<   2007年 05月 ( 21 )   > この月の画像一覧


2007年 05月 31日

ゴダイゴでつらつらと

きのう、用事があって新宿へ車を走らせていた。
夫のi Podをつないで、ゴダイゴをかける。
彼のi Podにはあなどれずいろんな曲が入っているのだ。
「ガンダーラ」と「モンキーマジック」をひとり熱唱。
ホラ、私ってクルマの中でいつも絶唱するから(その記事はこちら)。

「ガンダーラ」は意外と真似して唄うのが難しいなあ。
タケカワユキヒデという歌手は、うまいのかなんなのかさっぱりわからない歌唱法をする人だ。
声が、変に揺れる。
歌の下手な人みたいに。
かといって音程が外れているわけでもなく、どの箇所に力を入れて唄ったらいいのかポイントもつかめず……田原トシちゃんの真似をして唄っているような感覚にもなる。

「モンキーマジック」は、英語の歌詞をすらすら唄える自分にぎょっとする。
30年近く前のヒット曲で、私は小学生だったのに何故。
この歌詞は、当時高校生だった姉がすべてカタカナ書きにしてくれたから、カタカナイングリッシュで丸暗記したのだ。

ボーン フロム アン エッグ オンナ マウンテン トップ
ザ パンキエスト モンキー ザット エヴァー パプトゥ

という具合に。
しかも和訳もしてくれた。
「うーん、くだらない歌詞だなあ。とてーも簡単な詞。」
とつぶやく姉がとっても大人に見えたものだ。
当時の私には、なにをどう努力しても英語の歌詞を読んで、訳すなんてできっこなかったから。

踊りたくなるようないい曲だなー。
だれか踊ってたな。
あ、スマップか。

ちょっと前のスマスマに、再結成したゴダイゴが出演していて、「モンキーマジック」をスマップといっしょに唄っていたのだった。
スマップは当然ながら踊りはキマっていた、しかし必要以上にリフレインされる「モンキーマジック、モンキーマジック、……」の発音が気になって仕方がなかった。
スマップの全員が、「マジック」の「ジ」を「ズィ」と発音していた。
「モンキーマァ〜ズィック、モンキーマァ〜ズィック」という「ズィ」。
タケカワユキヒデだけが、正しく「ジ(むしろヂ)」と発音していた。
英会話をするとき、“正しい”発音じゃないとダメだとはちっとも思っていないのだが、せっかく踊りがキマってるのにスマップ、歌もきっちり真似しようぜ……と思いながら見た。

そうそう、英語の歌詞といえば昔……と、そこまで追想が及んだとき、ちょうど目的地に着いた。
つづきは明日。

by apakaba | 2007-05-31 22:24 | 歌舞伎・音楽・美術など | Comments(6)
2007年 05月 30日

「魚、気持ち悪ーい」

晩ごはんにあじのたたきを山ほど作った。うう、メンドクサ。

よく、「生魚に触るのって気持ち悪ーい」という主婦がいるけどあれはどうしたことなんだろう?っていうかはっきり言ってそれは義母のことなのだが、先祖が魚屋だった私からすると信じられないようなことを言う。
「お魚さばこうとして台所に立っていると、『ウワアあたし、なんでこんな気持ち悪いモノ持ってるのかしら!きゃあ、やだやだ、気持ち悪い!』っていきなり思って放り出したくなるの!」
なんですかそれは……それでも主婦なの〜っとはもちろん言いませんよ。

義母は魚のことだけでなく、いろんなことで私を驚かせてきた。
丸ごとのすいかを切るのも「わあ、曲がって切っちゃったらどうしよう!」
デコレーションケーキを切り分けるのも、「こわーい、眞紀ちゃん切って。」
私がかぼちゃを半分に切ろうとしていたら、「あっ!危ないからねかぼちゃは!馬鹿にしちゃだめよ、力が入りすぎてうっかりすると大けがするんだから!!」
なんというか、ノリが……深窓の令嬢、ですか?

主婦の風上にも置けない、と非難するのは簡単だけど(私は魚もケーキも容赦なくすぱすぱ切ってしまうし)、いったいこのノリの差はなぜだろう。
嫁いだ当初、不思議に思って聞いてみると、義母は40歳まで台所仕事をいっさいやったことがなかったのだそうだ。
結婚は20代だったが、子供のころからずーっと家政婦さんの入っている家に育ち、結婚してからも40歳になるまでは家政婦さんの食事を食べていたのだという。
家が開業医で、昼夜関係なく働きづめだったからそうなったのだという。

なるほどねー。
やっぱり小さいころから台所に立つのが重要なのかな。
でもそうとも限らないようにも思うし……友だちの子供で、気持ち悪がって生魚には絶対に触れない子もいるというし。

うちの子供たちは3人とも、魚をいじるのが大好きだ。
私は料理がほとほと面倒なので、あじのたたきを山ほどなんて取りかかる前からすでに疲労感を覚えてしまうのだが、子供たちはかならず「手伝う!手伝う!」と盛り上がる。
今日は「コシヒカリ」がいたので手伝わせた。
「内臓を手で取りだしてね。」
「うん。あぁ〜ん、気持ちいい〜。内臓って柔らかくって気持ちいい〜。」
「皮を剥いて、骨をカンペキに取るんだよ。」
「うん。きれいに取れたよ。ねー少し遊んじゃだめ?」
最後に残った頭で遊ぶ。
目を抜いて、水晶体だけにして「見て。水晶。水晶すてき。きれーい。」
「舌があるよ。コンニチワ、ぱくぱく。」
台所じゅう血だらけにして遊ぶ。
教えたわけでもないのに、「ササニシキ」も「アキタコマチ」もまったくおんなじことをして遊んでいた。
どうしてこういうことが好きな子になっていくのかな。
その分かれ目は、どこにあるんだろう。
とても不思議だ。

by apakaba | 2007-05-30 21:49 | 生活の話題 | Comments(15)
2007年 05月 29日

20年ぶりにいとこと再会

先日、また櫛の歯が折れ、また叔父が他界という話を書いた。

叔父には二人の息子がいた。
上の子が私より3歳くらい上、下の子は私と同い年だったので、いとこ同士、幼いころはよく遊んだ。
泊まりに行き来したり、プールや遊園地などにも行った。
私は、上の子を“よっちゃん”、下の子を“みっちゃん”と呼んでいた。

中学生くらいになるともう泊まったり遠くへ遊びに行くこともなくなった。
下の“みっちゃん”と最後に会ったのは、高2のときだった。
なんの用事でかは忘れたが、叔父の家に行き、“みっちゃん”の部屋に入ってしばらく二人でしゃべっていた。
当時でさえすでに会うのは数年ぶりという状態で、はじめはなんとなく気恥ずかしかったが、お互いの学校生活などを話した。
「つきあってるコいるの?」
とかなんとか私が水を向けたのだと思うが、彼はそのころ、涙なしには聞けないくらいの悲恋をしていて、訥々と苦しい恋の話をした。
後にも先にもそんな悲恋は聞いたことがなく、私はただあっけにとられていた。
「で、眞紀ちゃんは?どうなの?」
などと尋ねるので、私の方はごく平凡な恋愛状況の報告をした。

彼の悲恋はそのあとどうなったんだろう!ということがとてもとても気がかりだったのに、それきり20年以上、会わなくなってしまった。

上の“よっちゃん”と最後に会ったのは、私が大学1年のときだった。
同じ大学にかよっているのは知っていたが、ばったりと会ったのは一度きりだった。
「あれー!眞紀ちゃん。どう、キャンパスライフは。」
大学生らしい軽い口のききように、少したじろいだ。
数年ぶりに見かける彼は、ちゃらちゃらしたメガネ、斜めがけのカバン、髪型も当時の流行りといったどこにでもいる男子大学生っぽくなっていて、これじゃすれちがってもわからないかも、と思った。
「オレ、ここがサークルの溜まり場だからさ、ここに来ればだいたいいるから。今度昼メシでもおごるよ。」
と言ってくれたのに、こちらの彼とも、それきり20年会わなくなった。

先日、お通夜に向かうクルマの中、一人で高速を走らせながら、「あの子(“子”である)たちに会ったのって、いつだっけ……」と、必死に思い出していて、上のエピソードを回想したのだった。

お通夜の席にやや遅れて着席し、あらためて周りを見回してビックリした。
喪主である叔母はもちろんわかっているが、そ、そ、その隣にいるあのおじさんたちは誰なの……。
どっちがどっちだったか、見分けもつかないくらい、変わっていた。
お経の最中にじろじろ見るのも失礼だから、ちろちろと何度も視線を向けて、最後に会ったときの面影をいそいで探り、やっと、「左がよっちゃん、右がみっちゃんなんだ……」とわかった。
お経など耳に入らないくらいに、軽くパニックになった。
ウワー、中年だ〜〜〜〜。
ということは、この私もなのね……、向こうも私とそっくり同じこと思ってるんだわ!

おいとまするとき、あまりにも会っていなかったものだから一体どんな言葉づかいをすればいいのかさえわからない。
必要以上に他人行儀に、なってしまった、ような気がする。実際はそうでもなかったかもしれない。自分ではわからない。
とにかく、20年前のような感覚ではなかったことはたしかだ。

この先、親戚が顔を合わせる機会というのは、幸せな場面より不幸なときのほうがきっと多くなる、いや圧倒的に多くなるはずだ。
こんな席で顔を合わせているうちに、また大人同士のつきあいが滑らかにできるようになるのかもしれないな。

by apakaba | 2007-05-29 20:36 | 思い出話 | Comments(4)
2007年 05月 28日

1990年の春休み.60 ふたたびのインド篇

<初めて読まれる方へ>
この旅行記は、私が大学卒業旅行でタイ・インド・パキスタン・ネパールを一ヶ月半まわっていたときの日記を、不定期に載せているものです。文章(註・レート換算含む)はすべて22歳当時のままです。
前回までのあらすじ
カジュラホを出て、苦痛に満ちた夜行列車に乗り、インド最後の目的地ヴァラナシへとやってきた。

c0042704_15505683.jpg


聖地ヴァラナシにはサドゥーもどっさり。
おもちゃのような爺さん。


2月27日(火)曇後雨
 朝6時ごろ、ヴァラナシ・カント駅に到着する。
 ガイドブックを調べて、ツーリストバンガロー(州政府経営の宿)に泊まろうと決め、駅前のリキシャに乗った。なんとなくイヤな感じの面構えの、二人組であった。
 私たちが「ツーリストバンガロー」と行き先を告げているにもかかわらず、しきりと「ガーデン・ビュー」というホテルのほうが安くていいと勧め、ツーリストバンガローに向かおうとしない。
 こういうのってよくあるのだ。
 「ガーデン・ビュー」とやらにマージンをもらっているのだな。ケッその手にはのらねえぜ、と、断固ツーリストバンガロー行きを主張した。リキシャはしぶしぶスタートした。

 宿に着き、チェックインしながらリキシャでの押し問答をフロントの男性に話すと、この辺のリキシャマンは悪い奴が多いから気をつけろ、と言ってくれた。

 一階の食堂でコンチネンタルスタイルの朝食をとると、夜行列車で疲れたため、いきなり部屋に入って眠ってしまう。
 それにしてもなんて蚊の多いところなのだろう。ふたりで、持参の蚊取り線香を焚いた。

 目覚めて出かけようとすると、フロントマンが、シルクの工場見学に連れて行ってやる、と言い出した。ヴァラナシはシルクサリーの生産で有名である。火曜日には二千人の工員が一斉にシルクを織るとか何とか言うのだ。買わせるつもりだな。うさんくさいと思ったが、ついていくことにした。買わなきゃいいんだから。
 よく、インド人にものを高く「買わされた!」とか言うけれども、べつに力尽くでお金をむしり取られたわけではないし、自分の手でお財布からお金を取り出し、自分の字でクレジットカードのサインをしたのだから、意志の弱かった自分を責めるべきじゃないのかなあ。
 買わないといけないムードになっちゃうと言ったって、何とか買わずに済ませる方法はあるはずだと思う。
 それはインドをよく知らない私の思い上がりなのかなあ。

c0042704_1553612.jpg


機織りをする人々。学生には高価なサリーなど無縁です。


 ガイドとして同行したのはフロントマンとはちがう親父で、彼はまったくもってかったるそうだった。
 工場に着き、ひととおり回りながら形ばかりの説明をしてはくれるのだが、覇気が全然ない。あんたは早いとこ買い物の部屋に連れて行きたいだけなのね。
 ものすごく広い部屋で二千人の人が織っているのかという期待はまるで外れ、小さい部屋がいくつもあるだけだった。
 その一つに入り、機織り機械をちょっといじらせてもらった。
 私の担当は十代後半くらいの若造で、ちっともハンサムではないので深く失望した。ヒロのほうは実直そうでいい感じの人だった。つまらん。
 若造は日本人の若い女が嬉しくてしょうがないらしく、大はしゃぎである。
 写真を撮れとヒロに命令し、カッコつけるつもりなのか、開けていたシャツのボタンを全部留めて、私の肩に手を回し、はりきって撮られていた。私は歪んだ笑顔で写ってしまった。

 そうしてやっぱり最後には買い物の部屋に案内された。
 手裏剣投げのような勢いでシルクを広げられたけれども、あまり惹かれる物がなかったし、最初から買う気がなかった。それにもしも化繊が混ぜてあるような粗悪品を、高く売りつけられたりしたらたまらない。強い態度できつく断って出てきた。

 そして。
 私たちはそのあと、大変な謀略にハメられていたことに気づくのであった。
 いったん宿に戻り、昼食を食べに再び出かけようとしたとき、フロントマンが
 「出かけるのか?帰ってくるとき、このホテルへの道がわかるか?」
 と尋ねる。
 もちろんわかるよ、ツーリストバンガローってリキシャに言えばすむんだから。すると、
 「ここはツーリストバンガローではない。このホテルは『サティヤム』という名前だ。」

 いきなりなにを言い出すのか?
 驚いた、というより、いったい何のことを言っているのかまったくわからなかった。
 ホテルのネームカードを渡されると、確かにそこには「Satyam」と書いてあるではないか。私たちはだまされていたのか。だけど、誰に?誰が悪者なのか?
 わけがわからなくなり、そのままフラフラとリキシャに乗る。

by apakaba | 2007-05-28 16:09 | 1990年の春休み | Comments(10)
2007年 05月 25日

1990年の春休み.59 ふたたびのインド篇

<初めて読まれる方へ>
この旅行記は、私が大学卒業旅行でタイ・インド・パキスタン・ネパールを一ヶ月半まわっていたときの日記を、不定期に載せているものです。文章(註・レート換算含む)はすべて22歳当時のままです。
前回までのあらすじ
カジュラホ最終日、サドゥーのババジに会い、至福のひとときを過ごした。

2月26日(つづき)

c0042704_1727962.jpg


カジュラホをあとにして、一路インド国内の最終目的地ヴァラナシへ。
ヴァラナシには街角にたくさんの神の像がある。これはハヌマーン。


 宿に戻り、チェックアウトしてから昼食へ。
 ババジとの至福の面会の余韻も醒めやらぬままに、例によってパンジャブレストランで食べていると、初老の男性が私たちのテーブルにいつの間にか移ってきた。メガネの奥の目つきが妙に厳しい。
 なんなんだろうと思っていると、彼は食事中の私たちに向かって、インドの、というか仏教の哲学について、ひとり大熱弁を振るいだしたのである。それもにこりともせずにマジでマジで語っているのである。飲み食いしながら聞き流す雰囲気ではとうていなくなってしまった。
 私たちは、成りゆきの強引さにとまどいながらも、膝に手を置いて大先生の講義を拝聴するような感じで、もうひたすらうなずくだけである。
 話は興味深いものだったけれど、えらく長く続き、しかもどんどん深淵かつ高邁な内容へとエスカレートしていくので、寝不足の私たちは終いにはぼーっとしてきてしまった。

 彼は哲学を勉強したものの、それを活かせる仕事が見つからず、宝石の細工をして生計を立てているという。
 宝石と聞いて、オッ、とうとう来たか、狙いはこれだったか、とちょっと警戒したが、彼には売りつけようという気持ちはさらさらなかった。やはりやはり、やたら愛想笑いをしないインド人は信頼できるのだ。

 今夜の夜行列車で、次の目的地ヴァラナシへと向かうつもりである。そのためには、鉄道の敷かれていないカジュラホから、最寄り駅のあるサトナまで、4時間バスに乗らなければならない。昼食後に、時間の許す限り寺院をもう一度見学する予定でいたが、この大先生の講義のおかげで、すっかり時間がなくなってしまった。そこで寺院はあきらめてバススタンドに直行した。

 カジュラホの寺院群を、結局それほどゆっくりとは見て回らなかったけれど、毎度ながらいろいろなことがあって、まあよかったんじゃないでしょうか。

 バススタンドに、パンジャブで見かけた日本人の若者が来ていた。
 慶應大生で、名古屋近郊に実家があり、卒業後は家に戻って東海銀行に就職が決まっている……ということをバス待ちの間に話してくれた(で、彼は以後、名古屋近郊東海銀行君という長たらしいニックネームで呼ばれることになる)。
 彼もヴァラナシを目指していたので、一緒にバスに乗った。

 ところがこのサトナ行きのバスは予想外にむちゃくちゃに混み、地獄の道中となった。
 私たちは運よく座れたが、ひとりのばあちゃんが、通路側の席に座った私の右肩および胸に完全にお尻を乗っけて座ってきてしまったのである。その重さといったら、今にも鎖骨が折れそうなくらいである。こんなことなら立ってたほうがましだよ。
 ばあちゃんやめてくれ、頼むから席を譲らせてくれえ。しかしこれほどまでに、奴隷運搬船のように詰め込まれては、だれも身動き一つできやしない。しかも南国のカジュラホは、暑いのだ。暑いか重いか、せめてどっちか一個にしてほしかった……。

 サトナ駅では、8時に来るはずの夜行が11時まで来なかった。
 その間、しつこい蚊を追い払い、チャイを飲み、売店のコロッケのようなものを食べ、ホームの暗い階段に座り込んで日記を書いたりして過ごす。
 私たちは寝台の予約をしていなかった。
 しかし、やっと来た列車の車内は、案の定、無秩序な状態と化しており、早い者勝ちでどんどん寝台が占領されている。予約は意味を成していなかった。足の踏み場もない大混雑で、寝るどころではない。さっきのバスといい、まったく疲れる旅だぜ。

c0042704_17314345.jpg


聖地ヴァラナシのガート(沐浴場)。早くたどりつきたい。


 するとなんとやさしいことに、名古屋近郊東海銀行君が、自分の予約していた寝台を私たちに譲ってくれた。座れるだけでもありがたいと思い、お世話になった。二段ベッドの下段にふたりで座り、東海銀行君は向かいの席に無理矢理座った。
 ところがその場所は、乗客たちが恐ろしくやかましくしゃべっていて、うとうとすることすらできない。どうして寝ないんだ夜行なのに。彼も寝ぼけながら「うるせーよ……」と文句を言っている。小柄な体をきゅうきゅうと丸めて必死で目をつぶっている様子は、あまりにも気の毒である。
 やはり、寝台は彼にお返しすることにして、再び空席を求めて車内をさまよう。

 通路にもびっしり人が座り込んでいるので、ザックを担いでそこを歩くのはとても難しい。
 私はジーンズに熱いチャイをぶっかけられてしまった。
 飛び上がりたくなるほど熱かったが、謝ってくれると思って我慢した。
 ところが相手のおばさんは、なぜか怒り狂ってかみつかんばかりに私に怒鳴り、しかもやけどしそうな足をばしっとひっぱたいたのだ。痛くて泣きそうになっちゃった。
 な、なんでこんな目に?混乱しながらあわててその場を離れた。
 おばさんにすれば、座っていたところにいきなり大荷物で無理に通ろうとした私のせいで、手が滑ってせっかくのチャイがこぼれた……ということなのだろうな。痛さとショックで、そう気づくまでにずいぶんかかってしまったよ。

 こりゃあ本格的に徹夜かなあと、うろうろしつつ絶望しかけたころ、ひょっくりと空きの寝台がふたつ見つかったのだった。
 二段ベッドの上段にはい上がり、ようやく横になれた。ああ、疲れた。長い一日だ。
 寝そべって下を見下ろすと、ちょうどドアが見える。
 開けっ放しのドアの向こうには、ただ闇だけがある。
 男ばかりが数人、ドアからすこし顔を出して、その闇を黙って見つめている。
 ああして黙ってると、なかなか絵になるんだよなあインド人てのは……。
 到着まであと2時間、とにかく眠れてありがたいことだなあ……(もう寝た)。

by apakaba | 2007-05-25 17:48 | 1990年の春休み | Comments(7)
2007年 05月 24日

五月大歌舞伎団菊祭

5月の歌舞伎座は、恒例の団菊祭だ。
市川団十郎と尾上菊五郎をメインに据えた演目。
昼の部に行ってきた。

歌舞伎で、真にいい演技を見たときに感じるカタルシスを今日は得られなかった。
なにもかもが、もう一歩。
セリフが入っていない役者が多く、安心して見ていられない。
間合いにもうひとつ、“溜め”がない。
“あと0.5秒、溜めてから次のセリフが出ていたら、感動のツボになるのに……”と残念になることが多くあった。

海老蔵の「斬られ与三郎」は、見目麗しさは天下一品だが、セリフが走っているし、所作・セリフの解釈ともに現代劇風。
現代劇なんか観に来ているのではない、こっちは歌舞伎を観に来ているんだ。
歌舞伎を見せろ。
あと10年は修行という感じ。
しかし彼は御曹司だから、厳しい指導をあまり受けていないように見受けられる。
歌舞伎役者としての出来は、同世代の菊之助に完全に抜かれている。
菊之助の女形ぶりは見事な美しさ。
演技力も、いつの間にこんなに上手くなったのかと感心した。

与三郎の名台詞、「しがねえ恋の情けが仇ァ……」は、海老蔵では任が足りないが仁左衛門が演じた3年前にはゾクゾクッと来た。
即座に仁左衛門の域に達することはもとから期待していないが、あの海老蔵の美貌を活かしきれないのはもったいない。
色事ばっかりマスコミからクローズアップされるのもそろそろ卒業するべきだ。

三津五郎の所作の美しさには見とれたが、脚本が凡庸、脇も凡人で引き立たず。
歌舞伎十八番の『勧進帳』は、団十郎がセリフで転び、吉右衛門や幸四郎が演じるときの、心の底を揺さぶる弁慶が観られず消化不良だった。
と、どうも残念なことつづきの演目であった。
たとえば吉右衛門の弁慶は、冒頭に書いた“溜め”はこちらの望みどおり、しかも期待した以上のものを必ずくれるのである。

今日、昼の部を通して観てつくづく感じたのは、演劇は、役者が変わると別の芝居になるということ。
歌舞伎は、観たことのない人よりは観ている方だから、まるで同じ演目でも、役者によって感動のあまり涙が出たり、居眠りしてしまったりしている。
今日はだいぶ居眠りした。
だから、一度や二度、たまたま歌舞伎を観て「観た」と言ってほしくない。
歌舞伎に興味があったら、心の底から感動する演技をいつか観てほしいと思う。
えらそうにと思われるかもしれないが、何度も見比べて実感し、感動できない日には本気で落胆しているからこそ言う(だって安くないんだもん)。
『勧進帳』などは好きな演目だから数えきれないほど観てきたが、思わず涙があふれた瞬間の心の揺さぶりはまざまざ思い出せるのだ。

今日はいまひとつの公演となったが、大好きな役者がバリバリ活躍しているから歌舞伎は楽しい。また行こう。

by apakaba | 2007-05-24 22:52 | 歌舞伎・音楽・美術など | Comments(7)
2007年 05月 23日

また櫛の歯が折れ、また叔父が他界

今年のはじめに、叔父で思い出すことという話を書いた。
長年愛用している櫛の歯が折れて、イヤだなと思っていたらちょうど叔父が亡くなった……という話だった。

つい数日前に、またその同じ櫛の歯が折れた。
その翌日、またべつの叔父が亡くなったと知らせを受けた。
今夜、お通夜に行ってきた。

その叔父というのは私の亡父と同年代の人で、ガンを患っていた。
30年前に私の父は急死したのだが、父の葬儀のとき、あまりにもその叔父が落胆して嘆き悲しむので、母は異様に感じたという。
おそらくそのころに自身の病気に気がついていたようで、“次は俺か”という心持ちがあったからではないかと、母はあとで言っていた。

しかしそれから30年も叔父は生き続けた。
あちこちにガンが転移して、内臓がみんななくなってしまった……などと聞いていた。
“内臓がみんななくなって”も、人って生きられるものなのか?長くは生きられないだろう?でも去るのは今日ではないのだろう?とか考えているうちに、本当に亡くなってしまった。
会うことができずじまいになり残念だ。

1月に亡くなった叔父と同様、その叔父で真っ先に思い出すのは私の結婚式のことである。
30年来のガンだから、もちろん私の式のときもとっくにガンで、叔父さんは出席できるかな、酒好きだけどお酒は病気によくないから当然だめだろう、と思っていたのに……披露宴となる親戚同士の食事会では、ああ、とんでもなく気持ちよく飲んでいるじゃないの。
椅子から転げ落ちそうだよ。
まだお開きになっていないのに完全に酩酊して、舟漕いでいる。
「だーっ!!!」と叫ぶ叔父も心配ではらはらしていたが、この叔父は病気のこともあって、私はやはりはらはらしながら見ていた。
新郎の祖母(この人もすでに他界しました)が、
「ほら見て、あのお父さん、すっかり気持ちよさそうにできあがって、うふふ、たのしそうねえ。」
とのんびりした調子で言うのを耳にして、あ、よかった、お見苦しいとは思われていないんだ、と安堵した覚えがある。

もしかして、病気のせいで普段は好きなお酒を控えていて、今日は結婚式だから無礼講ということで久しぶりにたくさん飲んだのかな?
「眞紀ちゃんおめでとう」と、今にもこっちにぶっ倒れてきそうなくらいに真っ赤な顔で言われて、その表情を見たら、“ひええ、ガンなのに!ガンなのにいいの?!でも楽しかったのかな、今日くらいはこれでいいってことなのかな?”と新婦の私は忙しく考えた。

私が9歳で父を亡くしたときにはすでにガンだった。
ということは、私の記憶にある叔父は、ようするにずーっとガンだった。
これは本当にたいへんなことなのだ、と今日思った。
自分に起きたこの30年を振り返ると、年月というのは大変な重みを持つものなんだとしみじみ実感する。

お棺に入った顔を、私の姉とふたりで見せてもらった。
「あらー痩せたのねえ。」
「うーん、でもなんかむしろ若いように見えるな、75にしては若い感じ。」
「そうね、シワとかないよね。」
とても月並みだが、これが痛みから解放された顔なんだなあと思った。
通夜振る舞いの席は、「おつかれさんー」という慰労会っぽい雰囲気で、ほっとした。

ところで櫛はこれ以上歯が折れるとこわいので、使うのをやめてそっと保存しておこうと思う。

by apakaba | 2007-05-23 22:52 | 生活の話題 | Comments(5)
2007年 05月 22日

大阪の憧れの場所クイズ!

来月、オフ会で大阪へ行くことになりました。私が幹事なの。
(行きたい人、よければ遠慮なくどうぞ。連絡ください。)

大阪に出かけることになったら、是非、行ってみたいとここ数年思っている場所があります。
大阪に行ってもなかなかそこへ行くチャンスがなかったのですが、今回はやっと行かれそう。
さて問題、私が大阪で行ってみたいとかねがね思っていた場所とは、どこでしょう?
まずはノーヒントで。
ちっとも正解が出ない場合は、大阪のどのあたりかヒントを出します。
それでも出ない場合は、どんな系統の場所なのかのヒントを出します。
正解したかたには、……どうしよう?
なにかつまらないプレゼントでも。

by apakaba | 2007-05-22 11:49 | 旅行の話 | Comments(42)
2007年 05月 21日

ノマディック美術館エキシビジョン Ashes and Snow——浅い水たまりのような「アート」

c0042704_20401446.jpg


お台場は上天気でした!が


夫が、めずらしくおずおずと
「……どうだった?今日のあれ。展覧会。」
と尋ねる。
「うん。よくなかったな。浅いし、あざといよ。」
と答えると、ほっとして、うれしそうに叫ぶ。
「そうだよなあ!よくなかったよなあ!よかった俺はやっぱりあなたと感覚が合うんだよ!俺は今日のあれを見て、半分半分のおそれを君に感じていたんだ。『どうしてこんなのに連れてきたのよ!』と怒られても弱るし、逆に『すっごくよかった!感動したー!』って言われても、俺と感覚がずれてることになるから辛いし。そうだよなあ、ああよかった。」

夫は、ある人からこの展覧会を強く勧められて、うちの人数分の招待券をいただいてしまったので、きのう家族で行ってきたのだ。

ノマディック美術館という、コンテナを組み合わせた移動式美術館がお台場に建設され、いまAshes and Snowという展覧会を開催している(公式サイトこちら)。
巨大な空間の内部は、グレゴリー・コルベールという「アーティスト」の写真と映像が公開されていて、暗い館内に足を踏み入れたとたん、「う、合わないな」という予感を感じた。

公式サイトを見ていただければわかるとおり、世界各地で長い年月をかけて、象やチーターやオランウータンなどの動物たちと、人間がいっしょにいる姿を撮っている。
超大判の手漉き和紙に写真が印刷され、ぶら下がっている。
この展示方法がまず鼻についた。
「パネルにプリントじゃ、ねえのかよぅ」と夫がうめいたとおり、“写真が好き”な人ほど割り切れないものを感じる。モノクロではなくてすべてセピアに加工されているのがまた気にくわない。
“写真展”のつもりで見に来た我々は、小手先のオシャレさに流れたような展示に失望した。

なにより、写真と映像の底の浅さに、軽く驚きを覚える。
老若男女、エスニックな顔立ちの登場人物たち(どう考えても意図的に、ヨーロピアンは皆無)は、どの写真でもうっとりと目をつぶっていて、どこのものともわからない民族衣装を着けている。
象やクジラなどの動物たちと、目をつぶった人間たちがいっしょに写っている(映っている)、それだけの写真と映像なのだが、これのどこが感動のツボなのか、いくら見ていてもわからない。
まさか、これ見て“自然と人間との共生”とか本気で思っちゃってる人が、いるのか?!
こんなの“自然”じゃないよ、不自然だよ見れば見るほど。
ディズニーランドと同じ、つくりもののむなしさだ。
(公式サイト内「ポートフォリオ」のページにたくさんの写真が入っているので、参考にご覧ください。)
ディズニーランドなら割り切ろう、私はディズニーランドはむしろ好きだ。
パレードに向かって「ミッキー!ミッキー!」と両手を振り回すくらいのことは平気でする。
しかし、このディズニー的展示の、ツボのはずれた気合いの入りようはどうしたわけだ?

いわゆる“絵的”にキレイなことはキレイだが、ものすごく、空虚だ。
まるでこの移動美術館の巨大空間と同じように、写真がむなしさで満たされている。
何故?
歩を進めるうちに自問は確信に変わる、この「アーティスト」は、写真とはなんなのか、写真の歓びがなんなのかを知らないあるいは誤解しているのだ。

先月、マグナムが撮った東京の写真展へ行って、後半は尻すぼみとなってがっかりしたけれども、マグナム初期のメンバーが撮った戦後間もない東京の姿には、胸を圧された。
“いま、ここにいることの歓び・驚き”に満ちている!
この場にいて、対象と向き合い、カメラを持っている自分がうれしい。
それがビシビシと迫る、だから写真に力がある。
マグナムに限ったことではなく、プロ・アマ問わず、好きだと思う撮り手の写真には、皆それが共通している。

コルベール氏の作品には、それがまったく感じられない。
彼の写真から見えてくるのは、対象のそばへ自分の感情を寄り添わせたいというひたむきさと謙虚さの代わりに、自分の求める“絵”に対象を当てはめ、絵のとおりにことを運んでいかせる傲慢さだ。

ほら、キレイなカタチでしょう。
人間と自然、いいでしょう。
時間とお金がかかったんだよ。しっかり見てね。
人間も動物も、ひとつになれるのさ——なんて、そんな悪い冗談やめてよ。
偏ったエスニックな世界、都合の悪いことがなんにも起こらない、箱庭的な世界観。
心の表層の部分を流れ去り、大衆に消費される……まるでプロモーションビデオのように。

PV的な価値はじゅうぶん見いだせるが、この浅さに本気で感動している人がいるのはどうしたことだろう?
1900円という高額の入場料にもかかわらず大入りの会場を、むなしい気持ちであとにした。
みんな、もっといいもの見ようぜ。

※無料招待券が1枚余っています。ご希望の方1名に差し上げます。

by apakaba | 2007-05-21 00:31 | 歌舞伎・音楽・美術など | Comments(16)
2007年 05月 19日

往復2時間だけのドライブ

長男の高校のPTA総会に行ってきた。
車でも電車でも片道1時間くらいなので、今日は天気も心配だったし運転して行った。
甲州街道を西へ、西へ。
度はずれに背の高いけやき並木がつづくから、甲州街道を走るのが好きだ。
街路樹は馬鹿でかいけやきが一番好きだ。
交通量の多い道にけやきが植えられるのは排気ガスに強いからというのが理由だそうだが、個人の家では絶対に無理な高さまで好きなように伸びて、手と手をつないだように両側から枝がかぶさってきて、道路をトンネルにしてしまう、その下を飛ばすのは気が晴ればれする。

タイトスカートにハイヒールではいつもとちがって運転しにくいが、好きな音楽を好きな音量でかけられるし、5月のけやきは道に爽やかな陰を落としてくれるし、これでもう少しスピードが出せたら、甲州街道を行くのは最高である。
中央自動車道のインターがところどころに見え、このまま高速に乗って遠くへ行きたくなる。

歌を唄ったり唄わなかったりしながら走る。
きゅうにいろんな感情の波が押し寄せてきて泣きたくなり、涙がばああーっとあふれてきた。
いきなり前が見えなくなり心底あわてる。
運転しながら涙が出るとこんなにあぶないのかと思い知り、正気に戻ってとたんに涙はひっこんだ。

PTA総会で、居眠りするあまり頭を机にぶつけそうになる。

甲州街道を東へ、東へと帰っていく。
往き、標識に「甲府」と書いてあると気持ちが躍るが、帰り、「新宿」と書いてあると醒める。

by apakaba | 2007-05-19 21:28 | 生活の話題 | Comments(14)