あぱかば・ブログ篇

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カテゴリ:歌舞伎・音楽・美術など( 206 )


2014年 10月 24日

サントリー美術館「高野山の名宝」と国立新美術館「チューリヒ美術館展」

六本木の三大美術館、「サントリー美術館」「国立新美術館」「森美術館」を「六本木アートトライアングル」というらしいが、今日は森美術館以外のふたつをまわってきた。

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サントリー美術館併設カフェ「不室屋」の麩焼きお汁弁当。私にはお酒がないと味が濃いがここに来るといつも食べる

サントリー美術館で開催中の「高野山の名宝」は、ハズレ企画なしのサントリー美術館らしい、満足度の高い展示。
とりわけ運慶作の「八大童子像」の露出展示(ガラスケースなし)がすばらしい。
よく、「仏像はお寺で見なければ。美術館では、ムードが出ないよねえ」などと言う人がいるけれど、私はそれにはまったく賛成しない。
こんなに間近く、好きな角度から仏像を眺められるなどという贅沢がゆるされるなんて、まったくいい時代だ。

「八大童子像」は、運慶の作品と、時代がはるかに下ったあとの作品が混在している不思議な集合体なのだが、誰でも一目で「これは運慶、これも運慶、これは運慶じゃない。」と区別がつく。
運慶の作品はあまりにもあまりにも、独創的だ。
あまりにも写実的。
童子の顔(と妙な髪型)を見て、まず衆生(と敢えて呼ぶ)が感じるのは、ありがたみよりも“親近感と嫌悪感”ではないか?
「あ〜こんな顔のヤツいるわ、昔同じクラスだった、すごい性格悪かった小太りのヤツ」とか、「あっ!この人見たことある!ん、たまに弁当屋の前で会う隣の部署の人?」とでもいうような……なんともいえない、気まずいような距離感。
それなのに、やっぱりこの世の人間では絶対にない超人的なはかり知れなさを湛えている。
美少年でもなんでもないのに、目が離せない。
関わり合いたくないのに、関わらずにはいられない、そんな感じの童子の一群だ。
よくぞ高野山から降りてきてくれた。
快慶の四天王像もいいけれど、やっぱり運慶の魅力には及ばなかった。

それにしても「玉眼」というのは、当時の美術界において、ドラスティックな改革をもたらしたものだったんだろうなあ。
あれをやったらもう後戻りはできない。
ただの一片の木が、玉眼を得ることでほんものの仏像になる。
平安末期から鎌倉時代に起こった玉眼ブーム(?)を見ていると、当時の日本文化の質の高さには感動する。

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次に国立新美術館の「チューリヒ美術館展」へ。
こっちの展示は、けっこうヒドいと思った。
副題どおりの“印象派からシュルレアリズムまで”の錚々たる作家の作品を、ただただ、ずらずらと並べているだけ。
倉庫みたいな展示だ。
キュレーターはなにをしているの?
ふつう、スイスという国の説明とか、チューリヒ美術館での実際の展示の様子や日本との関わりなどを、展示の合間に写真などで解説してあったりしないか。
それでも、このキュレーターの時代に、こんな企画展でも千客万来なのだから、東京とはおめでたい街だ。

なにしろ超有名作家ぞろいなので、いい作品はいっぱいある。
しかし一回りすると、結局なにを見ていたのかよく思い出せない。
なにかに向かってグッと引き寄せられていくような、大きな力に導かれるような企画がない。

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地元の喫茶店に戻る

ふたつの企画展を見て、作品そのものの持つ力よりも、都心で開催する美術展には企画力が大事だなあと感じた。
まあいつも感じるのだけど。
やっぱり私はサントリー美術館が好き。相性がいい。

by apakaba | 2014-10-24 22:46 | 歌舞伎・音楽・美術など | Comments(2)
2014年 09月 14日

ケーララの祭り「オーナム」@国分寺カフェスロー

国分寺カフェスローでのイベント「オーナム」に行ってきた。
オーナムとは南インドのケーララのお祭りのことだという。
ケーララには、20年ちかく前にさびしい旅行をした。
本場でダンスも見たけど、とくに感動しなかった。

が!!!!!
今日の二組のダンスは感動した。

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モヒニアッタムを踊った丸橋さんは、15年くらい前からの知り合いだったのに、ダンスを見るのは今日が初めて。
感慨無量である。
“ダンス”という言葉から連想する、西洋的なダンスとはぜんぜんちがう。
演劇的な表現がとてもおもしろかった。
クリシュナとの恋の行方を踊ったダンスと、母親が赤ちゃんをあやして寝かしながら赤ちゃんのかわいさにうっとりするというダンスでは、同じ“女”でも表現する表情がまったく変わっている。
“母親”を演じる丸橋さんは母親の顔であった。
クリシュナと彼にあこがれる女性の表現は、異性を惹き付ける、若い色気が横溢していた。

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そして入野智江ターラさん率いるアビナヤラボの古典劇クーリヤッタムは、本当に不思議な踊りだった。
目が離せないのだけれど、催眠術にかけられたようになるというか、この時が永遠に続くように感じられるというか、永遠なものへと続いていく感じだ。
ダンスを見ているのか、自分がなにをしているのかすら判然としなくなるような、平凡な言い方をすれば神がかっているような踊り。
妙な喩えだが、「親知らずを抜く大変な手術をしているのに、その最中になぜか思わず眠ってしまう」という感覚。
すごいことが行われているのにふと自分が無になるような感覚。
世界最古の演劇と呼ばれるのもわかる。
パーカッションのみの伴奏も、その感覚を増幅させるすばらしいものだった。

お二人のダンスを見ていて、演じるということ/身体を使った内的な表現ということを考えていた。
自己表現の究極の形を二つ見せてもらえた。
インド舞踊とひとくちにいってもいろいろな系列がある。
この道を長年追求してきたお二人の踊りは、新米の踊り手には絶対に出せない表現力を持っていた。

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マサラワーラーのケーララ料理はおいしかった!
いつもよりからくなかった!(一度唐辛子噛んだけど!)
あの毎回工夫された料理も、彼らの自己表現なんだなあ。

by apakaba | 2014-09-14 00:20 | 歌舞伎・音楽・美術など | Comments(0)
2014年 09月 02日

やっぱりチームラボ。東京都現代美術館「ミッション[宇宙×芸術]-コスモロジーを超えて」

先週の金曜日、東京都現代美術館で開催されていた(会期終了)「ミッション[宇宙×芸術]-コスモロジーを超えて」へ行ってきた。
うちからだととても遠いが、チームラボが出展しているので夕方から首都高で。
電車で行く元気なし。

宇宙というテーマから、「博物館のほうがいいのでは?」と懸念していたが、展示を見たら「美術館」で納得した。
宇宙にインスピレーションを得た、ジャンルを超えたさまざまなアートが中心となっていた。
まあやっぱり、私としてはチームラボ圧勝でしたけどね!
なにしろ代表の猪子さんが好きすぎて、夢に出たりするくらいだ。

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「冷たい生命」は佐賀のチームラボ展でも見た感動作。
書道の墨痕が描く「生」という字の軌跡から、地上のあらゆる生命が生まれ、四季が生まれ、過ぎていく。
デジタルアートでありつつ、表現はきわめて日本的な美。
過ぎゆくものへの郷愁、巡り来る次の季節への喜びと懐かしさ。
去っていくもの(花、蝶、葉)へ向かって手を伸ばしたくなるが……ふと剥落するように、その裏側のデジタルの骨組みを見せられる。
そこで興ざめするかと思えば、かえってますます儚さを募らせる。
人に芽生えるあらゆる感情を、現代の天才はデジタルで余すところなく映し出す。

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そしてこの展覧会のための新作「憑依する滝、人工衛星の重力」は、広い会場が飛沫の湿気で満たされるかのような心地になるデジタルインスタレーションであった。
人工衛星にふりそそぐ水は、ほんものの水のようでありながら、ほんものの水の落下よりもわずかに遅い。
そこに、見る者それぞれの気持ちを入り込ませる「余地」が生まれる。
見る人によって自由な解釈を結べ、自由に想像を遊ばせ、ただぼんやりと見入るのも自由。
自由落下を少し遅らせるだけで、ここまで人は解放され、自由になれる。

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この日は特別展示で、夜7時からは滝の水が黄金に変わるのだった。
7時前から少しずつ人が集まり始め、水の色がふと(予告や音楽などもなく)金に変わっても、人々はざわめくこともなく見入っていた。
いや、ざわめきを忘れ、陶然としていた。
一心に金色の水を浴び、金の飛沫を胸に吸い込もうとしているようだった。

チームラボは100年残る天才だ。
他の展示もとてもおもしろかったが、結局全部かっさらわれた。
(シンガポールビエンナーレと佐賀でのチームラボ報告も、ちかぢか必ず書きますねー!)

by apakaba | 2014-09-02 22:26 | 歌舞伎・音楽・美術など | Comments(0)
2014年 05月 03日

江口寿史 キング オブ ポップ(予告編)展

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80年代のあのころは、絵の上手さにビックリしたものだけど。

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たしかに、ひばりくんの原画(非売品)は美しかったけど。

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こうして新しい絵と見比べると、今のほうがうまい。
今のほうがしなやか、今のほうが立体感がある、今のほうが描く力が抜けてそれでいて描かれる女の子に力がある。

新しくなるほど魅力が増す。
立ち止まらずに描き続ける。
円熟してるけど進化している!
すごい!

by apakaba | 2014-05-03 07:19 | 歌舞伎・音楽・美術など | Comments(0)
2014年 04月 08日

「栄西と建仁寺」展と「観音の里の祈りとくらし」展

上野で開催されている美術展をまわってきた。

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最近、あとでブログを書こうと思ってもすぐに感想を忘れてしまうので、長崎旅行記でもやったように現地からTwitterでなんでもかんでもツイートをしておくことにした。
そうするとあとでつなげるだけだからとっても手軽!
今日の感想もそれでいく。

まずトーハクの「栄西と建仁寺」。
「えいさい」じゃなく「ようさい」と読むのが約束だそうだが、これだけ「えいさい」で通っているのに今さらそういわれてもねえ。

栄西禅師800年遠忌のための特別展という大型企画展ながら、なんとなく冗漫な展覧会という印象を受けてしまう。
点数だけはすごいのだが、長く足が止まるものは少なかった。
俵屋宗達の「風神雷神図屏風」だけが傑出しており、その他はまあまあ。
新しいところでは若冲がずば抜けてきれい。
入場してすぐ、建仁寺に伝わる「四頭茶会」の再現というコーナーは大掛かりで期待したのだが、そのあとが飽きた。
なんだろう、キュレーターが今ひとつなのか?
東京でいろんな美術館に行くが、ここ10年ばかりの印象では、私設美術館のほうがいいキュレーターがいるように思う。

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首をひねりながら早足でまわってしまったが、最後の風神雷神で一気に盛り返した。

屏風絵の左側に浮かぶ白い体は「雷神」。
人間が、憧れ続けた“飛翔”の体現。
体の重さから完全に自由になって空(くう)へ舞い上がる。
右側の暗緑色の体は「風神」。
白い「雷神」よりやや体重を感じさせ、足元の黒い雲に“乗る”。
雲を踏みしめて空(くう)を駆ける。
互いの足の曲線から、そんなイメージを受け取る。
さらには、風神雷神ともに両手を順手と逆手で描くことでさらなる躍動感と力強さを表す。
自由な四肢。
自由が二体から横溢する。

ふつうのレベルのアートをいくら眺めていても、なんにも心に言葉が浮かんでこないのに、風神雷神を見たとたん、バシバシとインスピレーションを受ける!
これがアートの非情なまでにおもしろいところだな。

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次は東京藝術大学大学美術館の展覧会へ。
「観音の里の祈りとくらし びわ湖・長浜のホトケたち」という長いタイトルの展示だ。
タイトルのセンスは今ひとつながら、展示は予想以上のすばらしさだった。

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滋賀県長浜市は、国内でも有数の、観音菩薩像の遺品の宝庫だという。
展示場内はあまり広くなくて展示方法もひたすら観音像を並べるだけというシンプルさなのに、一体一体に付された解説がていねいだ。
なかでも思わず足が長く止まっていたのは、安念寺というお寺から来た二体の像だった。
「いも観音」と呼ばれるというが、ぼろぼろに朽ちてしまい、痛みがきわめて激しい。
たしかに虫食いだらけのさつまいもに見えなくもない。
だが、その痛々しい体に身がすくみながらも目が離せない。
この像はこんなにぼろぼろになっても、人間を救済することをやめない。
祈ると皮膚病などに効果があるといわれているのも、この朽ちた肌が身代わりになってくれるように思うからだろうか?
初めギョッとし、それから動けなくなり、最後には泣きたくなるような感慨が押し寄せる。

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腕を失った千手観音といい、人は損なわれたもの、朽ちたものに、より強く惹かれてしまうのか?
こういう姿になるまでの時の重みを想像するからだろうか。

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盛りを過ぎた上野公園の桜を見ながらそう思っていた。
人々は紙吹雪のように降りしきる桜の花びらを見ては、思い思いに楽しそうにしていた。

by apakaba | 2014-04-08 22:31 | 歌舞伎・音楽・美術など | Comments(0)
2014年 02月 23日

食の文化シンポジウム2014「料理すること」

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公益財団法人 味の素食の文化センターが主催しているシンポジウムに参加してきた。
「食の文化シンポジウム」という公開シンポジウムで、参加費はなんと無料。
毎年開催されているらしい。
今回のテーマは「料理すること」。
パネルディスカッションに、森枝卓士さんや関野吉晴さんなど、以前からファンだった方たちが登壇されるので、ミーハー心のみで行ってみた。

第1部では基調講演があり、京都大学大学院農学研究科教授の伏木亨氏から「味わいの社会性」というサブテーマに沿ったお話を聞いた。
なかでも、“人間は、「油(脂)」「砂糖」「だし」のうまみから未来永劫抜け出せず、その三者を追求していくことは、食の唯一最大の目的であった「生命の維持」とは別次元で大きく目的化していくことである”というお話には感銘を受けた。
また、“家事としての料理がイコール(家族や近しい人間への)愛情表現と見なされ、たとえレトルト食品などの便利なものを使っても家庭料理ということへの規範は今も昔もさして変わらない”という話も、主婦として生きている身には興味深かった。

第2部のパネルディスカッションでは以下の方々が登壇した。

森枝卓士氏(フォトジャーナリスト)
川崎寛也氏(味の素㈱ イノベーション研究所研究員)
関野吉晴氏(武蔵野美術大学教授、探検家、医師)
伏木亨氏(京都大学大学院農学研究科教授)
村瀬敬子氏(佛教大学社会学部准教授)

それぞれのご専門の分野から「料理すること」を分析していったが、村瀬氏の“「家事時間の短縮」と「家庭料理の規範(=料理が愛情表現として存在する)」は、対立するようでありながら、実は両者が支え合っているのではないか”という提言には活発な議論がなされた。
村瀬氏は
「(料理や食に関して)日本人は、消費者としては自由になったが、作る者としては簡略化を罪悪であるかのように感じる気風が色濃く残っている。」
ということを強調なさっていた。
つまり、「毎日コンビニ弁当を家族に食べさせている主婦がいたとしたら、彼女は後ろめたくて、そのことを他人には言えない。たとえ買ってきたポテトサラダでも、お皿に盛りつけて、主菜は手作りして一緒に出したりする」といったようなことだ。

なかなか痛いところを突いてくる。
が、私は、もしも聴講者にも発言の機会を与えられたら、挙手して以下のようなことを言おうと思っていた。

食は生物として生命を維持するための根源的な活動であるから、すべてを人任せにすることには、生物としての恐れがあるのではないか?
ほんの一部分でも、自分が食べるものの料理に関わることで、自分の生命を自分が直接管理しているという気持ちが担保されるのではないか?
家族や恋人のような、“他者”との関係性を表象するモノとしての「料理」である以前に、自分を愛すること。
自分の健康な生命を維持するための「儀式」のような行為。
自己愛を純化した形としての料理。
議論ではひたすら他者との関係性に焦点を当てていたが、私は料理することをそのような行為と感じてきた。

まあ発言する時間は用意されてなかったんだけど。
ふだんあまり考えない物事を考える時間となった。
そしてあいかわらず、森枝さんはかっこよかった。

by apakaba | 2014-02-23 22:54 | 歌舞伎・音楽・美術など | Comments(0)
2014年 01月 30日

ジェイミー・カラム来日公演 Bunkamuraオーチャードホール(1月29日)

よりによってオーチャードホールを“ライヴハウス”に選ぶとは。
昔、オペラのガラコンサートに来たことがある。
このホールは、ふだんはバレエやクラシックのコンサートがおこなわれる、お行儀のよい会場なのである。
そんなわけでもちろん音響は最高。
2010年のJCBホールもよかったが、今回はさらに音質のよさにしびれた。

ほぼ4年ぶり、おかえりー!
ジェイミー・カラム!
先行予約で1階の前から9列目というすばらしい席だったから、ジェイミーの表情まではっきりと見えて、前回よりグッと親しみが湧いた。
「こんばんは、ジャスティン・ビーバーです。」
とふざけると、皆「ジャスティーン!」「ジャスティーン!」とかけ声。
「いや、あのー。ボクの名前、わかってるよね……!?」

客層のバラエティーもすごかった。
20代から40代くらいが中心層とはいえ、かなりのおじいちゃんおばあちゃんも意外と来ている!
ノリノリで喜んでいる!
赤ん坊を抱えた夫婦が、前から3列目くらいで、哺乳瓶をくわえさせて聴いている!
いいなあこういうの。
後半は恒例の、客席に降りて女性客の手をガシッと握って見つめて熱唱したり練り歩いたり(私もタッチできた)、あげくに「前に来てもっとそばに寄れー!」と警備員泣かせの号令。
オーケストラピットに張ってある床板?跳び箱の踏み切り板のように上下に揺れる板張りの床が、みんなのジャンプでトランポリンのように激しく揺れ、踏み抜きそうだった。
震動にたまらず後方へ逃げて行く人もいるのでどんどん前に詰めることができ、最後は最前列ちかくまで寄れた。
無茶な号令をありがとう!
次回の来日でもこのホールを使えますように。

なぜ、この人は若いのに、こんなに“生きること”をわかっているんだろう?
愛すること。
苦しむこと。
受容すること。
楽しむこと。
生きることで知り、置いてくる、また見つけ出す、すべての感情を、音にして目の前にひろげてみせてくれる。
一曲の終わりには、「生きることはいいな。生きていこう。」と笑うことができる。
なぜ彼は、そんな高みにまで行ってしまっているのだろう。

自在に繰り出すピアノのソロで、美しい和音が響く間もなく、ちょっと据わりの悪い音、不安にさせる音を出し、それが耳に届くやいなや、またとろける調和に満ちた音を生むという、一瞬も気をそらすことができない演奏を繰り出す。
人生のすべてを一片の音楽で表してしまう。

前作『The Persuit』が出たとき、レビューにこう書いた。

今の彼は、甘いとかハスキーといったひとことで言い表せる声ではなく、キラキラとギラギラと乱反射するなにかの金属のような——その金属片で、細い爪のように、背中や腕の内側をつーっと引っかかれるような——歌声になっているのである。
痛みと快感を伴ってくるような声なのだ。


新作『Momentum』ではその“痛み”はやや鳴りを潜め、“快感”が増幅するような曲が多い。
前よりさらに「人生は上々だ」というムードがはっきり出ている。
私生活の充実が反映されているのだろうか。

だがカバーでのセクシーなアレンジは健在。
たとえば、彼がリアーナの『Don't stop the music』を唄うとき。
リアーナの声では「あの人と踊るこのひとときのための音楽を止めないで」と言っていると聞こえるが、ジェイミーが「Please don't stop the music」とくりかえし唄うと、「音楽を止めないで!どうか、“音楽”を……」と、musicの意味合いが違って聞こえる。
本当に“音楽そのもの”へ切実に手を伸ばしているさまが見えてくるのだ。

リアーナの原曲(忘れた方・知らない方は是非とも聴き較べてほしい)が、ダンサブルでいかにも“今”っぽい気分をいっぱいに表しているのに対し、ジェイミー・カラムのアレンジは“今”の気分だけでなく、かつて過去に置いてきた、さまざまなめくるめく思い出のシーンを思い起こさせるような、人の感情の細かいひだの間を自由自在に行き来するような音を以て、原曲にオマージュを捧げながらも野心的に彼からの回答を出す。
彼が「 I wanna take you away 」と唄うと男の歌になる。
あの声で「 I 」を発音するとき、荒っぽく肩を抱かれてどこかへ連れ去られていくような感覚になる。


以前レビューにこう書いたが、彼自身がとてもセクシーな人なので(外見は子供っぽいが)、彼が永遠に焦がれ続ける“音楽”に向かって手を伸ばすとき、その声はもっともセクシーに響いて人の心をとらえてしまうのだろう。

次はいつ来てくれるの。
そのとき、彼はどう変わっているだろう。
近年、来日してくるミュージシャンは年齢層が高いけれど、彼のような、この先まだずっと長く楽しめるミュージシャンのファンでいられることは、とても幸せだ。


今まで書いた記事
やっと、CATCHING TALES

アダルトになったJAMIE CULLUM『The Persuit』への賛辞

人生の節目、ジェイミー・カラムの歌声は流れる

by apakaba | 2014-01-30 23:28 | 歌舞伎・音楽・美術など | Comments(6)
2013年 12月 15日

小瀧達郎写真展 PARIS 光の廻廊 ギャラリー・トーク

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「複製技術時代の芸術」
小瀧さんと作家の田中真知さんのトークの間、ずっとその言葉が頭から離れなかった。
ベンヤミンがこの世紀の評論を著したのは1935年、お二人の間に置かれた小瀧さんの愛機ライカのレンズがちょうど製造されたあたりの年代である。
年代が重なるのは必然であろう。
ベンヤミンはライカのレンズで撮られた「複製技術時代の芸術作品」の申し子たる「写真」をたくさん見たことだろう。
小瀧さんの印画紙選びや暗室作業などの話を聞きながら、「写真とは、ほんとうに、ベンヤミンの言うように“機械的な複製”なのか?」と考えていた。
原則的には写真は無限に複製が可能だが、お話を聞けば聞くほど、フィルム写真をプリントすることはファインアートに属すると思わざるを得なかった。

写真のおもしろさの50%は暗室作業であると小瀧さんは言う。
そのときそのときの、心の状態が出るから。
撮ってすぐの熱い気持ちのままプリントをしたもの(ヴィンテージプリント)と、時間がたってからプリントしたものでは同じ写真でも別物になる、なぜなら時間がたつと客観的になり、シャッターを切ったときの興奮はさめているから——これにはとくに共感した。
較べるべくもない話だが、私も、旅行や映画や歌舞伎や読書などの体験を文章に書こうとしても、時間がたってしまうとなぜあんなに熱い思いを感じたのかが自分でもよくわからなくなってしまう。
刺激を受けてすぐに書いたものは、散漫で練れていないところがあるけれど、やはりストレートな力と熱を持っている。
その意味で、写真もフィルムさえ残っていればいつでもプリントできるというのはとんだ見当違いで、このギャラリーに飾られた新作のパリの写真は、一見そうとは見えずともやっぱり熱いのだ。

トークでは写真の話題からパリという街について語り合うひとときもあり、昔フランスに熱心に行っていたことを懐かしく思い出した。
写真展開催に寄せた真知さんの文章を読み、自分が書いた旅日記と響き合うものを感じてうれしくもなった。

かれのまなざしが向けられているのは、時の容赦のない流れの中にあって、変わることなく「パリ」という都市空間を支えている謹厳な意志だ。それは洋品店に置かれた古いトルソーや、大聖堂の上から下界を見下ろす怪物像や、使いこまれた階段の手すりや、ベンチにたたずむ老人の背中など、パリの街のあらゆる細部に浸透して、「パリ」を不断に生成させつづけている原型的な生命力のように思われる。(沈黙する意志の光)」

真知さんのあいかわらずの名文のあとで見苦しいが、私は初めてのパリに行ったとき第一印象をこう書いた。

「亡霊の棲む街…という感じ。石造りの、一見華麗な、しかしよく見るとかなり古びて暮らしにくそうな建物は、100年前に来ても、これから100年あとに来ても、きっと変わらない。この街はこの街並みを変えない、絶対に。“変えずにいてやる”ことへの、なんという執念深さだ?こんなとこに暮らしてたら、気位も高くなるだろう、だってあらゆる不便を乗り越えて、この石の街を保ちつづけているのだから。」
(やや批判的な書き方なのは、パリの第一印象がよくなかったせいだ。このあと好きになった。)

街の細部に宿る“パリをパリとしていつづけさせるための意志”。
それは小瀧さんの撮った“人の手の痕跡”“人の気配のあと”。
モノクロプリントのうっとりする階調を見つめていると、言葉ではない表現で小瀧さんが語るパリと、自分が歩いていたパリがぴたりぴたりと重なっていく。
それは、昨年の写真展で見た、行ったことのないヴェネツィア(レビュー「戦きへ誘い込む——小瀧達郎写真展 「VENEZIA」)の写真を前にしてただただ戦いていた——色と色のあいだの色合いまでも表現し、その間(あわい)にこの世ならぬ世界を現出させる写真体験とは別の陶酔であった。

会期2014年1月18日まで。
小瀧達郎写真展 PARIS 光の廻廊 2010-2013

by apakaba | 2013-12-15 17:47 | 歌舞伎・音楽・美術など | Comments(0)
2013年 12月 11日

根津美術館へ、晩春と晩秋の2回訪問

根津美術館で昨年の5月に開催された「KORIN展 国宝『燕子花図』とメトロポリタン美術館所蔵『八橋図』」を見に行った。
ちょうど庭園の燕子花(カキツバタ)も見頃で、館内で屏風絵を見て、屋外でほんものの花を見て、という贅沢な体験をした。
2009年に隈研吾氏の設計で改築されたことにも興味があり、写真もたくさん撮った。

しかしそのときはブログを書く気力がなくそのまま1年半経ってしまった。
先日、2回目の訪問で「井戸茶碗 戦国武将が憧れたうつわ」を見てきた。
季節が変わっての再訪もいいものだなと思い、写真を晩春と晩秋の両方を載せていくことにした。
(ただし秋はカメラを持たずiPhoneで撮影している。)

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「月の石船」上が春、下が秋。

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本館脇のアプローチ、春。
長いひさしが特徴的。

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日本庭園とケンカしない控えめな意匠。春。

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瓦屋根もモダン。春。

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少し傾いた春の陽射しの中の苔。

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秋は紅葉を求めてみんな上を見ながら歩いていた。

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舟に見えたが井筒(井戸を囲ったもの)だそうだ。春。

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秋になるとすがすがしい緑から幽玄ムードに

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『京都の空間意匠』という本を読んで感銘を受けて以来、日本庭園を歩くときはいつも敷石に注目している。
上はわりと正式(「真行草」でいうならやや「行」寄りの「真」)。
茶室へ向かう道、下の写真は枯れた雰囲気を醸し出す(「真行草」でいうなら「草」)。春。

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ちょっと西日が悪目立ちし始めたが、燕子花目当てで行ってみる価値はある。

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昨年の「KORIN展」は、尾形光琳の「燕子花図」と「八橋図」を100年ぶりに2作品を一度に見ることができるというすばらしい試みだった。
画面を右上から左下へ、「橋」で稲妻のように画面を分断することで、いきなり雅やかさからアヴァンギャルドへと屏風の中の世界が一転してしまう。
橋のなかった「燕子花図」はそれだけで十分美しいのに、「八橋図」を見ると、もう橋なしの燕子花は考えられないほどだ。

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散るもみじを眺め、思索にふける気分。
秋の庭の風情も捨てがたい。

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(ここから先すべて春)
館内に戻り、中から建築を見直す。
圧迫感の少ないすっきりしたエントランス。
しかし人が多いのね。

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西日が長く差し込むとおもしろい休憩所。
先日来たときはまったく光が差していなくて、ただの部屋だった。

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同じく西日の休憩所を、真横から撮る。
左半分はガラスに映っている。
入館者はまるで舞台劇に出演している俳優たちのよう。
自分がドラマチックな場の主役になる。
西日が入るとこのスペースがこのような視覚効果を得ることを、隈研吾氏は知っていたのだろうか。

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壁はすべすべしているが、建築に使用している部材はさほどの高級品でもなさそうな感じがした。
大理石などでやたら飾り立てるよりも、この美術館にはふさわしいと思う。
展示品と、庭園のよさを損なわずにそっと寄り添うような目立たない建築には好感を持った。

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ハンサムな弥勒菩薩立像は人気。
たくさんのコレクションが惜しげもなく公開されている。
とくに2階に展示されていた、古代中国(紀元前13世紀ごろの殷の時代)の「饕餮(とうてつ)文」の入った青銅器には激しく感動した。
実用品なのに芸術性がこんなに高いとは。
しかも紀元前13世紀!?
そのころ日本では、やっと縄文文化。
縄文式土器も芸術性が高いけど、この青銅器を見てしまうと、参りましたとひれ伏したくなる。

建築を楽しみ、開催中の展覧会を楽しみ、常設のコレクションを楽しみ、四季折々の庭園の風景を楽しみ、まあなんとお得な根津美術館であろうか。
表参道駅から少し遠いけど、いいところだなあ!

by apakaba | 2013-12-11 14:02 | 歌舞伎・音楽・美術など | Comments(0)
2013年 10月 27日

大熊ワタル&伊勢崎賢治『JAZZ HIKESHI』ライブ

今日は、吉祥寺のジャズ喫茶へライブを聴きに行ってきた。

最近、Facebookで、現代イスラム研究者の宮田律さんと知り合い、宮田さんの知り合いに伊勢崎賢治さんがいらっしゃることを知った。
伊勢崎さんはNGO・国際連合の職員として、世界の紛争地帯で紛争処理や武装解除に尽力してきた実績を持つ方である。
お名前を見て思わず懐かしくなり書き込みをしたところ、友達申請をしてくださった。

私はビックリ仰天した。
伊勢崎さんは『インド・スラム・レポート(1987年/明石書店)』という本の著者であり、大学生だった私は衝撃とともにこの本を読んだのである。
インド、いや世界最大のスラムであるムンバイ(当時ボンベイ)に2年半暮らしたレポートは、短期取材の人間には決して書けない迫力がみなぎっていた。
刊行後、3年たって初めてインドへ行き、10年たって初めてムンバイのスラムへ一人で行った。
といってもタクシーの窓からこわごわと雰囲気だけを眺めるにとどまったが。
窓の外を見ながら、しきりと伊勢崎さんの文章が思い出された。

それからぱたりと伊勢崎さんの活動を知らないままに年月が流れ、数年前にたまたまTwitterでお名前を見かけて、懐かしくなってフォローだけしていた。
どうも、彼は紛争解決請負人をしつつもジャズトランぺッターとしても活動しているらしいのである。
と思ったら急転直下の友達申請。
と思ったら日曜日に吉祥寺でライブがあるという。
彼の最近の著作を読んでいて、ビデオニュース・ドットコム(インターネット放送局)に出演した回も見ていた夫にも声をかけて、二人で行ってみた。

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ヨドバシ裏、ジャズ喫茶メグという由緒正しきジャズ喫茶。
(このお店の話を書き始めるときりがないが)近所にこんなところがあったのかとビックリする我々夫婦。

セットリストはオスカー・ピーターソンやマイルス・デイヴィスなどのオーソドックスな曲が中心で、ほとんどがうちでも聴いているものばかりだったので安心して楽しめた。
MCでは、クラリネット奏者の大熊ワタル氏とゆるやかそうで実は鋭く、世界の紛争について語り合っていた。
MCと絡めて次の曲へとつなげていくので(次の曲の紹介が現在の国際的な問題を語ることの前振りとなる)、曲と語りの双方がよく響き合って記憶に残る。
こういう表現の仕方があるのか。
ジャズという表現がそのときそのときの社会問題ときわめて密接に結びついたものであったことを思い出せば、腑に落ちる。

大学生のときに読んでインドへ行くきっかけの一つとなった本の著者と、26年後に言葉を交わすことができるとは、まったくなんという幸せなSNS時代であることよ。
今まで旅したパキスタンやシリアや、ついこの前感慨深い旅をした台の湾原住民の話などを聞いていると、胸が熱くなる。
世界に紛争がなくなって、私みたいなぼけぼけした旅行者がぼけぼけと旅ができる世の中が、来ますように。
今日は心からそう思ったなあ。

by apakaba | 2013-10-27 22:48 | 歌舞伎・音楽・美術など | Comments(2)