あぱかば・ブログ篇

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2006年 02月 28日

犬を飼えることになったのだよ!

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あああああああああああああーっ!悶絶!!!!!!!!!!!!!
のこのこさんからついさっき送ってもらった。撮って出しですわ。


今日、のこのこさんのご実家で生まれた子犬を、譲ってもらえるというお返事をいただいた。
ありがとうございます。

それからはてんやわんやの大騒ぎだ!
名前をどうするか問題!

アキタコマチ:ジャックがいい!ジャック・スパロウ船長で!
私:やだよ。
ア:じゃあなにがいいの。
私:ボノでいいんじゃない←U2
子:やだーそんなのー!
私:パブロフ。
子:なにそれ?(無知な子供たちだ)
私:柴なんだからシヴァ。ヒンドゥーの最高神だよ。
子:それがいい!
夫:柴でしばなんてそのまんまだ。おもしろくねえ。
ササニシキ:ルートがいい。道という意味で。
私:まぬけだと思う。
コシヒカリ:茶色い犬でブラウンだからブラ。
私:ブラジャーみたいでやだ。
コ:ラウ。
私:香港俳優みたいでやだ。←アンディ・ラウ
夫:どれもだめだ。和犬なんだから和風の名前が合うんだよ。けんぞう。かんぞう。はんぞう。ごろぞう。
私:どうして「三(ぞう)」なの。なんで三男坊なの。
夫:だってこいつら(長男・次男)がいるから(赤ちゃん犬は雄です)。
私:ははあ……。
夫:勘九郎。幸四郎。海老蔵。えびぞうがいいな、いま一番いい男だ。
私:海老様かあ、いいねえ海老蔵。
子:やだーっ!犬なのに海老なんて!

延々とこのような会話が……どうなることでしょう。

by apakaba | 2006-02-28 23:52 | 生活の話題 | Comments(32)
2006年 02月 27日

45歳のひな人形

桃と菜の花、女の子のお祭り

お節句の片づけに考える(イラク攻撃と世界情勢)

3年前に、2回、ひな祭りに関連したことを書きました。(ゼヒ、読んでください!!)
今年もまた、ひな人形を出しました。

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ガラスケース入りの、こぢんまりしたひな人形です。
床の間にちょうどぴったり。


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お人形のお顔がとってもかわいらしいのです。
いま売っている人形に、ここまでかわいらしい顔のものは見つかりません。
昔からこのお人形たちのお顔が大好きでした。
このおひな様は、私の姉のお節句に買った物なので、45年前のお人形たちなのです。
「コシヒカリ」が生まれたとき、新しいセットを買おうかという話も出ましたが、私が無理をいって、このおひな様を譲り受けました。
これよりかわいいおひな様を見たことがないからです。

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右大臣。
子供のようにあどけなくてかわいい表情ですが……

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いや〜ん、ヅラが落ちるとつるっぱげじゃん(烏帽子だけど……)。
45歳だもんねえ、ハゲにもなりますわね。

このほかにもいろいろと痛んできています。
腕がボロッと取れたりもしています。
でもいつまでも大事に飾っていきたい。
「コシヒカリ」の嫁入りに、持たせてあげられるといいなあ。

by apakaba | 2006-02-27 13:17 | 生活の話題 | Comments(18)
2006年 02月 26日

1990年の春休み. remix version2

2,
 デリー初日の宿さがしはつらかった。日本を出て4日目のことだ。
 成田からタイのバンコクを経て、インドのデリーへとやって来た。
 インディラ・ガンジー空港に到着したのがすでに夜中の12時を回ったころだった。
 寒い。蒸し暑いバンコクで着ていたTシャツの上に、あわてて長袖のシャツとトレーナーを重ねる。いまは2月の初旬である。
 ガイドブックによれば、デリーでは最低気温が摂氏10度を下回ることもあるという。おとなしく空港内で朝が来るのを待てばよかったのだが、デリー市内まで行くバスがちょうど出るところだったので反射的に乗り込んでしまった。
 これが悲惨な長い夜の始まりだった。

 「空港から市内までのこの道路はすごくきれいなの。ちょっとハワイみたいな感じなのよね。インドに来たぞって気分にさせてもらえないのよね……。」
 インドはこれで3度目だけれどハワイには1度も行ったことのないはずのHさんが、隣の座席で言った。
 「へえ……。」
 うまい相槌が見つからず、生返事をして窓の外を見る。私の方はインドもハワイも未経験なのだ。
 街路樹のヤシの木以外、暗くてほとんどなにも見えない。
 インドの名物の〈野良牛〉はいつ見られるのだろうか、と少しの間注意して道端を眺めてみるが、期待に反して生き物の姿はどこにもなかった。なんとなく寂しいというか侘びしい気分のバスである。
 バンコクとの気温差に、まだついていけずにいるからか。
 体の芯が重たかった。

 海外旅行といえば、高校生のころに家族でマレーシアとシンガポールに数日間行ってプールと海で泳いで日焼けしたという経験しかない私は、この旅にある〈気負い〉を持っていた。
 大学時代、国内ならいろいろなところへ一人で行っていたが、海外への完全な自由旅行など生まれて初めてのことである。
 病気や盗難などが心配だった。私はそれほど丈夫なほうではないので、Hさんにも出発前から何度も
 「眞紀ちゃんは体をこわすんじゃないかなあ。大丈夫かなあ。」
 と言われていた。
 そしてもう一つ、それらのトラブル以外に多少の不安を感じていることがあった。
 それは、こんなに長い間Hさんと二人きりでいるということである。いくらふだん仲がよくても、24時間べったりと一緒にいたら、お互いのいやな部分が目につくこともあるだろう。
 それに、海外自由旅行の初心者である私にとって、Hさんは頼りがいのある先輩ではあるけれども、同時に、彼女の手前、思いきり初心者らしいふるまいをしにくくなるのではないかという変な気兼ねもあった。

 Hさんは大学2年と3年の春休みに、2度インドを旅行していた。
 彼女は高校生のころに岩波新書から出ている『インドとイギリス』という、搾取する側、宗主国としてのイギリスと、搾取される側である植民地であるインドとの相関関係を記した本を読んで以来、インドに興味を持ち始めたという。
 書棚にはインド関係の本が硬軟取り混ぜてずらりと並んでいる。
 ふだんは倹約してつつましく暮らし、いろいろなアルバイトで旅費を稼ぎ、春休みになるといざインドへ発つ。
 その動機といい、あこがれの地へ実際に行くための努力といい、帰ってきてからのさらなる傾倒ぶりといい、まさに〈正統派・インド好き〉と呼ぶにふさわしい。
 それに比べて私のほうは、彼女に
 「眞紀ちゃん、最後の春休みにインドとその周辺の国に行ってみない?」
 と誘われて初めて、
 「インドか。そんな国もあったなあ。行ってみようかな。」
 と思い始めたようなものである。

 Hさんが前回・前々回の春休みに一緒にインドに行ったのは、Oさんというクラスメイトであった。私はこの人とも親しくしていた。北海道にある彼女の実家にHさんと共に泊まりに行ったこともあるし、私の結婚式の二次会のパーティーではOさんが司会をしてHさんがスピーチをした。私に息子が生まれたときには、素早いことに産後2日目にそろってお祝いに来てくれた。
 ついでにいうとOさんもはっきりした顔立ちの美人なのだ。Hさんと二人でインドのバザールなどを連れ立って歩いていたら、相当に人目を引いたことだろうと思う。
 4年生になってから、Oさんはフリーのキャスターという仕事を始めたので、卒業旅行どころではない多忙な身となった。それで、今回のHさんの旅の相棒として、私にお鉢が回ってきたのである。

 彼女と一緒に旅行に行こうと決めてから、私も行き先の国々に興味を持ち始めはしたものの、やはり彼女の由緒正しいインド熱を身近に知る者としては多少の引け目を感じてしまうことは避けられなかった。
 インドの旅の思い出をたくさん共有しているOさんと比べて、私のことをもどかしく感じたりしないだろうか、という懸念もあった。
 こんなことをうじうじ考えているなんてみっともないから口にこそ出さなかったけれど、私は日本を発ったときから、経験の差によって彼女との力関係が上下にわかれてしまうかもしれない、というようなことをたびたび考えていたのだった。
 ターミナルに着いてバスを降りたとたんに、さっそくその考えていたことが現実となった。


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仲よくゴミをあさる牛と豚。北インド、アムリトサルにて。

 「ハロー、マダーム!リキシャー?チープホテール?」
 私たちの周りに10何人ものリキシャマンが一斉にわっと群がってきた。
 リキシャとは、全インドに普及している乗り物で、座席を自転車で引っぱるサイクルリキシャと、小型オート三輪の後部を座席にしたオートリキシャがある。都市部ではオートリキシャが主流であり、いま私たちを取り囲んでいるのも、ダッ、ダッ、ダッ、とやかましいアイドリングの音をさせているオートリキシャだ。料金は、乗る前に行き先を運転手である〈リキシャマン〉に告げて、お互いの交渉によって決まるのがふつうである。
 といったことを、私はHさんから聞いてもいたし、ガイドやインドの旅行記も少しは読んでいたので、知識としては知っていた。しかし実際に彼らを目の当たりにすると、やはりその圧倒的な商売っ気にあてられ何も言えなくなってしまった。
 「安いホテルに案内するから俺のリキシャに乗れって言ってんのよ。何がマダムよねえまったく。オーケーオーケー、アイウォント、トゥーゴー、トゥー、メインバザール!ハウマッチ!」
 Hさんは興奮しやすいたちなので、ハワイ風の幹線道路からいきなりインドらしい喧噪のただ中に放り出されて、いまや明らかにボルテージが上がっていた。傍目から見てもわかった。
 それにしても彼女ときたら、夜の闇に紛れ込みそうな黒い顔に歯だけを職業的ににやにやとむき出したみすぼらしいなりの10数人の男を相手どって、立派に値段交渉をしているではないか。安宿の密集する、ニュー・デリー駅前にあるメインバザールという場所まで、できる限り安い値段で行こうとしているのだ。

 「10ルピー?ノーノー、トゥーイクスペンシブ!」
 高すぎるわよ!もっと安く行ってくれる人はいないの?
 大げさなジェスチャーをつけて、山ほどのリキシャマンを絞り込んでいく。
 私はその姿を見て感心してしまった。
 そして、私もちょっとやってみたいなあと思った。
 けれどもHさんに対する照れくささが先に立って、どうしても体が動かなかった。
 私が一緒になって値段交渉を始めたら、彼女はきっと「おっ、やってるやってる」と私のことを先輩らしい目で見るにちがいない。インドの旅に慣れているHさんがやったほうが話が早いのだ、彼女を見ながら徐々に慣れていけばいいのだ、と自分に言い聞かせていた。
 もちろん彼女はそんな私の意味のない葛藤など知る由もなく、
 「ねえ眞紀ちゃん、この人に決めない?信用できそうだよ。」
 と一人の男を指した。

 口々に誘い文句を並べ立てるリキシャマンたちの中で、彼だけが愛想笑いを全くしなかった。
 やせていて、背が高い。ひそめがちな眉の下に笑いを含まない鋭い目、とがった鼻、口の端になぜかいまいましそうに5センチほどの小さな葉巻、ビリーをくわえている。年は30半ばくらいだろうか。少しだらしなく伸びた口髭を落としたら、案外若いのかもしれない。
 インド人の顔はまだ空港にいた人々とリキシャマンたちしか見ていないが、その中で一番ハンサムだと思った。私はやたら友好的にニコニコされるとかえって「なにか企んでいるんじゃないのか?」と不信感を抱いてしまうのだ。
 「パハール・ガンジ、メインバザール。」
 Hさんが告げると、リキシャマンは黙ってオートリキシャをスタートさせた。
 ババババとひしゃげたエンジン音が、ことさら大きく聞こえた。

(つづく)

by apakaba | 2006-02-26 16:46 | 1990年の春休み.remix ver. | Comments(19)
2006年 02月 25日

1990年の春休み. remix version1

このブログで、1990年に初めて海外自由旅行をしたときの日記を、ほぼそのまま書き写してアップしている。
読んでくれている人は多くないだろうけど、読んでくれている人はしっかり読んでくれていてとてもうれしい。

自分で書いたものという気がしない。
人に読ませる文章を書くことを意識していない22歳の女の子をひとり雇って、しょーがねーなと内心イライラしながら載せてやっている編集者の気分だ。

実は、この日記を数年後に新しく書き直した原稿が、先日、ひょっこり出てきた。
いつ書き直しを試みたのか思い出せないがおそらく10年以上前だと思う。
16年前の、だらだらした書き方に較べて、だいぶ形になってきている。
それでも現在の自分の目で見ると、ださくてヘタだ。
かっこよく書こうとして力んでいる様子でもあるし、全体に暗くてくどいわりには若さが鼻につく。

あまりの長さに疲れたのか、育児で時間がとれなくなったのか、旅行のほんの前半、パキスタン入りしたところまでで、その原稿はとぎれている。
ものはためしで、この別バージョンも、本編を追う形で、数回アップしてみようかと思う。
どうせ埋もれていて、10年以上も忘れていた原稿だ。
これもそのまま、直さずにアップしてみよう。
本編をつづけて読んでくださっている皆さんには、きっと比較するとだいぶちがってきたなということがわかると思う。
日記形式をやめ、時系列も多少崩すことを試みている。
『かっこよく書きたい』という欲望が芽生えはじめたばかり、おそらく25歳ごろの、私の文章です。
キャ〜、それでもまだ若い!はずかしー!



1990年の春休み. remix version1

1,
 旅の46日間をともに行動したHさんは、大学卒業後××新聞社の記者となった。
 彼女とは映画や芝居を観に行ったり、家に泊まったり長電話したりといったことをよくしていた。大学の4年間、同じクラスだった。友だちの多い彼女にとってはどうだか知らないが、私にとって彼女は、大学時代を通じての数少ない親しい友だちだった。

 私たちは容姿も性格も全然ちがう。
 彼女は華やかな顔だちをしたかなりの美人で、誰とでもとりあえず仲よくつきあえる。別にお調子者とか世渡り上手とかいうわけではなく、真面目ないい人である。何に対しても一生懸命で、感動的なことにはとことん感動するし、正しくないことには心から怒りを感じ、自分の力の及ぶ限りそれを直したいと考えるような、清らかな倫理観の持ち主なのだ。新聞記者という今の職業は、そんな彼女の性格にぴったりの〈天職〉であると私は思う。

 彼女はそのくせ、けっこう自分をさらけ出すのを嫌い、自分が周りからどう見られているかを気にする人でもある。常に他人と自分との距離を測りながら人に接するようなところがあって、人とのつきあいのなかで何かしっくりいかないことが起きたときには、他人を傷つけまいという気遣いと自分を守りたいという本能とが同時に働き、結果としてどっちつかずの宙ぶらりんな笑顔をその美しい顔に浮かべてしまうことがままあるのだ。つきあいが浅いと、彼女のあいまいな笑顔に惑わされてその真意を測りかねてしまうけれども、親しくなれば、そうした自己防衛的な面も含めて誠実な愛すべき人物であるということがわかってくるのである。

 一方私は目立たない地味な顔をしているし、愛想もかわいげもないほうである。Hさんとは逆にまるで開けっぴろげな性格で、人からどう思われようと気にならない。だから思ったことをずけずけ言って相手を傷つけてしまうということがある。Hさんは私のこういう性格を羨ましく思うこともあるそうだが、ときには私から見た彼女の気に入らないところをずばずば指摘され傷つけられるという実害を被ってもいるので、すっかり私の性格と取りかわりたいとは思えないようだ。私と一緒にいると、自分が私を守るお姉さんであるかのような気持ちになってくる、と旅行中に言ったことがある。私のつっけんどんな言動を横で見ていて、相手が気を悪くしないだろうかとはらはらし、
 「ちがうんですよ、この子はこういう態度をとっているけど悪い子ではないんです、誤解しないでやってください。」
 とかばいたくなってくるというのである。実際に彼女は大学受験のとき1年浪人したため1歳年上で、家族に妹がいるし、私には姉がいるので、もともとそういう姉らしい、あるいは妹らしい性格を持ち合わせているのかもしれない。
 こういう性格のちがいは旅という特殊な状況のもとでは普段より際立つもので、私たちは旅行中よくそのことで衝突したり、かと思うといやに自省的になったりしたものだ。

 たとえばインドの首都デリーのホテルでのことである。実になれなれしいボーイが一人いて、朝っぱらから私たちの部屋に入ってきてしまった。右手に飲みかけのコーヒー、左手に食べかけのサンドイッチを持ち、両の頬がとろけてぽたぽた滴り落ちてきそうな満面の笑みをうかべている。彼は愛想のいいHさん一人に狙いを絞り、彼女を相手にさんざんはしゃいだ。自分の食べかけのサンドイッチを食べろと無理強いし、朝食は?なにか運ばせようか?なにが食べたい?などと聞きまくり、彼女と肩を組んだ写真を私に撮らせたりした。彼女は顔だけ笑ったままで、
 「わかったわかったもうあんた帰んなさいよ。」
 と日本語で言っていた。
 私はそのときボーイのずうずうしさに腹を立て、ただ黙って二人を見ていた。そして、Hさんがしつこいおちゃらけたボーイをうまく受け流すのに感心した。同時に、なぜもっと毅然とした態度であの男を追い出してしまわなかったのか、と歯がゆくも感じた。彼女は無益な衝突を嫌う人なのだ。腹が立ったら啖呵を切ってしまうタイプの私とは逆に、できる限り笑顔で旅を続けたい、という姿勢を持っているようなのである。行く先々になれなれしいしつこい男は現れて、そのたびに私は彼女のあいまいな態度を感心と苛立ちを覚えつつ眺めていた。

 旅をするときの人数は少なければ少ないほどよい、というのが私の持論で、実際に大学時代はいろいろなところへ一人で出かけて行った。とりわけ、北海道と三宅・八丈・屋久などの離島によく行った。
 「一人旅以外は旅じゃない。日常生活の地理的な移動にすぎない。」
 偏屈者を思われそうだから口に出したことはなかったが、一人旅の楽しさにとりつかれほとんど有頂天だった当時の私は、そんなふうに考えていた。
 しかし、あの学生時代最後の春休みの、俗に言う〈卒業旅行〉は、どうしてもHさんという得がたい友人と二人でなされなければならなかったのだ。それは必然といってもよかった。

 あのころは、それまでの20年あまりの短い人生のうちで、最も深い倦怠を胸に抱えていたころだった。これだと思える確かなものを、なにひとつ見つけられずにいた。就職活動にしても、大学の勉強にしてもだ。ようするにぱっとしない、冴えない日常だったのである。
 私が一人旅を偏愛していた理由のひとつは、旅立つ前に抱えている〈日常〉が、旅の間にひとつひとつなくなり軽くなっていくような気がしていたということだった。いわば、一種の若者らしいロマンチシズムである。
 しかし旅をしながらHさんと毎日顔をつきあわせて、笑ったり相談したり気まずくなったりをくり返すということは、彼女には失礼な言い方になるが、大学生活の〈日常〉そのものを旅に持ち込んでしまうということだ。抱えているものは軽くなるどころか、一つ言い合いをするたびに増えていってしまう。
 それでも、いや、だからこそ、あの旅には彼女が必要だった。
 旅をしている最中にはそんなことは考えもしなかったけれども、あれから何年もたって当時とはまるで異なった生活に身を置くようになった今では、揺れていた自分の姿も、あの旅でのHさんの存在の意味もきちんとよく見える。
 酒を飲み過ぎて喉が渇いてたまらないのを癒すために、また目の前にある酒のグラスに手をのばしてしまうように、あのときの私は外的にも内的にもさらに大きく揺すぶられること、重いものを持たされることを無意識のうちに欲していたのである。
 一般的に若い女性があまり行かないアジアの国をまわり、驚く。感動する。怒る。くたびれる。そのあいだじゅう一人の友だちが一緒にいて、その人に対しても驚く。感動する。怒る。くたびれる……。絶えずそんな揺さぶりにさらされ続けていたかったのだと思う。なんのために、と問われてもうまくは言葉にできないけれど、あの時期にはそういうやり方が一番似合っていたのだ。

 結婚し、子供を持つ身となった現在でも、あの旅の記憶は鮮明なままだ。
 インド・パキスタン・ネパールと、トランジットとして数日間滞在したタイの4カ国をまわるということ以外にほとんど具体的なプランを立てない旅である。初めての経験ばかりだった。しかしその毎日の体験に慣れっこになり、旅に飽きてしまうというほどには長く行っていなかったので、思い出がどれも刺激的で瑞々しいのである。
 けれども、鼻から頭の芯まで突き通すようなスパイスの香りや、来る日も来る日も至るところで流れていた人気映画のテーマソングや、夜行バスの想像を超える振動と寒さ以上にもっとはっきりと、手でさわれるように思い出せるものがある。
 あのときの〈気分〉だ。
 学生最後の、もう一生やってこない〈春休み〉を過ごしたときの気分だ。

 子供のころから春休みが好きだった。宿題もなければ来年どんなクラスになるのかもわからない、暖かくなってきた陽気のわりには友だちと遊びに行くこともない、そんな中途半端さをもてあました気分は春に似合ったふわふわした心地よさを感じさせた。
 大学2年・3年・4年の春は、大学に合格してから入学するまでの春休みのことをよく思い出した。
 入学の手続きなどで何度か大学へ行った。
 地元の高校に比べて大学への通学時間はとつぜん長くなり、その道のりをなんだかとらえどころのない気持ちでかよった。
 山手線のドアにもたれて代々木競技場前の通りの街路樹をぼんやり見ていた。柳は新芽が芽吹き始めていてきれいだった。
 それからは春が来るたびに、その春休みに気持ちが帰っていった。漫然とした毎日に浸りきった自分の心が、知らず知らずに入学前の〈気分〉を懐かしんでいたのかもしれない。
 しかし最後の春休みには、その入学前の春休みに気持ちが向かうことなどまるでなかった。ただ体の周りをぐるぐる回っているような感じだった。

 大学4年生の1年間にいろいろなことが重なって、私は困憊していたのである。
 過ぎてしまえばまったくたわいのないことばかりだけれど、当時はそれなりにもがいたりがっかりしたりしていた。
 最ももがき苦しんだのはなんといっても就職活動である。
 マスコミ関係に的を絞って試験や面接を受けたが、どこにも通らなかった。30社近く受けた。もっと受けてもっと落ちている人も中にはいると思うけれど、私にはこれでもかなりきつかった。後半は、
 「どうせ通らないや……。」
 と受ける前からあきらめていた。終盤にはどうして自分がマスコミに進みたいのかすらわからなくなっていた。
 結局、最後にひとつだけ受けた一般企業の商社に決めることにした。クラスの人たちはとっくに就職先が決まって、旅行に行ったり卒業論文の準備にかかり始めたりしていた。
 一方、同じマスコミ志望だったHさんは、いわゆる青田買いであっという間に××新聞社の内定をとった。文章力や学力にそれほど大きな差があるとも思えなかったのに、彼女は勝者、私は敗者になってしまった。
 現在の私はマスコミに興味がなくなり、就職しなくてよかったと思っているし、彼女は新聞記者という職業に疑問や不安を感じつつ仕事をしているようである。
 しかしとにかく、みじめな気持ちだった当時の私は、彼女をうらやましく思わずにはいられなかった。おそらく彼女のほうも、私に対して複雑な気持ちを持っていたことだろう。3年生の後半から一緒に作文やマスコミ受験の講座を受けてきたのに、進む道は完全に離れてしまった。
 いつもつるんでいた私たちは、就職活動を境に
 「いつまでもこのままでいるのではない。それぞれの道に別れていくのだ。」
 という当たり前の事実を初めて自分のこととして感じるようになった。

 就職先が決まった秋に、宮本輝の『青が散る』という小説を読んでいた。
 主人公が大学に入学してから就職先が決まるまでの4年間が書かれた、題名どおりの青くさい青春小説である。
 この時期にこれを読むなんてあんまりにも時宜にかないすぎている、と我ながら赤面する思いで読み進めていたが、やはりタイムリーなだけあって主人公の心の動きが実にリアルに感じられたので、Hさんと一緒になった大学からの帰り道に
 「実はあたし、最近これ読んでるのよ。ちょっと〈はまりすぎ〉って感じなんだけど。」
 と本を取り出して見せた。それまでにもおもしろい本はよく紹介しあっていた。
 すると驚いたことに彼女はげらげら笑いだし、
 「ええっ、あたしもなのよ!恥ずかしいと思って言わないでおくつもりだったんだけどね。」
 と肩にかけた鞄から私のと同じ『青が散る』の文庫本を取り出すではないか。しかも読んでいるページまでもほとんど同じ場所だったのである。
 私は、こういう友人にはめったにめぐり会えないだろうなあ、と一緒に笑いながら思っていた。
 そしてそのとき、同時に非常な喪失感にとらわれたのである。
 べつに就職したからといっていきなり友だちでなくなってしまうわけでもないけれど、しかし学生時代とまったく同じかたちのつきあいをすることはもう二度とないだろう。いつまでも一つの場所にとどまってはいられないのだ。

 それは自分自身とのつきあいにしても同じことだった。
 漠然としてただ広がっているばかりの〈将来〉が、卒業と就職によってぐっとせまくなる。
 なんにでもなれると無邪気に考えていた時代が、過ぎていく。

 要するに、卒業というあらかじめ設定された終末を目前にしてセンチメンタルな気持ちになってしまった、ということなのだが、それにしてもこのころの私の消耗ぶりは本格的でありすぎた。
 母親が病気になったり、卒業論文に四苦八苦したり、恋愛沙汰に翻弄されたり、留年の不安につきまとわれたりしていたためである。
 私の家はもともと4人家族だったが、小学生のころに父が他界し、大学3年生の6月に、姉がそれまでの仕事を辞めてアメリカに留学していたので、以後、母と私の二人暮らしになっていた。
 その母が胆嚢炎という病気で、卒論の追い込みである12月に入院してしまった。
 以前から胆石の発作にたびたび襲われて手術をしなければならない状態だったのだが、検査のために通院している間に病状がどんどん悪化し、胆嚢に膿がたまってきてしまった。破裂寸前のところで胆嚢の摘出手術をしたため、命を落とさずにすんだのである。
 私にとっても本人にとっても、この病状の悪化の速さは予想外だった。
 その苦しみようは確かにただの胆石の発作とは桁違いだった。
 母は、
 「このまま死ぬのだろうか。きっと死ぬんだろう。」
 と感じていたという。
 私のほうは、
 「まずい。もう旅行どころではない。」
 と思った。しかし母は、学生時代最後の思い出になるのだから行ってきなさい、こっちは手術さえしてしまえばあとは心配いらないんだから、と言ってくれたのである。
 退院後は姉が一週間ほど帰国して母を看るということに決まってはいたけれども、やはり自分だけが旅行を楽しんでくるのは気がとがめた。
 だからといって、せっかく大丈夫だから行きなさいと言ってくれているものを無理に中止しては、かえって母の気持ちに背くことになるかもしれないと考え、迷った末、予定通りに出発することにした。

 手術直後、母は口を半開きにして間抜けな顔で眠っていた。
 しかし少しも苦しげではなくなっていた。
 安堵の思いよりもある驚きをもってその寝顔を眺めた。
 父を失ってから病気などしたことのなかった母を、いつの間にか私は〈決して壊れないもの〉だと思いこんでいたらしい。母は心も体も〈壊れない〉のだと。
 もう社会人になる年だというのに、私はまだまだ子供の甘えを持ったままだったのだ。
 私にとっての〈永久に強い母〉の姿はもはや像を結ばなくなった。母もまた、一つ処にとどまってはいてくれなかった。
 その10日後に、私はHさんと二人で一ヶ月半の旅に出発したのである。
 いろいろの出来事や人たちや思いをほったらかしにして。

(つづく。トホホ、長いな)

by apakaba | 2006-02-25 17:19 | 1990年の春休み.remix ver. | Comments(10)
2006年 02月 24日

1990年の春休み.6 インド篇

<初めて読まれる方へ>
この旅行記は、私が大学卒業旅行でタイ・インド・パキスタン・ネパールを一ヶ月半まわっていたときの日記を、不定期に載せているものです。
文章(註・レート換算含む)はすべて22歳当時のままです。

前回までのあらすじ
インドのデリーから北上してアムリトサルへ。


2月1日(つづき)
 体調があれこれよくないわりには、一日中歩き回っていた。朝食はWINPYへ行こう、とコンノート・プレイスまで歩く。コンノートは銀座のようなところであった。身なりのいい人がたくさんいる。ヒロはおもしろみのない所だと言うが、私は初めての場所なのですごくおもしろい。アーケード(と言っても石造りの重厚なもの)の柱の陰に、唾を吐く所があり、へえーと感心する。本当は唾ではなく、赤い色をした繊維質のもの(パーンという)をペッ!と吐き捨てるのだが、血を吐いているように見えて最初はちょっとびっくりした。
 WINPYをさがしてものすごく歩いた。コンノートは公園を中心にして放射状に道路が延びており、ブロックに区画されている。だから本来ならこれほど道に迷わない所はないはずなのだが、方向音痴の私たちは泣きたくなるほど迷ってしまった。空腹に耐えかね、あきらめてNirula(ニルラ)という店のハンバーガーを食べた。アイスコーヒーはおいしかった。ハンバーガーはスパイシーでした。このころは胃がサイアクだった。

 コンノートをうろうろと歩き回る。
 中央の公園で鳥を撮った。カラスが、真っ黒でなく、なんだか色あせたような灰色をしている。特に頭のてっぺんが白っぽい。スズメもグレーがかったような変な色だった。場所によって鳥も微妙に違うのね。
 インド男性はベストを着ている人がたくさんいて、なんだかそれにすごく目がいく。色はおもに白で、とても細い糸で編んである。インド人は痩せ型の人が多い上に、このベストはやたらカラダにぴったりしているので、ますます体格の悪さが際だってしまうと思った。
 公園の地下のショッピングセンターに入ってみた。かなり混んでいた。さすがイギリスの建設した計画都市。正直言って、これほどニュー・デリーが栄えているとは予想していなかった。インドについての予備知識をほとんど持たないままやって来て、何を見てもおおおー!と驚嘆している。しかしまあいくら「歩き方」を熱心に読んだところで、ベストや色のうすいカラスのことは出ていない。働く牛も見た。野良牛よりずっとリッパで、荷車を引いていた。インドの牛はみんながみんな、ブラブラウロウロと生きているとばかり思っていたので、かなり感動する。
 街頭のモノ売りがすごくおもしろい。屋台で売っているスナック菓子は、どれもカライカライ色をしていた。そして人々はそのカライカライ色のスナックに、さらにどばどばとチリ(赤唐辛子)をぶっかけ、その上に緑の唐辛子をのっけておいしそうにぱくついていた。辛いものが人より苦手な私には信じがたい味覚である。胃や腸はどうなってんだ。

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コンノート・プレイスの中央にある公園。
いい大人がたくさんだらけている。

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素早くインド人の真似をしてだらだらしてみるワタシ。


 今日はいろんな店に入ったなあ……Nirulaのあと、茶店でPlain coffeeを飲んだ。おいしくなかった……ただのお湯だった(*1)。

*1・・・南インドではおいしいコーヒーが飲めるらしいが、teaが主流の来たインドではコーヒーといえばネスカフェ。しかもけっこう高い。

 Pizza Kingにも行ったが、残念なことにつぶれていた。と、午前中にあれほど探し求めていたWINPYが突然見つかったので、なんとなく紅茶(ティーバッグ)を飲む。しょっぱかった。
 WINPY、Nirula、Pizza Kingと、まるでファストフードが大好きなバカなアメリカ人のようだが、これには一応理由があるのだ。一つは、お腹をこわした時に入るため。インドではとにかく何でもかんでも辛くて、辛くないものを食べようとすると高い。お手軽でお腹にやさしいものはファストフードくらいなのだ(ホントはやさしいとは言いにくいけど)。もう一つは、単にものめずらしいのよネ。
 インドは変わらない!と、いろんな人が言いきってるけど、私は変わると思う。タイでも思ったけど、ロマンじゃ片づけられない。インドに来て、いいなあ〜と感じ、変わってほしくないなあと思うのは、旅行者の勝手な願望だ。ファストフードもはやるし、サリーも着なくなる。と確信しているの。
 郵便局で、母と美奈子(*2)にハガキを出す。母には「とっても元気です。楽しいです」と書き、美奈子には「コブができた。お腹が痛い。リンパ腺が痛い」と書く。

*2・・・去年、おととしと、ヒロとともにインドを旅したクラスメイト。

 私があれこれ病気になるので、ヒロに心配かけて申し訳ない。しかし本当にお腹の調子が悪い。肌もアレているー。夜は奮発して、Belcosというちょっと高級なレストランに入り、おいしいスープを飲んだ。


2月2日(金)晴
 熱っぽいのアタシ。ゆうべの夜行は寒かった。寝台だから「八甲田(*3)」よりずっと楽だけど、寒さにはやっつけられました。ジャンパー、バスタオル、スエットなど、何でもかんでもかぶって寝たのだが。
 車内いっぱいにぎゅうぎゅうにインド人が詰め込まれて異様な雰囲気。目ばかりぎょろぎょろしている。列車に乗るのも初めてなので楽しい。朝になって窓の外を見たら、「急行利尻」から見たサロベツ原野を思い出したよ。目の前を流れるのは全然違う景色なのに……寝不足と、振動の中で、ボーッと景色を眺めるシチュエーションが、サロベツだなあ……と感じさせた。

*3・・・上野〜青森間を走る夜行列車。すべて椅子席、シーズンにはジゴクの混み方をする。学生時代、異常に北海道にとりつかれていた私は何度もこの列車を利用した。北海道行きはいわば旅の原点だった。後出の「急行利尻」は札幌〜稚内間の夜行。朝5:00頃、サロベツを通る。

 6:10AM、アムリトサル駅に到着。客引きに遭う。駅員(かなりえらいみたい)で、自宅が民宿らしい。「客引き」という卑屈な雰囲気はまったくなく、むしろ泊まる所のないあわれな女学生を救ってあげようとでもいうような態度。そこが気に入ったので、彼についていくことにする。お抱えの運転手(ヒトラーに似ている)がザックを車に運び入れ、宿まで私たちを乗せて行った。やっぱり地位のあるおじさんのようだ。駅長かもしれない。
 部屋は広くてきれいだし、シャワーも熱いのが使えて快適。管理人のオババ(駅長の妻)が非常にNiceであった。どっしりした体格に、すぐ心を開けるような笑顔の、他人とは思えない感じのオババである。英語は我々よりずっと達者であった。
 朝食にタマゴが二つ出て、ぺこぺこだったのでおいしく食べた。こっちのタマゴは何故か黄身の色がとても薄く(ほとんどレモン色)、味も水っぽい。それからコーンフレークは、こんなもの食べるなんて気が知れないけどガイジン旅行者が喜ぶから出してんだよ、とでもいうような味。ホットミルクをどばどばとかけるので、あっという間にオートミール風になってしまう。ズブズブ、べしゃべしゃなコーンフレークなのだ。

 とにかく寒さにやられている。こんなに寒いとは思ってなかった。天気はいいので、洗濯をいっぱいした。屋上にロープを張り、下着以外のものを干す。下着は部屋の中に。隣の屋上から凧が揚がっていた。この街はどうも凧揚げがすごくハヤッているようで、大人の男が二人でやっていた(*4)。高く揚がっていたのでパチパチと拍手してあげる。二人はうれしそうに笑った。

*4・・・実は凧揚げはパキスタンでも盛んに行われていた。子供の遊びとは限らず、「オトコの遊び」。女性はやらない。

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アムリトサルの宿の屋上から。
洗濯物もよく乾きそう。


 一人のリキシャマンが「街を案内してやる」と駅からついてきて、シャワーと洗濯の間中ずっと門の前で待っていた。その熱意をかって、今日の行動は彼に任せてみた。
 結果から言って、彼はとてもいい人だったのだが、一日のうちに何度も疑った。インドに来ると必ず誰でも一度は「こんなとこイヤ、来るんじゃなかった」と思うと言われるが(*5)、私はまだ思ったことがない(3日しかたってないけど)。これまですごくラッキーで、好い人にばかり会っている。「こんなはずではない」とヒロは首をひねる。彼女は前回、前々回のインド行きでは幾度か痛い目にあっているのだ。まあ、先は長い。何があるかわからん。

*5・・・理由は様々。下痢をはじめとする肉体的ダメージ、不潔、貧困を目の当たりにした精神的ショック。そして最も多いのは、したたか者のインド人に「ハメられる」こと。

 「炎のリキシャマン」に比べてルックスががくんと落ちるので、ベスト2とし、「誇りのリキシャマン」と名付けてあげた。彼は日本のことをやたらによく知っていて、「トラトラトラ」「日光」「大阪」「高倉健」という単語を連発し、我々を唸らせた。しかしこういう日本通を気取る人々が必ず口に出す「トーキョー」という言葉を一度も発しなかった。通の作戦のうち、と考えるのは深読みすぎるか。頭の回転もとても速く、雰囲気を察したり、物事を理解するのが早い早すぎる。我々が日本語で話し合っているのが分かるのではないかと疑ってしまった。

 まずはこの街最大の観光名所、黄金寺院(Golden temple)へ向かう(*6)。その道中、結婚式をやっていたので立ち寄ってみた。

*6・・・アムリトサルはシーク教(ヒンドゥーを改革した宗教)の聖地。ターバンと髭がシンボル。頭髪や髭を切ってはいけないため。インド人はみんなターバンをかぶっていると思う人もいるが、これは間違いです。

 盆踊りや運動会の時に、町長やPTA会長が座っているようなテントがあるでしょう。あれを巨大にしたようなテントの中で、人々がバンドの絶叫に合わせて踊りまくっていた。取材記者のようにだだっと最前列に詰め寄った時が、まさにウエディングケーキ入刀!の瞬間であった。ターバンに背広姿の新郎は、老けていた。嫁さんはベッピンでかわいかった。神妙なカオをしていた。そしてウエディングケーキは激しく毒々しい、合成着色料タップシ!な色だった。二人は入刀のあと、ケーキを一口ずつ相手に食べさせる。花嫁はこの時すら全く顔を上げず、下を向いたままフォークを相手の口に突っ込んだ。「笑って笑って」「こっち向いて〜」と、すっかりいやな東洋人になったなった私たちは、写真をバシバシ撮るだけ撮ってさーっと消えた。ダンスくらい踊ればヨカッタかな。結婚式はいいねエ!うん。人の結婚式ってホントいいよ(*7)。

*7・・・1年後に自分が結婚してしまうとは、この時は考えてもいなかった。
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結婚式で、勝手に最前列まで行って写真を撮った。

by apakaba | 2006-02-24 18:25 | 1990年の春休み | Comments(20)
2006年 02月 23日

昼酒

夜はかならず毎晩飲むかわりに、日中、陽の高いうちは飲まないことに決めています。
「昼間に飲むお酒はぱ〜っと抜けていって残らないよー」と人は言う。
でも私はダメダメ人間になってしまって、あとの半日が使い物にならなくなるの。
日没後からしか飲まないというのが、休肝日のない私のささやかなシバリなわけ。ね。わかる。

でもたまーに、禁が破られるんだよ。
3ヶ月にいっぺんくらいだけど。
ということは年に4回ですか。

今日は破ってしまったのさ。
まーいろいろとあって。
そんで夜も飲むモンだからまあようするに使い物にならないってこと……

by apakaba | 2006-02-23 22:17 | 食べたり飲んだり | Comments(21)
2006年 02月 22日

子供がガキになっている

自分の子供を見ていても、よその子を見ても強く感じる。
子供がいつまでも子供っぽい。
小学校の低学年ならまだしも、高学年になっても、中学生になっても、女の子にもまるで興味がないなんて、気持ち悪い。どうなってるの息子たち。

とくに長男の子供っぽさはどうしたわけだろう。
自分が中2だったころのことを思い返すと、エッチな男子がいっぱいいて、それがふつうだと思っていた。

中2、中2……夏に塾の合宿があった。
塾の合宿だから勉強をしたんだろうけど遊んだ記憶しか残っていない。
よその中学の2年生で、私のことを好きになったという男子がいて、その子は“モンパン”というあだ名だった。モンパンはモンキー・パンチの略で、ということはすでに当時の中学生はモンキー・パンチのエッチなマンガをふつうに読んでいたということだ。

合宿所にゲーム機の置いてある部屋があり、私が競馬のゲーム機の前に座っていたら、後ろでいやらしい笑い声がいくつか聞こえる。
振り返ると、よその中学の男子がいつのまにか取り囲んでいて、リーダー格の3年生が、私の後ろから腰を揺すっていたのだった。
私も一瞥しただけでとくになんとも思っていなかった。
女の子はこんな場数を踏んで、男ってこうよね、と慣れていくものだ。
リーダー格の3年生は、「横浜銀蠅」のナントカロックンロールという歌を、すごく卑猥な歌詞にかえていつも唄っていた。

中学生のころ、男子はとにかくみんなすさまじくスケベだった。
スケベな視線、スケベな発言、スケベなあぶない遊び、そういうのにちょっとずつさらされて、女の子は身の処し方を心得ていった。

少し時が過ぎて、私が大学生だったころも、やっぱり中学生男子はスケベだった。
塾講師のアルバイトをしていたとき、授業のあとは「先生、オレが送っていく」「先生、ちょっとだけしゃべっていかない?」と寄ってきては、同級生の女の子にはいえない大胆なことを、年上相手ということで気が大きくなって、べらべらとしゃべるのだった。
「先生、男の経験あるの?」
「あるよなあ、絶対あるよ!オレわかるんだよ、“腰”を見ればわかる。絶対、処女じゃねえよな!」
「でも先生、オレだってすげーんだぜ。オレもさ、一回やったことあるんだぜ。」
「あと5年したら先生を迎えに行くよ。そんときゃすげーぜオレったら!へへ!」
こっちがなんにも言っていないのに、サカナというかおかずというか、勝手に大盛り上がりしてくれる。
ははあ、時代が変わっても中学生男子は健在ですね……と思ったものだ。

いまの中学生のガキっぽさには、かえって薄気味悪くなる。
いつか、遅くなってから反動がぐわっと来るんじゃないかとか考えてしまう。
子供を取り巻くあやしい環境が、排除されてきたということなのかな。
いつから、どうして、彼らはこんなにガキになったんだろう?

by apakaba | 2006-02-22 14:29 | 子供 | Comments(24)
2006年 02月 21日

1990年の春休み.5 インド篇

<初めて読まれる方へ>
この旅行記は、私が大学卒業旅行でタイ・インド・パキスタン・ネパールを一ヶ月半まわっていたときの日記を、不定期に載せているものです。
文章(註・レート換算含む)はすべて22歳当時のままです。
前回までのあらすじ
バンコク最終日は詐欺?にあって暗い気分のまま、ナイトフライトでインドへ。


1月31日(火)晴
 デリーでヒサンな長い夜。
 展開が早すぎて日記が追いつかないよ。
 デリーでホテルが見つからないとは思わなかった。着いたのが夜中だったので、メインバザール、コンノート・プレイス(*1)のホテルはどこも満室。焦りまくる。予約なんてなくてもヘーキヘーキ!と思っていたのが甘かった。初めてインドの地に降り立ったのに、ついに来たわ!とか牛よ!とかリキシャ(*2)よ!という気合いも感慨も、焦りのために吹っ飛んでしまう。

*1・・・メイン・バザールは、ニュー・デリー駅前の庶民的なバザール。安宿、安いレストラン、商店が密集する。コンノート・プレイスは、整然と区画整理された新市街。
*2・・・日本語の「人力車」が語源という、全インドに普及しているポピュラーな乗り物。日除けの幌がついた二人乗りの車体を、前の自転車で引っぱるサイクルリキシャと、小型オート三輪の後部を二人がけの座席にしたオートリキシャがある。デリーを始めとする都市部では、オートリキシャが主流。料金は基本的に、乗る前に行き先を言って交渉することで決まる。


 我々を乗せたリキシャマンは、困った様子が通じたのか、宿さがしを熱心にしてくれた。一軒一軒ドアを叩いて空き部屋がないか聞いてくれる。なんとありがたいことだ。「部屋が見つかるまで、一晩中でもさがしてやる」などと泣かせることまで言う。しかし、彼が本当にいい人かどうかは、支払いの段にならないとわからない(チャンのこともあるし)。あとで強烈にボラれてしまうかもしれない。かなり不安になりながらも、とにかく協力してもらった。
 満室だが、毛布を貸すから屋上で寝ろ、とヒドイことを言うホテルもあった。この寒空になんて仕打ちだー(インドとはいえ、夜は寒いのだ。この時は長袖のシャツにトレーナーを着ていた)。
 絶望しかけていたころ、やっと空き部屋が見つかった。やたらキレイで高そうである。オープンしたてだそうで、ピカピカなのだ。ダブルで250ルピーと言うにはムムム……と唸った(*3)。ゼータクすぎるなあとは思ったが、しかたなく決めた。

*3・・・インドではこのあと一泊120〜150ルピーくらいのホテルに泊まっていた。ここがいかに分不相応の高さかわかりますネ。(1ルピー=10円)


 とりあえず野宿の不安が去り、おそるおそるリキシャマンに値段を聞くと、「As you like.」うーんこれにはシビレたゼ。
 我々は感動し、彼を「炎のリキシャマン」と命名。いくら渡すかちょっと迷い、10ルピー差し出すと、やはりにこりともせずに受け取った。
 いい人か悪い人かよくワカラナイから、確信するまでに時間がかかる。いい人の時には、失礼なことをしたなーと反省したりする。まあ仕方がないけど。

 今朝は熱いシャワーを存分に使えて、大変満足した。しかしここのホテルマンがキモち悪くて閉口した。ゆうべから、コイツいやだなあと感じていたのだ。いやになれなれしい笑い方をする。今朝はずうずうしくも部屋に入ってきた。右手にコーヒー(飲みかけ)、左手にサンドイッチ(食べかけ)、満面の笑み、目の覚めるようなレモンイエローのシャツという姿で登場した。
 私は、ゲ、出たなと思い全く口もきかなかったのだが、ヒロがつかまってしまった。彼女の黄色いトレーナーをさしてOh!Pairlookなどと言い(黄色どうしで)、自分の食べかけのサンドイッチを食べろと無理強いし、大はしゃぎしたあげく彼女と肩を組んだ写真を私に撮らせて去っていった。頭の痛くなる男だった。
 こういう状況では、私はいつもヒロに渉外を任せてしまう。しつこいおちゃらけ男に笑顔で対応するなんてできないヨー。彼女は無益な衝突を嫌うので、けっこううまくうけながすのだ。そして日本語で「わかったよあんたもう帰んなさいよ」などという。なるべく私も対応できるようになろう。いつまでもヒロに任せっきりというわけにもいかない。

 明後日にアムリトサルへ発つため、夜行列車の寝台のチケットを予約しに、バスでオールド・デリー駅へ向かう。何でバスってあんなに安いのでしょお。バスはいいなー。旅先のバスはすごくいい。
 駅もまたイイ。うん。乗車手続きがかったるいのよネー。駅の雑踏、郵便局の雑踏、そういうのって独特なのよね。遠くを目指す人、目の先が遠くを向いている人が集まる。
 下痢がコワイよー。タイよりおいしくないけど。


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ホテルパヤルからメイン・バザールを眺める。

 今日は、メイン・バザールのHotel Payal(パヤル)に部屋がとれた。ここは日本人びいきで知られた宿でフロントの兄ちゃんはけっこう日本語が話せる。
 チェックインしている間に、チャイ売りの少年が現れ、私はチャイを初体験した。
 チャイは、ヒロからとにかくすごくおいしい!と聞いていたし、インド関係の本を読んでいると必ず絶賛されているので、私にとって長いあいだ憧れ続けた飲みモノだったのだ。そして私は典型的な「チャイ初体験時の反応」をしてしまいました。まず、不潔そうなコップだなー、洗ってないんだろうな、とちょっとためらう。ひと口飲むと、甘い!甘すぎるゥ〜!しかしやがて、うまい!甘いけどうまい!となる。これはほとんどの旅行者が踏む3ステップのようで、ここまでくるとあとは1日1回以上チャイを飲まなくては落ち着かなくなるらしい。ヒミツはチャイに入れる香辛料にあるようだ。風味がぐっと増す。ただのミルク紅茶とはわけがちがうのだね。

 それにしても人が多い。デリーについて書きます。やっぱりインドはインド人の顔なのでした。ヒトビトはインドじゃ!の顔をしていたのでした。タイの顔とちがう。しつこくされるのがイヤ。悪気はないんだけどね。子供はすごくかわいいのに何故大人の男はダメなのでしょう。
 牛と犬がいっぱいいる。思わずさわりたくなってしまう。
 サリーがほしいけど、インド女性に似合いすぎていて、すっかり自信がなくなっている。サリー姿のインド女性はきれいだ、とシーナ(誠)が書いていたけど、本当に素敵です。あこがれるよねー。
 埃がすごい。思ったとおり。屋台のものがなんでもおいしそうに見える。でもタイのほうが信用はできる。ヒロのノートはすごく細かいので、私も細かく書く。


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働く人々。テイラーのお兄さん。


2月1日(木)晴
 困ったことに、ゆうべは一晩中吐き続けていた。ダウンしてしまうほどではないが、細かくよくないことがたくさんある。後頭部のコブは少し大きくなったし、首の付け根にグリグリしたもの(リンパ腺だろうか)ができて泣きたいよ。初めてだからまた……不安である。
 早く元気になりたいヨー(*4)。
 
*4・・・コブ及びグリグリは、五日間ばかり私を不安な気持ちにさせたあと消えていった。

胃がムカムカするのには本当にマイッタ。旅先の病気は旅先の薬で治せ、とよく聞くので、胃薬を買いにCHEMIST(*5)へ。症状を説明するのにひと苦労する。主は、いわゆる「薬屋のおじちゃん」というフンイキは全くなく、しかつめらしい顔で私の説明を聞いた後、店の奥へ入れ、と言う。私は薬局へ来てこれほどキンチョーしたことはかつてありませんでした。彼は粉薬を量り(カレー粉にしか見えない)、これをさあ飲め、今飲めと言う。どうもここは、ただ薬を売るのではなく、「ケミスト」である彼が半分医者らしきことをやってしまう店のようだ。

*5・・・(英)薬剤師、薬局。(米語ではドラッグストアというから)やはりここは英国領だったのだと思わせる。

 とまどいつつも言われるままにする。それは見たとおりの強烈にスパイシーな薬であった。カレー粉と胡椒を混ぜてグッと飲み込んだような感じ。こりゃーかえって胃が痛くなりそうだあ、と、あまりの辛さに涙をこぼしながら思った。インド人にとっては、これが最も口になじんだ飲みやすい味、なのだろうか。
 ヒロは喉を診てもらった。と言うより、喉の薬を買おうとしたらいきなり「座れ!」と、口を開けさせられてしまったのだ。とまどいつつも、やはり言われるままにする。無抵抗に口をあんぐり開けて、しかつめらしい顔のケミストにのぞきこまれているヒロがあまりにもおかしかったので、その様子を写真に撮ったら「あにすんのーやめれー」と言った。

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ケミストにて。

by apakaba | 2006-02-21 18:42 | 1990年の春休み | Comments(7)
2006年 02月 20日

ふぁっしょんばとんだそうです

コジタケさんが某所で答えていたバトンだったので、今日はこれを拾ってみる……


1、最近お気に入りのコーディネイトをどうぞ。
この冬は寒いので、とにかくあったかいセーターばっかり。
お気に入りもなにもあったもんじゃないです。もう寒いのにはほとほと飽きました。
軽い服装になりたいです。

2、好きなブランドを3つ厳選して答えてください。
マルタン・マルジェラ、ドリス・ヴァン・ノッテン、プラダ
……とか言ってみたいものだ。 いや、言うだけなら自由か

3、よく読むファッション雑誌は何ですか?
若い系でsafari、ちょっと年齢層上げてUOMO、さらに上げてBRIO、あたりか。
LEONも冷やかしに。
ん、男性誌ばっかり。女性誌っておもしろくないんだもん。
男性モデルの脇に添え物としてくっついている女性の服装は見ます。

4、よく買い物にいく場所はどこですか?
バーニーズ銀座店。なんちゃって。
たいていはGAP渋谷・新宿・吉祥寺店でセールコーナーに直行。

5、買い物は一人で行く派?それとも友達と行く派?
友だちと行くことはまずない。
だいたい一人、かなあ。夫と行くと、だんだん悪くなってきて帰りたくなってくる。
ファッション好きの夫には、いつも「そんな態度じゃだめだ!君には買い物に対する粘りがない!」と怒られています。
 
6、今まで買った中で、一番高価なお洋服は?
アルマーニ コレツィオーニのスーツかなあ。
服よりも靴が高いんですよね……

7、最近買ったお気に入りアイテムを紹介してください。
あまりお洒落なほうでもないし、勤めに出てもいないし、必要に迫られて買うということがないので、買ったものは全部、かなり気に入っています。
一番最近で買ったのは、早く春になってほしいから買った春物のスカート2着だな。
バーニーズNYの、裾がひらひら揺れる軽いスカートと、マルタン・マルジェラのディフュージョンラインで安く買えた異素材切り替えのスカート。かっちょええ。でも着る人がかっちょわるい。

8、好きな色の組み合わせは?
こだわりがありません。
チビなので、あまりハイコントラストにして、視線がぶつ切れにならないようにしています。

9、おしゃれに目覚めたのは、何歳のとき?
東京に越してきてから。
だってみんなきれーなカッコしてるんだもん。

10、振り返りたくない過去の服装を告白してください。
ガクセイのころはなんでも母親のたんすから借りて着ていた。

11、お金が無い時、食費とおしゃれ代、どっちを削りますか?
そりゃおしゃれ代でしょう。
着るより食べるのが好きだもん。

12、好きな異性ファッションは??
わりとだぶだぶしたカッコが好きかな。
オーランド・ブルームが『キングダム・オブ・ヘブン』の中で普段着に着ていた、なんかよくワカラナイ筒のようなぶかぶかした服装、よかったな。 あれはオーランド君が男前だからでしょうが。
こういうの
いつもきっちりした格好の人がだぶだぶしたラフな格好になっていると、スキが感じられてイイ。
その逆パターンも、またいい。
いずれにせよ、意外性……がキモ(もちろん似合っていることが前提ですが)

13、お疲れ様でした。5人のおしゃれさんにバトンタッチ!!
そんなわけで。よろしく

by apakaba | 2006-02-20 10:51 | ファッション | Comments(27)
2006年 02月 17日

1990年の春休み.4 タイ篇

<初めて読まれる方へ>
この旅行記は、私が大学卒業旅行でタイ・インド・パキスタン・ネパールを一ヶ月半まわっていたときの日記を、不定期に載せているものです。
文章(註・レート換算含む)はすべて22歳当時のままです。
前回までのあらすじ
現在はトランジットのバンコク。


1月30日(火)晴
 妙な一日。「市の柱」という所でチャンと名乗る青年に出会う。「柱」をぼんやり眺めて座っていると、いつのまにか隣に来ていて、「自分はタマサート大生で、英語の勉強をしている。良かったらトンブリー地区方面を案内します」とけっこううまいエイゴで話しかけるのだ。
 我々はハッと身を固くしましたネ。だってこれはあまりにマニュアル通りの誘い文句だ(*1)。しかしテキはなかなか賢そうな顔だちをしている。本物のタマサート大生かもしれない。
 私はなんとなくイヤだな、行きたくないなと思った。しかしヒロは「とりあえず案内してもらおうよ」と言う。私はなにしろこういう経験がないので、気が進まないながらも「ヒロがそう言うならなあ……」と、ついていってみることにした。

*1・・・「にせタマサート大生に注意!」という見出しで、観光客に親しげに話しかけ、街を案内し、最後に法外な料金を要求するニセ大学生の話が「歩き方」にのっていた。


トンブリー地区は、最初にバンコクの王朝がおかれた場所で、昔ながらの水上生活を見ることができるのだ。チャオプラヤー川を中心として運河がひかれている。この川を、なんと船をチャーターして下ってしまう。チャーターなんかしたら高いだろうなあ、とは思いつつも、チャンがあまりにもさりげなく「水上生活を見たいでしょう?」と誘ってきたので、キ然として断れなかったのだ。
 ポスターやなんかによくある、タイの水上生活を初めて実際に見てコーフンする。写真を二人でバシャバシャ撮りまくり、はね上がる水飛沫にギャハハハーと歓声をあげる。そんなことをしているうちに、チャンとはすっかり和んでしまった。


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水上生活はこんな感じでした。


川の向こう岸にある、観光客のまったく訪れないという寺院をいくつか回った。そのあと茶店に入り、ビールを飲んだ。私たちの顔が少し赤くなったのを見て、「飲んで赤くなった顔はきれいだ。自分は色が黒いからぜんぜん変わらない」とチャンが言った。たやすく「きれいだ」などと言われると、またチャンに対する不信感がわき起こってくる。ヒロはどう思っているのか。相談できないので苦しい。
 チャンの汗のふき方がやけに上品なのに驚く。出てきたおしぼりをきちんと小さくたたみ、女の人があぶらとり紙を使うときのように顔をおさえている。ゴシゴシとふいていた私たちはあわててしまった。いったいどういう人物なのだコイツは。
 おつまみ?のパイナップルに大量の塩がかけてあり、しょっぱくて苦労する。この茶店の代金はチャンが払ってくれた。なーんだやっぱり悪者じゃないのか、とほっとする。
 私たちが三月に再びバンコクに戻ってくると言うと、自分の家に泊まりに来い、と言う。日時と便名を聞かれる。空港まで迎えに来ると言うのだ。我々は困ってしまった。こういうのはありがたいけどけっこうかったるい。気を遣うし、言葉がうまく通じないだろうし。二人であいまいにうなずき、「いざとなったら空港でまいちゃおう!」と決めた。

 帰りのフネでコトが起こった。チャンが突然、自分はもうお金がぜんぜんないから、このフネの料金を払ってくれと言い出す。金額を聞くと、とてつもない値段。二人はガク然となる。どうしようどうしよう。やはりコイツ悪者だったか!一応、「そんなに持ってない」と言ってみると、チャンは悲しげに自分の腕時計をはずし、現金がないからこれでたてかえる……などと言い出す。コイツ船頭とぐるだな、これは芝居だー!と私は思ったが、ヒロは「もうしょうがないよ。もし本当だったらかわいそうよ。」と、手持ちのバーツ(タイのお金)をほとんど出してしまった。なんてお人好しなの。

 この緊迫感あふれる短時間に、私はバカな頭をフル回転させてしまいました。チャンはおそらく悪玉だろう。最初から最後まで、思いかえせば手口はひどく見えすいていたのだ。ああズルズルここまできた自分がバカだった。しかしここで「このニセ者〜!悪玉〜!」とののしるには、もうあまりにも雰囲気よく和みすぎてしまった(そういうふうにもっていくのも作戦のうちだろう)。しかたがないカネを出そう。しかし言われるままに全額出すのは悔しすぎる、二人そろってすってんてんになるのも情けなさすぎる。
 私はサイフの口を開けてチャンに見せ、「今本当にこれだけしか持っていない。申し訳ない」と言って中身をほとんど全部(210バーツ)ひっぱり出した。だが、実はあと何百バーツか入っていたのを奴に見えないようにして見せたのだった。
 チャンはしぶしぶそれを受け取り、不足分を腕時計で補った。その姿を見ると気がとがめてしまった。悪玉とは思いつつも、やはり確信が持てないのだ。
 船着き場につくと、彼は「タクシーかトゥクトゥク(オート三輪)を拾うお金もなくなった。家まで歩いて帰る。さようなら」と異常なスバヤさで去っていった。なんじゃありゃー。この後もいろいろ案内してくれると言っていたのに。一瞬あっけにとられていると、もう奴の姿はどこにもなかった。

 なんだかひどく後味の悪い思い。いっそガラリと人が変わったように金を巻き上げてくれればよかったのに。そうすればこっちも心置きなく怒れるのだが。一体あいつは何だったのだ。悪玉と考えるとつじつまはあう。家に泊まりに来いなどと言ったのは安心させるため。あの異常な去り際のよさは、すぐに船頭の所にUターンし、山分けするためだ。しかしもし万が一奴が本当に正直な青年だったとしたら……と考えると、あまりにも申し訳ないことをしてしまった。


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行き場のない気分のまま、トゥクトゥクから漫然と空を撮ってみる。


 ヒロは「いくら考えても結論は出ないんだから、もうあきらめよう。」と言い出した。
 私はちょっとびっくりした。だまされたり、いやな思いをしても、あまり怒ったりしないであきらめるのが気分よく旅を続けるコツなのか。私はかなり怒りと困惑を覚えていたのだが。ヒロは不思議な人だなーと感じつつ、あらよッとインドへ発つ(*2)。

*2・・・しかしその後も二人はたびたびチャンの名を口にしてしまうのであった。「三月に戻ってきた時、もし本当に奴が空港まで迎えに来たらどうしよう〜!」という不安が、旅行中ずっと心にのしかかっていたのだった。

by apakaba | 2006-02-17 11:17 | 1990年の春休み | Comments(33)