あぱかば・ブログ篇

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2005年 09月 30日

ダメな母。ヘンな息子

秋の花粉で鼻がお茶の水博士みたいになっています。
加えて、ここのところうちの周りにのらねこが増えてきました。
重度の猫アレルギーなので、くるしい。
思考力なし。

「ササニシキ」は学校の休み時間に学園ものの小説を書いているらしい。
道徳のプリントの裏に書いて、連載をしているとのこと。
クラスの友だちの間で回して読まれていて、早くつづきを書け!とせがまれ、20話つづけて書いたらしい。

すごいな。
流行作家じゃん。
紫式部じゃないの。
やっぱり変な奴だ。

by apakaba | 2005-09-30 23:25 | 生活の話題 | Comments(9)
2005年 09月 28日

『9songs (ナイン・ソングス)』映画の極北の地に、降り立った

マイケル・ウインターボトム監督の野心作だ。
南極・セックス・ライヴ・南極・セックス・ライヴの3場面の繰り返しで構成されている。
主人公の男女がロンドンのライヴハウスで出会い、セックスを重ね、夜な夜なライヴハウスへ出かける。
別れた後になって、男が仕事で訪れた南極でその恋人とのセックスを思い出す、という話。
脚本はなし。
出演俳優はそのふたりだけで、セックスシーンを“本当にやっている”というのが最大の話題だった(なのでもちろん、R18です)。

とても、とても、飽きました。
半分以降は、しばしば早送りをしてしまいました。
だってずっと知らないバンドの歌か、あいもかわらずセックスシーンばっかりなんだもん。
奇抜な体位とか、仰天するような猟奇的な方法とか、そういうのはいっさいなく、ふつうの恋人同士がふつうに行う行為なんだけれど、なにしろやりつづけているので飽き飽き。
「またなのか……」とため息が出る。

映像は大変美しい。
この監督の作品では『CODE46』『日陰のふたり』『ひかりのまち』を今まで観たことがあるが、ぜんぶおもしろくなかったものの映像は全部すてきだった。
ライヴハウスの照明、裸のふたりがいる室内の暖かい光、南極の自然の風景はどれもきれいだなあとうっとりする。
暗い劇場で観ていたら、もっともっと陶酔感に浸れたと思う。
でも、私はそれだけじゃ不満なの。

映画になにを期待するか。
つまるところ、それが評価の分かれ目になるんだと思う。
私は、やっぱり俳優の演技になによりも期待するタイプの観客なのだ。
(その話題は“目”を見る『スパイダーマン2』の記事に書きました。)
映像美に重きを置く人は、環境ビデオのように、この映画を流しておきたくなるだろう。
でも……唾液や精液やこぼれたワインでべとべとの裸体を見ながら、私には、映画に本番セックスを持ち込むことが、果たしてどれほどのリアリティーを見る側に提供することができるのだろう?という疑問ばかりが残った。
これは、“映画”なのかなあ?と。

映像の官能って、俳優の演技で、“あるわけない世界”なのに思わずググッと身を乗り出させてしまうような、そういうチカラによるものなんじゃないの?
たとえば私の大好きなラッセ・ハルストレム監督の『ショコラ』でのラブシーンは、ふたりがジプシーの演奏でダンスをして、揺れる小舟にふたりだけで乗って、しゃべっているうちにキス。
そこで終了。
あとはその舟が小さく映っているだけ。
……スッゴク、官能的だ……!
まるで、まるで源氏物語だ……!
源氏物語の、源氏の君と藤壺の不義のシーンは、まったくこんな感じ。
行為じたいにひとつの言葉も使われていないのに、「やってしまった……」というのがありありと知れる。
あれは凄いぞ。

話がそれました。
ウインターボトム監督が、
「通常の映画におけるラブシーンは、説明的で、役者はフリをするだけ。見ている方もフリとわかっている。でも食事のシーンでは、本当にものを食べている。セックスも本当にやることに意味があるのだ」
とインタビューで言っていたけれど、私は、フリだからこそ、演技のチカラで“持って行かれたい”のだ。
彼の考えと、完全に逆なのだ。
これではおもしろいと感じるわけがない。
とすれば「またなのか……」とため息が出るのは当たり前で、誰もが日常でやっている行為を映像で長時間わざわざ見せられるより、無から有を作り出す演技力に心を惹かれるほうが自然というものだ。
だって延々とゴハンを食べている映像を、見たいですか?
それと同じなの。

彼のファンには失礼だけれど、おそらくさほど頭の良くない人、という感じを受ける。
断片的なきらめきはある(ストーリーも断片的。断片的な映画って、手法も真似しやすい。)ものの、すべての矛盾(彼の言うところの“フリ”も含め)を凌駕するほどの感動は、呼び起こせない。
まあ、本番セックスは、映画の極北……とでも呼んでおきましょうか。
アーヴィングが『サイダー・ハウス・ルール』を撮るのに、ウインターボトムをクビにしてハルストレムを採用した、というのも、むべなるかな。

9songs公式サイト

by apakaba | 2005-09-28 23:26 | 映画 | Comments(15)
2005年 09月 27日

『クローサー』ひとつだけ、記憶に残ること

ついさっきまで、この映画をDVDで観ていた。
『クローサー』っていっても香港映画のほうじゃないよ。
ナタリー・ポートマンが出ている方。

理屈抜き、オモシロクナイ。
おもしろくなかったぁ〜。
ストーリーを書く気も起きないくらいおもしろくなかったのだけど、ひとつだけ目からウロコだったのは……

ジュリア・ロバーツとナタリー・ポートマンという、いまもっとも「脱ぐ必要ナシ、脱いではいけません」な女優ふたりが主演だからなのか、とにかくラブシーンがゼロ。
(ナタリー・ポートマンはストリッパーになっているシーンがあるが、努力は認めようというくらいのレベル)
ハダカにはならないかわりに“言葉”で、リアルな男女関係を演出していきたいらしく、たびたびポルノ小説みたいな言葉を投げ合っている。
でもそういう会話はケンカしているシーンばかりでくり広げられるため、ぜんぜんいやらしい雰囲気はない。

「ヤツとヤッたのか?!」
「ええ、一晩中ヤッたわ!」
「イッたか?!どうなんだ!!」
「なぜそんなこと答えなきゃならないの!」
「答えろ!聞きたいんだ!」

「イッたわ!(ナタリー・ポートマン叫ぶ)」  =  「I came!」

…………

ぽかんと画面を見ている私と夫。
私:アホ面「へ?“イッたわ!”ってさー……I came!って言うんだー。それじゃあ行くじゃなくて来るだよねー。」
夫:アホ面「キターーーーーー!って……な」
私:アホ面「初めて知ったなあ。逆の言い方なんだあ。」

無知、そして経験不足(英語を使う相手との)が露呈、でもふつう、これくらいのことは知ってるんでしょうか。

by apakaba | 2005-09-27 23:04 | 映画 | Comments(25)
2005年 09月 26日

一日遅れで誕生日会をしました。がっ

きのうは外で一杯飲んできただけだったので、今日は家で誕生日パーティーとなった。
隣の両親も呼んだ。

余興として、「アキタコマチ」と「コシヒカリ」がカンペを見ながら、なにか難しい歌を合唱してくれた。
その歌は、いまちょうど「ササニシキ」が中学の音楽の授業で唄っているところらしく、「ササニシキ」は
「オレ、アルトで入ろうかなー」
とためらっていたが、
「あっちはソプラノでふたり、アルトはオレひとり、絶対にオレは負ける」
と言ってハモるのをあきらめていた。

「アキタコマチ」はジョニー・デップのシールをくれた。
『チャーリーとチョコレート工場』のシールだった。
「コシヒカリ」は折り紙で折った指輪と、自分のおやつのためにお小遣いで買っておいたお菓子をくれた。
「ササニシキ」は赤ボールペンを5本くれた。
私が仕事で赤ボールペンを酷使しているからだった。

子供たちを寝かすと、むかむか気持ち悪くなってきた。
風邪を引いたようで、朝から一日中鼻水が止まらなかったのだが、夜になって吐き気もしてきた。

メールの返信、掲示板とここのコメント欄のレス、人様のところへの書き込みをすべてあきらめて、寝ることにします。
ガクー。すみません。
ゆうべ、タオルケットで寝てしまったんだよね。
誕生日のころになると、暑さが急に収まっていくんだな。

by apakaba | 2005-09-26 23:01 | 生活の話題 | Comments(7)
2005年 09月 25日

死を考える年齢

今日で38歳になった。
年をとることには、全然抵抗がない。
というとやせ我慢みたいに聞こえるかもしれないけれど、ウソじゃなくてほんとに。
どうせどっちにしろおばさんだから一つや二つ年をとったっておんなじことよ。

ただ、理屈でなく、生理的に「イヤだなあ」と感じる年がいくつかある。
9歳の子供・45歳の男・それから39歳の奥さん。

私が9歳で父親を亡くしたとき、父は45歳で、妻である私の母は39歳だった。
(経緯についてはメインサイトessay欄「父を失った日」を参照ください)
どうしても、あてはめてしまう。
男というのは45歳になると、ある日の夕方いきなり倒れて、24時間経たないうちに死んでしまうもの。
39歳の妻は、そんなふうに突然に連れ合いを失うもの。

ああ、あと1年になってしまった。

結婚した当初、もしも夫を亡くしたら、私も生きていても仕方がないからいっしょに死んでしまおう、と考えていた。
その考えは、今になってみるととっても気楽だ。
いや、当時より愛情が薄くなったとかいうわけではないけれど、自分を取り巻き、自分につながる世界は、そこまでシンプルにはできていなかった。
子供を置いてはいけない。
親たちは、私よりも元気なくらい。まだまだ人生を楽しんでいる最中である。
それを、連れ合いひとり亡くしたからって、どうして見捨てていけるの。

夫が死んだら、私の中でなにかが永久に欠損するだろう。
だけどそれがこの世の終わりではない……ということを、年をとってきてますます思う。
「彼がいなくなったらいっしょに死んでしまおう」とシンプルに考えていた若いころの自分を、とても美しく、愚かしく思う。

母は、ドライアイスに囲まれた父の亡骸に一晩添い寝をして、このまま死のうかなあーと考えたという。
でも子供たちがいるからがんばらなくては、と思いとどまったのだと。
それを聞いたのは、父が亡くなってから何年か経ったあとだったけれど、母が一瞬でも私たちを置いていこうとしたことにショックを受けたと同時に、よく踏みとどまって戻ってきてくれた……と感謝もした。
ちょうど、“ショック”よりも“感謝”のほうを大きく感じられるだけの年齢に、なっていたのだと思う。

年をとるのは好きだ。
心の闇や、襞を知る……そして自分に肯定的になっていく。
最後の「イヤだなあ」は夫が45歳になる年、それを越えたら私もやれやれ。

by apakaba | 2005-09-25 13:51 | 生活の話題 | Comments(15)
2005年 09月 23日

男の子の親をやっています。

「ササニシキ(中2)」は朝6時20分から出かけていった。
早朝ボーリング2時間投げ放題というのに友だちと行くという。
そのままゲーセンへ流れて、隣にいたおじさんのタバコの煙で気持ちが悪くなり、帰ってきたらしい。
顔が黄色くなっていた。
「どうしたのその顔色」
と聞くと、
「タバコを吸って気持ちが……」
というので、へえ、もうタバコか、ずいぶん早いなとあきれ、よくよく聞いたらちがっていた。

中間試験前だというのにまだ遊び足りない友だち3人が、今度はうちへ流れてきた。
「ササニシキ」の小学校時代からの同級生だが、もうみんな背も私よりずっと大きいし、すね毛とか見えると内心うへえーと思う。
冷たいことに「ササニシキ」は勉強をしに二階へ上がって自室に入ってしまった。
ヘンな話だけどその友だち3人でTVゲームをして遊んでいる。

隣の部屋にいると、やがて友だちのうちのふたりがケンカを始めやがる。
ボカッ、ボカッと殴ったり蹴ったりする音が聞こえてくる。
なんだよもう〜、図体デカイのに勘弁してよ。
私は隣の部屋でアタマを抱える。

障子破いたら貼り直させるぞ!
それよりノートパソコンが、心配じゃないか。
本棚の本が崩れてきたら、どうしたもんか。
「外でやれ!馬鹿野郎!」
と怒鳴りつけようかと思っていたら、あとのひとりが仲裁に入っている声がする。
「ひとんちでケンカすんなよ。よしとけよ。」
殴る音は静まった。
よし!オマエえらいぞ!
小学校時代からこの子は好きだった。
「ササニシキ」は、ケンカの騒ぎすら知らないでいた。

3人が仲よく帰ると、「アキタコマチ」がいつものように晩ごはんを作る。
「アキタコマチ」は料理が好きだ。
まず夕方までにやるべき勉強をやってしまい、そのあとは料理をしている。
今日は初めて刺身包丁を持たせてみた。
筋のあるサカナでは難しいので、タコを切らせてみたが最初なのでずいぶんひどい。

それからセロリをななめ薄切りにして炒めさせる。
セロリがみんなつながっている。
「ああ、これはやきもち焼きだ。」
と私が言う。
「え、どうして?」
母から、切ったものがつながってしまう人はやきもち焼きだという、と子供のころに聞いたことがある。だから同じことを息子にも言う。
「オレ、やきもち焼きなのかなー。『ササニシキ』お兄ちゃんにやきもち焼いてるかなー。」
と意味深な独り言を言う。

しばらくすると、「でもさあ。」と「アキタコマチ」が話をつづける。
「抱き枕を抱いて寝る人は甘えんぼうだっていうよ。」
やきもち焼きの話をしていたのに、どうしていつの間に甘えんぼうに変わるのかわからないが、似たようなものだと思っているらしい。
「それはぜんぜんちがう性質だよ。おかーさんは甘えんぼうだけどやきもち焼きではないよ。」
というと、納得していた。

今日もなにをしたのかわからない一日だった。
でも子供との日々ってだいたいこんな感じで過ぎる。

by apakaba | 2005-09-23 23:29 | 子供 | Comments(4)
2005年 09月 22日

『チャーリーとチョコレート工場』みんな、もっと笑おうぜ。

きのう『チャーリーとチョコレート工場』をやっと観てきた。
(公式サイトこちら。動画たっぷりでかわいい。)

待ちました……1年半前に、こんなコトを書いたことをご記憶でしょうか。
1年半前の自分に言いたい。
「大丈夫。ティム・バートンはさすがだった。ギリギリだった。」
と。

ジョニー・デップasミスター・ワンカ(原作ではワンカと記されていたが、映画字幕ではウォンカとされている)は、もちろんのこと演技は十分。見た目は原作よりもさらに病的なキモチワルさ倍増で、原作を知らずに見に行った人は、工場見学がすすむにつれ「こいつ……ほんとにヤバイんじゃ……」と笑顔で観ていられなくなる。
心の美しいチャーリー少年以下、どのキャストも最高。
映像美には、1年半前から不安を感じていなかった。

ひとつだけ気がかりだった、例のウンパ・ルンパ族の取り扱いについては、「こう、したか……。」驚嘆と称賛の呻きを禁じ得なかった。 
原作に思いっきり書かれていた“アフリカのジャングルに住む”“小型のピグミー”というような、今なら大問題になることマチガイなしの部分はばっさりカット、密林で虫を食べて暮らすことになってはいるが、役者の名演技で笑い飛ばせるほどデフォルメされている。
まあギリギリ、ですね。
あれ以上でもあれ以下でも不満が残っただろう。
たくさんのウンパ・ルンパが唄って踊るシーンはインド映画のミュージカルシーンを思い出させ、しかもわずかなカットにも手抜き知らずの細やかさでにパロディーをはさんでくるので、私はおかしくて腹筋がけいれんしそうでした。
大変なセンス!
チャーリー少年のぼろぼろな家の様子は、原作のイメージをそっくり忠実に映像化してくれて、古くからの原作ファンも文句のつけようがないだろう。
あんな家、ほんとはあるわけないんだけど、あそこまで原作どおりにくっきりと輪郭を描かれると、だれも鼻で笑うことはできまい。
作り込みの天才、ティム・バートンはやっぱりスゴかった……!

それなのに、ですよ。
きのうはレディースデーということもあってか、映画館は午前中の初回上映からすでに満席で、ホールには次の回、その次の回までの整理券を求める人が押すな押すなの大混雑だった。
その観客たちが、みんな、ほとんど声を出して笑わないのは、どうして?
私はウンパ・ルンパのミュージカル登場シーンはそのたびに拍手で迎えてもよかったと思うし、もっともっと、ゲラゲラと笑い転げてもいい、と思ったんだけど……みんな、可笑しくないの?!もしかして今のパロディーわかんなかった?なんでこんなにくだらなーい部分でこまやかにボケを入れるのか、それが可笑しくないの!?
ひょっとして、原作を読んでいない人は、あの楽しいような空恐ろしいようなストーリー展開についていけず、振り回されているような感覚を味わっているのかしら。

でも先週「アキタコマチ」といっしょに観てきた夫は、原作を存在すら知らずに見に行って、まったく同じ感想を言っていたなあ。
「いやー、『みんな、もっと笑おうぜ』と思ったんだけど。」
原作を知らなくても楽しめる人は楽しめるんだな。
お互い、ああいうブラック寄りのユーモアを楽しめる人間でよかった。

原作本はこれ
ジョニーさんも娘に読み聞かせてやったという。
ウチも「コシヒカリ」以外は読みました。

by apakaba | 2005-09-22 22:47 | 映画 | Comments(21)
2005年 09月 21日

泣き顔と向かい合うと

子供を……怒るのがたのしくて怒ってるってことはないんだけど。
いたしかたなく、怒るんだけど。
だから泣かせたいなんてこれっぽっちも望んでいないんだけれど……
強く怒られると泣く、泣き顔を見るのはつらい、つらくてこっちの胸がはり裂けそうだ……って思っていたはずなのにいつの間にかぼんやりと、その泣き顔に見とれたりする。

人の前で気楽に泣けるのっていいなあーとか。
うらやましくなったり。

by apakaba | 2005-09-21 23:22 | 子供 | Comments(6)
2005年 09月 20日

『ムスリムの女たちのインド』たまには本気でブックレビュ〜!

ある会場で、著者の柴原三貴子さんとごいっしょした。
例によってヨッパライだった私は、ほぼ同い年という気安さも手伝って馴れ馴れしく彼女に話しかけ、本にサインまでしていただいた。
幼いころからインドに憧れ、北インドの小さな村で暮らしていたとはとても思えない、色白で、小柄で華奢でかわいらしい女性だった。

帰りの電車でもいっしょだったが、おっとりのんびりとした話し方で驚くような冒険譚をする、そのかわいい声をずっと聞いていたいような人だった。

この本は、柴原さんが大学時代から足繁く通い、やがてイスラームの小村で、ある一家の“娘”として迎え入れられて暮らしてきたインドの、とりわけ“女性”に焦点を絞った話である。
著者ご本人のあのたおやかな様子からはにわかには想像できない、すがすがしく、簡明で、しかも叙情豊かな文体に、たちまち夢中になった。

でも、すぐにペースを落とした。
この本は、あまりにも感動的だった。
毎日、数ページずつ、だいじにだいじに読みたい。
私は読みながら、おおげさではなく何度も、涙が出た。
冒頭の会場に集まった人の中で、すでに読んでいた人の感想も、同じだったのだ。
何度も胸が詰まって涙が出た……と。

夜中にひとりで本を開く。
心は瞬時に、彼の地へ飛翔する。
土の匂いや、雨の匂い、果物の皮が腐っていく匂い、女性たちが髪につけた油の匂いが本から立ちのぼる。
その村へ訪れたことはむろん、ないけれど、著者が過ごしてきた時間の断片を拾い集めていくだけで、胸がいっぱいになっていく。
私の中に、いくつもの具体的な顔が浮かんでくるのだ。
それは、インドではないがパキスタンを旅行していたときに会ってきた、たくさんの女性たちの顔。

パキスタンはイスラームの国だ。
私は、偶然が重なって、しばらくある家に居候していた。
イスラームの女性って、こんなふうに暮らしているんだ……それをかいま見ることができただけでも、女でよかったな……なんて思えるような、驚き、うんざりし、楽しんだ体験だった。
どの家へ遊びに行っても、出迎えてくれるその家のお母さんやおばあちゃんは、私を見た瞬間に、ぎゅうっと抱きしめてくれた。
その腕の力と温かさはもう、すべての言葉も理屈も超えた、圧倒的な真実のチカラだった。
別れの日には、自分でもびっくりするくらいに泣いた。
柴原さんの本を開けるたびに、あの、イスラームに生きる女性たちの胸の温かさがよみがえってきた。

柴原さんは一介の短期旅行者である私などおよびもつかないほど、深くインドの村と結びついているけれど、そこへ嫁いだのではないし、“娘”のようにかわいがられる一方で異邦人としての距離感ももちろん持っている。
その、どちらにも属さない第三者的な立場が、独自のみずみずしい感性をよびおこす。

著者の暮らしていた家のお母さんは、女の子ばかり9人を生んだ。
それぞれの娘たちが成長していき、縁談、結婚(あるいは離婚や破談)、出産、里帰り、料理やおしゃれ、近所や嫁ぎ先とのおつきあい……これらが語られていくにつれ、遠い国の、異なる神を信じる人々に対する“差異”を感じるよりも、この人たちと同じ時代を生きていることの不思議さと、同じ女であることのうれしさに打たれる。
ここに出てくる人は誰ひとり完璧じゃない、でもそれぞれの強さを持っている。
その強さは自分の中にもきっとあり、自分が連綿とつづいてきた“女”というものにつらなっている——と思えることがうれしい。

プロの写真家でもある著者の撮影した写真が、書中にたくさん収められている。
この写真がまた、「柴原さん、女でありがとう。よくぞあなたは女性だった。」といいたくなるほど、女性の表情が自然にやわらかく捉えられているのである。
これが男の写真家だったら、どうなるか。
こんな表情を絶対に見せてはくれまい。
イスラームの女性でまず思い浮かぶのがスティーブ・マッカリーの「アフガンの少女」の写真(こちらに関連記事)だが、あの、瞳の底に怒りをたぎらせたようなまなざしは、男性写真家だからこそ撮ることができたのかもしれない、けれどもあの瞳だけがムスリムの女性すべてを語っているわけでは、決してない。

著者が出会い、ともに暮らしてきた人々の暮らしを、こんなに美しく緻密な筆致で描いたことを、書かれた本人たちはきっと完全には知り得ぬままに、一生をインドの村で送るのだろう。
そして代わりに、我々はその村へ生涯行くことがなくても、この本を読めば、彼女たちの手や胸の温もりを感じることができるのだ。

柴原さん、「読んだらさっそく感想書きますねー!」なんて約束しながら、こんなに書くのが遅くなってしまってごめんなさい。
でもあの日に柴原さんに偶然お会いできたことを、心からうれしく思っています。
またお会いしましょう!


アマゾンのページはこちら
ブックレビュー、☆多数!

by apakaba | 2005-09-20 23:32 | 文芸・文学・言語 | Comments(32)
2005年 09月 19日

ゆく夏。

お向かいに引っ越してきた一人っ子のまあちゃんは、「アキタコマチ」と「コシヒカリ」によくなついている。
ふたりはゆうべ、まあちゃんを花火に誘った。

中秋の名月は美しいけれど、花火をするには明るいな。
家の前の暗がりに集まった。
ごはんの支度をしていたので一足あとから出ると、「アキタコマチ」と「コシヒカリ」、まあちゃんとまあちゃんの若いパパがいた。
ママとはおしゃべりしたことがあるけれど、パパとは「こんにちは」以外、たしか口をきいたことがない。
なにを話したらいいのか、と一瞬思うけれど、べつに花火に会話は必要ないわね。

子供たちは花火に火をつけるのがとてもヘタなので、私がどんどん火をつけては渡し、つけては渡し、としていった。
3人ともせわしなく花火を持ち替えてよろこんでいる。
パパにも渡すべきかな、でもやっぱり子供に渡すほうが優先だわ。
パパは「まあちゃん、よかったねえ」とやさしく声をかけて、煙草を吸っていた。

最後、線香花火だけが残り、大きい花火の興奮がさめやらぬ子供たちをいったん制して私が言う。
「これはふつうの花火とちがって、持つのがとても難しいからね。揺らしたらだめ。こよりの部分を短く持って、長持ちさせるときれいに火花が出るよ。」
みんな息を詰めて一本ずつやり始めた。

不意打ちのように一本だけ、パパにも渡す。
「どうぞ、やってみて。」
煙草を吹かして“保護者”の顔をしていたパパは、いきなり“当事者”の表情に変わって、火玉を落とさないようにと真剣になる。
線香花火は、タイムスリップの光。

by apakaba | 2005-09-19 15:50 | 生活の話題 | Comments(22)