あぱかば・ブログ篇

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2009年 07月 29日

2008年に読んだ本、Best10! その3

「あれこれ散らばっている連載を、片っ端から終わらせよう」とはいつも思っているのになかなか進まないのが連載モノのつらいところ。
気づけば、もう、2009年も半年以上過ぎているじゃないの。
すでに今年に入ってからおもしろい本をいっぱい読んじゃっているし。
でも連載を途中で放棄するのはイヤなので、とにかく簡単に紹介だけします。
昨年は10点では足りなかったので、Best10といいながらもう少し追加します。


9...
甘い蜜の部屋 (森 茉莉 著)


森鴎外の愛娘、という冠はこの小説に限っては、まあ、必要であろう。
やおいなかほり芬々の『恋人たちの森』では、「父親より文章がずっとうまいじゃないの。鴎外の娘という看板など必要ない」と思ったものだが、自伝的な色合いの濃いこの長編小説では、美貌のヒロイン「モイラ」を自分の姿として描いていることを念頭に置きながら読むとますます耽美な気分に浸れる。

つかみどころなく、努力が嫌い、勉強が嫌い、誰もが目を見張るような美貌を持ち、父親からの溺愛を受けて育っていく、魔性の娘モイラ。
すべての女の敵であり男の敵でもある。
この娘を見た人間は、みんな底のない美しさの奴隷になってしまう。

この鬼才にはもっともっと、書いてほしかったなあ。
二十世紀初頭の裕福な知識人の家庭で育ったという圧倒的なアドバンテージから紡ぎ出される、現代の作家には決して真似できない文章世界だ。
教養の厚みも、口にしてきた食べ物も、憧れを通り越して敬服するしかない。
料理の過程の描写は執拗なまでに多く、森家がいかにいいものを食べてきたかがわかる。
まったくさりげなく「マカロンが食べたい」なんて書かれていて、この家ではニッポンの庶民より数十年早くマカロンをふつうに食べていたのか……などと小さいことにも驚いてしまう。


10...
チーム・バチスタの栄光 (海堂 尊 著)


あまりにも有名な医療ミステリー小説。
すいすい進むが、誰でも文句なしにおもしろい!と思える!
映画では主人公の田口公平が竹内結子、白鳥圭輔が阿部寛という配役だったが、小説から先に入った私には、あの配役には不満たっぷり。
田口は絶対に男!阿部ちゃんをそのまま田口役にスライドさせてもいい。
そして白鳥圭輔は、私なら、爆笑問題の田中氏がぴったりだと思うのだが。


11...
カラマーゾフの兄弟 (ドストエフスキー 著・亀山郁夫 訳)


学生時代に読んだ、原卓也訳の新潮文庫版から約20年、そろそろ細部の記憶も怪しくなってきた頃合いに光文社から出た、昨年ブームだった新訳版。
やはり、二度目のせいか、若いころにまばたきする間さえ惜しんで読みふけったドライヴ感はなかったな。
もちろん、近代文学の最高傑作のひとつであることはまちがいないが。
読んでいる間と、読み終わってしばらくの間、カラマーゾフ的世界から抜け出せないような感覚はついてまわる。
本の中で、人生におけるなにもかもが起こり、なにもかもが詰め込まれている感覚。
こういう大長編の傑作を読了すると、やはり、なにかが自分の中で決定的に変化する感じがする。
ものを考えるときに拠って立つ場所のひとつになるという感覚か。

亀山版は、なんだか現代っぽさが先走っているというか、やや軽さが鼻につき、素直に「ドストエフスキーはおもしろいなあ!」という感想には結びつかなかった。
「それって、どういうこと?」とか書かれると、なんだか文学的に見えない……でも、なにしろこちらは原文を知らないのだから、当時の流行作家のドストエフスキーが、さほど格調高い文章を書いていたのではなくて、当時の若い人がしゃべる言葉そのままに(「それってあれだよねー」というような)、文章の勢いを重要視して書き進めていたのだとしたら、納得できる。

むしろ、亀山郁夫氏がみずからつけた解説に、氏の翻訳者としての良心と強い信念を感じ、感銘を受けた。
本編を読んでいる間は、「もしかして亀山さんってさほどの力はない人なのかも?」と思っていたのに、解説を読んだら偉大な知性の持ち主であることがよくわかった。

これにつづいて、『謎とき「カラマーゾフの兄弟」(新潮選書 江川 卓 著)』も読んでみたが、こちらは若干三面記事っぽいつくりというか、軽い読み物であった。


12...
母は娘の人生を支配する—なぜ「母殺し」は難しいのか (斎藤 環 著)


娘を持つすべての父親と母親必読の書。
そこのお父さん、お母さん、絶対に読んでください。
うちは大丈夫、我が娘には関係ない、なんて思ってはいけません。
母親の存在が娘の人生をスポイルしていくさまざまな図式を、臨床ケースだけでなく、少女漫画や現代小説など幅広い分野から紹介し解説していく。
母親の娘であり、娘の母親である私も、ひとごととは思わずに真面目に読んだ。


13...
誘拐 (本田靖春 著)


イマドキのへなちょこな新聞記者にはまず無理だろうよ。
骨太な、現場主義のジャーナリズム。
古いヤツだとお思いでしょうが……やっぱり昔のジャーナリストは、かっこいい!!
1963年、東京の入谷で起きた「吉展ちゃん誘拐事件」の発生から、被害者殺害、警察のミスで、犯人をすんでの所で取り逃がし、迷宮入りかと思われながらも、執念の捜査で犯人を逮捕し、その犯人の人物像にまで迫る。
刑事たちの焦りと苦悶、幼いころから田舎でつらい目に遭ってきた犯人の、やがて破滅へと追いつめられる悲しさ、事件に巻き込まれていく周辺の人々の人間模様まで描き込み、「それでも、真実を書きたい」という筆者の強さにぐいぐい引っ張られる。
新聞黄金期の遺産だ。


14...
幻影の書 (ポール・オースター 著・柴田元幸 訳)


出ましたオースター×柴田の最強コンビ。
勝手にコンビにしているのは日本人読者だけだけど、やっぱりオースターには柴田元幸がもっとも似合う。
内容は、オースターらしく話の中にまた話が、その中にまたエピソードという入れ籠細工の長編であるが、彼の小説を読んでいる間、「語られることによって現出する世界のあまりの美しさに、泣きたくなる」という経験ができる。
その美しさを手放したくなくて、別れなければならないシーンが近づくにつれ胸が苦しくなる。
つまり夢中になって読むということだな。


15...
タイタンの妖女 (カート・ヴォネガット・ジュニア 著)


いかにもハヤカワっぽい、古めのSF。
SFというと、宇宙船の機体の細かい性能とか、ミサイルや宇宙服の機能などの描写がたくさん出てきそうだけれど、この小説にはいっさいなし。
乱暴なまでに宇宙船は宇宙船、宇宙は宇宙としてそのまんま横たわっている。
絶賛と酷評の差が激しい作家だが、私にはどこかしら、人間の存在のむなしさや有り難さを読み取れておもしろかった。


あれ、気づけば15点も紹介していた。
あといくつか、よかったもの悪かったものをランダムに書き留めておく。


新アラビアンナイト (清水義範 著)
多作にして有名な作者だが、残念ながら私にはまったくおもしろくなかった一冊。
なにが合わなかったのかというと、文体が、自分で「俺って軽妙?俺って洒脱?」とうきうき喜んでいるような、妙な名調子。
こういう文章の人はニガテです。

恋愛の不可能性について (大澤真幸 著)
残念ながら、読了することができなかった一冊。
おもしろくなかった、のではなくて、私の頭脳ではとうてい太刀打ちできない、難しい本だったから!
これまでいろんな本を読んだり途中で投げ出したりしてきたけれど、「難しすぎて、私には無理!」という理由で読めなくなったのは、この本と、『日本思想という問題――翻訳と主体(酒井直樹)』のふたつだけ。
やーんバカでごめん。
今読めないのでは、この先読めるようになるとも思えないけど、定期的にチャレンジしていくつもり。

日本を降りる若者たち (下川裕治 著)
昨年読んだ本のなかのワースト1。オメデトーぱちぱちぱち。
日本の若者が、自分の家に引きこもるのではなく、タイのバンコクの安宿街などで引きこもっている、ということに取材しているらしいが、筆者は自分でなにも考えを述べず、どっちつかずの逃げの姿勢。
ジャーナリズムのかけらもない。
結論らしきことの文末はすべて「〜〜なのだろうか。」「〜〜かもしれない。」
読んでいていらいらする。
こんなものなら素人に十分書けます。

フェルメール——謎めいた生涯と全作品 (小林頼子 著)
大絶賛というほどではないが、フェルメールの絵を見て興味を持ってから読むと、絵の解説として過不足のないつくり。
前半はやや筆者が「私が私が」と出しゃばってきてうるさい印象だが、一転、後半からは淡々と解説を語り始める。

Coyote 2008年4月号
雑誌ですけど。柴田元幸特集がたいへんたいへんすばらしかった。
翻訳者と、原作者との信頼関係については、この号を読むまでさほど意識していなかった。
ミルハウザー、オースター、ダイベックなど、現代アメリカ作家たちがこぞって賛辞を惜しまない、それが柴田先生だ!
ますますファンになったよ。
この雑誌、いつも同じクオリティーだったら絶対定期購読するのだが、号によってムラがあるのがなあ……
(追記:雑誌ではなくて書籍に分類されるそうです!)

孤独な鳥はやさしくうたう (田中真知 著)
昨年に渾身のレビューを書いたので、ここではタイトルだけということで。
10選に入れたかったけど、こんどは真知さんの旅の書き下ろしを読みたいなあと期待してあえて……ほほほ。


とまあこんな感じで急ぎ足で紹介してみた。
ちなみに、前に2回書いたときは以下の8点を取り上げた。

『おぱらばん』
『帝国との対決—イクバール・アフマド発言集』
『L.A.コンフィデンシャル』
『西行花伝』
『巨大建築という欲望—権力者と建築家の20世紀』
『マーティン・ドレスラーの夢』
『複製技術時代の芸術』
『百年の孤独』
それぞれ、2008年に読んだ本、Best10!(その1)2008年に読んだ本、Best10!(その2)に書いております。
Best入りしている本は、私からどれも強力にお薦めします!
(バンザーイ!連載がまたひとつ終わりました。)

by apakaba | 2009-07-29 15:37 | 文芸・文学・言語 | Comments(10)
2009年 07月 27日

東京を擁護する(その4・終編)

東京を擁護する(その1)

東京を擁護する(その2)

東京を擁護する(その3)


なぜ発作的に「東京を擁護」したくなったのかというと、いろいろなきっかけが重なっている。
ひとつは、キヨシローが亡くなったこと(今でも、涙が)。
何度も何度も当ブログに書いているとおり、キヨシローの唄い回しは、まさしく東京そのものだ。

「Oh 雨上がりの夜空に 輝く」→「Oh あめあか゜りのよぞらに かか゜やくぅー」
美しい完璧なガ行鼻濁音。
「スーツケースひとつで ぼくの部屋にころがりこんで来てもいいんだぜ」
「ギターケースひとつの ぼくのとこで明日から始めるのさ たった二人の勇気があれば ダイジョブダイジョブ きっとうまくやれるさ」
さ〜、や、ぜ〜、の見事な語尾さばき。
「Oh 神様 このままブッとんでいたーい Oh かっかっ神様 でも目を覚ませばステージの上」
どっかのヤマ師がオレが死んでるって言ったってよ」
などの促音強調(太字部分が促音。「かっかっ」は東京というよりオーティス・レディング風ですが)。
こんな唄い方をできる人間は、もう出てこないだろうなあ。

それから、1年前に夫の祖母が亡くなったこと。
またひとり、東京のシャベリをできる婆さんがこの世から去った。
私には決して真似できない、あの小気味よいシャベリ。
「ちょいと!ちょいとあんた!夜にはうどんをうでる(ゆでる)んだとさんざっぱらあたしが言ってるじゃないの!」
東京の女は、私をあたしという。
「バカをお言いでないよ!おだまんなさいな!」
「ばかばかしいったらありゃしない、お話のひとつにもなりゃしないわ。
あたしに言わせりゃそんなものぁ端(はな)ッからインチキよ。ウソだと思うんならここへぴっちり耳をそろえて持ってきてみなさいってぇ言うのよ。そーらご覧なさいあたしの言ったとおり。」
「ところがナニナニさんときたら『それはナントカでございます』と、こう言うのよ!頭に来るじゃないのそこまで言われたら。だからあたし言ってやったわ。『それではこれはコレコレですね』とこう言ってやったわよ。はぁあ、それでやっと胸がせいせいしたわ!」
なにがどう、というわけではないのだが名調子なのだ。
立て板に水のこんなシャベリを、どこかで聞いたことがある……と、思っていたら、小津安二郎の映画と、落語、とりわけ古今亭 志ん生(五代目)の話し方にそっくりなのだった。
祖母が亡くなってから、一時期、夫は志ん生の名物の演目をi Podで聴きながら祖母を偲んでいた。

そしてもうひとつ、日本は広いけれど、こと方言に関しては、なぜか関西弁にプライドを持つ人ばかりが目立ち、一方で東京の言葉の使い手がほとんど見あたらないということ。
私も関西の知り合いが大人になってから爆発的に増えたせいで、関西の言葉を意識するようにはなった。
ところがどうも、関西の人は東京の言葉にほぼ無関心、というより食わず嫌い、誤解に満ちているのにまったく気に留めず、関西弁擁護にしか関心がなさそうだということがわかってきた。
日本の中に東京弁と関西弁のふたつしかないわけでもないし、関西といっても広いから地域差はあるし、二項対立じたいに意味がないと思うが、一大方言勢力地帯であることは事実なので、便宜的に関西をとりあげてみる。

素朴な思いだが、関西の多くの人間は、なぜ東京が嫌いなんだろう?

こればかりは、理屈じゃないんだろうな。
刷り込みなのだろう。
なぜなら、逆に私も、小さいころから
“関西の人間は、お金にうるさい。なんでもカネ勘定でモノを考える”
“「関東の一つ残し」といって、おかずやお菓子がひとつだけ残ってしまい、遠慮しあうことがあるが、関西ではさっと最後のひとつも持って行かれる”
“関西へ行って関西弁を話さない人間は敵と思われて冷遇される”
などと大人たちから吹き込まれてきた。
すごい偏りに満ちた話だけど、子供だから信じていたし、“関西ってなんておそろしいところだろう。こわくて口もきけやしない”と、本気で思っていた。
今では、関西へ行って電車に乗ったりすると、わざと大きな声で
「あたしなんかさーこんなことやっちゃってっからさー」
などとしゃべると、けっこう視線を感じる。
ふん、なにが悪いのよ。

と、対立姿勢になるともう収拾がつかない。

この前、横浜出身の男性から、京都の人から言葉に関するご忠告メールをもらったという話を聞いた。
曰く、京都では語尾の「〜じゃん」を聞くと90%の人間が不快に感じる、と。
そういうありがたいご忠告のタイトルが「おばんです」。
あはは。くだらない。
だったらそっちも「〜やん」をやめろ。
横浜では100%の人間が、「おばんです」という言葉を聞くと不快になりますとでも返してやったらどうなるの?

と、対立姿勢になるともう収拾がつかない。

個人個人に恨みはないが、私も関東地方の人間として、関西のアイデンティティーの強さには閉口することがしばしばあるので、やや感情的になるのは見逃してもらいたい。
ほんと、関西の人たちには、心ないことをたくさん言われてます。

東京ではみんな「じゃん」と言っているという誤解もなんとかならないか。
東京の、少なくとも50歳以上の人間は、「じゃん」なんてまず言いません。
言うのは三河から東海道を海沿いに東へ、横浜までです。
しかも若者言葉ではないです。
横浜の人間はどんなに年を取っても、じゃんじゃんじゃんじゃん言いっぱなしです。
私の親戚の集まりなど、前述の京都のお方なら不快なあまり倒れるでしょうね。
ちなみに我が横浜では語尾に「だべ?」とか言ったりもします。
東京と横浜のちがいもわからないで、関西弁擁護にばかり汲々とするな。

とまあこのように、対立姿勢からは、なにも生まれない。
ようするに、ヘレネスとバルバロイの昔にさかのぼるまでもなく、“自分たちとちがう言葉を話すヤツは、理屈抜きでムカツク”ということだ。

思うに、生きた人の声で発せられる東京弁を聞いたことのない人には、そのよさがわからないのだろう。
ほんとうの美しさに触れていないから、軽薄だとかカッコつけてるとか荒っぽいだとかいうイメージだけが一人歩きしてしまうのだと思う。
小津映画の登場人物たちのシャベリを、歌舞伎の世話物のシャベリ(当代随一は、中村吉右衛門であろう)を、志ん生のシャベリを、どうか聞いてほしいと思う。
それがかなわないなら、東京へ来て、生粋の東京のおじさんやおじいさんたちが集まって飲んでいる酒場にでも行って、ちょっと耳を傾けてほしい。
たしかに褒められるようなお上品な言葉づかいではないけれど、活きのいい、カッコイイ方言を聞けるはずだ。
私など、ひとりでランチに入った店で隣の席が東京親父の団体だったりすると、そのラ行巻き舌やカ行サ行無音化や、促音の小気味よさにうっとり聞き惚れてしまう。
それも無理なら、せめてドラマ『鬼平犯科帳』でも見てくれ。
そこでカッコイイ吉右衛門のシャベリを聞いてくれ。

しかし悲しいことだが、東京方言は、風前の灯火であると思う。
東京は、方言を守りきれるほど閉鎖的ではない。
方言が崩れていかないということは、それだけ人間の出入りがないということだ。
日本一大きな都市として、外からの人間の流入をゆるしつづけ、逆に、純粋な東京の人間はどんどん郊外へ流出していく。
かつて、山手線の内側だけが東京だと豪語していた生粋の江戸っ子は、もはや絶滅危惧種だ。
私のようなイナカモノが流入してきて、粋でカッコイイ東京方言を荒らしていく。
残念なことに、私の子供たちは、イマドキの若い者風の軽い言葉はしゃべるが、父親(夫)が話すべらべらの東京言葉はあやつれない。
むしろ私の横浜シャベリの影響が色濃い。
それでも、父方の祖母や曾祖母(昨年亡くなった夫の祖母)たちの粋な話し言葉や、自分たちの父親のシャベリは、どこかにしみついているものだと思いたい。
私には使いこなすことはとうていムリだが、どう見ても(どう聞いても)、横浜の田舎言葉よりかっこいい。

ひとつ、頼もしく感じていることがある。
私は幼児と小学生を自宅にあげて勉強を教える仕事をしているが、一番小さい生徒で3歳の男の子がいる。
3歳の子供にどんな勉強を教えるのか、は、また別の機会に話すとして、その子が、3歳だというのに完璧な東京弁を話すのだ。
まだおむつが取れて間もないくらいの子なのに、
「おれよぅ、今日はねみぃんだよな。ねむくなっちまったよおれよぅ。おしるね(昼寝)しなくちゃなんねぇんだよおれ。」
なんて、べらんめえでしゃべるのだ。
ああ、この子のお父さんやおじいちゃんは、きっと東京弁の使い手なんだ!と、うきうきしてくる。
守ってほしいなあ、と希望を抱いている。


4回にわたりだらだら連載してきた「東京を擁護する」であるが、これを読んで快哉を叫ぶ人は、まあ、あんまり多くないように思う。
多くの人は、反感を抱くか、ピンと来ないかのどちらかではないだろうか。
でもいいの。
いろいろな場で、東京が不当に低い評価を下されているように感じてきて、一度でいいから反論をぶちまけてみたかったのだ。
東京は、意外にいいところだ。
前3回で紹介したように、人なつこく、気候風土もけっこういい。
言葉もイカシテル。
東京の一ファンとして東京に暮らしている。

by apakaba | 2009-07-27 21:51 | 文芸・文学・言語 | Comments(29)
2009年 07月 23日

意味なく危険を冒す

「コシヒカリ」の個人面談へ。
今年から、小学校も中学も、夏休み中に個人面談をやる。
私は、「ササニシキ」が小・中学生だったころには本当に本当に個人面談がイヤだった。
担任から「ササニシキ」の悪行を聞かされるのがイヤで。
だからあとのふたりの面談はついでという感じで過ごしてきた。

でも今日は「コシヒカリ」の問題行動を担任から聞かされてガックリ。
6月にあった宿泊行事で、禁止事項として、「宿泊施設の窓から隣の部屋に柵を越えて移ってはいけません」と注意をしたという。
男子はそういうことをやりたがるものなので、男子を1階にし、女子はまずしないだろうということで女子を3階にしたところ、注意を聞かされた後にただひとり「コシヒカリ」が3階の窓から隣の部屋に乗り越えようとしていたんだと。
それをたまたま校長が見つけて、「あれは親に言っておくべき」と担任に伝えたとのこと。

「『コシヒカリ』ちゃんはいったいなにを考えてやり始めたのでしょう。あの窓を越えようとして、頭から落ちて亡くなったお子さんもいるんです。その話もしたのに。」
というので、
「漫画をとてもたくさん読むし、演劇や小説も好きなので、ヒーロー気分というのはあるかもしれません。
それ以上に、上の兄が問題行動ばかり起こす子だったので、その話をおもしろく聞かされて、自分もできる気になっているんだと思います。
でも、上の兄は高校生になって落ち着いたし、娘は女の子だからまさかと思って高をくくっていました。うかつでした。」
と言って謝った。

「ササニシキ」が言うには、宿泊行事のとき、男子は恒例のようにその窓越えをするらしい。
小6のとき、その宿泊施設から脱走を試みて、縄ばしごを持ってきたり、なぜか空気銃を持ってきた子もいて、見つかって没収されたとか。
そんな英雄譚を聞かされて、「わたしにもやれる」とその気になったのだろう。
頭から落ちなくてよかった。

どうしよう中学生になって「ササニシキ」並みに担任から忌み嫌われる生徒になったら。
女の子は素行が悪いというとたいてい別の方向へ走っていくからなあ。
食い止めないと。

まあでも、これを書いているうちにだんだん思い出してきたけど、私もばかげた危険なことをやってたなあ中学生のとき。
小学生のころも、自宅の天井裏を冒険して天井板を踏み抜いたり、瓦屋根の上を駆け回ったりして近所のおばさんを蒼白させたりしておてんばだったが。

中学の、学校の階段から踊り場に飛び降りたり。
せまい踊り場に向かって、より高い段から飛べるかで勇気を見せるのね。
私はいつもいっしょにいた女子の中で一番飛べたから得意だった。
あんなことでも、学校の階段ってコンクリートで硬いし、ちょっと間違えたら大けがだもんね。

階段の手前で、階段に向かって倒立して(スカートのときじゃないですよ)、何段目に足をついてブリッジになるか賭けたり。
足を急角度で折り曲げると、とんでもなくキツいブリッジになってしまうし、うまくやらないと危ないですねあれも。
ああ、ひたすらくだらなかった私。
子供のこと言えない。
というより、今やっと気づいたが子供たちの性質は私譲りか。
でも親という立場があるから怒るわ一応。

by apakaba | 2009-07-23 17:40 | 子供 | Comments(14)
2009年 07月 21日

芋がら・ずいき

私は快便な体質ですが、それは家族が誰もいないときだけの話で、人が家にいるととたんに便秘になります。
だから夏休みなどの長期休みや家族旅行などに行くととても苦しみます。

小さい子供がいる生活が長かったせいで、子供の排泄を優先するくせがついているためだと思います。
子供は待ったがきかないので、「おしっこ」「うんちー」と言い出したら抱えてトイレに座らせるし、私がトイレに入っていても、うんと幼い子供だと「おかーさんおかーさん、どこー」と不安がって探すから、いっしょに個室に入ったりドアを開けたままで用を足したりしていたし、大きくなっても「早くしてーもれるー」とドアをどんどん叩かれたりするので、座る間がありませんでした。
人がいるときは自分はゆっくり座りません。と、心に誓っているわけではないけど体が決めてしまったみたいです。
母親癖がしみついてしまっているのです。

たんに昔の習慣がしみついているだけでなく、実際に、今でも、
「早くして!」
と子供にせかされることはよくあるので、人がいるだけでまったく落ち着けません。
またせかされるのではないか、だったらあとでいいや……と、排便をつい先延ばしにしてしまうのです。
5人家族でトイレひとつだと、誰かが我慢しないとならない時間帯というのはあるものです。
そして我慢するのはつねに私です。

いよいよ子供たちの夏休みが本格的にスタートしたので、毎度ながら便秘になりました。
もともと快便なので、一日でも出ないと、気分が悪くてたまりません。
よく、便秘だというと「運動しろ」「繊維質のものを食べろ」「起き抜けに冷たい牛乳を一気飲みしろ」などと言われますが、どれも効きません。
わざと氷を10個もたてつづけにかじって無理矢理に下痢を引き起こしたりもしましたが、こんなことは我ながらとうてい健康的なやり方とは思えません。

唯一、「これはとてもいい!」と思ったのが芋がらです。
芋がらを油揚げといっしょに甘辛く炒め煮にします。
私はこういう昔っぽい料理がとても好きなので、ふだんからよく作るのですが、あれほど繊維の強い食材は他にないように思います。
ごぼうなんて目じゃないです。
鍋の底で炒って、調味してふたをして、ちょっとしてからふたを開けた瞬間がとても好きです。
炒っているときは鍋の底までしかなかった芋がらが、今にもふたを持ち上げそうなくらいに、ぶわわーんと力強くふくれているのです!
「こんなにふくらむの?!」
と、ビックリします!
ふたを取ると、ぶわわーんとふくらんでいた芋がらはたちまちしゅうーっとしぼんで、何ごともなかったかのように鍋の底に小さく収まります。
「こんなにいい子ぶっちゃってー。ふたをした中ではあんなに膨張してたくせにー。」
と、芋がらの秘められた力というかヒミツを見たような気分になりますよ。

芋がらをたくさん食べると、苦しまず、スピーディーに排便できます。
便秘対策として、私には芋がらが一番合っているようです。

ところで今日これを書くのに、芋がらのことを少し下調べしようと思って検索をかけたら、意外なことを知りました。
芋がらってずいき(芋茎)とも呼びますね。
「どっちがより一般的なんだろう。私は昔から芋がらと呼んでいたけど、もしかしたらずいきと書いた方が通りがいいのかな」と思い、“ずいき”とひらがなで入れて検索してみると、“肥後ずいき”という見慣れない単語が??

もしかして、知らないのはワタシだけなの?
肥後ずいきって大人のおもちゃなのね。
とても歴史のある大人のおもちゃで、肥後の国から参勤交代の折には徳川家へ献上していたとか。
もしご存じなくてご興味あればご自分で検索してみてください。
Wikiとか、写真つきのサイトもあって興味をそそられます。
芋がらを緻密に編んであって、とても芸術的できれい。
編み方にもいろいろな種類があり、飽きません。
使用は遠慮したいですが。
肌が弱いので、かぶれそうで恐ろしいです。
実際、サポニンという刺激物質が作用するというから、少しぴりぴりするんだろうか?

それにしても、昔の人は自然界の中からうまいものを見つけ出すものだなあ。
刺激物質が含まれている繊維をきちんと編み上げて、男性をバージョンアップさせるとは。
しかも、ずいき(芋茎)という名前に“随喜”という字を当てて読ませるなど、粋であるとしかいいようがありません。
自然科学に詳しく、手先も器用、駄洒落も品がよく、ニッポン人っていいなあと思い知った次第です。

これは辞書を調べて知ったことですが、随喜という単語はもともと仏教の言葉で、他人のよい行いを見て心に喜びを感じることだそうです。
日本語も駄洒落も性欲も奥が深いものです。
今日は便秘のことを書こうとしていて、思いがけずいろんなことを勉強しました。

by apakaba | 2009-07-21 23:04 | 健康・病気 | Comments(2)
2009年 07月 20日

アマルフィでこもごも

「コシヒカリ」がハリポタ最新作を見たいから連れて行ってくれと言う。
面倒だけど、小学校最後の夏休みでもあるし、と思い、「コシヒカリ」のお友だちも連れて、新宿へ行ってきた。

ハリポタについては、子供にせがまれて映画館へ行き、1作目と4作目だけ見たことがあるが、両方ともまったくストーリーから置いてけぼり。
なにがなんだかさっぱりわからず、リタイアを決めた(ファンの皆さんごめんなさい。本を読む気もありません。ぺこ)。
だから今日も、娘たちをハリポタの劇場に送り込むと、私一人は同じシネコン内の『アマルフィ 女神の報酬』を見ることにした。

『アマルフィ』はまあまあおもしろかった。
まあ、テレビで十分ですが。

それよりも映画館の混みッぷりにびっくり仰天した。
まだ両方とも封切り直後なので、クレジットカード払いのオンライン予約をしていったのだが、受付には人があふれかえっており、オンライン予約の発券機の前だけは誰ひとりいない。
みんな計画性がないというかなんというか(ちなみにクレジットカードでなくても、現金払いでもオンラインで買えます)……係員が「残席5席だけです!」とか「この回はすべて満席です!」とか叫んでいる。
休日の映画館ってこんなに混むのか!
そして、新宿という都会の映画館だからなのかわからないけど、ハリポタを見に来た各国の外国人の多いこと!
こんなに外国人が来ている映画館はあまり見たことがない。
今さらながらハリポタの人気を思い知ったわ。

それにしても、長蛇の列になることは予想がつくだろうに、どうして前売りを買ってこないんだみんな。
朝のラジオで“草食男子”について話しているのを聞いたことがあるが、草食男子は、「映画に行くとき前売りを買わない」のが特徴のひとつだそうだ。
ホントかどうか知らないけれど、「混んでいてダメだったらいいや」とあきらめるんだって。
ヤダそんな男子。
私はなんでも予約してしまうのが好きなので、草食男子とつきあっていたら私が予約当番決定だろう。

まあ男子はどっちでもいいのだが、私はめったに映画館へは行かないし、まれに行くことがあっても平日である。
平日はがらがらのことが多い。
いつも、「こんなにいい映画なのに、こんなに空いているなんて。映画って大丈夫なのか?」と心配になっていたけど、休日に稼ぐんだねえ。
もっと安かったらもっと行くんだけどなあ。

by apakaba | 2009-07-20 23:31 | 映画 | Comments(14)
2009年 07月 18日

東京を擁護する(その3)

なんだかんだと多忙ですっかり失速してしまったが、東京のつづき。

東京に住むようになってから、東京がよその地域からいかに誤解・曲解された場所なのかがよく見えるようになってきた。
東京はビルばかりで、自然なんかなにもない。人間の住むところではない。とか。
これは実際に、私のママチチが言っていたのだ。
何年か前に、横浜からうちの隣に引っ越してきたが、彼はこう言って、東京に住むことを長く拒んでいた。
うちは渋谷にも新宿にも電車で10分という至便な場所ながら本当の都心ではなくて武蔵野の自然を残すのどかなところなので、毎日、いろんな虫や野鳥や、ヘビやひきがえるなどの小動物や、コウモリを見る。
とくにコウモリは、カラスよりはるかに数が多い。
大阪や京都よりも夏はずっと涼しくて過ごしやすいし、都内各所に散在する大きな恩賜公園のおかげで、意外と自然環境もいい。

東京の人間は冷たくて会話がない、とか。
どういった根拠のもとにそういう乱暴な決めつけをするのか理解に苦しむが、1回目に書いた、トマトを買った店のおじさんの例を持ち出すまでもなく、ザ・東京の人は、かなり人なつっこいと思う。
先日も、川沿いの遊歩道で犬の散歩をさせていると、向こうから初老の男性がウォーキングをしてきて、私の目の前でぴしゃっと手を一発叩き、コーシローを指さして、
「ィヨッ!めずらしいね!(ラ行巻き舌でよろしく)」
と言うではないか。
その口火が、まさに落語そのものの名調子で、「どうして、なにが、めずらしいんだろう?」と感じる前にまず吹き出してしまう。
「そいつぁ柴だろう?吠えないねぇ?ぃや、めずらしいねえー。ng~~~ !ぃや人なつっこいねえー。見てみなよ平気な顔してるよ!ぃやさ、オレさぁウォーキングしててね、柴にいっきなり食いつかれたことあるんだよ。ただ歩いてただけなのに、いきなり、ここ(脚)をガブッと。アハハ!こいつぁ柴にしちゃぁ噛まないね!や、めずらしいねえng~~~~!」
一息にここまでしゃべる。
私がその見事な東京弁に惚れ惚れしていると、
「アッハッハ!この犬ぁかわいいね!んじゃっ!」
と言い置いて、またすたすたと歩いていってしまった。

こんなことは、散歩していると日常茶飯事だ。
ベンチに座っているおじさんなど、犬にしか話しかけない人もいる。
「おう、よぅしよし。いい子だな。雨が上がったから散歩かい。ここんとこ天気わりいから災難だな。飼い主によぅくかわいがってもらえよ。じゃあな。」
とか。
飼い主って、私なんですが……ここよ〜。私はこっちよ〜。
でもこの人は本気で犬に話しかけているのだ。
自分の声を聞いて見上げるコーシローと、語り合っている気になっているのだ。
それはそれでほほえましい。
おじさんだけでなくおばさんたちも似たようなもので、犬を介さなくても、ちょこっとした会話にはことかかない。
だから、イメージと、自分の数少ない東京体験だけで、「常識ないなぁ。東京の人間はそうなんやろなあ」などと言われることには忸怩たる思いがある。

もちろん、東京といっても広いから、たまたま私の住んでいるエリアが、落ち着いていて住民同士の信頼感が高いという特性を持っているのかもしれない。
でも、現実にここも東京の一部だ。
外からの、一方的で思慮を欠いた決めつけには、ひどくストレスを感じる。
東京には住みたくないなあ、とか、東京には反発がある、とか言われることが、どれだけ東京が好きで住んでいる人を傷つけるか、わかっているのかなあ?

故郷の横浜を出て、いろんな人とつきあうようになって、この無理解はいったいどこから来るのか、どうしたら溝が埋まるのか、と、焦れるように考えてきた。
最近になって、だんだんとそのわけが見えてきたように思う。
あーでもくたびれてしまった。
ここでまた力尽きてしまう!スミマセンまた次回。

by apakaba | 2009-07-18 22:56 | 文芸・文学・言語 | Comments(6)
2009年 07月 16日

とどこおりちゅ

なんか、すんません。
学期末につき、めずらしく猛烈に用事が詰まっていて、更新はおろかレスがたまっております。
明日にはレスだけでも書けると思います。
でも管理人がいないままに勝手にコメント欄が回っていくのは、ブログっぽくなくて昔ながらの掲示板ぽくて懐かしい感じですわ。遠い目。

新学期に書いたとおり、今年度は小学校の広報委員というものをやっており、先日、号外を発行しました。
特集は、夏休みの自由研究のアドバイスと、7月22日に起こる皆既日食について。
国立天文台のナントカさんからの注意事項を転載しました。
サングラスで太陽を見てはいけません。
黒い下敷きや、黒くマジックで塗った下敷きなどで太陽を見てはいけません。
目を細めて太陽を見てはいけません。
太陽を直接見ることはたいへん危険です。
トカナントカ。
私が子供だったころは、黒い下敷きとか、煤をつけたガラスなんかで見ていたけど、あれじゃUVカットもクソもなくて、とっても目には悪かったのですねえ。
注意事項だらけ。
時代は変わったねえ。

でも、ただただ「いけません」連発ではつまらないので、ちゃんと小学校の校庭でも、イベントとして観察会があるのですよ。
昔は目を細めて太陽を見ていた、昔子供だった皆さんも紫外線には注意しましょう!
と、PTA広報っぽく。

関係ないけど私の今年の抱負を覚えていますか!
覚えてないわな。
人の抱負なんて。
今年の抱負は、「おしゃれな人になる」です。
私は髪の毛をずっと放置していて、だいたい年にいっぺん切るかどうかというくらい無頓着だったのですが!
今年からは、ちゃんと切りに行ってパーマをかけようと!
前回のパーマから3ヶ月たったので、今日またおもしろおかしいアタマにしてみました。

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i Phoneで撮影したのでダメな画像だけどモデルもダメなのでそこんとこ。
ボブカットにエクステがついているかのようなスタイル。
今日はこんな感じでやってました。
では明日〜。出直します。

by apakaba | 2009-07-16 22:09 | サイト・ブログについて | Comments(4)
2009年 07月 10日

東京を擁護する(その2)

大学では、国語国文学科だった。
国文科という学科は(現在ではすたれているにせよ)、まあ、よくある。
でも「国語」の名前がついている学科はそう多くはないだろう。
ブンガクだけでなく、語学として日本語を勉強しましょう。ということだ。
1年生の、国語日本語学という講義で、教授が東京方言について触れた。
それまで意識していなかった「東京の言葉」を、初めて学問として考えるきっかけになった。

東京の大学に通い始めるまで、ほとんど一歩も横浜から出たことのなかった私にとって、大学で知り合った同級生たちはカルチャーショックに満ちていた。
全国から学生が集まってくる学校だから、方言も入り乱れている。
大阪、愛知、宮崎、岐阜、和歌山、栃木、千葉、香川、群馬、青森、北海道、などなど、私の友人分布図は一挙に広くなった。
国語日本語学の講義では、柳田國男の『蝸牛考』などを扱い、「横浜以外の全国に、人は住んでいるんだ!」というばかげた感動を覚えていた私には、好奇心をそそられることばかりだった。
『蝸牛考』というのは、「かたつむり」を方言でなんと呼ぶかを取り上げて、日本の方言の分布をさぐる内容である。
今でいうと「アホ」と「バカ」の分布図とか、エスカレーターに乗るとき左に寄るか右に寄るかの分布図とか。それの原型といってもいい。

ところが「東京方言」の講義でいろいろと解説をされても、それを生きた声で話す人間が身の回りにほぼいないことに気づき、東京のマンモス大学なのに不思議なことだと感じた。
たったひとり、講義どおりの東京の言葉を話す人がいた。
それが将来の夫になる同級生だった。
「なにいってやんでえ笑わせんじゃねえよ。馬鹿野郎ふざけたことをごたごた並べやがって。んなこた俺の知ったこっちゃねえよ。」
トカナントカ、そんな調子。
私は、今日に至るまで、知り合いの中で夫よりも言葉の荒い男を見たことがない。
クラスメイトとして知り合ったころはさして気に留めていなかったが、話す機会が増えるにつれ、「この人の言葉の荒っぽさは、いったいなんなんだ?時代劇に出てくる人みたい。」と思うようになった。

東京方言とはいわゆる江戸弁のことだ。
講義で覚えているのは以下のような特徴。

*ae(アエ)はe:(エー)となる。例)お前→おめえ つらい→つれえ
*ui(ウイ)はi:(イー)となる。例)かゆい→かいい 暑い→あちい
*oi(オイ)はe:(エー)となる。例)細い→ほせえ 
他にも、暗い→くれえ、ことは→こたあ など。

*カ行・サ行の無音化。
例)行く(iku)→ik(クの音は息だけ) そうです→soudes(スの音は息だけ)
*促音便多用。例)俺ぁそいつぁけろっと忘れっちまってっからよう(小さいツの音を多く用いる)
*ヒとシの混同。例)しるまにひらいさんが見えたってなぁ→昼間に白井さんが見えたそうだね
*ラ行巻き舌。これは文字では表せません。

他にもあったと思うが忘れてしまった。
これを聞いて、なんでも学問になるものなんだな……と感銘を受けた。

つづく。
飲んでしまって力尽きました。

by apakaba | 2009-07-10 23:52 | 文芸・文学・言語 | Comments(16)
2009年 07月 08日

東京を擁護する(その1)

吉祥寺のハモニカ横丁(旧闇市)にある、とある店の軒先に、大きくておいしそうなトマトが並んでいた。
台所用洗剤や輸入ワインやパスタなど、いろんなものが乱雑に置いてある店だ。
「これください。3個。」
と、初老の店主に声をかける。
店主は無造作に外に並べたトマトを一瞥して答える。
「ああ、だけどこいつぁ食べごろぁ明日の朝だよ?」
私ははっと顔を上げる。
言葉の内容にではなく、あざやかな東京言葉にグッと来る。
「えっ。今夜食べたいんだけど、ダメかなー。」
「今夜だってもちろんいいよ。明日の朝のほうがなおのこといいってこと。袋、ないけどダイジョブかい?」
「大丈夫、ここに入れるから。はい。」
いちいちラ行が巻き舌。
トマトを手渡しながら口元がゆるんでしまう。
店主は自分のところの売り物を手にとってしげしげと眺める。
「はぁ〜、だいぶ赤くなったな。これなら今夜でもいけるかもしんねえな。」
「今日暑いからね。」
「あぁそうかそうだな。はいよ。ng~~~、いや、赤くなったなあ。ng~~~」

最後の「ng~~~」という音はなんとも文字では表せないので、苦し紛れに書いてみた。
おじさんたちが大変しばしば発する音声。
「うーん」「あぁー」「いやはやー」と言っているのに近い。
わかるかな?
感嘆や嘆息を表すときに発する。

重くなった買い物袋を持ち上げて、私はうれしくなる。
「いたいた。東京の親父が。絶滅危惧種がこういうところにいたよ。」



……あのー、これまだほんの導入にすぎないのです。

東京、とりわけ東京の言葉について、ふだんからいろいろと考える。
私は自分が東京の人間だと思ったことはない。
私は、言葉に関しては根っから横浜である。
たびたび書いているように、私は父方から数えて三代目、母方から数えて四代目、親戚もみんな横浜だ。
東京の人と結婚したが10年近く埼玉県に住んでいた。
そのとき、人々がどんな言葉をしゃべっていたのか、ぜんぜん思い出せない。
そのあと東京に戻ってきて、すでに10年近く経つが、日々、東京が好きになる。
横浜の人間は、横浜を誇りに思うあまり、えてして「東京は人間の住むところではない。やっぱり住むなら横浜。横浜が一番」などと、しゃあしゃあと言ってのける。
私の周りもみんなそうだった。
でも私は、東京のよさを、気に入ったところに住んでみて初めて実感しているので、とうてい「人間の住むところではない」などと言うつもりがない。

東京の人間は冷たい、とか、買い物しても会話がない、とか、地方の人からよく聞くけど。
あなたが冷たくされたその相手は、本当に東京の人間ですか?と聞きたい。
ただ働くために住んでいるだけで、実はあなたと同郷の人かもしれませんよ?
東京の人間は会話がないって本当ですか?
私は毎日買い物をするけれど、上に書いたくらいの会話は、毎日しますよ?

東京が、まちがったイメージで決めつけられることが、どうしても我慢できない。
くり返すが私は東京の人間ではない。
あの見事な東京言葉はこの先何十年たってもこなせないと思う。
東京の、一ファンだ。

とても長くなりそうなので今日はこれで一回切る。
たぶん明日にはつづきが書けると思う。
次回、東京と東京の言葉を擁護してみたいと思う。

by apakaba | 2009-07-08 22:06 | 文芸・文学・言語 | Comments(8)
2009年 07月 07日

星に何を願う

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朝から委員会の仕事などでずっと小学校にいた。
校門に、きれいに七夕の飾りつけをしてあるのは知っていたが、生徒昇降口もこんなふうになっていた。
なんだろうこの黒い帯は?と、それが天の川だということがしばらくわからなかった。
生徒たちが折り紙の短冊に願いごとを書いているが、私は、子供といえどもなんとなく人の短冊を読むのは気がひける。
神社で人が書いた絵馬を読むのも気がひける。
もし私だったら読まれたくないもん。
願いごとは、心の中にしまってあるもの。

カレシや友だちや家族と出かけて、どこかの神社をお参りして、並んで手を合わせても、「なにをお願いした?」と聞かなくなったのはいつからか。
高校生のときは、聞いていたかな。
大学生のときは、聞いていたかな。
覚えてないけど、聞いていたような気がする。
“私のことをなにかお願いしてくれたの?”と期待していたのかもしれないわね。
並んだ人に「なにをお願いした?」と聞かなくなるのは、ひとつ大人になった証拠かなー。

ここのところずっと梅雨寒がつづいていて、きのうも24度以上には上がらなかったが、今日は夏らしい青空がいい気持ちだ。
星空が見えるといいな。

夏空の下、校門の前で、お父さんの自転車の後ろに乗った女の子が、「きーらーきーらーひーかーるー、おーそーらーのーほーしーよ」と唄う。
今日は「さーさーのーはーさーらさらー」じゃないの?と心の中では思ったけど、七夕の飾りつけを見てきらきら星を思い出しても、いいか。

by apakaba | 2009-07-07 18:25 | 生活の話題 | Comments(8)