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2014年 04月 22日

台湾で、日本を考えていた 13.紙聖堂(ペーパードーム)

12.日月潭ビジターセンターのつづき。(初回は台湾2013からどうぞ)

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道端に現れた、空き瓶を使ったトンボのオブジェ。他にカエルや蝶もあった。

次の目的地は「紙教堂」と呼ばれる、紙でつくられた聖堂である。
この場所への行き方はぜんぜんわからなかった。
バス停からなんとなく歩いているうちにそれらしき感じになってきた。

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日本の地方でもよくこういうごちゃごちゃの案内板を見かける

予備知識がほとんどないままに来てみたのだが、この「紙教堂」は意外にも広くて整備された公園になっていた。
ここのことは台湾のサイトをあれこれ見ていて目に留まり、興味を持ったのだった。

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雨に濡れないよう聖堂がしっかり覆われている

1995年の阪神淡路大震災が起きたときに焼失した、神戸の「鷹取教会」のあとに、建築界の異才・坂茂(ばん しげる)氏が紙の教会をつくった。
といっても本当の教会ではなく、住民が集まる“コミュニティホール”としての場である。
“紙の教会”“紙聖堂”とも呼ばれているが正しくは宗教建築ではない。

1999年に台湾で起きた大地震で被害を受けた台湾と神戸とが交流をおこなう中で、この紙の聖堂を台湾へ移設することが決まった。
移設にともなって、この自然の豊かな地域をまるごと見学園区としても整備し、2008年に正式にオープンしたという。

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この外側のケースのような建物の中に、紙の聖堂がすっぽり入っている

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これが本体だ!

紙といっても、ぺらぺらの紙ではなく堅牢な紙管だが、触ってみると柱もベンチも、やはり本当に紙である。

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たしかにここは宗教色はなく、“ホール”だ。
「ペーパードーム」の愛称もうなずける。
「紙の教会」というロマンチックな響きに惹かれて来てみたが、思っていたより質実剛健な“たてもの”である。
この旅行のテーマの一つが、台湾にある台湾と日本の建築家の作品を見るということだった。
またひとつ、おもしろい場所に来られた。
しかも、東日本大震災からまる2年というタイミング(2013年3月12日来訪)ということも、日本人のひとりとして胸に迫る。
地震国である台湾との交流がこういう形で実を結んでいるとは、知らなかった。

そしてさらに歩いていくと、また新しい日本との結びつきを知った。

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台湾では、こういう公の施設でも、原発反対をすごく堂々と表明しているのだね。
日本をふりかえると、台湾のほうがずっと先鋭的でありつつスタイリッシュに原発反対を表している。
奈良美智の大きな絵もある。ここでも日台交流が進んでいたのだった。

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遠くからだと紙聖堂の本体は見えない

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自然を象徴するカエルの像があちこちにある。どれも祈りのポーズをとる。

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紙聖堂に使われていたのと同じ紙管

それにしても、台湾に来て何度も感じているが、こういう展示の仕方がとてもオシャレでこなれている。
力んでいるところや泥臭い感じがぜんぜんしない。
日本は、繁栄に向かって進むのは得意だけれど、(震災や原発事故など)ダメージを受けたあとの思想の表し方が、さまざまな場面でどうにもかっこ悪い。
なにがちがうんだろう?

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やたらときれいに整備された公園

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そしてやたらときれいな人(絶対原住民だ)

なんとなく敗北感を覚えつつ紙聖堂をあとにした。
震災2年後、来てみてよかった。

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ところがこのあとこのバス停で、バスがいつまでたっても来なくて、かなり泣きべそになった。
いよいよヒッチハイクか……

14.埔里の夜と朝へつづく)

by apakaba | 2014-04-22 21:27 | 台湾2013 | Comments(0)
2014年 04月 15日

女の人生って?就活って?おばさんも悩んでいた

4月も中旬になって、やっと新年度の生活にも慣れてきた。
なんの理由もないけど、私がここ何年かの間に取り組んできた就活のことをまとめて書くことにした。

高校生のころ、「高校の国語の先生になりたい」と考えていた。
大学生になると、教員の夢はだんだん小さくなり、代わりに「文章を書きたい。新聞記者になっていろんなところへ行きたい」という気持ちが強くなっていった。
バイトは家庭教師、塾講師などをやっていた。
教職課程だけは修了したけれど、就活ではマスコミだけを受けて惨敗した。
当時、私は学校をさぼってバイトと旅に明け暮れていたので、成績は最低で、すでにエリート化著しくなっていたマスコミ業界には相手にされなかったのだった。
結局どこも通らず、商社に入って失意の日々を送った。

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須田悦弘みたいだ

失意の日々でも着々と結婚の準備だけはすすめていき、1年も働かなかった会社を寿退社して、専業主婦になった。
結婚して10年くらいは出産と育児ばかりしていた。
それからまた働くことにして、自宅を開放して小学生に勉強を教える塾を始めた。
これも10年ちかく続けた。
それとは別に、友達の子供の家庭教師もやっていた。
よく思い出すと長男出産後に、通信添削教材のバイトもしていた。
なんだかんだと、私の仕事は教育関係が中心だった。

そのうち、塾を閉めて、外で働きたくなった。
夫に勧められて、私立高校の非常勤講師になろうと思い、2012年はその就活に邁進していた。
募集を調べて、履歴書を山のように書いて送った。
平行して、学力試験に備えて勉強もしていた。
やってみると、これがブランクのわりにけっこうすらすら解けるので、自信を持った。
国立大学受験用の問題集を何冊も解いたが、国語だけなら十分合格できるのね。私。

ところが、自信を持ったのはつかの間。
すべての学校に落ちてしまった。
履歴書でほとんどはねられてしまうから、面接にも筆記にもたどりつけない。
私が教員として未経験であることと、年齢がおばさんすぎることが原因だろう。
それ以外に考えられない。
履歴書を提出すると同時に筆記・作文・面接も受けられたのは2校くらいだった。
そこも落ちた。
学力ではきちんと書けていたのにだめだった。

猛烈に落ち込んだ。
自分はこんなに人から認めてもらえない人間だったのか。
自分のことも、周りの人間のことも、恨めしく思えた。
私の人生ってなんなんだろう?
女って結局、仕事をやめて家に入ったらおしまい。
子供生んで育てたら終わり。
大学なんか行ったって、なんの意味もなかった。

あの、学校の先生たちってなんなんだろう?
私のほうが頭いいぞ勉強もできるぞ。
あんな変な人たちと働くなんてこっちから願い下げだよ。
でもうらやましい。
仕事があるだけで、給料をもらっているだけでうらやましいなあ。

しばらくふてくされて、心の中はこんな恨み言がいっぱいだったが、頭を切り替えて別の仕事を探すことにした。
ある幼稚園のアルバイトを始めた。
ところがそこは、とんだブラック企業だった。
時給の仕事なのに毎日のサービス残業は当たり前。
しかも園バスの運転をしろと言う。
手当もなく、事故のときなどの保障の説明もなにもないまま、おそろしくて園バスなんか運転できるか!
すぐにやめた。

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そのあと、いよいよ保育園で働き始め、現在に至る。
保育園はうちから徒歩2分。
先生たちもパートさん仲間もやさしい。
なにより、区立保育園なので、システムがしっかりしているところがいい。

唯一いやだったのは、勤務が週6日だったことだ。
夕方の短時間とはいえ、そのために一日が拘束される。
加えて、他人からしたら取るに足らないことだが、メイクや服装も拘束される。
たとえば、うっかりブルーやパープルのアイシャドーをしていると、小さい子からは
「せんせい、どうしたの、ここ(目の上)、へんだよ、いたいの?」
と心配されてしまうし、大きい子からは
「あっ!悪者だ、魔女だ!」
と騒がれる。
はなはだめんどくさい。

ところが、4月からなんと、昼間のパートにうつることができた!
週3日、10時から4時の5時間(拘束6時間)という、らくらくな勤務!
お弁当を持って行っている。
この時間帯にうつれて、とにかく最高!

保育園で働きながら、もうひとつ就活していた。
それは、区内の不登校児が通う「適応指導教室」というところの先生になることだった。
不登校だと学校の勉強が遅れていくので、その遅れを取り戻すための教室である。
しかしこれはなんだか不透明な募集で、要領を得ないまま締め切られてしまった。
きっと、本当は募集なんかしていないのだろう。
表向きには募集をかけるが、引退した教員などの受け皿になっていて、実際は内輪でなり手を決めているのではないか。
ともあれ、その仕事の芽はなくなった。

今、保育園のパートとともに、リクルートの海外旅行サイトエイビーロードというサイト内で、旅コラムを書く仕事をしている。
たびナレ〜旅に行きたくなる!海外旅行に役立つナレッジ情報というコーナーだ。
こちらは原稿料としてはそんなに儲かる仕事でもないのだが、保育園だけだと金銭的に心細いのと、ちがう仕事もしたいという欲求があるのでちょうどいい。
文章を書くのは好きだし、旅行のことは今までもさんざん書いているので、書きやすい。

「仕事ってなんだろう」「私はもう社会的に価値がないのだろうか」……ずっとそんなことを考えてきた。
私と同じ大学を出た友達が、高給取りになって第一線で働いているのに、私は……
子供を生んで家庭に入らなければ、こんなことには……
今も、そう思わないわけではない。
でも、私はなんといっても、「体が弱い」!
虚弱な人間は、なにをやってもだめだ。
私は教員になっていたら、もしかしたらすごく有能だったかもしれない。
マスコミに入っていたら、すごく稼げたかもしれない。
でも、きっとだめだ。
体が追いつかなくて、倒れて終わりだ。

金銭の問題は大きいが、それと同じくらい、自分が「取り替えの利かない存在だろうか」ということは考えていた。
保育園の仕事は、私でなくても、誰でもできる仕事だ。
下働きだけでなく、もう少し専門的な仕事がしたい、という気持ちもないわけではない。
だが現実的には不可能。
だったら保育補助は社会貢献と割り切ってもいいか。

非常勤講師の就活では、正直いってプライドがズタズタになった。
しかし、それから1年たって、最終面接で私を落とした高校から電話が来て、今年度働かないかと申し出があったのだった。
それでちょっとだけプライドは担保された。
迷ったけど断ったが。

ちょうど、その電話が来たときが、ボランティアで所属している影絵劇団の練習最中だった。
影絵をいくらやってもお金にはならないが、だんだん活動を大きくしていくつもりである。
私の声が好きだと言ってくれる人はたくさんいる。
劇団代表が、
「ミタニさんの声は替えが利かない。ミタニさんが練習に来ないとき、他の人が代役をやるんだけど、たしかに代役でもみんな上手なんだけど、でもちがうの。代役だと、誰でもいいの。でもミタニさんが来てセリフを言うと、“この役は、もう絶対にこの人にしかできない”と思うのよ。どこがちがうのか、わからないんだけど。」
と言ってくれた。

人間が、自分を大事に思えるときは、こういうときだと思う。
私は、就活中、ずっと自分を大事だと思えなかった。
それは、仕事で実現するものなのかもしれないし、私のように最底辺の仕事をしている人間でも、別の場所で自分を替えの利かない存在だと感じられることは、生きる力になる。
今年度は、去年、おととしよりも、いい年になると思える。

by apakaba | 2014-04-15 14:16 | 生活の話題 | Comments(7)
2014年 04月 14日

空也上人像とか、もなかとか

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夫が学校からの頂き物で、銀座「空也」のもなかというのを持って帰ってきた。
我が家の人間は誰も知らなかったが、なんだかありがたそうなお菓子。
能書きを読むと九代目団十郎だの夏目漱石だの、錚々たる名前が出てくる。
『吾輩は猫である』にも出てくるとか。
ありがたやありがたや。

ところで空也上人像を見たことがあるのは家族で私だけだった。
「すごかったよ。本物は。写真で見るのとはぜんぜんちがう。」
と力説するも、誰も見ていないから説得力なし。
仕方がないのでブログに書いた、空也上人像を見たときの箇所を読ませた。

前から行きたかった六波羅蜜寺。
空也上人の像で有名です。
この立像を見たとたん、完全に足が止まり、身動きできませんでした。
「仏像」を見るときの感動とは別の種類の戦慄が押し寄せました。
「これは、“人間”そのものだ。人間の姿を写している。」と思えました。
どの角度から見ても、まるっきり“人間”です。
この空也という“人”が見てきた、この世の苦しみや悩み、それを細い体に引き受けて「南無阿弥陀仏」を口から吐き出す瞬間を、写真のように写している姿でした。


「これってさ……きっと、この像を見た人は、これを読むと“そうだそのとおりだ”って感じるんだと思う。
でもみんなこういうものを見たときに“すごい”とは思っても、それを表す言葉がないんだと思う。
だから“すごーい”とか“ヤバい、ハンパない”で終わっちゃうんだと。
感じることはできても、みんながみんな、こうやって言葉にすることができないんだよ。」

いきなり娘が語っていて、どうも私の文章を褒めてくれているらしいのね。
私も出世しました。

by apakaba | 2014-04-14 23:30 | 生活の話題 | Comments(2)
2014年 04月 08日

「栄西と建仁寺」展と「観音の里の祈りとくらし」展

上野で開催されている美術展をまわってきた。

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最近、あとでブログを書こうと思ってもすぐに感想を忘れてしまうので、長崎旅行記でもやったように現地からTwitterでなんでもかんでもツイートをしておくことにした。
そうするとあとでつなげるだけだからとっても手軽!
今日の感想もそれでいく。

まずトーハクの「栄西と建仁寺」。
「えいさい」じゃなく「ようさい」と読むのが約束だそうだが、これだけ「えいさい」で通っているのに今さらそういわれてもねえ。

栄西禅師800年遠忌のための特別展という大型企画展ながら、なんとなく冗漫な展覧会という印象を受けてしまう。
点数だけはすごいのだが、長く足が止まるものは少なかった。
俵屋宗達の「風神雷神図屏風」だけが傑出しており、その他はまあまあ。
新しいところでは若冲がずば抜けてきれい。
入場してすぐ、建仁寺に伝わる「四頭茶会」の再現というコーナーは大掛かりで期待したのだが、そのあとが飽きた。
なんだろう、キュレーターが今ひとつなのか?
東京でいろんな美術館に行くが、ここ10年ばかりの印象では、私設美術館のほうがいいキュレーターがいるように思う。

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首をひねりながら早足でまわってしまったが、最後の風神雷神で一気に盛り返した。

屏風絵の左側に浮かぶ白い体は「雷神」。
人間が、憧れ続けた“飛翔”の体現。
体の重さから完全に自由になって空(くう)へ舞い上がる。
右側の暗緑色の体は「風神」。
白い「雷神」よりやや体重を感じさせ、足元の黒い雲に“乗る”。
雲を踏みしめて空(くう)を駆ける。
互いの足の曲線から、そんなイメージを受け取る。
さらには、風神雷神ともに両手を順手と逆手で描くことでさらなる躍動感と力強さを表す。
自由な四肢。
自由が二体から横溢する。

ふつうのレベルのアートをいくら眺めていても、なんにも心に言葉が浮かんでこないのに、風神雷神を見たとたん、バシバシとインスピレーションを受ける!
これがアートの非情なまでにおもしろいところだな。

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次は東京藝術大学大学美術館の展覧会へ。
「観音の里の祈りとくらし びわ湖・長浜のホトケたち」という長いタイトルの展示だ。
タイトルのセンスは今ひとつながら、展示は予想以上のすばらしさだった。

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滋賀県長浜市は、国内でも有数の、観音菩薩像の遺品の宝庫だという。
展示場内はあまり広くなくて展示方法もひたすら観音像を並べるだけというシンプルさなのに、一体一体に付された解説がていねいだ。
なかでも思わず足が長く止まっていたのは、安念寺というお寺から来た二体の像だった。
「いも観音」と呼ばれるというが、ぼろぼろに朽ちてしまい、痛みがきわめて激しい。
たしかに虫食いだらけのさつまいもに見えなくもない。
だが、その痛々しい体に身がすくみながらも目が離せない。
この像はこんなにぼろぼろになっても、人間を救済することをやめない。
祈ると皮膚病などに効果があるといわれているのも、この朽ちた肌が身代わりになってくれるように思うからだろうか?
初めギョッとし、それから動けなくなり、最後には泣きたくなるような感慨が押し寄せる。

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腕を失った千手観音といい、人は損なわれたもの、朽ちたものに、より強く惹かれてしまうのか?
こういう姿になるまでの時の重みを想像するからだろうか。

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盛りを過ぎた上野公園の桜を見ながらそう思っていた。
人々は紙吹雪のように降りしきる桜の花びらを見ては、思い思いに楽しそうにしていた。

by apakaba | 2014-04-08 22:31 | 歌舞伎・音楽・美術など | Comments(0)
2014年 04月 06日

長崎旅行報告・後編(軍艦島ツアー・グラバー園・大浦天主堂)

中編(新地中華街・浦上天主堂・長崎原爆資料館)のつづき。

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午後から軍艦島見学ツアーに参加した。
もともと、娘の長崎旅行最大の目的は軍艦島だった。
まあよくある「廃墟にロマン感じる」というやつね。
が、実際に参加してみると、娘がイメージしていたものとはだいぶちがったようだ。

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どっさりの観光客。
歩けるコースは島内のほんの一部分。
そして60代半ばほどの、やたらと名調子の(綾小路きみまろみたいだと娘談)ガイドさん。
好きなように廃墟を歩き回れると思っていた娘は落胆し、マイクを握って語り続けるガイドさんにうんざりしていた。
(廃墟の崩れ方は相当なもので、見学コースを外れて勝手に歩き回ったら危険なのだ。)

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しまいに、
「無人になっただけで、本当にこんなに壊れちゃうものなのかなあ?住民が出て行くときに『どうせ出て行くんだからちょっと壊しちゃえ』とか言って、わざと壊していったんじゃないの?」
などと言い出す。
海風や台風にさらされ、手入れされなくなって40年もたてばこうなってしまうのだろうが、自然にボロボロになっていくコンクリート建築というものを見たことがない娘は疑いのまなざし……。

実は私も、もう少しちがう雰囲気の見学を想像していた。
往復の船のなかで聴きたくもない歌やビンゴゲームに付き合わされ、上陸してもゾロゾロ行列になって歩かされ、拡声器でおもしろくない冗談を飛ばしては「ここで記念写真を撮りたい方、どうぞ申し付けてください。カメラ押しますよ。カメラ押しますよ(カメラ押してもしょうがないと思うが)」と言い続けるガイドさんには閉口した。
むろん、解説があったほうが、漠然と建物を見ているよりずっとよくわかる。
でも「軍艦島」になんらかのあこがれやロマンを感じてやってきた人間に、あのツアーがベストな形でこたえているとは思えなかった。

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名調子のガイドさんは、軍艦島がいかに近代化した“奇跡の島”だったかを、口をきわめて強調する。
写真の右上部にある大きな階段を登ったところは、炭坑へ降りていくためのエレベーターの入り口だった。
「そのエレベーターは大変なスピードを誇っておりました!東京スカイツリー並みの速さだったのです!ええ、降りるときですよ。」
降りるときって……それって下降じゃなく落下というんじゃないのか?
それ以外にも、水不足のために炭坑員の風呂や学校のプールは海水だったこともあったとか、当時の日本ではめずらしい水洗トイレがついていたとか、緑がない島だったため、日本で最初の屋上農園をつくったという話など、名調子は不快ながらも聴いていればそれなりに感心したりする。

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上陸したあとは船に戻り、島の周りをぐるりとまわりつつ、また建物の説明を受ける。
なんだかんだいって、ここの魅力はその姿だな……と思いながら眺めていると、名調子のガイドさんがこんな解説をした。
「最盛期の1960年には、島の人口密度は当時の東京の9倍、世界一の人口密度を誇る島でした。」
そして船内のテレビで当時の写真や動画を次々と流す。
笑顔にあふれた住民たちの様子を見ていると、なんともいいがたい気持ちが込み上げてくる。

最盛期のころ、人々は裕福で、教育環境や娯楽場も整い、日本有数の近代的な生活を楽しめる島だったというが、炭坑で働いて健康は確実にむしばまれていただろうし、朝鮮人や中国人の労働者は日本人労働者よりずっと劣悪な条件下で暮らしていただろうし、こんなにせまい土地でひしめきあっていたなんて、たとえ映画館や飲食店が充実して水洗トイレがある団地に住んでいてもつらすぎ。
いや、住民は「つらすぎ」なんて思いもしなかったかもしれない。
近代的な生活を謳歌していたのかもしれない。
なんだかなにもかもが今の私の生活(というか人生)とはかけ離れていて、いいともだめだともいえなくて、「これが日本の近代化を支えてきた場のひとつの姿だ」という感慨だけが大きくなっていく。

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なにより感慨を大きくしたのは、1960年に最盛期、1974年に閉山し無人島となったというその“歴史”だ。
私にとっては大昔という気がしないのに(1974年には小さかったけどもう生きてたし)、40年でここまで朽ち果てた島を見てしまうと、これは立派に“歴史”なんだと思い知らされた。
自分もまた、日本が近代化していく過程を、場所は異なっていたにせよ歩んでいたのか……!と。
まあ平たく言うと「私がけっこう年取ってるってコトね!」という感慨なのだけど。

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当然、娘は私のような感慨を覚えることはないし、ガイドさんのトークに終始いらいらしていたけれど、やっぱり「行ってみてよかった」とは思ったようだ。
写真でいくら見ていても、その“せまさ”は実感しにくい。
たまたま前日に出島を見てきて、出島と軍艦島、時代はちがうし住人の目的も面積もちがうけれど、たてつづけに“隔離され密集して暮らしていた場所”を訪れたことはいい体験になった。

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観光できるタイムリミットが迫ってきたので、駆け足であと2箇所。
まずはグラバー園へ。
中学生のとき、家族旅行で来たことがあるけれどちっともおもしろくなかった。
今になってみると、瓦屋根の載った洋館という苦しい和洋折衷が泣かせるじゃないか。
でも、娘はまだ子供なのに「おもしろいおもしろい」と言っている。
当時の私よりよく見ている。悔しい。

昔来たときにはグラバーさんが何者だったのかなど少しも知らないままだったが、再訪してみると、解説コーナーでやたらとグラバーさんに感謝を捧げていることがかえって気になる。
まるでグラバーさんのおかげで日本近代化が進んだかのようなおおげさな感謝。
そんなにリッパでえらいのグラバーさんって?
だんだん疑いのまなざしになって、年表をよく読んでみたら、「20歳でジャーディン・マセソン商会に入社し」とある。
ウワー!そういう人だったのね……!
あのアヘン戦争のジャーディン・マセソン商会ね。
この時代に、ジャーディン・マセソン商会で上海だの日本だのと、こんな地の果てまでやってくる西洋人なんて善人のはずがないじゃないの。
まあグラバーさんは日本人と結婚して日本にとどまり、あれこれ日本のために貢献することになったようだから許すが(えらそうな私)、手放しで「ありがとうありがとう!」と讃えるのはちょっとちがうように思った。

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最後の観光は国宝・大浦天主堂。
長崎で、五島列島含め「教会建築をたくさん見たい」というのが、長崎行きでの私の希望だったのだが、予定変更が重なって、結局は浦上天主堂とこの大浦天主堂のふたつしか行くことができなかった。
でもまあいいかな。
浦上天主堂は威風堂々たる建築だったが、あちらはロマネスク建築で、大浦天主堂はこじんまりとした建築だが、こちらはゴシック建築なのだ。
“大きな”ロマネスクと、“小さな”ゴシック、西洋からはるばる運ばれてきた建築の様式が、この最果ての国で、このような形で結晶していることがおもしろい。

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正味二日半ほどの長崎滞在はだいぶ詰め込んだ。
チームラボを追った佐賀ドライブから戻り、雲仙地獄めぐりナイトツアー、出島見学、新地歩き、浦上天主堂ミサ、平和公園、軍艦島、グラバー園、大浦天主堂とまわった。

新地中華街がいきなり見えたとき、「長崎ってシンガポールみたいだ!ひとつ辻を曲がると、別の世界が現れる」と興奮したものだ。
しかし、思い返してみると、香港のようでもある。
坂だらけ、せまい海、稲佐山はビクトリアピーク、路面電車はトラムだ。
そしてグラバーさんのジャーディン・マセソン商会!
でも長崎も香港も、海から世界に繋がってたことは確かだ。
娘と旅行するのはイライラすることも多いが、こうした旅の感想を言い合えるのは楽しい。

(終わり)

by apakaba | 2014-04-06 15:27 | 国内旅行 | Comments(2)
2014年 04月 04日

長崎旅行報告・中編(新地中華街・浦上天主堂・長崎原爆資料館)

前編(羽田ファーストキャビン・雲仙地獄ナイトツアー・長崎カトリックセンター・出島)のつづき。

夕方に新地中華街を歩いた。
湊公園というところで、おじさんたちがたむろし、将棋をやっていた。
少し話してみると、この公園で将棋を楽しむ同好会があって、ベニヤ板を使って将棋盤を手作りしているとのことだった。
「(盤を)みんなで作ったんだよ!」
と言うから
「駒は?」
と聞くと、
「駒は、まあ、そこらへんから……」
と言っていた。

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夜は浦上天主堂のミサに参列した。
浦上天主堂は、外見はとても新しいように見えたが、原爆で破壊された教会を再建したのが1959年(昭和34年)とのこと。
その後また改修され、1980年に改修工事が完了したという。

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ミサが始まったら撮影は控えましょう

旅先で、よくキリスト教会の礼拝に参列するのだが、よく思い出してみるとカトリックのミサに出たのは初めてだった。
プロテスタントの礼拝と較べて、なんとなんと難しいこと!
歌も難しい!
プロテスタントの讃美歌は、楽譜を目で見ながらなんとなく唄えてしまうものだが、ミサの歌はメロディも難解だし一音をず〜っと伸ばしてその一音の中で神に捧げる句をず〜っと唱えたりするから、慣れないとテクニックが必要で、ついていくのにもう必死。
神父さまのお話も、(もしかしたら当日の神父さまがそういうタイプだったのかもしれないけれど)非常に儀礼的で遠い存在のような印象を受ける。
いつも、プロテスタントの礼拝に出たあとはヨーガをやったあとのようなスッキリした気分になるのだが、ここでのミサはもっと、なんというか、ランニングでもやったあとのような、「ヒーハーヒーハー(息が上がっている)」という気分になった。
なかなかの経験であったことよ。
プロテスタントの幼稚園にかよっていた娘も、「いや〜難しかったね……」と雰囲気のちがいを実感していた。

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ナゼ、長崎でイタリアン?
浦上天主堂の周りには外食できる店がほとんどなく、飛び込んだのがごく小さなイタリアンだった。
地元の人気店のようで、いい感じだった!

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ちなみに、長崎カトリックセンターのユースホステルには朝食のレストランはなし。
サービスとしてコーヒー一杯とクロワッサン(というかなんというか)一個をラウンジで食べられる。
周りを見回すと、宿泊客はコンビニで買ったものをこれらに足して朝食にしていた。

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翌朝も浦上天主堂。
なにしろ目の前なので。
これがもともとあった浦上天主堂の鐘楼部分。
原爆で吹っ飛んだものがそのまま転がっている。
ここを「長崎の“原爆ドーム”に」という動きがあったそうだが、反対意見のほうが多く、このようなごく一部の遺構をのぞいてすべて新築になってしまった。
これほど立派な教会建築が原爆ドームとして保存されていたら、いかに胸を打つものとなっただろう、と、朝日の中、落ちた鐘楼を見て思っていた。

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同じく、首を飛ばされた天使か使徒の石像も、痛々しい。

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同じく、ガーゴイルも半身を吹っ飛ばされ痛々しい……のだが、教会建築のガーゴイルにはとても見えない、和風というか中華風というか不思議な怪物でちょっと和む。

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つづいて長崎原爆資料館へ。
ちょうど『誰も戦争を教えてくれなかった(古市憲寿・著/講談社)』を読んでいて、古市くんが世界各地の戦争博物館を訪れている記述と重なり、興味深く見学した。
日本で、戦争の記憶をつなぐことはなかなか困難である。
“あの戦争(=第二次世界大戦)”を、国民共通の記憶として残すことなど不可能だ。
だからこそ、「青空」のような「気象現象は実は最も手つかずで残され、当時を感じることができる戦争の風景だ(著作より引用)」。
この一文は著者が土浦にある予科練平和記念館を訪れての感想だが、たまたまこの長崎原爆資料館のアプローチを歩いているときに思い出した。
ゆるやかな螺旋階段の上にはガラスの丸天井がある。
よく晴れた青空。
苦しかった“あの戦争”の、あの夏を思い起こさせることに、まちがいなく一役買っている。

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中二病チックな娘

広島でも平和記念資料館へ行き(平和記念公園で長い戦後を思う)、ここでも平和公園を歩いてみた。
世界で唯一の被爆国である日本の、二つの原爆資料館。
「これでいいのか?この展示方法で?」と、ずっと思いながら巡っていた。
広島でどう思っていたのか、帰ってから自分の旅行記を読み返すとこう書いてあった。


いい建築だなあと思う。
遠目には、そっけなささえ覚える直線的なビルだが、近づいてよく見ると、細かいところに日本的なテイストが取り入れられている。
広々としたピロティの構造や、華美さを斥けたル・コルビュジエ風のモダンなデザインは、近代ヨーロッパ建築のセオリーどおりだが、なぜかその中に、前日に行った宮島で感じたのと共通する、“日本的なものに敬意を持ち、ていねいに継承していく”姿勢を感じ取った。
帰宅してから調べると、設計した丹下健三は、この資料館の建築を、コルビュジエの影響を強く受けながらも、正倉院・伊勢神宮・桂離宮そして厳島神社(出た!)などにデザインソースを求めているというではないか。
おお、すごいな私。
ちゃんと建築家の意図を汲むことができた。
たしかに、海の大鳥居をシンボライズする厳島神社の構図と、慰霊碑越しに「平和の灯」と原爆ドームを見晴らすこの公園の構図には、双方とも、人間の畏敬の念に訴えかける視覚の効果がある。
しかも、「平和の灯」の火は、宮島の弥山山頂付近にある霊火堂から運んできたものだ。
さすが、広島……そしてさすが丹下健三……広島という土地が与えてくれるインスピレーションを正しく読み解き、近代建築の中でリミックスしてみせている。
建築って、おもしろいなあ。」

「恒久の平和をめざしましょう。
戦争は悲惨です。
核の完全に根絶された世界をめざしましょう。
……わかってる。わかっているけれど……
ここヒロシマが、世界のどこよりも、そのキレイな言葉の羅列をキレイゴトではなく発信していることの意味の深さを思う。
現実の国際情勢とのズレを感じてのむなしさと、字面の偽善的な美しさと、しかし決して偽善ではなく平和を訴えることができる、選ばれ(てしまっ)た地であることの大事さとを思う。
被爆当事者や家族の苦しみを、身体的に我が苦しみとして引き受ける感覚にはならなくても、ますます複雑化する国際社会の中で、核兵器よりもことによるとさらにひどい、国際的な搾取や暴力の構造(アフリカや中国や南米など)に、無意識のうちに加担させられているという感覚——「先進国」の誰もが無関係ではいられない、加害者の感覚が呼び起こされてきて、誰が被害者で誰が加害者なのかがもうわからなくなる……戦後に、時間がたちすぎている。

もどかしく、やりきれない気持ちを、“平和”“平和”と合言葉にかかげるこの地で覚え、最後には「それでも、広島の立ち位置は、これで正しいしこれしかない」という結論に達した。
ヒロシマはヒロシマであることをやめずにいていいのだ。
いろいろ考えてみたけど、やっぱり、それが広島の責務だよ。


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マジメに考えていたのね。
このときは、福島第一原発爆発事故以前。
あれをはさんで、この二都市が「被爆」というより「被曝」した場としての役割は大きくなったはずだ。
古市くんはこうも書いている。

「僕たちは、明示的に「残す」という選択をしてこなかった。その代わりに、戦争の記憶をハコモノという形で再現しようとした。だけどそのハコモノはどうしても経年劣化していく。果たして、平和博物館というハコモノにはどれだけの力があるのだろうか。」

たしかに、長崎の原爆資料館はとくにハコモノとしての魅力には乏しい。
だが、ボランティアガイドの口調は、福島以前より熱くなったにちがいない。
「福島の原発事故のあと、一週間後には、この長崎にも放射線は飛んできたんですよ。こんな遠くにもですよ。線量が少ないから、ニュースにもなりませんがね。
あのあと避難区域が何キロ圏内とか期間はどれくらいとかいって、あれこれ揉めたりしていたでしょう。
私たちにいわせれば、あんなものは悪い冗談です。
逃げなければ。」
70歳くらいだろうか、平和案内人という愛称のボランティアガイドさんは団体見学者にこのような弁舌をふるっていた。
これがここのガイドさんの共通認識なのかどうかはわからないが、ずいぶんはっきりと意見を述べるものだなと感心した。
団体見学者は原発事故のことを思い出し、また目の前の原爆の資料に目を戻していく。
結局、“あの戦争”の記憶をつなぐ役目は、「ハコモノ」よりも中で働く「人」が担っている。

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浦上天主堂の無原罪の聖母像。被爆でぼろぼろ

今、福島の原発付近をテーマパークにして人を呼び込もうという計画がある。
私は賛成だが(日本はさまざまな苦難に対して“水に流す”という選択をしすぎていると思うので)、もしも私が原発の被災者だとしても同じように賛成する気持ちになれるかどうかは自信がない。
当事者ではないからわからない。

「もしも浦上天主堂が長崎の原爆ドームとして保存されていたら、それは広島の原爆ドームをしのぐ圧倒的ビジュアルを有するものとなっただろう」と朝は思った。
しかし、ついでにそのまま堂内に入り、朝の光に包まれたミサを見て、“生きた”教会に宿る美しさや幸福感も感じた。
戦争と核爆弾の悲惨さを訴える役割を負って、“死”の姿を永久にとどめることを選択したほうがよかったのか、地元の信徒が日々集い、旅行者も“生”の喜びをお裾分けしてもらえる現役の教会として機能していくのが正しい道なのか。
どちらの道も正解だった、ようにも思うが、実際この浦上天主堂は後者の道を歩いている。
原爆で無惨な姿となった当時の姿は写真に残されているので、それを見て思いを馳せるしかない。

後編(軍艦島ツアー・グラバー園・大浦天主堂)へ続く)

by apakaba | 2014-04-04 16:21 | 国内旅行 | Comments(0)