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2017年 02月 09日

映画音楽演奏会と、影絵人形劇団のこと

きのうの朝、NHK総合テレビ「おはよう日本」の中で、「FILM SCORE PHILHARMONIC ORCHESTRA(フィルムスコア・フィルハーモニック・オーケストラ)」が取り上げられていた。
2月5日にこの楽団の創立記念演奏会が開かれた。
行きたかったのだが、私は所属している影絵人形劇団の公演の本番があって、行くことができなかった。

今回のコンサートの特徴は、映画音楽の演奏、それも映画音楽界の巨匠ジョン・ウィリアムズの楽曲を演奏するということだったらしい。
テレビで指揮者のヤマトススム氏の話を聞いて感じ入った。
「映画音楽は、クラシック音楽に比べて軽く見られている。演奏会でも、映画音楽の演奏会をやるというと、『なーんだ』という反応になりやすい。
しかし映画音楽は決してクラシックよりも劣るものではなく、耳にしただけで、その映画がよみがえったり、そのシーンが鮮やかによみがえったりしてくる大事な音楽だ。
映画音楽のすばらしさを、お伝えしたい。」
氏は大体このような内容のことを語っていた。
映画を夢中で見た人間なら、誰だってうなずくだろう。
とくに、ジョン・ウィリアムズが音楽をつけた映画は、超有名な作品ばかりだ。

そのコーナーを見ながら、音楽というものが俳優の演技や風景描写にいかに大きく関わってくるかを考えていた。
映画を撮るとき、通常、俳優は音楽のない状態で演技をする。
音楽家は、音楽のない映像を見て、その場面に沿う音楽や、テーマ曲を作曲するものだ。
音楽のない状態で演技する俳優たちは、さぞ気分が盛り上がらないだろうなあなどと思った。
映画を見ていると、まるで俳優は音楽を聴きながら演技をしているかのように、演技と音楽が不可分なもののように見えているからだ。
それほど、音楽の力は大きい。


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本文とまるっきり関係ありませんが。
ある日。大久保、「ムット」


なぜ朝からこのように思いが巡ったかというと、実は、このオーケストラの楽団員の一人、Sさんは、影絵人形劇団の音楽担当者だからなのだ。
2月5日はふたつの公演が重なってしまい、彼女は今回は影絵の方を不参加にして、オーケストラに参加していた。
影絵の公演は、今までになく上演時間の短い「ミニ公演」だったとはいえ、私はとても心細かった。
彼女はすべての演目の音楽と効果音を担当していて、主題歌もBGMもすべて作曲・演奏してきた。
図書ボランティアという小規模な団体として発足したのが12年前、本格的に影絵人形劇団を名乗り始めてから5年。
その5年間のほとんどすべての声の主演は私がやっている。

Sさんと、とりたててママ友というわけでも旧友というわけでもない。
しいて名付けるなら「盟友」といったところだ。
影絵の練習期間中、私と彼女はぼつぼつと打ち合わせをする。
彼女は「アナタの声を聞いて音楽がイメージされるんだから、早いとこ声を仕上げて!」と思っている。
私の方は「アナタの音楽を聞いて演技がイメージされるんだから、早いとこ音楽を仕上げて!」と思っている。
どちらかが圧倒的に早く仕上がるということはまずない。
いい言い方をすれば刺激しあって、悪い言い方をすれば寄りかかりあって?、本番に向かって徐々にブレがなくなっていく。

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さらにある日。イングリッシュ・フルブレックファスト


ずっと一緒にやっているので、あまり細かく説明しあわなくても、音(向こうからすると声)を聞くとだいたい方向性がつかめる。
阿吽の呼吸でやっている。
ラストに感動的な楽曲ができあがると、「この作品に対して、こういう解釈か。だったらこの曲のイメージに合うように演技を変えよう」と、今まで出してきた声を変えたりする。
効果音やBGMの入るタイミング、盛り上げるタイミング、切れるタイミングを、声を出しながら「オッ、そうきたか」「やっぱりね。ここでぴったりストップすると思ってた」と、内心にんまりする。
にんまりするのは、本番中が一番多い。
つまり本番に一番阿吽の呼吸が働いている。

映画と影絵、することは別だけれど、テレビのコーナーを見て、自分のしてきた活動を思い返していた。
自分はとてもおもしろいことをやってきたんだなあと思っていた。
そして、映画音楽も影絵も、音楽がその作品を忘れがたいものにすることは同じだなとも思っていた。

それにしても、100人規模のオーケストラに参加したSさんは、私とはまったくちがう場に身を置いて、かけがえのない体験をしたのだと思う。
おつかれさまでした!
次回こそは、聴きに行きたいなあ。
影絵の公演と重ならないといいなあ。


by apakaba | 2017-02-09 22:30 | 歌舞伎・音楽・美術など | Comments(0)
2017年 01月 12日

カフカの影が街を覆う__「METAPHOR カフカとの対話」とギャラリー・トーク


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ギャラリー・バウハウスのホームページより


御茶の水のギャラリー・バウハウスで、小瀧達郎写真展「METAPHOR カフカとの対話」が開催されている。
10日、ギャラリーのトークイベント「ギャラリー・トーク お正月カフカ プラハ×アフリカ×病室」へ行ってきた。
カフカ研究者の頭木弘樹さん、作家の田中真知さん、館長の小瀧さんによる鼎談である。

トークが始まる前に、小瀧さんの展示を見た。
ここ数年内に開催されてきた小瀧さんの写真展にはすべて行っているが、プラハの写真は、2012年の「VENEZIA」以来のすばらしさだ。
古いライカのレンズで撮られたカフカの街・プラハの、影と陰(sillouette と shadow)。
プラハを撮ることへの写真家の喜びと静かな興奮が、プリントされている。

ぐるりと一巡してみて、縦構図の写真が多いことにすぐに気づく。
元来が横構図であるはずの人間の視野からして、縦構図の写真というのは、それだけで意図的に切り取られた非日常への意志を予感させる。
小瀧さんの縦構図の写真は、視野をせばめられた不自由さが、風光明媚な風景写真となることをやんわりと、しかしはっきりと拒む。
展示作品すべてで、プラハという街を表す。
“この1枚”で完結する写真ではなく、ギャラリー全体をなんども歩き回り、断片を拾い集めるようにしてプラハを知っていく。
すべて見終わって初めて、プラハが立ち上がり、長く余韻が残る__そんな写真展だ。

川のほとりの街プラハをきっちりとらえた風景写真を見る。
中世から変わりのない美しい街のように感じる。
しかし、人影、彫像の輪郭、木の陰、ガラスのウインドー、いくら見ていても何を撮ったのか理解できない(だが惹かれる)光景、クローズアップで撮ったさまざまなもののさまざまなパーツといったものを見ていくうち、写真家にとってかならずしもプラハの“いい風景”が関心事なのではなく、ギャラリー全体でプラハという街を“表す”ことに関心があるのだと感じられる。
風景(=landscape)よりも、光景(=scene)や瞬間(=moment)を。
不思議な、ノスタルジックな、諧謔的な断片をバラバラっと撒く。
プラハにとって、欠けてはならないピース。


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陶然となるような小瀧さんの写真作品にかこまれて、トークイベントはスタートした。
いうまでもないことだが、真知さんも頭木さんも、徹頭徹尾人文系の語り口だ。
人文知が軽んじられがちな今の日本で、このように楽しく濃密なトークを聞けるのは快感でもあり、頼もしくもある。
プラハはカフカの生まれ育った街である。
頭木さんは二十歳の時に難病にかかり長期入院し、その後も入退院をくりかえしたという方で、ご自分が絶望の淵にある時にカフカの作品を読みふけったという。
カフカに関する予備知識がほぼない状態で聞いても、スルスルとカフカの人生や著作がわかってくるような気がする、大変お話の上手な方なのだった。

小瀧さんの写真、とりわけ、寄りで撮られた街角の断片(何なのか判別しがたい)を見ている時、しきりと諧謔的な精神を感じた。
「カフカに似ている。カフカみたいな街角だ」と思っていた。
カフカの文学作品に通じる、フッと笑うしかないような悪い冗談っぽさ、純粋がかえって仇になっていくような皮肉さ。
カフカとプラハが同義になる……だから展覧会名が「METAPHOR」なのか?
その印象は、お話上手な頭木さんによって明かされるカフカ本人の人となりを知っていくにつれ確信になっていく。
プラハが肉体を持ったものがカフカであり、カフカが遍在している街がプラハだった。

真知さんと頭木さんの対話を聞きつつ、しかしカフカという人は、一般的にイメージされている人物像よりも、はるかに“ふつうの”、さらには“健康的な”人だったのではないか、と思うようになっていった。
カフカは、精神的に異常性のあるタイプでもなんでもなく、たんに極度に感受性が強いだけで、言ってみれば「2クラスにひとりくらいはいそうな不思議ちゃん」タイプの人物だったように思える。
徹底的に弱くあることが強みとなるタイプの人というのは、洋の東西を問わずいつの時代にもいるものだ。
日本近代文学の作家たちだって、みんな極度に弱虫で偏食家で人並み以上に恋愛をしている。似たようなものだ。
そうなると、カフカと一般人を分かつものはたったひとつ、「書いた」ということになる。
プラハへの愛憎を終生持ち続けることでプラハの街と一体化し、もはや己の輪郭をぼんやりと失ってしまいそうなカフカは、書くことによって、書いたものによって初めて、くっきりと存在を刻印できたのだ。
それが、文学の力だ。

頭木さんから小瀧さんへの質問で、古いレンズを使う意味を聞いていた。
小瀧さんがこの展覧会のために使ったレンズは、30〜50年代の古いライカだという。
最新型のレンズはスペック勝負になっており、写りの正確さは古いレンズが敵うべくもないが、実際、人間の目はそんなには見えないわけで、「そこまで正確に写らない」古いレンズの方が人間の目に近い世界を映し出せるから、というようなご回答であった。
また、古いレンズは個体差も大きく、写りのクセもひとつひとつ違うので、自分(被写体)との相性もよりシビアになってくるのだと。
その話を聞くうち、もしかして、小瀧さんはみんなの認識と逆のことを言いたいのでは?と思えてきた。
古いレンズの方が撮り手の意志(腕)が入る余地があり、新しいレンズは緻密にできているからキカイ任せになりがちだ、と多くの人は思うだろう。
しかし小瀧さんの言いたいことはまったく逆で、古いレンズは個体差が大きい、つまり各々が不完全で愛すべき人間のように「性格」を持っている生き物のようなもので、撮り手はレンズに「いい被写体を見つけたよ。いい味出して写してくれ。よろしく」とお願いするような気持ちで、シャッターを切るごとにレンズにお任せするのではないか?
機械を扱うということは、元来完全な主従関係(というのも変だが)だが、古いレンズは使うというよりもっと人間くさく、「付き合う」「相棒」のような感覚のものなのではないか?
そんなふうに感じていた。
そうやって作られた写真は、暗室作業も含め、やはり芸術である。

文学・芸術は人間が生きる上で真に必要なものだという真理に肉迫する、すばらしい鼎談であった。
やっぱり、ギャラリー・バウハウスはいつも最高である!

以前書いたギャラリー・バウハウスに関連する記事はこちら。



by apakaba | 2017-01-12 17:48 | 歌舞伎・音楽・美術など | Comments(0)
2016年 09月 30日

歌舞伎座秀山祭九月大歌舞伎、昼夜連続ツイート

歌舞伎ツイートをさぼりがちな今日この頃、昼の部と夜の部、両方ともいっぺんに転載しておく。

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だいぶ過ぎちゃったけど、9月11日、歌舞伎座昼の部、碁盤忠信。染五郎は優男系だけでなく、大きな立役も見栄えよくなったな。幸四郎より「吉右衛門に似てる?」と思ったが、むしろ祖父なのか。6月に見た碇知盛も、吉右衛門には遠く及ばないものの、「生き変わり〜死に変わり〜」には痺れた。(続


2)太刀盗人、とりたてて言うべきことナシ、錦之助のぼけっと店を見物している表情などがよし。一條大蔵譚、見るのは3回目だが吉右衛門は安定の芝居。若干声が小さくなった?心配。菊之助の美貌と、長成役吉右衛門の芝居に圧倒される様がよし。本心から驚き、本心から敬服しているように見える。(続


3)鬼次郎を梅玉がやったときもよかった。が、妻の梅枝は悪くはないが引き込まれるような切迫感が足りない。孝太郎のときが圧勝。武士の妻として危険を冒しつつ長成の元へ飛び込む覚悟がビシッと伝わり。花道の引っ込みでの表情、目の真剣さ。あの刃物のような覚悟を、梅枝が出せるのはいつ?(終わり


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9月前半には萩の花がきれいに咲いていたものだが


今日で9月も終わりなのか。焦って歌舞伎ツイート。9月20日、歌舞伎座夜の部、吉野川。吉右衛門がすごいすごいとの評判だったが、ううーん、これは、凄いのは玉三郎ではないのか。あの吉右衛門と互角以上、瞠目の母親。染五郎菊之助の若い美貌のカップルの前に「ママも昔はスゴかったのよ」と(続


2)立ちはだかる存在の厚みよ。毎度思うが不世出の女形。話は相変わらず無茶苦茶で、ついていけない観客多数。両花道の様式美。らくだ、爆笑しながらも江戸というなんでもありな時代を思う。半次、久六、馬吉、みんな世間のはみ出し者。現代なら精神障害のさまざまな病名がつくであろう人々。(続


3)ギャンブル依存症、ADHD、知的障害との境界あたりの、社会の周縁にいる人々。彼らは病気として隔離されることなく、これもヤクザ者すれすれの家主が住まわせて、なんとなく世間と行ったり来たりして、少し迷惑をかけて、生きていた。歌舞伎にはそんな人たちが、さりげなくたくさん出てくる(続



4)黙ってたたずんでいる染五郎の表情に、独特の(発達障害らしい)雰囲気を感じ、なるほどと腑に落ちた。他の芝居でも、ゲイもたくさん出てくる。三人吉三や白浪五人男は明らかにBL(レズビアンはついぞ見かけないのは、作者が男ばかりだろうか)。周縁に生きる人とそれ以外の世間を峻別しない(続

5)ままに芝居の題材にする。現代では生まれづらい芝居。染五郎の完璧なコメディアンぶりは、「コメディアン」という役回りの最も難しい部分(周縁の人であることを感じさせる)が凝縮していた。元禄花見踊、はい、玉三郎さんのもとにみんないらっしゃーい。まさしく全員を手玉にとる踊り。眼福(終


by apakaba | 2016-09-30 14:21 | 歌舞伎・音楽・美術など | Comments(0)
2016年 09月 25日

FLOWERS BY NAKED 魅惑の楽園

会期終了してだいぶ経ってしまったが、去る8月26日、「FLOWERS BY NAKED 魅惑の楽園(公式サイトこちら)へ行ってきた。
私のブログを読んでくださったネイキッドの方が、ご招待してくれたのだった。
「ぜひ、我々の仕事も見てください」というお誘いに甘えて、東京ミッドタウンへ行ってみた。

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恥ずかしながら、ネイキッドという会社も、その事業についても寡聞にして知らなかった。
「ネイキッドは映像やインスタレーション プロジェクションマッピングなど 人々の体験をデザインするクリエイティブカンパニーです」とホームページにあるとおり、空間演出でのエキスパートらしい。
たしかに、うん、モノスゴク、イケてた。


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インスタで撮影した写真を、スマホからこの大きな画面に飾っていくことができる。



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プロジェクションマッピングを、花に当ててさらに立体的に見せている。
プロジェクションマッピングは平面的な対象を考えがちだが、ここまで凹凸の激しいものに大胆に当てていくのはおもしろいし、美しいと思った。


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水の中から水面を見上げているような気分になるが、枝(?)を揺らすと、雨粒のような水滴の波紋が葉の裏側に映る。

ひとつの大きな会場を区切って、いろいろな空間演出を次々と見せる。
各コーナーには、そのイメージにぴったり合う香りを流している。


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あまり注意を払われないところに、鳥の影が映りこんでいく。


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ここだけは会場のオリジナルな香りとは異なり、高田賢三のパフュームが使われている。
中央には、切り絵で繊細な葉が。


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「バニヤンツリー」に使われているのは、「未来紙」(とネイキッドの方が呼んでいた)という不織布。

この他にもたくさんのコーナーがあるが、ひとつの大きな会場に入り組んで並んでいるので、少しずつ他のコーナーが見えていて、全体の景色に影響しあっている。
遊園地に来ると、しばしばこういう風景がある。

ネイキッドの方が懇切丁寧な解説をつけてくださったおかげで、だいぶ舞台裏というか、ふつうの来場者が知らない仕掛けなどを教えてもらえた。
多くの人が見落としてしまいがちなところでも作り込んでいて、それを「実はここにこんなモノを映しています」とか、「実はこのコーナーの木はほんものの木を使っています」「これはここにセンサーが仕込んであります」と教えてくれる。
そうやって見ていくと、たしかに大変な人材と技術を駆使して、この空間を作り上げているのだとわかる。
しかし、多くのお客さんはそんなことを知らない。
自分の感じられる範囲で、自分たちなりに楽しんでいる。

ネイキッドは、その方針として、極力説明を排除して、見る人の感性に依存し、言い方を変えれば感性を信じて、種明かし的な説明がなくてもビビッドな体験となってくれることをめざしているとのことだった。
「説明はダサい」と切り捨てることで、お客を選別しているように思えるが、会場を見回す限り、来場者(ほぼすべてが女性!)の表情は皆幸せそうである。


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いかにも女性に受けそうなイベントだな……少しもちゃちなところがなく、隙間なく美しく、隅々まで幸せな感覚が満ちている。
物販コーナーも、女性の購買意欲にマッチしている。
さほど高くなく、気の利いたものだけが売られている。
うーんこれはモテそう。
代表の村松亮太郎氏が、やたらと男前なことが、会の成功を約束している感じ。


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メディアに出ているどの写真を見ても、隙なく色男だもんね。
たぶんこれだけのステキ空間を緻密につくりあげるのだから、相当の美的センスとカリスマを持った人なんだろうなとは想像がつくが、「モテそうな感じ」という直感は、おそらくこの村松氏の発するオーラによるものではないかと思った。

インタラクティブなデジタルアートというと、まずチームラボが浮かんでしまうが、ネイキッドがめざしているのは、チームラボとはまったく別のものだ。
両者を引き比べることには意味がない。
チームラボが「日本」「教育」に鋭く切り込み、古典への志向を明確に打ち出して、それをデジタルで表すことに徹底的にこだわっているのに対し、ネイキッドにとっては、デジタルはひとつの手段であり、美しいこの世の楽園を現出させるためには、アナログ的な手法もどんどん取り入れる。
たとえば、イミテーションの木にほんものの熱帯植物が混じり込んでいたり、切り絵しかり「未来紙」しかり、質量を持った「ほんもの」と、光や音や香りといった質量のないものをまじえて置くことで、その区別は曖昧になる。
多面的に快楽を引き出す。
チームラボが、見つめていると胸を締め付けられるような切なさが込み上げてくるのに対し、ネイキッドはその逆に、ひたすら胸の締め付けから解放され、快楽で満たされる感覚になる。

「FLOWERS BY NAKED 魅惑の楽園」は、東京では終了してしまったが、10月からは沖縄で開催されるようだし、東京では「SWEETS BY NAKED(公式ページこちら)」がスタートしている。
ああ、またも女性に大受けしそうなイベントなんですね。
映像(ましてや写真)ではネイキッドの魅力をうまく伝えきれないので、空間演出の最先端の仕事を知りたければ、会場に行ってみるしかない。
テクノロジーとマニュファクチュアの融合で、幸福感が呼び起こされる。


by apakaba | 2016-09-25 22:54 | 歌舞伎・音楽・美術など | Comments(0)
2016年 07月 27日

デジタルだからできる、宇宙と自然の似姿のアート—チームラボ「DMM.プラネッツ Art by teamLab」

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“海賊王”に!!!
おれはなるっ!!!
本文とは関係ありませんが、『ワンピース』のブースもあります


「お台場みんなの夢大陸2016」に行ってきた。
10時の開場とともに、直行したのはもちろん、チームラボだ!

「DMM.PLANETS Art by teamLab(案内のページはこちら)」は、開場したらどこよりも先にめざすのが正解だ。
チームラボの展覧会は、いつだってとにかく行列するから。

入場してまずやることは、靴と靴下を脱いで裸足になること。
そしてズボンやスカートの裾をまくりあげること。
床が鏡張りだったり、水を使ったインスタレーションがあるためだ。

真っ暗に近い通路に、浅く水が張ってある。
すべて裸足で館内をまわるから、足を洗うことが目的なのはわかっているけれど、屋外の暑さにバテている体が一気に引き締まる冷たさ。
ダレていた意識がギュッとかたまり、この先の部屋で何が起こるのか、ただそのことだけに気持ちが集中する。

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「やわらかいブラックホール—あなたの身体は空間であり、空間は他者の身体である」

通路はすべて極端に暗くなっていて、小さな坂やふわふわのマットが部分的に敷かれていたりする。
裸足だからこそ、その感触に驚き、楽しむことができる。
視覚を奪われる分、足の裏が敏感になる。
中でも、展示室へ入る前に通過するこの小部屋は、必死で四肢を使わなければ次へ進めない、大仕掛けのふわふわ具合だ。
どんなにとりすました人でも、ここをスマートに通り抜けることは不可能。
このときは空いていたが、混雑したら阿鼻叫喚の有様となるだろう。
童心に帰れないなら、帰らせてみせようチームラボ。大幅に字余り。


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「Wander through the Crystal Universe」

私はチームラボの“追っかけ”なので、銀座でも大阪でもシンガポールでもこの作品を見た。
が、今回の「クリスタル ユニバース」は、これまでの展覧会より格段に広くなっている。
光の集合で宇宙空間を表したこの作品がこれまでとちがうのは、広さだけではない。


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いきなりヘボなモデルでスミマセン。
足元が、鏡張りになっているのだ(だからミニスカートの人は会場でショートパンツを借りましょう)。
そのため、ずーっと果てしなく、光の空間が続いているように見えるのである。
合わせ鏡をうまく使うと、永遠に鏡の中の世界が続くように思われた。
あの子供時代の驚きに戻るのだ。

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「人と共に踊る鯉によって描かれる水面のドローイング—Infinity」

この部屋も、暗さと鏡張りのために、広さの感覚をつかみづらい。
しかも自分の足が見えない。
膝までが、白く色をつけた水に没しているからだ。


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光で鯉が泳いでいる様が映し出される。
その一方、花が一面に咲いていく様も見える。
はじめは、このつながりがわからない。
やがて、「あっ、わかった!」
人に鯉がぶつかると花となるのだった。
皆、夢中になって鯉の像を追いかけ始める。
水がとても冷たくて心地よい。

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人々が水面の鯉を追うことで、水面は花でいっぱいになり、忙しくなる。
いつの間にか、鯉はあやしい光を帯び始め、もとの鯉の色ではなくなってくる。
彗星のように、光跡を長く引きながら……


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皆、いつしか鯉を追うのをやめ、水に見とれていると、鯉の光跡はますます長く伸びていき、個々の区別がつかないほどに混じり合ってしまう。
自分の足元を見るのに夢中だった人々が、ひとつの大きな空間へと収束していく。
光のマーブルをうっとりと眺める。
暗い中に鯉が泳ぐのを見、人の動きの影響を受けて花になると知り、やがてまたも宇宙空間に放り出されたかのような心持ちとなる——そんな、ここにいる人々の心の「高まり」にぴたっと沿う。なにもかもが。
映像の移り変わる速さ、暗さ、空間の広がり、水の冷たさ、それらが皆、高まりをリードし、寄り添っている。


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高まりがピークに達してから、徐々にまた、もとの鯉と花へ。
このころには、下半身がかなり冷えている。
足が濡れても、タオルが用意されているから大丈夫。
タオルは、10万枚用意されているという。


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「Floating in the Falling Universe of Flowers」

最後に入ったのは、ドーム空間に1年間の花が現れては消えていく作品。
ここはもう、「永久にこの部屋にいたい」と思ってしまった。

以前、さめない夢の世界へ——「チームラボ 踊る!アート展と、学ぶ!未来の遊園地」のレビューの最後に「目覚めてもさめない夢があるとすれば、それはチームラボだ。」と書いた。
この作品は、半円のドームいっぱいに花の映像が移り変わり、またしても床が鏡張りになっているため、上下の感覚さえあやしくなってくる。
用意されたソファに寝転んで見ていると、360度を花に取り囲まれる。
目を開けても閉じても、網膜に花が焼き付けられていく。
星などひとつも映っていないのに、感じられるのはやはり宇宙。
花の宇宙を体ひとつで漂う、自分も花のひとひら。

四季の花々は、遠く小さく映るものもあれば、ドキッとするほど大きく映し出されるものもある。
しかし飛んで行く先を目で追っていると、どの花も、必ず、等しく、散っていく。
なんとなく消えていくのではない。

「作品は、コンピュータプログラムによってリアルタイムで描かれ続けている」との解説どおり、四季が一巡しても、巡りきた次の春は、さっき見た春の花の光景とは同じではない。
同じ季節でありながら、まったく同じではない。
流転し、変容し、しかも、途切れることがなく、永久に続いていく。
デジタルアートの真髄だ。
人工物の究極の結晶であるデジタルだからこそ、「自然」の姿をこんな形にして見せることができる。



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この部屋は、愛が芽生えること間違いなし。
うっかり友達以上恋人未満の相手と行くとあぶないですぞ!



これまでチームラボの展覧会には数え切れないほど行っているが、この「DMM.プラネッツ Art by teamLab」は、展示数がグッと少ない分、彼らの目指すものが、よりキリリと引き締まって見えた。
暑い中の行列覚悟で、行くべし!お台場!

※私がリクルートの仕事で作ったまとめサイトも見てね!
シンガポール「アートサイエンス・ミュージアム」でチームラボが常設展示。早くもマストスポットに!


by apakaba | 2016-07-27 17:14 | 歌舞伎・音楽・美術など | Comments(0)
2016年 05月 23日

歌舞伎座團菊祭五月大歌舞伎、昼の部連続ツイート

22日、歌舞伎座昼の部、鵺退治。なんだってこれを54年ぶりに再演してみた?意義がワカラナイ。なんかあのふわふわしたかわいい奴が鵺なの?退治というよりハグハグしたい感じ。梅玉の姿は美しいが声が小さく、やや迫力不足。かわいい着ぐるみ相手じゃ迫力も出にくいが。すたれていく演目って(続

2)それなりに理由が……。寺子屋、松王海老蔵、しわぶく姿は元気そのもの、仮病使うなと思ってしまう。悲劇の面影なし。角度が完璧に決まった時の美しさは他の追随を許さないものの、演技があれでは。海老蔵の求める歌舞伎は芝居より歌舞伎らしさを感じる見た目なのか。全く扱いかねる役者よのう(続

3)菊之助の千代は説得力あり大健闘。源蔵松緑、悪くないけど真面目な人が苦しんでる感じ。ギラつく狂気を加えてほしい。勘九郎がやっぱりよかった。また通しで見たいいい話だけど、仁左衛門の菅丞相を追想するだけで泣きそうになる。彼以外考えられない。でも仁左衛門の松王も見たい…欲張り…(続

4)十六夜清心、きました黙阿弥!すばらしい菊之助。一人の人間に宿る善と悪が、グルリと入れ替わってしまう瞬間の秀逸さよ。ダークサイドを描かせたら黙阿弥は一流。癪が起きた松也くんの胸元に手を差し入れてからの揉み合いは、そうじゃないのにまるでBL。見てはイケナイ世界まで想像させる(続

5)歌舞伎にちょくちょく現れてくるBL要素は、もっと注目していいと思う。人の命が軽く、貞操観念も軽く(刑は重いが)、男色へのハードルも低かった時代。菊之助のぬるぬるした不気味さは、セリフまわしの一本調子を補って余りある。にしても十六夜時蔵、芝居はいいけどいくらなんでも年齢差が(続

6)菊之助の方が美しいじゃないか!って思ってしまったら、入れ込めないもん。時蔵は世話物の婆役ですばらしさを発揮するのに。しかしこの芝居、初めて見たけど菊之助主演の通しで見てみたい。外道に堕ちるところまで堕ちた坊主を見たい。楼門五三桐、吉右衛門&菊五郎、そりゃ出るだけで大拍手(続

7)しかし歌舞伎ってほんとに不思議な芝居だ。通しでやることはめったになくて、ほんの一部分だけを取り出して上演するんだから。予習していること前提。「絶景かな絶景かな」なんて最たるもの。あれだけいきなり見たら、意味不明すぎて戸惑うばかりだろう。しかし熱狂してたな。孫はうれしいね!(終

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本文と関係ありませんが、ある日の昼食

夜の部は初日に行った。
そのときのツイートはこちら→歌舞伎座團菊祭五月大歌舞伎、夜の部連続ツイート


by apakaba | 2016-05-23 15:18 | 歌舞伎・音楽・美術など | Comments(0)
2016年 05月 03日

歌舞伎座團菊祭五月大歌舞伎、夜の部連続ツイート

歌舞伎ツイート、今年に入ってからずっとさぼってしまった。
とりあえずきのう行ってきた歌舞伎座から書いていこう。
3月と4月の分くらいはふりかえれるかな。

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5月2日初日、歌舞伎座、團菊祭五月大歌舞伎夜の部。寺嶋和史初お目見得とあって取材陣どっさりの祝祭ムードたっぷり。勢獅子音羽花籠、おじいちゃん二人を従え堂々の花道……のはずが、いきなり転んで意気消沈、菊之助に抱っこされたままとなった。まだ2歳児だからねえ。がんばれ。(続


2)あの子が海老蔵長男とともに将来の團菊祭を背負って立つと思うと感無量、そして彼が円熟の演技を披露できる頃には私はもういないんだろうなと思うとまた感無量。あの子たちが歌舞伎の未来だ。勢揃いの中でも、芝雀は雀右衛門になってから美しくなったなと注目。風格が出てきた。(続


3)三人吉三巴白波、大好きな演目。何度も見たが、やはり菊五郎。菊之助は美貌と女のときの演技は文句無し、男に帰った時の戻りがつまらない。私が見始めた頃の菊五郎はすでに容色は落ちていたが、男に戻ったときの面白さは抜群だった。でもさすがにもうやらないだろうから、菊之助がんばってくれ(続


4)海老蔵のお坊の意味不明さよ。どうして彼はいつも海老蔵なんだろうね。見目は申し分なし、セリフは言わないが吉。松緑の和尚も然り。セリフがかわいい。和尚は不気味さと闇の大きさを漂わせて、あとの二人に「この人なら兄貴にしよう」と思わせるものがなければ。かわいくなってはダメ。(続


5)3人とも好きだが3人とも足りない。それだけ伸び代があると思いたい。黙っていれば歌舞伎っぽいがセリフが。いかに役者にとってシャベリが大事かを再認識。時今也桔梗旗揚、松緑の熱演に打たれる。いつもより3割増しでギョロ目です!男女道成寺、菊之助がす、すばらしい!(続

6)道成寺はどの道成寺も興味の尽きない作品だが、男女もナイス。菊之助はしたたるばかりの美貌、キュッと上がった口角はファムファタルそのもの。玉三郎という異界の巨人に相当特訓されているのだろう。手ぬぐいや着物で顔が見え隠れする瞬間も色気たっぷり。それに引き換え、海老蔵が……(続

7)ま、またも意味不明な海老蔵っぷり。蛇でもなんでもなく、とにかく海老蔵ショーになってしまう。この踊り、そういうのじゃないのにー。しかしピタリと決まった瞬間は大輪の花のように美しい。ほんと、私が役者なら絶対共演したくないタイプ。美貌の二人がきっちり決まった見得は絵巻物の美しさ(続

8)正直なところ、長年、團菊祭が嫌だった。それは團十郎が苦手だったから。「五月はまあいいんじゃない」とパスしてた。若手に世代交代して、一気に華やいだ五月に。この“海老菊祭”はしばらく楽しみ。吉右衛門の孫お披露目で「まだ海のものとも山のものともつきませんが」の挨拶にも胸キュンね。


by apakaba | 2016-05-03 17:40 | 歌舞伎・音楽・美術など | Comments(2)
2015年 12月 23日

歌舞伎座十二月大歌舞伎、夜の部連続ツイート

今月はいろんなことをしていたので、歌舞伎のツイートが遅くなっちゃった。
ふだんより少なめツイートです。

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東京芸術劇場で「レミング」を見た。
うーん。私はおもしろくなかったな。


すっかり日が経ってしまったけど、12月6日、歌舞伎座夜の部、妹背山婦女庭訓、杉酒屋。七之助が、か、かわいい。見目麗しく、昔より色っぽさが出てきて素敵。児太郎、ここだけの話だけど女形よりタテ役の方がよくないか。なんかかっこよくなってきちゃったし、世話物のお兄ちゃん役とか合いそう(続

2)道行恋苧環、松也くんはふつうの演劇だったらきっと十分うまいのだろうけど、歌舞伎座では沈むなあ。存在感まだまだ。二人の美女に愛されるほどの色男には達していない。七之助、おぼこからちょっとはみ出た、あだっぽさがにじみ出ていてうまい。松也くんとすでに深い仲ということが窺い知れる(続

3)三笠山御殿、玉三郎が…か、かわいい……ッ!七之助よりはるかに年上なのに、七之助より可憐でいい女ってどゆこと。あんなかわいい女がいたら到底ほっておけないでしょう。いじめのシーン、「はい」と消え入りそうな返事をする声が……たまらん。あの「はい」の声だけでも、真似してみたい!(続

4)ストーリーは例のごとくメチャクチャだが、とにかく玉三郎のかわいさに身悶えした、今年最後の歌舞伎鑑賞であった。その次の週に寺山修司の「レミング」を東京芸術劇場で見たが、まったく乗り切れなかった。演技の厚みが、歌舞伎とはあまりにも違っていて。歌舞伎見ちゃうと現代劇はつらい。(終


by apakaba | 2015-12-23 17:31 | 歌舞伎・音楽・美術など | Comments(0)
2015年 11月 11日

歌舞伎座吉例顔見世大歌舞伎、夜の部連続ツイート

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ある日の散歩道。
歌舞伎、そして自分の人生の、来し方行く末を思う今月


11月7日、歌舞伎座夜の部、江戸花成田面影。堀越勸玄初お目見得。想像よりはるかに小さくて、花道から出てきたとき「あれ?いない?」と本気で思った。海老蔵が黒い袴を着けているものと……海老蔵の腰にまで届いていない小ささ!仁左衛門、菊五郎、梅玉、藤十郎、染五郎、松緑を従えての挨拶。(続

2)夕方の2歳児なんて大抵は機嫌が悪いものだが、勸玄くんは難しげな表情ながらも頑張っている。しかしこの子が大役者になり、団十郎になったとき、私はこの世にいないであろう。そう思うと大喜びの観衆の中で寂寞たる気分になる。これから長くがんばってね。仙石屋敷、梅玉の伯耆守は前半若干(続

3)バタバタしているが、人のよさが印象づけられる。それにしてもこの話、ほんとつまんない芝居ですね。仁左衛門が大石じゃなかったら最初から最後まで熟睡だわ。でも仁左衛門だとたわいもなく感動してしまう。でももっといい演目がよかったなあ。だいたい、日本人はみんな忠臣蔵が好きだけど私は(続

4)それほど好きじゃない。仮名手本忠臣蔵で見て、初めて面白いと思うくらい。勧進帳、おそらく全演目中最もいっぱい見ている歌舞伎。また見てしまいました。幸四郎弁慶には、ええ、さまざまな思いが胸を去来しましたね。思えば初めて幸四郎弁慶を見たとき、彼は今の私くらい。働き盛りの年齢で、(続

5)そりゃ元気もあったわけだ。今あの衰え果てた弁慶を見て、これが幸四郎という役者なんだと。昔の幸四郎弁慶は、いちいちエッジが立っていた。そのキラリと光る瞬間の一つ一つを覚えていて、「またあれをやってくれ。あ、やってくれた」と楽しかった。古典的な歌舞伎が好きな向きからはバタ臭い(続

6)とかくどいとか言われていたが、あれはやっぱり魅力だった。でも今すべてのエッジは消え去った。義経に手を差し伸べられ感激して舞うところ、吉右衛門弁慶の目の先は遠い遠い道程を見ていた。幸四郎の目はなにも見ていない。濁った目の先には、俺はそれでもまだ幸四郎であり続けるという執着が(続

7)あるのか?もう染五郎を幸四郎にしてやれ〜。しかし、染五郎は幸四郎と同じ幸四郎にはなっていかないんだろうなあ。富樫よかったぞ。今までで史上最高の富樫は吉右衛門、その次くらいによかった(ついでに松緑のメイクは罰ゲームのようではないか?)。大幹部がそれぞれの境地に達している中、(続

8)幸四郎の老いを晒す弁慶は、あれはあれで彼の芸の到達点なのかもしれない。なんともいえない「業」を感じ、ただダメな弁慶を見たという嫌な気持ちではなく、大きく人生というものを突きつけられる。幸四郎という役者、私はどっちかというと好きだけどね(えへ)。ああいうどうしようもない人。(続

9)河内山、黙阿弥最高!先日、近松の芝居を現代劇で見たが、やっぱり義太夫の完成度が黙阿弥とは比べ物にならない。「名台詞」とは黙阿弥のためにある言葉。初役海老蔵、よく似合っていた。海老蔵はある意味始末におえない役者で、嵌るときは他の追随を許さない嵌り方をする。だがたいてい滑る。(続

10)嵌る嵌らないの振れ幅が大きすぎ、見る方はビクビク、共演者はさぞ恐ろしいだろう。彼はああいうペラペラな男が似合う。人生の苦悩とかは無理。それにしても十一代目に生き写しだ。今回は勸玄から幸四郎までを一気に見て、歌舞伎という芸能の大きな一つの時代に立ち会っている感慨を持った。(終


by apakaba | 2015-11-11 17:13 | 歌舞伎・音楽・美術など | Comments(0)
2015年 10月 27日

ボタニカルアート/石川美枝子と仲間たち展Ⅱ

京王プラザホテルのロビーギャラリーで開催されている、ボタニカルアート展に行ってきた。
石川美枝子さんとは、3年前にとあるパーティーでたまたま同席したときに、少しお話をした。
そのときは、石川さんが植物画家だなんてまったく知らなかった。
というか“植物画家”それ自体を知らなかった。
それ以来、東京で石川さんのほんもののボタニカルアートを見られる日を、ずーっと待っていたのだった。

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感激です……!!!!!!!!


花は人のために咲いているわけではないけれど、人は花に引き寄せられる。
ラフレシアは熱帯雨林を象徴する存在に思えた。
“花”の概念をすべて否定するような奇怪な容貌、謎の多い生態、しかしそれは、この花が熱帯雨林で生き延びるために選んだ進化の形だ。
......................
それは万人が「かわいい」とか「きれい」と感じる形ではなくとも、私にはきわめて感動的な孤高の姿に映った。
彼らの、生きるためのシビアな知恵に較べたら、人間など、どの人種であってもほとんど見分けがつかないほどおんなじではないか。


石川さんの描くラフレシアは、他の仲間たちのみなさんとは、まるで別の次元にいた。
仲間たちのみなさんの作品は、どれもとてもきれいで、温かく、植物への愛が満ちていた。

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だが石川さんの描く植物は、愛よりも温かさよりも、まずなによりも、その植物“そのもの”だった。
それでいて、紙の中の植物にグイッと手を引かれて立ち止まるほどに、“アート”だった。
写実をきわめて、その先にアートがあるというより、写実をきわめることで、植物がほんらい身につけているアートが映し出されている感じ。
植物の持つ、豊かさや、不気味さや、明るさや、はかなさ、そうしたものは、ただ透徹した観察と正確な筆致によってのみ描き出される。


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今日はギャラリートークもあって、3年ぶりに石川さんにお会いできた(後ろの方で一方的に見ていただけですが)。


……そう思いながら帰ってきて、検索をかけてみたら、私の考えていたこととまったく同じことをばっちり書いてくれているページがあった!

3年越しの念願叶って、やっとほんものの石川さんの絵を見ることができ、とても幸せだった。
ラフレシアを見たときの感動や、ボルネオ島の自然も懐かしく思い返せた。

ご主人の上島さんが書いたブログはこちら(ボタニカルアート展 Botanical art exhibition ―石川美枝子)。
ギャラリーの写真がたくさん載っています。






by apakaba | 2015-10-27 21:51 | 歌舞伎・音楽・美術など | Comments(0)