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2015年 02月 24日

直球だけでは試合できない

きのう、影絵劇団の反省会を少人数でちょっとだけした。
そのとき同席者からおもしろい指摘をされた。
私は、劇の練習に関して、自分が担当している声チームのことだけでなく、人形操作・音楽・背景画像についても気がついたことがあればできるだけ発言するようにしている。
そのとき、どんなに思うようにいっていなくても、決して感情的に怒ることはしない。

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本文と関係ありませんが、日曜のお昼のタイ料理。

「でもね、ミタニさんのことを“怖い”と思う人はやっぱりいるのよ。ミタニさんは自分では『私は怒らないしいつも褒めている。だから怖くない』と言ってるけど、それでも怖い。それはね」
理由を説明してくれた。

「私はミタニさんのことが怖くない。それは、ミタニさんが言うことにはうそがないから。
裏表がなくて、人によって態度を変えるとか、そういうずるいことを決してしない。『この人こう言ってるけど、本音はちがうんじゃないかな』とか疑っちゃうような人って多いでしょう?私はそういう人のほうが怖いもん。
でもね、ミタニさんの言うことは、あまりにもまっすぐで力があってうそがないから、その分、その言葉を受け止めきれない相手は、“怖い”と感じると思うの。
相手にも同じだけの強さがないと、本当にそのとおりだからこそ傷つく。
攻撃のように受け取られるのね。
ミタニさんの言葉は、受け取る人によっては誠実で真剣すぎるの。
本当のことを言われると、人は怖さを感じるのよ。
もしも自分を改善しなくちゃと思っているとしたら、そのことはちょっと考えておくといいかもしれない。」

ありがたいねえ。
こういうことを言ってくれる人は、大事にしないとね。
完全に納得した。
こういう正論をはっきり言われて“ありがたいねえ”と感じるか、“あの人怖い。あの人にこんなこと言われた。嫌だなあ”と感じるかが分かれ目なのだろう。
小動物的自己防衛本能の強い人ほど、私のような人間は受け付けられないのだろう。
これでも一応、「まあ、気楽に」とか「私も大体失敗するんですが……」という言葉を忘れずに添えているのだが、初めに受け止めきれないことを言われたあとでは効果もないのだろう。

人に言うことを聞いてもらうのって、ほんとに難しい。
まずは自分が価値のある人間にならなければ、言葉に力はない。
そして力は、あれば使っていいってもんじゃない。
現状、私は団体の創設期メンバーだし、いわゆる“看板”だ。
それを周りに意識してほしくないけれど、やっぱり立場というものはそれだけでリッパに一つの脅威となる。
うまく調和しつつ言うことを聞いてもらうには……悩みは続く。


by apakaba | 2015-02-24 19:15 | 歌舞伎・音楽・美術など | Comments(0)
2015年 02月 18日

影絵人形劇はこんな感じです

2005年、うちの子供たちが小学生だった時代に、その小学校で「図書ボランティア」という団体が発足した。
小学校の図書室を整備し、読み聞かせをする。
私も発足と同時に登録した(図書室改造、どうせ読み聞かせをやるなら)。
数年後、各学期末にお楽しみ企画として、昔話などを劇仕立てにしたペープサート(厚紙に登場人物を書いて棒を貼り付けて動かす人形劇)や紙芝居を始め、やがて影絵へと発展していった。

この時代から私は声を当てる担当だったが、すごくやる気のない不良団員だった。
演劇は好きだったけれど、練習しても見せる相手が少なすぎる。
図書室でやるから、1年生でほぼ満杯で、あとはわずかな子供しか入れない。
ぶっつけ本番でもどうせ読めるしと思ってまったく練習に出ず、本番ぎりぎりに入って台本を渡されて読んだら片付けもせず帰るというような、最悪の団員だった。
あのころを思い出すと本当に恥ずかしい。
でも各パートごとの交流もまるでなく(私の態度が悪かったからかもしれないけど)、お互いにアドバイスしあうという雰囲気もまるでなく(私の態度が悪かったからかもしれないけど)、それじゃやる気出ないよ(私の態度が〜〜以下同文)。

それでも団体代表は、クビにもせずに私の登録を続けさせてくれただけでなく、さらに影絵人形劇を発展させていくことに成功した。
図書室整備や読み聞かせの部門とは別に影絵人形劇団として別枠を作り、公演場所もせまい図書室ではなく体育館へ移し、授業時間のコマを使って保護者も観覧できるようにしたのだった。
こうなると、元来が目立ちたがりの私は別人のようにやる気が出る!

目立ちたがりとかいうのとは別に……
教育が国の未来を担う、っていつも思っている。
だからずっと小学生に勉強を教える仕事をしていたし、3年前には高校の講師にもなろうとしていた(就活で落ちたけど!)。
子供に勉強を教えることが好きだった。
わからなくて困り果てていた子が、「わかった」ときの表情は、本当に輝いている。
けれども、私が子供に勉強を教えることがだんだんと叶わなくなってきても、別の形で教育現場に直接関わっていける特技がまだある。
それが演劇だった。

ともすると内輪ウケの悪ノリに流れていきやすかった「図書室スペシャル時代」とはちがって、なにしろ学校の授業時間を与えられ、区から予算もたっぷりついている(区から予算を獲得するのは大変なことなのだ)。
責任がある。
人形・音楽・背景画像の芸術性は、各パートのものすごい努力の末、昔と比較にならないほど上がった。
そうなると、素人っぽさが一番目立つのは声。
いくら他のパートが芸術的でも、声が素人っぽいと芸術性がガタ落ちしてしまう。
昔の不良団員時代の反省を踏まえて、できるだけ声に当たった人たちと密に接するように心がけてきた。
今ではだいぶ劇団としてのまとまりが出てきた。
初めはお母さんたちの趣味の活動くらいのものだったが、団員も、だんだんと教育現場に直接関わっているという自覚を持ち始めてきたように思う。

今後、近隣の学校や区民の行事などに活動範囲を広げていくらしい。
さらに大きな場所、さらに意義ある場所、さらに求められている場所に、出て行きたい。
大所帯だから実現は大変だと思うけどね。
見るのは簡単、やるのは大変。
私はすごく自分に甘い人間だけど、声の演技に関してだけは、一番困難な一番細い道を通るようにしている(まあそれでたいてい失敗するんだけど)。
自分の声の的中率を上げていくことはもちろんいつでも個人的な目標だ。
でも影絵は総合芸術で、いくら一人でがんばってもなにも生まれない。
だからおもしろい。
とんでもなく奥が深い。
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初めて動画を出す許可が出ました。
37分の上演時間なので長いですが、絶対ラストの歌まで見てください。
ちょこちょこ見てもつまんないです。
私はタイトルロールです。



by apakaba | 2015-02-18 10:45 | 歌舞伎・音楽・美術など | Comments(2)
2015年 02月 14日

公演直後心情吐露

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今朝。娘の「コシヒカリ」がくれた『ONE PIECE』マグカップ。
尊敬する少年役声優の田中真弓さんにあやかり、これでコーヒーを飲むと演技がうまくなる気がする


今日は私が所属している影絵人形劇団の公演だった。
DVD製作のため、朝8時過ぎから収録をして、小学校の生徒向けにそのあと2回公演。
さしたる大きな失敗もなく終了した。

あんなに一生懸命話し合って、ストーリーを作って、新しいチャレンジを取り入れて、準備をしてきたのに、終わってしまうとあっけない。
いつもそうなのだけど、公演が終わると、しばらくなにもしたくなくなる。
台本は見たくもないし、誰とも口をききたくなくなる。
みんなで力を合わせてやり遂げたという達成感と同じくらいの大きさで、虚無感と自己嫌悪が襲う。

あのセリフは本番よりも何月何日の練習のときのほうがうまくできたよ!
このセリフは、結局一度もうまく言えなかったよ!
聴覚障害がなかったら、もっとうまくできたよ。
聴覚障害で集中力が途切れて、本番中に出番がわからなくなって出が遅れたよ……ちがうの、私ほんとはもっとうまいんですよー!!!!

悔しくて悲しい気持ちは、やり終わった直後が一番大きい。
こんなふうに、誰にともなく心の中で言い訳をしてしまうことは、すごく見苦しいと思う。

私の役柄は、いつでも圧倒的に出番が多く、しかも渾身の力を振り絞らないとできない役ばかりなので、直後には「もうこの先、新しい役はできないのではないか」という不安にも襲われる。
私は声担当の責任者なので、自分の役だけに打ち込んでいればいいというものでもなく、声チーム全員の演技を見ないといけない。
人を動かすのは難しい。
でも人に教えることは好きだ。
私はほぼ褒め言葉しか口にしない(塾をやっていたときもそうだったが)から、みんな自然に上手になる。

この練習期間中、とても嫌なニュースが多くて、「日本はもうダメなんじゃないか」と沈鬱な気持ちだった。
この国の大人はもうダメなんじゃないのかと。
でも、子供は大事。
子供の教育が国の力になる。
影絵という総合芸術を使って、教育の一端を担えることに、自負を感じる。
子供にはみんな幸せになってほしい。
最終的には、それが原動力になってる。
ノイズキャンセリングヘッドホンを手放せない体になって、あとどれだけやれるだろうか?

by apakaba | 2015-02-14 17:32 | 歌舞伎・音楽・美術など | Comments(0)
2015年 02月 09日

カッコよく一拍目へ戻る! ガタムじめ、音や金時

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右がガタム奏者の久野さん。左で演奏中なのがモールシン(口琴)奏者の盟友・竹原さん。二人とも本当に、カッコいいです

ゆうべ、久野隆昭さんのラストライブへ行った。
久野さんは、日本でただ一人の、ガタムという楽器の演奏家だが、春から転職するため今回が最後の演奏になったのだった。

久野さんの演奏を初めて聴いたのは3年前。
それまでインドの打楽器ガタムのことを知らなかった。
音色にも演奏方法にも仰天したし、西洋音楽の理論とまったく異なるセオリーを持つインドの音楽にも衝撃を受けた。
録音された音を聴いているだけでは決して味わえないライブならではのグルーヴ、共演者との火花が散るような駆け引きの瞬間やすべてが溶けて一体になっていく瞬間には心底しびれた。

それ以来、久野さんが出るステージには最大限の努力をして聴きに行っていた、の、に……久野さんは若いし、まだまだ、この先何年もずう〜っと、ガタムを聴かせてくれると思っていたのに。
でも、小学校の先生になるんだって。
いいよね。
いい門出。

ガタムは日本ではなじみのない楽器だから、久野さんはパフォーマンスの前にはいつも入門編の解説をしてくれていた。
演奏には五拍子、七拍子、八拍子といったリズムがあり、途中どんなにリズムが揺れるように思えても、一拍目にビシッと戻ってくるのがインド打楽器のカッコよさなのだと。
いかにカッコよく一拍目に戻るかが聴かせどころらしい。
久野さんは、大学を出て会社勤めをして、会社をやめてプロガタムプレイヤーになった。
そして春からは小学校の先生に。
カッコよく一拍目に戻る道。
いつかまた、ガタムプレイヤーの道へ、カッコよく戻ってきてくれると信じている。
就職おめでとうございます!

by apakaba | 2015-02-09 09:40 | 歌舞伎・音楽・美術など | Comments(0)
2014年 10月 27日

英語の歌

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本文と関係ありませんが、アーリオ・オーリオ・ペペロンチーノ。頂き物のナマ唐辛子がさわやかでした!

ゆうべ、夫がTSUTAYAでブライアン・アダムスのベストアルバム『Anthology』を借りてきて、夕食時にかけていた。
往年の、数々のヒット曲に「ウワーこれはなつかしいね……」とくり返す私。

「私はブライアン・アダムスの全盛時代のアルバムを何枚も唄えるよ。アルバムまるごとで。というかブライアン・アダムスだけじゃなくいろんな人の曲を、アルバムまるまるで唄える。」
と言うと、家族は驚く。
高校生で英語の歌をあんなにいっぱい唄えたのだから、昔の若者はえらかったもんだ。
「私も昔は頭よかったんだよね……」
夫は「若かったからだよ。」と言う。
うん、それはもちろんそうだ。
娯楽も少なかったし。
でも、部活もやっていたしデートや予備校もあって、それでどうして英語の歌詞なんか覚える時間があったのだろう?

今、うちの子供たちは当時の私のように英語の歌をいくらでもすらすら唄うということはとてもできない。
かろうじて長男が少し唄える程度。
英語で歌を唄うという環境がなければ、覚えられるわけがない。
人生で最も物覚えがいい時代に英語の歌詞のひとつも覚えないとは、情けない話だ。

実際、今の私はどんなに好きな英語ミュージシャンの歌でも、やっぱり覚えられない。
とても悲しい。

問題を先送りにするようだけど、決心した。
このあと私の耳はどんどん難聴になる一方で、とうてい音楽を楽しめる状態ではなくなるだろう。
難聴のせいで日に日に音痴になっていってるし。
でも手術をして聴力が回復したら、そのときこそ、一念発起して英語の歌詞を覚えよう。
それを楽しみに生きようと思う。

by apakaba | 2014-10-27 22:31 | 歌舞伎・音楽・美術など | Comments(0)
2014年 10月 26日

名古屋市美術館探訪記

名古屋の友人に会いに行き、ついでに名古屋市美術館を歩いてみた。

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まず腹ごしらえに白えびの天丼。白えびは東京ではめったに食べません

名古屋市美術館は、名古屋出身の建築家である故・黒川紀章氏が自ら「私の代表作だ」と言って殊に愛していたという。

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このスケールの建築物には、作り手も愛着を抱きやすいのではないだろうか。
晩年の作品である「国立新美術館」の、鈍重でお金のにおいしかしない建築物に較べ、1階部分を地下に埋め込んだ低層建築という野心あふれる構造が好ましい。
今になって見ると部材の古くささは否めないが、黒川氏のアイデアが横溢している。

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国立新美術館ほどには馬鹿げたうねり方をしていない

さてここで開催されていたのは、東京から巡回でまわってきた「現代美術のハードコアはじつは世界の宝である展 ヤゲオ財団コレクションより」である。
タイトルといい、各作品の解説文といい、なんとも軽々しい。
世界の一流の現代アート作品が集まっているのに、この軽々しさが“アートの敷居の高さを低くする”と考えているのだとしたら、逆効果だと思った。

コレクションはすべてがすばらしいというわけではないが(現代アートはそういうもんです)、多くが感動的もしくは興味深いものだった。
とくに印象に残ったものはメモを取ったので、その分だけ記しておく。

・アンディ・ウォーホル「ジャッキー・フリーズ」 
有名人の顔を反復させるウォーホルの手法は、対象への愛とリスペクトがいつもある。それは無数に撮った「自画像」の自己愛と自己憐憫とは別のもの。素直さに心を打たれる。

・ゲルハルト・リヒター「毛沢東」
絵に目を近づけるとかえって逃げていく感覚。毛沢東という人物をまちがいなく描いているのに、近づこうとするほど実体が見えにくくなる。抜群の視覚トリック。

・杉本博司「最後の晩餐」
久々に見た、蝋人形シリーズ!どでかい。かの有名な宗教画を杉本が解釈すると、ゾクゾクする「実存」へ、生命を与えられる。

・トーマス・シュトゥルート「ノートル・ダム、パリ」
大好きな、パリのノートルダム寺院だ。下に人間、上に彫像、そのどちらにリアリティーがある?ゴシック建築の粋をこの高さとスケールで撮ると、見る者が神の視点になる。

・アンドレアス・グルスキー「V&R」
やっぱりグルスキーの巨大プリントはすごい。「物質文明への批判」などもっともらしい解説はあるが、私にはファッションショーの写真は色の美しさにうっとり。

・ツァイ・グオチャン(蔡國強)「葉公好龍」
香港大学の美術館で、この人の企画展を見た。大判の紙を火薬で焼いて、龍を表現するという発想のおもしろさ以上に、東洋的な美がはっきりと現れている。作家のことを何も知らなくても、一目で東洋人とわかるのだ。


1階展示室と2階展示室があり、1階のほうが圧倒的な作品ぞろいだったが、2階へ上がっていく階段のスペースは近未来的ともいえる真っ白な空間で、1階部分で得たさまざまな考えをいったんリセットさせている。
やるなあ。黒川紀章。

この美術館は所蔵品もすばらしく、半分はそれが目当てだった。
日本で唯一、フリーダ・カーロを持っているのだ。
初めて見るほんもののフリーダ・カーロの「死の仮面を被った少女」は、重い作品のはずなのに、愛らしく、陰りのない色彩があふれていて、素直に「きれいな色だなあ」と思った。

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そして、たまたま私が行った日一日だけ展示されていた、ジェームズ・タレルのインスタレーションが!!!
《知覚の部屋-テレフォンブース;意識の変容》という体験型の作品で、予約をして1時間ほど待つ。
7分間、やっと直立していられるくらいのせまい部屋に閉じ込められる。
小さな半円のドームが頭にはまりこみ、びょお〜びょお〜という砂嵐みたいな音とともに、ドームの中は青、紫、ピンクとゆるやかに変化する光が映し出される。
ドームは真っ白なので、たちまち遠近感は失われ、頭の上に無限に空間は延びているようにも思える。
いかにもタレルらしい視覚効果だ。
そのうち光に包まれていた頭上には、人を不安に陥れるような縞模様の光線——言葉では表しにくいが——が、しつこく発生する。
ずーっとこのくりかえしだ。
7分間耐えられる人は少ないようで、多くの人は途中で退出してしまうという。

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なんなんですかねタレルって人は。
私はもちろん7分間立ってましたが。
なにを信じるか?
目に映るものを信じていいのか?
いままさに体験していることは、ほんとうに“体験”か?
いつもクエスチョンマークを次々と突きつけてくる、大好きなアーティストだ。

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しめさばおいしうございました。焼酎のロックが鮨屋の湯飲みで出るのは不思議だったが

名古屋ですっかり文化的な一日を過ごせた。

by apakaba | 2014-10-26 19:11 | 歌舞伎・音楽・美術など | Comments(2)
2014年 10月 24日

サントリー美術館「高野山の名宝」と国立新美術館「チューリヒ美術館展」

六本木の三大美術館、「サントリー美術館」「国立新美術館」「森美術館」を「六本木アートトライアングル」というらしいが、今日は森美術館以外のふたつをまわってきた。

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サントリー美術館併設カフェ「不室屋」の麩焼きお汁弁当。私にはお酒がないと味が濃いがここに来るといつも食べる

サントリー美術館で開催中の「高野山の名宝」は、ハズレ企画なしのサントリー美術館らしい、満足度の高い展示。
とりわけ運慶作の「八大童子像」の露出展示(ガラスケースなし)がすばらしい。
よく、「仏像はお寺で見なければ。美術館では、ムードが出ないよねえ」などと言う人がいるけれど、私はそれにはまったく賛成しない。
こんなに間近く、好きな角度から仏像を眺められるなどという贅沢がゆるされるなんて、まったくいい時代だ。

「八大童子像」は、運慶の作品と、時代がはるかに下ったあとの作品が混在している不思議な集合体なのだが、誰でも一目で「これは運慶、これも運慶、これは運慶じゃない。」と区別がつく。
運慶の作品はあまりにもあまりにも、独創的だ。
あまりにも写実的。
童子の顔(と妙な髪型)を見て、まず衆生(と敢えて呼ぶ)が感じるのは、ありがたみよりも“親近感と嫌悪感”ではないか?
「あ〜こんな顔のヤツいるわ、昔同じクラスだった、すごい性格悪かった小太りのヤツ」とか、「あっ!この人見たことある!ん、たまに弁当屋の前で会う隣の部署の人?」とでもいうような……なんともいえない、気まずいような距離感。
それなのに、やっぱりこの世の人間では絶対にない超人的なはかり知れなさを湛えている。
美少年でもなんでもないのに、目が離せない。
関わり合いたくないのに、関わらずにはいられない、そんな感じの童子の一群だ。
よくぞ高野山から降りてきてくれた。
快慶の四天王像もいいけれど、やっぱり運慶の魅力には及ばなかった。

それにしても「玉眼」というのは、当時の美術界において、ドラスティックな改革をもたらしたものだったんだろうなあ。
あれをやったらもう後戻りはできない。
ただの一片の木が、玉眼を得ることでほんものの仏像になる。
平安末期から鎌倉時代に起こった玉眼ブーム(?)を見ていると、当時の日本文化の質の高さには感動する。

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次に国立新美術館の「チューリヒ美術館展」へ。
こっちの展示は、けっこうヒドいと思った。
副題どおりの“印象派からシュルレアリズムまで”の錚々たる作家の作品を、ただただ、ずらずらと並べているだけ。
倉庫みたいな展示だ。
キュレーターはなにをしているの?
ふつう、スイスという国の説明とか、チューリヒ美術館での実際の展示の様子や日本との関わりなどを、展示の合間に写真などで解説してあったりしないか。
それでも、このキュレーターの時代に、こんな企画展でも千客万来なのだから、東京とはおめでたい街だ。

なにしろ超有名作家ぞろいなので、いい作品はいっぱいある。
しかし一回りすると、結局なにを見ていたのかよく思い出せない。
なにかに向かってグッと引き寄せられていくような、大きな力に導かれるような企画がない。

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地元の喫茶店に戻る

ふたつの企画展を見て、作品そのものの持つ力よりも、都心で開催する美術展には企画力が大事だなあと感じた。
まあいつも感じるのだけど。
やっぱり私はサントリー美術館が好き。相性がいい。

by apakaba | 2014-10-24 22:46 | 歌舞伎・音楽・美術など | Comments(2)
2014年 09月 14日

ケーララの祭り「オーナム」@国分寺カフェスロー

国分寺カフェスローでのイベント「オーナム」に行ってきた。
オーナムとは南インドのケーララのお祭りのことだという。
ケーララには、20年ちかく前にさびしい旅行をした。
本場でダンスも見たけど、とくに感動しなかった。

が!!!!!
今日の二組のダンスは感動した。

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モヒニアッタムを踊った丸橋さんは、15年くらい前からの知り合いだったのに、ダンスを見るのは今日が初めて。
感慨無量である。
“ダンス”という言葉から連想する、西洋的なダンスとはぜんぜんちがう。
演劇的な表現がとてもおもしろかった。
クリシュナとの恋の行方を踊ったダンスと、母親が赤ちゃんをあやして寝かしながら赤ちゃんのかわいさにうっとりするというダンスでは、同じ“女”でも表現する表情がまったく変わっている。
“母親”を演じる丸橋さんは母親の顔であった。
クリシュナと彼にあこがれる女性の表現は、異性を惹き付ける、若い色気が横溢していた。

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そして入野智江ターラさん率いるアビナヤラボの古典劇クーリヤッタムは、本当に不思議な踊りだった。
目が離せないのだけれど、催眠術にかけられたようになるというか、この時が永遠に続くように感じられるというか、永遠なものへと続いていく感じだ。
ダンスを見ているのか、自分がなにをしているのかすら判然としなくなるような、平凡な言い方をすれば神がかっているような踊り。
妙な喩えだが、「親知らずを抜く大変な手術をしているのに、その最中になぜか思わず眠ってしまう」という感覚。
すごいことが行われているのにふと自分が無になるような感覚。
世界最古の演劇と呼ばれるのもわかる。
パーカッションのみの伴奏も、その感覚を増幅させるすばらしいものだった。

お二人のダンスを見ていて、演じるということ/身体を使った内的な表現ということを考えていた。
自己表現の究極の形を二つ見せてもらえた。
インド舞踊とひとくちにいってもいろいろな系列がある。
この道を長年追求してきたお二人の踊りは、新米の踊り手には絶対に出せない表現力を持っていた。

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マサラワーラーのケーララ料理はおいしかった!
いつもよりからくなかった!(一度唐辛子噛んだけど!)
あの毎回工夫された料理も、彼らの自己表現なんだなあ。

by apakaba | 2014-09-14 00:20 | 歌舞伎・音楽・美術など | Comments(0)
2014年 09月 02日

やっぱりチームラボ。東京都現代美術館「ミッション[宇宙×芸術]-コスモロジーを超えて」

先週の金曜日、東京都現代美術館で開催されていた(会期終了)「ミッション[宇宙×芸術]-コスモロジーを超えて」へ行ってきた。
うちからだととても遠いが、チームラボが出展しているので夕方から首都高で。
電車で行く元気なし。

宇宙というテーマから、「博物館のほうがいいのでは?」と懸念していたが、展示を見たら「美術館」で納得した。
宇宙にインスピレーションを得た、ジャンルを超えたさまざまなアートが中心となっていた。
まあやっぱり、私としてはチームラボ圧勝でしたけどね!
なにしろ代表の猪子さんが好きすぎて、夢に出たりするくらいだ。

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「冷たい生命」は佐賀のチームラボ展でも見た感動作。
書道の墨痕が描く「生」という字の軌跡から、地上のあらゆる生命が生まれ、四季が生まれ、過ぎていく。
デジタルアートでありつつ、表現はきわめて日本的な美。
過ぎゆくものへの郷愁、巡り来る次の季節への喜びと懐かしさ。
去っていくもの(花、蝶、葉)へ向かって手を伸ばしたくなるが……ふと剥落するように、その裏側のデジタルの骨組みを見せられる。
そこで興ざめするかと思えば、かえってますます儚さを募らせる。
人に芽生えるあらゆる感情を、現代の天才はデジタルで余すところなく映し出す。

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そしてこの展覧会のための新作「憑依する滝、人工衛星の重力」は、広い会場が飛沫の湿気で満たされるかのような心地になるデジタルインスタレーションであった。
人工衛星にふりそそぐ水は、ほんものの水のようでありながら、ほんものの水の落下よりもわずかに遅い。
そこに、見る者それぞれの気持ちを入り込ませる「余地」が生まれる。
見る人によって自由な解釈を結べ、自由に想像を遊ばせ、ただぼんやりと見入るのも自由。
自由落下を少し遅らせるだけで、ここまで人は解放され、自由になれる。

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この日は特別展示で、夜7時からは滝の水が黄金に変わるのだった。
7時前から少しずつ人が集まり始め、水の色がふと(予告や音楽などもなく)金に変わっても、人々はざわめくこともなく見入っていた。
いや、ざわめきを忘れ、陶然としていた。
一心に金色の水を浴び、金の飛沫を胸に吸い込もうとしているようだった。

チームラボは100年残る天才だ。
他の展示もとてもおもしろかったが、結局全部かっさらわれた。
(シンガポールビエンナーレと佐賀でのチームラボ報告も、ちかぢか必ず書きますねー!)

by apakaba | 2014-09-02 22:26 | 歌舞伎・音楽・美術など | Comments(0)
2014年 05月 03日

江口寿史 キング オブ ポップ(予告編)展

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80年代のあのころは、絵の上手さにビックリしたものだけど。

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たしかに、ひばりくんの原画(非売品)は美しかったけど。

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こうして新しい絵と見比べると、今のほうがうまい。
今のほうがしなやか、今のほうが立体感がある、今のほうが描く力が抜けてそれでいて描かれる女の子に力がある。

新しくなるほど魅力が増す。
立ち止まらずに描き続ける。
円熟してるけど進化している!
すごい!

by apakaba | 2014-05-03 07:19 | 歌舞伎・音楽・美術など | Comments(0)