あぱかば・ブログ篇

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カテゴリ:歌舞伎・音楽・美術など( 207 )


2015年 10月 17日

歌舞伎座芸術祭十月大歌舞伎、昼の部連続ツイート

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これは11日のランチですが。
新宿ゲウチャイ、私にはちょっとからすぎた鴨肉のセンヤイ
iPhoneを新しくしたら写真がとてもキレイ!うれしい!


10月12日、歌舞伎座昼の部、芸術祭十月大歌舞伎、音羽嶽だんまり。うん、若い人ばかりなので、うん。児太郎は父よりいいと思うが、素顔がけっこう男っぽくかっこよくなってきてしまったのが逆に足をひっぱるかも?矢の根、まあ盤石ですかね。なんで江戸時代の人って曽我兄弟が好きなんだろう。(続

2)一條大蔵譚、くうう〜仁左衛門が、どの角度から見ても、う、うつくしーッ。吉右衛門とまったく違うタイプの大蔵。甲乙つけがたいが作り阿呆の仁左衛門の関西弁に軍配か。あんなバカ殿、腰元全員キュンキュンしちゃう。どんな阿呆でもいいから全力でお世話したくなる!そしてぶっかえり後の(続

3)美貌たるやどうだ。オレンジ色の素っ頓狂な着物がビカビカの美貌で乱反射。吉右衛門の大蔵では頼もしさ勇ましさを秘めていたが、仁左衛門の大蔵はより悲哀が前に出てくる。役者の違いなのだ。鬼次郎菊之助も、梅玉のときはいい役とも思わなかったが菊之助だと役柄にはまっている。仁左衛門の(続

4)ものすごい名演に打たれていることがわかる。作り阿呆からのぶっかえりを、心底から驚き、恐れ入っているのが伝わる。孝太郎もはまっていた。前はちっともいいと思えず、父の美貌を継がなかったことをひたすら悔しく思っていたが、今になると彼はむしろ秀太郎のようになっていくのか。なるほど(続

5)人情噺文七元結、志ん生で聞いていた落語だけど、まあ菊五郎はもはや非の打ち所がないですな。出の瞬間からすべてが完璧。そして時蔵、なんだってあんなに最高なんでしょうか。あの人はお姫様じゃダメで、世話物がほんとにばっちり。この夫婦の魚屋宗五郎も完璧だったが志ん生かこのコンビかと(続

6)いうくらいに笑い転げる。それにしても菊五郎の脚。とうてい70過ぎとは思えない鍛えた脚だわ。角海老の玉三郎、毎度思うが桁外れの役者。妖気がドライアイスのように充満していく。客席がシーンとなる。あのセリフ回し、真似したいねえ。最初から力が抜けているのに、さらに所々でふぅっと(続

7)力が抜け、セリフの中の間のあけ方が…他の役者には絶対にできない、耳目を一手にひきつけなければ納まらない、強烈な演技のスケール。体の奥底からむずむずしてくるような…異界の入り口を見せられるような感覚に囚われる。しかし皆さん、ほんとにいい演技するねえ。最高だったよ昼の部!(終わり

おまけ)演技について考える。下手な役者は、「解釈」がない。伸びる役者は、どんなに小さい役でも、読み込んで、解釈を重ねる。その意味で夜の部の亀寿さんに期待している。夜の部、髪結新三の勝奴の解釈が筋書きに出ていた。未熟な役者は所作やセリフを覚えるので一杯なんだろうな。私もがんばろう。


by apakaba | 2015-10-17 16:50 | 歌舞伎・音楽・美術など | Comments(0)
2015年 09月 26日

歌舞伎座秀山祭九月大歌舞伎、夜の部連続ツイート

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歌舞伎座も、敬老の日、国民の休日、秋分の日と連続で日の丸掲揚していたのだろうか


シルバーウィーク、私はカレンダーよりちょっと遅めに取って、歌舞伎とドライブ旅行、アート鑑賞へ。
今日は歌舞伎の連ツイを転載しておきます。


9月22日歌舞伎座夜の部、伽羅先代萩。やったら見ておけ通し狂言。通しで見て初めて見えてくるものが多々あり。花水橋での梅玉に零落の美。梅玉はここ1年ほど素晴らしい。序の梅玉の佇まいあってこそ成り立つ、その後の悲劇。空腹の子供二人を待たせて茶釜で米を炊く玉三郎の所作に瞠目。(続

2)玉三郎が凄いのは毎度だが、あの延々と点前をやり、さらに点前と同じ動作で米を研いで炊き…永遠かと思われる茶釜シーン。並の役者だったら、やる方も見る方も耐えきれないあの長さ。あの長さで子供の空腹時間を我々も共有し、母親の辛さと美しさを決定づける。女子供シーンが長く続き、一転(続

3)松緑登場で一気に男だらけの世界へ。女子供だらけから男だらけへの見事な転換。吉右衛門、芝居はうまいのだけどやや声が小さい?昼の部でお疲れか。通し狂言で必要な要素は、「もう出てこない人」がいかにその後のシーンに影を残しているかどうか。冒頭の梅玉、中盤の玉三郎あってこその後半。(続

4)対決・刃傷。舞台上、殺された子供とまったく同じ配置で悪者(吉右衛門)も果てる。因果応報を感じさせる瞬間。素っ頓狂なサワヤカさを撒き散らす染五郎、ああいう人よく歌舞伎で〆のあたりに出てくるよね。染に「歌え、踊れ」と無理強いされる重傷の歌六の構図は、空腹の実子に「歌え」と(続

5)無理強いした玉三郎と呼応する。ようするにパワハラ。それは当時の社会が、とてつもなく大きなパワハラの構図の中にあったことを示唆する。大団円、無駄に色気をだだ漏れさせる染のニヤニヤ笑顔の中で幕。理不尽の中に生きることが当たり前だった時代、人は芝居小屋でカタルシスを得た。(続

6)それにしても、当時相撲取りはほぼやくざ者のような存在だったのだな。濡髪長五郎とか見ても思うけど。ご贔屓筋の用心棒。今は変に「品格がー」とか窮屈になって、かえって気の毒にも思う。そして、三大義太夫に較べればストーリー的に劣るけど、なかなかうまい作りだったなあ。やはり通しはいい。


by apakaba | 2015-09-26 18:17 | 歌舞伎・音楽・美術など | Comments(0)
2015年 09月 14日

模倣から始まる

先日「小学校の影絵上演体験授業を受け持つ」に書いたとおり、6年生の授業をやってきたが、その録画が上がってきた。
3クラス見比べてみると、私にはどのクラスも似たようなレベルの仕上がりに見えた。
人によっては、人形の動きや声の演技の出来に差があるように見えるらしいが、私の見る目が甘いのかな。

私は声担当なので声の話を書くが、子供の演技を聞いていると、つくづく大人の私たちとは技量がちがうものよと思う。
これでも相当、個人個人にイメージを伝え、見本を見せて(聞かせて)、一つのセリフの中でも「ここまでは明るく、ここから暗い感じに転換させて」と、事細かにやり方を教えたのだけど。
やはり時間内では指導にも限界がある。
同じ演目を、7月に外部公演でやっていたのだが、あのときを思い出して、「団員はみんな、本当にうまかったなあ……(私は声担当を外れていたけど)」と一人しみじみした。

「ここまでは明るく、ここから暗い感じに」などと指示を出して、本人は一生懸命そのとおりに言っているつもりなのだけど(その気持ちは様子でわかる)、残念ながら、声に反映されていない。
大人だと、同じように私が指示をすると、すぐにイメージをつかんでくれて、次の練習にはできる。
次の練習にはできていなくても、最終的に本番には絶対にやれている。
大人の本気はすごい。
子供が本気ではない、というわけではないけど、どうしたらうまくできるのか、まだコツがつかめないのかもしれない。

子供でも、なかなかいい線いっている子もいる。
そういう子は、概して、力んでいない。
カッコつけるよりも、ウケたい。
自分なりに役の像を持っていて、積極的に声を発して試してみる。

もしももっと時間があったら。
どうしたらうまく聞こえるのか、そのコツを教えたい。
声の強弱と上げ下げのポイントと間の取り方、全部教えられたらみんな名優になれる!
「とにかくまずは、同じように言ってみて。」と、“完コピ”をさせる。
それでなにか、つかむはず。

まあそんなこと不可能だけどね。体験学習は演劇部じゃないし。
ただ、初学者にとって、音楽でも、絵でも、字でも、なんでも、表現するには、まずは手本を完コピすることで、そこから自分というものが相対的に見えてくる。
私は、日々、自主トレじゃないけど、よく歌真似をしている。
いいなと思った歌を、そっくりに歌ってみる。
だいたい、昔からモノマネが好きだった。
学校や塾で、先生のモノマネをして、笑いを取っていた。
カッコつけるよりも、ウケたい。
あらら、6年生たちと同じ。

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ひとつひとつの花は、模倣の集合か
すべてオリジナルか


ちょっと前に「パクリ問題」がだいぶにぎやかだったが、あの問題の関連で、パロディー(本歌取り)のような芸術表現、またそもそもオリジナルを模倣することについて、論争があった。
模倣が模倣のままだったらダメだけど、まず出発点は上手な模倣。
次回、高学年の担当になったら、そこらへんをもう少し詰めていきたいなあ。


by apakaba | 2015-09-14 18:34 | 歌舞伎・音楽・美術など | Comments(0)
2015年 08月 23日

歌舞伎座八月納涼歌舞伎第一部 連続ツイート

先日見てきた歌舞伎座の感想の連ツイを転載しておきます。
夏休みなので小学生もたくさん来ていました。

8月21日、歌舞伎座八月納涼歌舞伎第一部。おちくぼ物語、だいぶ前に橋之助の左近少将で見たが、ぱっとしない話だった記憶。再び見てみたらやはりぱっとしない。義太夫の名作に較べ、歌舞伎味の薄さが気になる。名台詞と呼べるべきセリフがなく、どうしても芝居が現代劇っぽくなってしまう(続

2)七之助は若造時代に較べてだいぶ美しくなったし、セリフ回しが玉三郎に似てきた(無論、玉さまとは比較になりませんが)。だが現代っ子っぽく感じるのは七之助のせいというより脚本のせいのような?隼人の左近少将は橋之助よりか〜な〜り〜雅やか。若かりし橋之助は颯爽としていたが、隼人は(続

3)スローモーションのようにゆ〜ったりと。どっちがどうとも言えないけど、頼れそうな雰囲気は橋之助の方があったかな?高校生のころ古文で読んでいたが、大団円で七之助が「かちで行きたい」というセリフ、「かち」って現代人はわかるのだろうかと思ったり。そのためのイヤホンガイドだけど……(続

4)棒しばり、二人が揃っただけで胸がいっぱい。巳之助のよく通る声に感激、続けての勘九郎の登場で、まるで花が開いたような祝祭的ムード。巳之助はお父さんに較べれば踊りはまだまだ、しかし確実に一皮剥けた手応え。吹っ切れてる。いいぞ。将来、勘三郎と三津五郎の名コンビに、この二人が(続

5)なってくれることを心から願う。それにしても勘九郎はああいう役ではほんとに父親に生き写しだ。生き写しの上に男っぽさが加わっている(毎度言うけど)。縛られる前の棒術を使うところはかなりかっこいい。歌舞伎座は8月の三分制は短くて賛成だがもう少しお値段を下げてほしい。(終


ところで夏休み中の夫を連れて香港へ行っていました。
もうここに旅行記を書くのは無理な状況ですが、また仕事の記事にして小出しにしていくつもりです。
ここは気に入りのオーガニックカフェ「life」です。
記事に書いたこともありました。
この記事も気に入っています。
リピートしていますが、今回は初めて屋内席に座れました〜。

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by apakaba | 2015-08-23 10:24 | 歌舞伎・音楽・美術など | Comments(0)
2015年 08月 03日

蔡國強展「帰去来」

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横浜美術館で開催中の「蔡國強展:帰去来(特設サイト)」へ行った。
4年前、たまたま入った香港大学美術博物館(私の書いたエイビーロード内の案内記事はこちら)で、初めて蔡國強の作品を見た。
まったく知らなかったアーティストだが、彼目当てで来たわけではないのに、不思議と強い印象が残った。
それから3年して、名古屋市美術館でも、またたまたまこの人の作品が一点だけあったのだ(名古屋市美術館探訪記)。
そのときこうメモを取った。
・ツァイ・グオチャン(蔡國強)「葉公好龍」
香港大学の美術館で、この人の企画展を見た。大判の紙を火薬で焼いて、龍を表現するという発想のおもしろさ以上に、東洋的な美がはっきりと現れている。作家のことを何も知らなくても、一目で東洋人とわかるのだ。」

2回とも偶然見かけて、知識がまるでないのに強く惹かれた。
私は、絵画展などに行っても有名な画家の絵をとりあえず熱心に見る、典型的な素人だ。
素人の目から見ると、さして有名ではない画家の絵は、ほとんど琴線に触れてくることがない。
もちろんそれが作品の力によるという理由が大きいのだろうが(だからこそ有名な画家になるんだし)、蔡國強を見たとき、予備知識がまるでない状態でも「この人はもしかしてとんでもない人なのでは。私だけが知らないのでは」としか思えないほど惹かれた。

初めて個展に行ってみて、やはり自分の4年越しの勘は当たっていたとわかった。

中国福建省泉州市出身の蔡は、日本に9年間住んでいた。
現在はニューヨークを拠点として活動しているが、日本にもひとかたならぬ愛情を示してくれている。
火薬を使った独特の手法を用いることで知られる。
中国は昔から花火の技術が発達しており、それが日本にも持ち込まれて、西洋にはない繊細で芸術的な花火に発展した。

蔡の作品を見るとき、もう火薬のにおいはどこにもしないのに、どこか鼻腔をくすぐる火薬のにおいをさがしてしまう。
それは中国と日本に共通する、花火の記憶だ。
以前、蔡の作品を見て、作者を知らないのに「東洋的」と直感したのは、これによるのだろう。
同じ東洋人の血を、強く感じた。

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「人生四季」という4連作は、なぜか僧侶と尼僧に見える一組の男女の性行為を、四季を表す風景のモチーフの中に描き、火薬の爆発で彩る。
夢の中の一場面のように美しいが、どこか禍々しさも宿る。
とくに火薬の「赤」に。
蔡は、この作品で初めて色鮮やかな火薬を使うことを試したという。
「赤」は、結合する陰部と求めあう唇の上で爆発する。

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「春夏秋冬」は、蔡の故郷である福建省泉州市にちなんだ作品だ。
泉州市は磁器の生産地だという。
白いタイルに、四季を表す植物や生き物をかたどったレリーフを作る。
それを火薬で爆発させ、真っ白だったタイルはところどころが黒く染まる。
四季がある国はいいなあとつくづく思う。
その、四季を表す、本物以上に繊細な極薄の花びらの美しさに、目を近づけて見とれる。
しかしところどころが火薬の爆発で黒ずんでいる。
もしも真っ白のままだったら、どんなにか心洗われる美しさだっただろうに……、黒ずみをまとったことで、レリーフはまったく別の表情となる。
不吉さ、逃れがたい死の影、流れていく大気、流れていく時間、レリーフに刻まれる黒ずみが、見る人によりさまざまなイメージをかきたてる。

この「春夏秋冬」と合わせて、同じ部屋の中央に、「朝顔」という作品がある。
藤蔓にテラコッタ製の朝顔をつけて吊り下げる。
朝顔は火薬で焼かれ、黒ずんでいる。
この部屋はそのまま中国の五行思想と重なる。
「木(春)」、「火(夏)」、「金(秋)」、「水(冬)」に加えて「土(季節の変わり目)」という五元素がそろっている。
中国の偉大な思想が、創作の根底にある。
自分のルーツを深く見つめている表現者だとよくわかった。

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「壁撞き」は火薬を使わず、狼のレプリカを99体使った壮大な立体作品だ。
ガラスの壁に次々に突進しては倒れ、また壁に挑戦していく。
メッセージがややストレートすぎるように私には感じられた作品だが、99という数が中国の道教では永遠を象徴する数だと知った。
やはり、蔡は中国人というルーツを見つめるアーティストである。

なによりも感動したのは、むしろ2本のビデオだった。
ビデオ「帰去来」では、この個展のための制作風景を、「巻戻」では蔡のこれまでの作品と半生を、現在から誕生まで時間をさかのぼって自らの語りで紹介している。
この2本は繰り返し見てしまった。

「帰去来」では、蔡は日本語を使って語りかけてくる。
母語を使わず、あえて(十分にうまいとはいえ)少したどたどしさのある日本語で日本人に語ってくれることで、真剣さが伝わる。
彼のアートへの情熱と、中国人として日本と関わることの使命。
「(中国)政府だけが中国の姿ではない。アーティストなら、“秩序”の中と外を往復できる。」

「巻戻」は、感動で何度か涙が出た。
火薬を使った大仕掛けのアートを次々と紹介していくが、壮麗なイリュージョンは、蔡の強靭な意志があって初めて思想性を帯びる。
広島の原爆ドームから打ち上げた、「黒い」花火。
青空に真っ黒な爆発が起こる(これにはグッときて泣いた)。
911後のニューヨークに打ち上げた、虹色の花火。
ニューヨークを第2の故郷と言う蔡が、悲嘆に暮れるニューヨークの空に虹をかけた。
ブラジルの未成年者に向けた、教育プログラム。
彼らに大砲を作らせ、「火薬は危険なもの。人を傷つけるもの。しかし使い方を変えれば、アートになる」と、爆発物の新たな可能性を示す。

蔡はいわきにも住んでいた。
原発事故後、蔡はチャリティーで集めたお金を、復興のために寄付しようと考えた。
いわきの人々は、そのお金を「いわき万本桜プロジェクト」に使いたいと言ってきた。
「最初、私にはその意図がわからなかった。けれど、一緒に植樹してみて理解した。ここで暮らすと決めた子供達のために、いつか、桜色に染まった大きな海のような山が、遠くからでも見えるように……」
ここでまた落涙。
世界を股にかけた派手な活動のために批判も多い作家だが、この語りだけはともかくほんものだと思った。

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大量の火薬を爆発させるイリュージョンを、映像ではなくこの目で見られたらなあ……
どんなに興奮するだろう!
次々に映し出される爆発の映像を見ながら、もくもくと湧き上がる煙も、鼻を打つ火薬のにおいも、腹に響く爆発音も、皆、たった一度の芸術なのだと思っていた。

映像を見ながら無意識にメモしていた。

「一緒に煙のにおいを吸い込む。
音を聞く。」

どうしてこう書いたのか、思い出せない。
アーティストでありイリュージョニストである蔡は、自由自在に火薬をあやつる。
だが、火薬は常に偶発性と隣り合わせだ。
大掛かりなものほど、成功するかしないかは不確かになる。
爆発に向けて、たった一度の芸術に点火するときの、蔡の鼓動が聞こえる。
うまくいくか?
蔡はすべてをあやつるが、点火したらあとは観客と一緒に、見守る側の立場となる。
だから、私たちは、蔡と「一緒に煙のにおいを吸い込む。音を聞く。」のだ。

個展としては点数が少ないが、火薬の爆発という作品の性質上、仕方がない。
2本のビデオ映像は必見。
本人のウェブサイトで当展覧会の作品の写真を見られる。


by apakaba | 2015-08-03 18:26 | 歌舞伎・音楽・美術など | Comments(0)
2015年 07月 28日

7月27日、七月大歌舞伎千秋楽、昼の部連続ツイート

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本文と関係ありませんが。娘の誕生日の空


きのう千秋楽だった七月大歌舞伎の感想ツイートを、こちらに転載しておきます。

きのう、歌舞伎座昼の部、千秋楽。南総里見八犬伝の、ほんの一部。こんなに一部だったら、上演しなくていいのに…どっちにしろ意味不明じゃないかー。筋書きによると馬琴はこの話を30年書き続けたという。何を考えてるんだか…プルーストの2倍だよ!「その間に妻や子供に先立たれる不幸もあり」(続

続)って、30年もあったらそりゃ誰か死んだりもするわ。そんな馬琴のライフワークを、どうしてこんなにちょこっとだけ上演するのかもわからないけれど、とりあえず獅童はよくやってた。獅童はすべての演目で大活躍。若い頃は道が見えていない感じの人で、「俺もっといい役がついていいはず」的な(続

3)とんがりがあったが、それを超えて名脇役に徹するようになってから、彼は本当によくなった。寺子屋で涎くりとかばっちりな雰囲気。よいといえば梅玉、この人をいいと思ったことがほとんどないが、きのうの花道、地味な六法での引っ込みは陰影を感じさせて、里見八犬伝は脱落するも梅玉はいい!(続

4)7月のチケット売上を俄然引き上げた海老蔵、切られ与三郎。椅子から転げ落ちる大根ぶり。見目麗しさは瞠目、だがあの高校演劇みたいな芝居ぶりは。ちょうど、演技の道を見失って試行錯誤(たいてい間違ってる)を繰り返している高校生のようだ。ぼんぼん時代の与三郎はまだしも見られるが、(続

5)切られ与三郎になってからは目も当てられない…切られてから3年間、あいつの身の上はなんにも起きてないぞ。なんの機微も陰影もない!あんなに切られてるのにー!玉三郎は当然としても、獅童もきっちり脇を支えているのにあなた。彼はこのあと、芸を身につけていくのだろうか?いい加減不安。(続

6)比べちゃ酷だが仁左衛門の与三郎は何度見てもザ・与三郎。ぼんぼんのかわいさがにじみ出る。切られたあとの「しがねえ恋の情けが仇ぁ」の深み。自らの愚かさへの回顧、3年間の苦しみを、お富さんではなく自らに語る。あれは独白なのだ。あのセリフ回しの深みは、海老蔵には何度生まれ変わっ(続

7)ても出せないのではないか?セリフは、練習すれば誰でもできるようになるってもんじゃない。できない奴はずっとできない。海老蔵は別の道を探る方がいいのでは(無理だけど。市川家跡取りだし)。海老蔵、がんばってくれ!でもあれしか見たことのない人は、きっと大満足なんだろうな。美しいし(続

8)蜘蛛絲梓弦、猿之助はうまいなあ。人間の形をしているが異形のものだと目を見ればわかる。躍動感もあり、まさに猿之助の名前にふさわしい。先代ができなかったことを、継いで、発展させていくでしょう。ワンピースも超期待してるよ!ああいう、細部の作り込みを感じる役者って好きだ。(終わり

おまけ)それにしても、仁左衛門の当たり役を他のだめな演技で見ると、ますます仁左衛門への愛が強まっていく。きのうの切られ与三郎を見て、今、仁左衛門愛がMAX。先代の晩年もすごいいい男だったけど、全盛期を見てないし、現仁左衛門の凄さは代々なのか、彼が突出しているのか、よくわからない。


by apakaba | 2015-07-28 14:48 | 歌舞伎・音楽・美術など | Comments(0)
2015年 07月 18日

影絵公演で、担当を変わる

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今日は、区民センターの夏のお祭りに呼ばれて、「おやゆびひめ」をやってきた。
私は声の担当を外れて、初めての人形操作。
初心者向けの簡単な人形ばかり動かした。
いつも声の主演ばかりやる重圧から解放されて、練習期間中は胃も痛くならないし、夜もよく眠れて、穏やかな気持ちで過ごせた。

本番は、今までのどの練習よりはるかにうまくできて、みんなの集中力に毎度ながら感心しきり。

で、まあ、正直いって人形操作という役割は、私にとっては取り立てて楽しいわけでもなかった。
とても簡単な劇の簡単な担当だし。
声担当のときの、「さあ、見てろ!」というような、血が沸き立つような緊張感も高揚感も達成感も特になし。
その代わり、立場を変えることで、「作品を仕上げる」という一つの目的に向かいながらも、別の道をのぼっているという感じはよくわかった。
人形チームの現状もよく見えたし。
会社とかで部署が変わるのってこんな感覚なのかな。

立場を変えるのはいいことだと思う。
ずっと同じ場所にいると、考えが固着する。
もうやめたけど、保育園で先生たちに罵倒されつつこき使われる最下層の仕事をしていたときも、つくづくそう思っていた。
えらいひとはみんな保育園で勤労奉仕をするといいよ。

耳の病気がなかったら、ここまで聞こえのストレスに悩まされず、ずっと声の担当をやり続けていたかもしれないな。


by apakaba | 2015-07-18 18:15 | 歌舞伎・音楽・美術など | Comments(0)
2015年 06月 20日

6月3日、六月大歌舞伎、昼夜通しで鑑賞

今月の歌舞伎は昼夜通し狂言。
興行が始まってすぐの3日に見に行っていたけど、twitterでのツイートをこっちへ移す
ことを忘れていた。
というわけで……

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6月3日、歌舞伎座昼の部。天保遊俠録、自分の難聴が一気に進んだかと困惑するほど聞き取れない橋之助・国生親子。橋之助のがあがあした発声はどうしたことか。昔の方がいい役者だったような。芸者に身を落とした芝雀は役柄がよく似合い納得の演技。絶世の美女とかよりああいう役の方が合いますよ(続

2)新薄雪物語、花見。初役とは思えない仁左衛門の大ハマりぶりはどうだ!なんという美しい巨悪。ふだんの発声よりそうとう低く、唸り声のような低音を出しているが、むしろふだんの声より大きく響き渡る。信じられない。錦之助は安定の優男。吉右衛門登場時の若さにまた驚く。舞台に立つと、(続

3)吉右衛門は顔のシワさえ消えてしまう。詮議、一転、悪役仁左衛門がよい父親役という歌舞伎ならではの不思議配役。詮議の間じっと下を向いてただ座っているだけなのに、その美しい苦悩の顔に目が釘付け。でもほんとにじっと下を向いているだけではなく、細やかに表情で演技している。(続

4)その細やかな苦悩の表情で観客は父親に心を添わせる。大幹部勢揃いのすごい舞台。そしてそのまま夜の部突入。夜の部、新薄雪物語、広間・合腹。切腹してからだいぶ長く生きているまんまという歌舞伎ならではの無茶な芝居だが、幸四郎と仁左衛門が腹を抱えて痛がっているのではしょうがない。(続

5)正宗内、悪い子吉右衛門のモドリが見もの。セリフが入ってない様子がややハラハラ。さすがの吉右衛門も老いたか。だが必ず巻き返してしまいしかも最後はぴたりと決めてくるのが大役者の所以。しかしこの通し狂言、妙な話だね。やはり三大狂言の完全無欠な脚本に較べてあれこれと甘い。(続

6)いかに三大狂言が完璧な芝居なのかを改めて思い知った。「菅原伝授」のほとんど神だった菅丞相を思い出すと、寺子屋で菅丞相は出ていないのに、舞台の隅々にまで菅丞相の気配が濃厚に残っている。脚本にそこまでの力がある。まあ仁左衛門の威力というのはあるけど。(続

7)夕顔棚、菊五郎の別次元に入っている完全な婆ぶり。左團次の爺ぶりも完璧だがまあほんとに爺だからねえ。ああいう婆、いる。この婆が富司純子さまの旦那なのだと思うともう脳みそが大混乱。ここ何年かの菊五郎の芝居の超越ぶりは物凄い。自在の境地に達してる。声も誰よりも通るし。菊五郎万歳(終


by apakaba | 2015-06-20 08:25 | 歌舞伎・音楽・美術など | Comments(0)
2015年 06月 19日

誰も見たことのない『長靴をはいた猫』

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最後の練習日の私。ノイズキャンセリングイヤホンを調整しながらセリフを当てている


影絵の本番が終わった。
ノイズキャンセリングイヤホンを新調して、これでしばらくは大丈夫だと喜んでいたのも束の間。
聞こえがマシだった右耳が、いつの間にか少し聞こえなくなってきたため、左耳の響きを抑えるために左耳にイヤホンを突っ込むと、両方とも聞こえが心許なくなっていた。
それに気づいたのは、練習が始まってからだった。
あわてて左のイヤホンを外すと、やっぱり自分の声も人の声も頭にガンガン響いて、ふらふらする。
もともとは左耳が利き耳だったから、いまだによく聞こえないとつい左耳で聞こうとする癖が抜けない。
我ながら馬鹿みたいで、自分にいらいらする。
まだ本当の難聴までは時間があるだろうが、一気に右耳の具合が悪くなって両耳難聴になってしまったらと思うと不安でたまらない。

だから影絵で主演なんてもう無理なんだけどね。
20人以上の団員と一緒に練習して、声のパートの全権を任されるには、肉体的にも精神的にも負担がかかりすぎる。
練習期間中はずっと胃が痛くて、歯を食いしばりすぎてこめかみが痛い。
それでも、この劇団はいつもほんとにおもしろいことをやろうとしているから参加している。
参加すれば、明らかに情緒不安定になるとわかっているのに。

演目は『長靴をはいた猫』。
貧しい農家の三男坊が、親の形見に残された猫の悪知恵に従って、侯爵であるかのようにふるまい、富を手に入れお姫様と結婚するという、ペローの童話だ。
最初、私は乗り気ではなかった。
だから声の担当を外れようかなと考えていた。
しかし、劇団代表は、この童話を、勧善懲悪では割り切れない、物語世界の深さを表現したいという希望を持っていた。
ブーツで人間世界へと足を踏み入れ、時には手を汚すことも厭わずに、知恵で自分の求めるものを手に入れていく猫と、純粋な三男坊は、光と影のように表裏一体。
猫がワルなほど、三男坊の美しさは引き立つ。
猫の名前は「ボット」、フランス語で「ブーツ」の意味だという。
三男坊の名前は「アラン」、ありふれたフランス人の名前だ。
この構想はさすがだと思った。
急にやりたくなった。
おもしろおかしいだけのハッピーエンドではなくて、この世界が持つ割り切れなさ、ちょっとゾクッとくるおそろしさ、そういうわけのわからない迫力を感じさせたい。
代表の書く脚本は、私がボットをやることを前提として書かれていた。

劇団代表の構想に、さらに自分で役作りを加えた。
「ボットは、いなかった」
最初から、アランしかいなかった。
ボットはアランのもう一人の姿。
だから、アランに対して話すとき、アランのことを語るとき、ボットの口調はほんの少しやさしい。
だってもう一人の自分だから——。
劇を見てそんなことを想像する人は一人もいないだろうけど、いいのだ。
文学とは、こういった細部の作り込みの積み重ねで、この世界を垣間見せることだ。

発声の方法を変えて、口をあまり大きく開かずに喉から胸へかけて声を響かせる出し方にしてみた。
口をはっきり開けて声を張ると少年ヒーロー風になってしまう。
でも口を大きく開かず、しかもこもらせずにセリフを言うのはやったことがない。
今までの「田中真弓風」を捨て、「山田康雄風(ルパン三世ファーストシリーズ)」へと方針転換。
ダークでセクシーなワル。
最後までいい奴か悪い奴かよくわからない、目の離せない猫へ。

本番、マイクでその声を出すと、いちいちくだらない茶々を入れていた子供は静まり返る。
怖さを感じている。
怖さと同時に、魅力も感じていることが、ひしひしわかる。
そのうちに、画像の美しさ、芸術性あふれる音楽、人形の細やかな動き、芸達者な演技に引き込まれ、自然と私語はなくなる。
各パートの反省事項は尽きないだろうが、公演は大成功だった。

苦しんだ甲斐があった。
今回は異例の短い練習期間だったのに、各パートの能力の高さには感嘆するしかない。
病気の苦しみと引き換えにしてもやりたいと思えるのは、構想のおもしろさと、それを作り上げる団員に絶対の信頼があるからだ。
本当にありがとう。



高学年と低学年の2回公演をしましたが、低学年用をよりワルに作ったので、そちらを載せます。
(体育館の音響の調子が悪く、残念なことに「キーン」という高周波が入ってしまっています。)

いつまでやれるかなあー。


by apakaba | 2015-06-19 17:16 | 歌舞伎・音楽・美術など | Comments(0)
2015年 05月 07日

さめない夢の世界へ——「チームラボ 踊る!アート展と、学ぶ!未来の遊園地」

この2年、ウルトラテクノロジスト集団「チームラボ」代表の猪子さんにぞっこんだ。
初めて会った日から一目惚れ。
チームラボと猪子さんには、ずっとドキドキさせられっぱなし。

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『秩序がなくともピースは成り立つ』
私はここに30分いました。
それほど気持ちいい。
鑑賞者の動きに反応した人間や動物(ウサギやカエル)がこちらに合図を送ったり、踊りをやめてこちらを見たりする

2013年12月、チームラボがシンガポールビエンナーレに『秩序がなくともピースは成り立つ』を出展していると知り、シンガポールへ行ってみた。
すると会場に、たまたま猪子さんがいたのだ。
チェックのシャツの普段着で、関係者と談笑しているのを遠くから見ただけでも、“乗りにノッてる男”の輝きがすごかった。
勇気を出して少しだけお話をしたが、壁というものがまるっきりなくて、気さくでフラット。
凡人とは別次元のところにいる真の天才とは、こんな人が多い。
その太陽のような明るさとシャベリのアホの子っぽさ(すみません。天才なんですよ)に完全に参ってしまった。

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この滝の水の落ちる速度は、ほんものの水よりも少し遅くしているという。
それにより、ほんものの水よりもさらにリアリティーを獲得する。
目への訴求。

(シンガポールビエンナーレの記事をエイビーロードに書き、猪子さんとの出会いも書いたのでぜひどうぞ!
作品の簡単な説明もあります。こちら→「シンガポールビエンナーレ2013」報告!(その2)

2014年3月、佐賀で開催された、チームラボ国内初の大規模な展覧会「チームラボと佐賀 巡る!巡り巡って巡る展」へ行った。
あまりに感動して、東京から2回行った。
なんと佐賀でも、猪子さんと会えてお話ができたのだった。
「シンガポールでお会いしました」と話しかけると、「ああーっ!あのときの!また東京から来てくれたの?嬉しいなあ!」と、会ったことを思い出してくれた。
2回続けてご本人とお会いできたから、今でも展覧会場に行くと猪子さんがいるような気がしてドキドキしてしまうのだろう。

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漢字が降りてくる。
漢字に触れるとその漢字のイメージの絵がふわっと現れてくる。
誰もなにもしないと、このとおり静かに漢字が降りては消えていくだけ。
日本科学未来館の展示では、たまたま、私がやってみせるまで、誰もその仕掛けをわかっていなかった。
文字が、意味を召喚する。
古代にはあったであろう「文字」というものに込められた力の原点へ、立ち返る

佐賀の「巡る展」は、旅先でtwitterに連ツイしたので載せておく。

佐賀の目的はこれだ。「チームラボと佐賀 巡る!巡り巡って巡る展」3週間前にも来た。あまりの感動で再訪。二度とも東京からだが、それだけの価値はある。この3週間、衝撃と感動の余韻がずっと体に残っていた。また来られてやっと落ち着いた感じ。

開催直後は空いていて貸し切り状態のこともあったが、昨日は大盛況。嬉しい。老夫婦のおじいさんが「こんなのを見てたら、全部吹っ飛んじゃうな。悩みとか、嫌なこと全部…」と言ってた。そう、チームラボは鑑賞じゃなくて体験。

作品に共通する強烈かつ高次元の日本への愛。天才の工学の人間が日本への愛を表すとこうなるのか。そこに言葉は介在する余地無し!言葉をすっ飛ばしてダイレクトに髄にくる感じ、だが手法はあくまでデジタル。それがカッコいい

チームラボを見ていると日本がとてつもなくカッコよく見えてくる。「日本」というコンテンツの読み解きの深さが凡百の「アート」とは段違いなのだ。まさしく天才集団。心の底から言い知れぬ気持ちが溢れ出し、涙があふれる。また、どこかで。

自と他、主体と客体の区別がつかなくなり、作品の中に入り込む感覚。それがパースペクティブの西洋絵画とまったく違う目でこの世界を感じて表現してきた日本人の見方。チームラボを見る前に猪子さんのインタビューや本を読むと感動もひとしお。

チームラボ猪子さんはイケメンと言われるがむしろ「面構えのいい男」。武士に会ったことないけど武士みたいな風貌。アホの子のようなシャベリに隠された強靭な知性と意志。デジタルで、網膜に映る残像、残り香、消えゆくものの気配、この世の名残り、日本的な美の全てを立ち上がらせる。天才集団来たる

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『ニルヴァーナ』
釈迦の入滅に集まった動物たち。
伊藤若冲から着想を得たこの作品は、佐賀ではモニター展示、東京ではプロジェクションマッピング。
プロジェクションマッピングは絵がややぼやけるが、より若冲らしさに近い。

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入滅の瞬間、うごめいていた動物たちが全員、こちらを向いて動きを止める。
やがて静かに去っていく。
釈迦のまぶたが閉じられるのを感じる。
自らが、死にゆく釈迦の視点になる。
日本科学未来館では、会期途中に展示を変えた。
この作品が『世界は、統合されつつ、分割もされ、繰り返しつつ、いつも違う』というタイトルとなり、アニメーションではなくなった。
始まりと終わりがなくなり、涅槃の物語は消えた。
代わりに、鑑賞者が壁に手を触れるとその影響を受けてさざ波のように画面が動く。
ニルヴァーナ(涅槃)も感動的だったが、さらにインタラクティブを追求したこの場に合ったものに進化


このときは、「東京凱旋はいつだろう」と、もうそれだけを待っていた。
2014年6月に、東京都現代美術館で開催された「ミッション[宇宙×芸術] -コスモロジーを超えて」に、2点出展していたが、もっともっとどっさり見たい。
そしたら日本科学未来館が大規模展覧会を、やってくれた!
3回行っちゃった。

今日、3回目に行ってきたが、展示が増えたり変わったりしていた。
やっぱり来てよかった。

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みんな大好き、『追われるカラス、追うカラスも追われるカラス、そして分割された視点』
板野サーカスへのオマージュ。
これは50回は見た。
あまりのかっこよさに涙があふれて止まらない


いくら見ていても、“飽きる”ということがない。
帰らなければいけない時間だから見るのをやめるだけで、本当はみんな、いつまでもずーっと見ていたいのだ。
会場のあちこちで、「ずっと見ていたいわ……」「家に持って帰りたい。家で見てたら30分くらいすぐ経っちゃうだろうな」「いや、ここから動きたくない……!」というつぶやきが漏れていた。

私も、同じ作品をそれぞれ何十回も見たが、それでもまたその作品に向き合うときがズキズキするほど待ちきれないのだ。
それくらい、チームラボの展示は多幸感にあふれている。
脳内の快楽物質がドクドク分泌されて、目をそらすことができない。
ある年上の友人が「あの映像の快楽は射精の感覚に似ている」と言ったが、その喩えはまさしく正鵠。
小理屈をすべて引っ剥がして、最後の最後に残った、人間が求める高次の快感だけを、隙なく繰り広げる。
「だって気持ちいいでしょこれ?」
作品の前に立ち尽くす人の頭に、猪子さんのあのシャベリが降ってくるようだ。

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会期途中で発表された新作。
蘭が人の動きを感知して上がったり下がったりする。
花の上下のスピードや距離を、どれだけ測っただろう。
人が快感を感じるタイミングにぴたりと合ったとき、上下の感覚が失せ、浮遊感が生まれる


とてつもない天才が現れたとき、テクノロジーもアートも、激烈な転換点を迎える。
今、チームラボの見せるアートは、まさにその歴史的な大転換の中心にいると感じる。
誰も天才・猪子と天才・チームラボの仕掛ける未来についてこられない。
ついてこられるのは、天才か、子供だ。
未来の遊園地ゾーンで遊ぶ子供たちの輝く無心な顔を見よ。

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小理屈をこねて斜に構える大人には、ここのおもしろさはわからない。

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好奇心を持った大人は遊べる。


デジタルは冷たい?
デジタルは芸術とはいえない?
“複製技術時代の芸術(ベンヤミン)”を先鋭化させた鬼っ子?
いや、それは前時代へのノスタルジーだ。
デジタルでしか成しえなかった、新しいアートを見てほしい。
デジタルは双方向。
あたたかさに満ちた概念。
人を分断するのではなく、人を楽々とつなげる。
「日本」の「科学」の「未来」をおさめた日本科学未来館での展覧会開催は、まさしく未来を見せてくれるチームラボにふさわしい会場だ。

このレビューを読んで、週末に日本科学未来館へ行こうと思った皆さん。
作品を見る前に、かならず、解説を読んでほしい。
解説を読むことで、彼らがどれほど深くアートを、テクノロジーを、未来を信じているか、日本を、アートを、人間を愛しているかを、理解できる。
ともに、幸せを体験しましょう!

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新作の部屋で夢を見ている人々。
目覚めてもさめない夢があるとすれば、それはチームラボだ。



by apakaba | 2015-05-07 23:02 | 歌舞伎・音楽・美術など | Comments(0)