)

軽井沢千住博美術館

千住博美術館(公式サイト)が10月10日にオープンするという記事を読んで以来、一刻も早く行ってみたかった。
公式サイトや紹介記事に添えられた館内の美しい写真のおかげで、さらにあこがれがふくらんでいた。
(写真満載の紹介記事はこちら

あいにくの曇り空。晴れていれば庭木がきれいだっただろうな

だが実際に行って、歩いているうちに、とまどいが大きくなっていった。

写真から受けていたすがすがしい印象は、写真どおり、いや、写真以上のすがすがしさとなった。
この建築は、かのSANAAの西沢立衛の設計による。
軽井沢の自然の景観に沿うような、公園のようでもありリビングルームでもあるような開かれた明るい空間、というのが西沢氏のコンセプトである。
傾斜地に建つこの建築は、傾斜をそのまま活かしているため、入口からゆるやかにくだっている。
たしかに自動ドアから建物の内部に入っているのに、ふんだんに採り入れられる外光とガラスをとおして見える豊かな植栽によって、まるで戸外にいるかのような気分でいられるのだ。

足の裏にあの傾斜を感じながら美術を鑑賞するというのはまったく不思議な体験だ。
ためしにスピーディーに館内をまわってみると、平衡感覚があやしくなり、なんとなく乗り物酔いのような、頭がふらっとするような感覚さえ覚える。
階段でもなく、スロープでもない。
そういう快適な人工物に飼いならされていない地面。
床面はコンクリートでしっかり固められているから本当は人工物なのだけれど、地形をできるかぎり活かすということがこれほど愉快だとは思わなかった。
作品はちゃんと地面から水平の角度で展示されているのに、鑑賞者はかかとがちょっぴり下がっていたり両足の裏がそれぞればらばらに傾いていたりしている。
登山をしていて、川のそばや頂上で小休止するときのような感じ。
風景に感嘆して眺めまわしながらも、足の裏では少しでも安定した位置を得ようとさぐりながら立っているような。
設計者の意図が十分に伝わる、成功した建築だと思った。

それに較べ、肝心の展示作品は、この建物に“そぐわない”と思ってしまったのだ。
西沢より千住の表現者としての力が劣っているといっているのではない。
ただ、建物の持つ凄烈なる清冽さと、千住作品の持つ凄烈なる清冽さ(言葉遊びめいているが)がフィットしていないのである。
遠目から撮った紹介写真ではひたすらかろやかで美しく感じられていた館内だが、実際に展示に近づいてみると違和感が大きくなる。
なぜだろう。



「陰影礼賛なんだよな。」
夫が違和感の正体を開く。
「やっぱり、あの人は、“日本画の人”なんだな。あんなに明るい場所で見る絵じゃないんだよ。」
——俺は初めて滝の絵(滝は千住博のメインのモチーフの一つ)を見たときに、『本当に水が落ちてる!流れている!』と思ったんだよ。
でも、本当の本当には、水ってあんなふうに流れてない。
でもあの人の絵を見ると、いかにも本当に、滝がああして流れているように見える。
写実的にすべてを描いていないのに、あたかも真実の水であるかのように描き出すのは、日本画だからこそできることでしょう。
そしてそんな日本画の力は、陰のなかでこそ最も効果的に引き出されるものなんだ!——

私はそんなことを考えつきもしなかったが、いわれてみれば、たしかに、彼の作品は暗いところでいよいよ清冽に、そして凄烈になっていく。

直島の作品「石橋(そのときの記事)」でも、日本家屋の奥の蔵に、息が苦しくなるほどの迫力のある滝の絵がかかっていた。
絵を前にたたずんでいると、服が滝つぼの水しぶきで濡れてきそうなくらいだった。
もうひとつの作品、母屋の襖絵も同じ。
長い庇にさえぎられて、庭に降りそそぐ日光は完全に力を失い、室内はほの暗かった。
羽田空港にもところどころに千住作品があるが、とりわけ国際線ターミナルの到着階にある青い滝の作品「Water Shrine」は、フライトで疲れた体をひきずって入国審査へと向かう途中の暗がりに浮かび上がるようにして置かれており、寝不足にしょぼついた目にはこの世のものとは思えないほど幻惑的に映り、また、“帰ってきた、ここはニッポンだ”と、目から脳裡までいっぺんに覚醒させられるのだった(その記事。最後に作品の写真があります)。

明るいところで見ると稚拙さが目立ってしまうから、ということでは決してなく、暗さのなかでいよいよよさが際立つものだからなのだ。
日本画とは、日本の美とは、そういうものなのではないか?と、夫は感じたという。
美に暗さをもとめる気質を、持っているのだろうなあ……と。

あの美術館には、たとえば西洋の印象派の絵とか、草間彌生みたいな、陽光を受けて輝くような作家が似合うのかもしれない。
明るい美術館をつくって自分の作品を展示したいというのは千住博氏の希望だったというが、私の率直な感想はこんな感じだった。
やはり、いろいろな場所に実際に出かけて見てみる(足の裏でも感じてみる)のは、おもしろい。

by apakaba | 2011-11-02 17:13 | 歌舞伎・音楽・美術など | Comments(4)

交じることで無二を生み出す——南蛮美術の光と影 泰西王侯騎馬図屏風の謎

「あっ、今日はお客さんの中にガイジンさんが来ていますね!この番組もいよいよ“国際的”になってきましたねえ〜」
「わはは、わはは」
たしか、30年くらい前までは、客席に観客が入るバラエティー番組で、番組冒頭に司会者がこんな台詞を言うのはまだまだごく当たり前だった。

16世紀なかば、今の日本人には想像を絶するほど激烈な異文化体験をした人々が、日本にいた。
ポルトガルやスペインの南蛮船からぞくぞくと降ろされてくる、目にも彩なるヨーロッパ芸術の品々。
顔立ちも肌の色も口から出る言葉も、なにもかもが異なる人間たち。
そして、これまで1000年の長きにわたってなじんできた宗教とはまるで異なる思想を展開する、目新しい魅力に満ちた異国の宗教とそれを語る宣教師たち。
当時の日本人の驚愕と、未知の世界を知った彼らの喜びが、この展覧会に横溢していた。

美術館併設カフェ「不室庵」の麩焼きお汁弁当。麩が大好きなのでしばしば来ている。でも味が濃いめ。ごはんよりお酒がいいなあ

気がつけば、2時間も展示を見ていた。
今年はサントリー美術館の開館50周年という年で、年間を通して記念の展覧会がつぎつぎと開催されてきた。
その最後を飾るのが「南蛮美術の光と影 泰西王侯騎馬図屏風の謎」である。
第1章から第7章までと展示構成がわかれており、すべての章が興味の尽きない展示ばかりだった。
長くなるので、第5章までの感想を書いてみる。

つづき。展示室の中に入ってみましょう!

by apakaba | 2011-10-28 12:03 | 歌舞伎・音楽・美術など | Comments(5)

“詞”が歌のいのちだ



娘の「コシヒカリ」の文化祭に行った。
私は毎年、コーラスのお手伝いに参加していて、今年でもう8年目になる。
中学生が母親のコーラスなんて聴きたくもないと思うけど、その気持ちはわかるけど、演目として長年定着してしまっているからあきらめましょう生徒諸君。

唄うのは好きだし、タダで歌のレッスンをしてもらえると思えば、3週間の練習も悪くない。
なにより、譜面を必死で追うことって、ふつうは学校を出てしまうとなかなかないでしょ。
カラオケとか、流れてくる曲に乗せて唄うのとちがって、知らない歌を、音符をたよりに「メゾピアノから入って、ここでブレス、そのあとここでリピートしてコーダ。あれ、コーダどこ?」とすすんでいくのはとても楽しい。

今年の曲目は坂本九の『見上げてごらん夜の星を』とAKB48の『桜の栞』だった。
『桜の栞』という歌をまるっきり知らなかったのだが、秋元康の詞はなかなかよかった。
なんだかんだいっても、やっぱりそこらへんのアホな若者が書いた詞とはちがってきちんとしている。
もちろん「卒業シーズンに、どうぞ〜」という狙いは見えるけれど、日本語の歌詞として素直な美しさを感じた。

コーラスの先生によれば、歌というものは、なによりも「詞」がだいじなのだそうだ。
数回唄って音を取ったあとで、あらためて全員で、ふたつの歌の詞を曲なしで朗読した。
昨今の流行りのへなへなな詞だと、リズムとメロディーを抜いて歌を裸にしてしまうと、目も当てられないほど情けない言葉しか残らない。
ここのところ、イマドキの歌をコーラスで採用していて内心忸怩たる思いだったので、「今年は秋元康と永六輔、やっぱりちゃんとした日本語でいいなあ〜」と、ほっとした。

しきりと、以前に観た映画『ラブソングができるまで』を思い出していた(簡単なレビューがこちらに入っています)。
作詞をする女性ドリュー・バリモアが、元ポップスターのヒュー・グラントに向かって、「歌で一番大事なのは、詞なのよ!」と力説するシーン。
アホみたいな話だったけど、いい映画だったなあ。

コーラスは、毎年のことながら、まあまあの出来。
私は中学の文化祭ってまるで興味がなくて、今まで一度も、最初から見たことがなかった。
自分の子供の出番にも興味なく、見た覚えもほとんどない。
8年目にして初めて開会式の前から行っちゃった(今年度はPTA役員なので!)。
生徒さんたちは、彼らなりにがんばってはいるけど、やっぱり端々が雑だなあと感じる。
息継ぎのところでバツッと音を切ってしまったり、発声の仕方にていねいさがなかったり。
なにより、コーラスの先生のおっしゃる
「歌というものは、メロディーに乗せて、詞を伝えることがもっとも大切なことです。いくら音程がとれていても、詞の、ことばひとつひとつが聴く人に伝わらなければ意味がないのです。」
というレベルまでには思いが至っていないのね……と思ってしまった。
シビアな感想。
でも、親として「子供たちのがんばっている姿を見るだけで、もう涙うるうる」というのは小学生まで。
大人の階段をのぼるなら、さらに唄えるように、ガンバローみんな。

※写真は、役員にも配られた、本日の給食。
今日はお弁当給食というもので、この学校の給食にしては、すばらしくおいしうございました!
でもこの和風な献立にりんごジュースは唐突だと思います!
でも唄ったあとだったからゴクゴク飲んじゃったけどね!
私以外の役員メンバーは、残して家に持ち帰ってた!

by apakaba | 2011-10-23 00:10 | 歌舞伎・音楽・美術など | Comments(6)

震災後の文化的活動

ずっと香港・マカオ旅行記(インデックス)を書いていたため、3月11日以降に出かけたことを記録しないままになっていました。
こんなところに出かけていました。
展覧会は、会期終了したものも多いのでご注意ください。

ベッティナ ランス写真展 東京都写真美術館
女性写真家が女性の肉体を撮ることの容赦のなさにたじたじ。
雑誌の表紙くらいのサイズで見るならまだしも、等身大以上に引き伸ばされると、どんな大女優もスーパーモデルも、見る者に恐怖しか与えない。
コワイ写真展だったなあ。

ワシントンナショナルギャラリー展 国立新美術館
誰もが満足、名画の数々。
とくに印象に残ったのは、第3室「紙の上の印象派」——油絵の大作ばかりが印象派ではなく、エッチングやリトグラフなどの小品を集めたブースだった。
油彩では、ゴッホの「プロヴァンスの農園」が、胸が痛くなるほど完璧な構図でしばらくそこから動けなかった。

手塚治虫のブッダ展 東京国立博物館
手塚マンガの中で一番好きなのが『ブッダ』なのだ。
震災後、なんだか読書もすすまず、代わりに『ブッダ』を何十年ぶりかで読み返した。
なぜ制作したのか意図がよくワカラナイ映画『ブッダ』のコラボ企画なのはどうでもいいとして、仏像コレクションは非常にすばらしかった。さすが国立博物館!

こどもの情景—戦争とこどもたち 東京都写真美術館
さして期待していなかっただけに、意外にマジメな展示に驚き、得した気分。
いきなり最初からW.ユージン・スミスを持ってくることで「あれ、ちゃんと見なくちゃ」と思わされる。
マグナムメンバーはさておき、日本人写真家の、鼻の良さよ。
林忠彦、いいねえ。

不滅のシンボル 鳳凰と獅子 サントリー美術館
ここの併設カフェが好きで、ランチが食べたくなって行ったという動機。
ここの企画も期待していなかった分、意外とよかった。
ふるい美術品って無条件に心に響くもんね。

ジョセフ・クーデルカ プラハ1968 東京都写真美術館
久しぶりに、報道っぽい報道写真展を見たなあ。
こういう、昔の報道写真を見るといつも思うが、写真って、どういうものが“すぐれている”のだろう?
ピントがしっかり来ていなくたって、水平がちょっと傾いていたって、いい。の、だ、よ、ね?とか考える。
なにを見た(撮った)かが一目で飛び込んでくれば、もうばっちり。



ここ数か月は、めずらしく映画も映画館で観ていたのだけど、長くなるのでそれはまた明日。

by apakaba | 2011-07-21 23:22 | 歌舞伎・音楽・美術など | Comments(2)