あぱかば・ブログ篇

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2012年 07月 28日

修学院離宮(後編・上離宮 浴龍池にて)

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ヴィヴィッドモードにしたらおもしろいかも?と思ったが、日本庭園にはなんの効果もナシ

前編・下離宮〜中離宮への道のり
中編・中離宮〜上離宮 隣雲亭へのつづき。

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きれいなお庭は造園業者さんのおかげだね。ここで帽子を落としてしまった。しんがりの皇宮警察の人が見つけてくれて、それ以来マブダチモードでおしゃべりできた

隣雲亭をあとにし、またしても緑のなかを縫うようにして行進していく。
山上から見えていた人造の池「浴龍池(よくりゅうち)」のほとりへ降りていくためである。
例によって道はせまくなり、視界は遮られる。
後水尾上皇の手に、目隠しをされる。
木立の合間から、ちらちらと池は見えているものの、なかなか全貌を現さない。

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あいかわらず圧倒的ビリ。人々が緑の中の橋を渡っていく

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“もうわかってきてる、彼が次にしようとしていることが。”
なにかすごい景色が、この先に待っているんでしょ。
窮屈さ、不自由さを強いてから、思いがけない風景を用意している。
彼の手口。彼のやり方。
そう思っていた。
だが、ぱっと視界がひらけて、浴龍池の南北に長くのびた一本道「西浜」を見渡せたとき、説明のつかない感情が押し寄せてきた。
今まで、他のどこでも見たことのない景観だった。

西浜と呼ばれるのは池の西側の縁(へり)の箇所である。
一直線の細道になっており、沿道に大小の木が並んでいる。
その木々の向こうには……なにもない。空があるのだ。
木立は宙に浮いているように見えるのだ。
木立の向こう側は、すぐ崖になっている。
その崖は、水をせき止めた土手なのである。

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山の中腹に土手を築いてつくった人造池の空中庭園であるからこそ獲得できたパースペクティブだ。
水面に舟を浮かべたら、さらに西浜への視点は低くなり、本当に空中を滑っているような心持ちになったことだろう。
一本一本の木々は、ばらばらな種類で、まるで人の姿のようである。
西浜が巨大な舞台で、そこに立つ俳優のようだ。
季節によって、葉を紅くしたり落葉したりしなかったりするのだろう。
わずかに傾いてきた西日を受けて、俳優のような木々は逆光になっている。
このあと、背景の空が夕陽に染まったら。
月が高く昇ったら。
どんな景色になるだろうか。

池はイメージを映し込む鏡となる。
水の中に、もうひとつの平安な別世界があるかのように、空と木々が姿を映している。
風が吹けば、目の前の“池”という限られた水は広大無辺な海となって打ち寄せる。
スケールの感覚は麻痺し、天地さえひっくり返り、冷静な観察眼をとりあげてしまう……ここは、どこだ?
この世ならぬ世界。上も下もない。
西の浜。まさしく彼岸。——浄土だ。

ここへ来て、初めて、参観者たちは後水尾上皇のすべての作意を理解するに至るのである。
下離宮の小さな庭は、上離宮の浴龍池と対比させるための、計算された小ささだ。
あそこは、身体的スケールと想像力で“自然”を感じ取ることができるようになっていた。
上離宮の大きな庭は、人生の旅そのものを表している。
またも一列になって池を回り込んで歩いていくにつれ、刻々シークエンスは変化していく。
ついさっき山上で涼を取った隣雲亭が、対岸はるか遠くに見える。
本当はさほど遠くないのだけれど、アップダウンで足腰を使い、足もとに気を遣って首と目を使い、突如出現した浄土の光景に息を呑んだあとでは、もう決して戻ることができないと思うほど昔のことのように感じられるのだ。
まるで我々は……後水尾上皇の頭の中につくられたゲーム盤の上を、上皇の意のままにあやつられているコマではないか。
だからこその、極限まで限定された歩行であり、限定された視野だったのだ。
ここは、体験しながら鑑賞する、総合型アミューズメントパークだった。

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西浜の土手の道を歩きながら、対岸を見る

参観の初めに“窮屈だ”と感じたのは、いちいちストップしてガイドさんの解説を聞かなければならない不自由さによるものというより、むしろふつうの回遊式庭園をまわるときとちがって、歩行に自分の意志をまったく反映できないことへの苛立ちだった。
ところが、参観がすすむにつれて、だんだんと上皇の意図がわかるようになってくると、「この風景を見るにはこの動線しかありえない」と感じられるようになってくる。
後水尾上皇とは、なんという強靭な自負心を持った天才か。

このところ、立て続けに古今の美術展に行っていて、そのたびに考えていたのが「“ポップ”と、年月に耐えて残るものとのちがい」である。
見た瞬間に作者のいいたいことがわかるものばかりでは芸術とはいえない、それは“ポップ”だ。
この修学院離宮は、完成後、今年で356年たっている。
たった3年あまりで、造営工事を完成させている。
それだけプランニングが完璧だったということだ。
この庭園は、すべてをまわらなければ意味がない。
決められたとおり、大いなる作意の手に導かれてすすめ!
歩いている最中にはわからないことが、あとになるとわかってくる。
ポップではなく、それは真に芸術的な体験だ。

お茶席に入ると、茶室の床の間には、投げ入れたように、一輪挿しの野の花が飾ってあるものだ。
あれは茶席においての“自然”の象徴である。
ほんものの野山の自然とは似ても似つかなくても、自然を感じられるようにつきつめた姿だ。
修学院離宮を歩き終えてみたとき、規模も表現方法も正反対のようでありながら、しきりと茶室の一輪挿しが想起された。
人造美(ほんものの自然ではありえない光景)をつくることによって、かえって“自然とともにありたい”という理想を追求した姿。
修学院離宮は、日本的精神世界の結晶である。

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「宮内庁」と書かれたお掃除の軽トラック。ありがとう!宮内庁!

(完結)

by apakaba | 2012-07-28 13:14 | 国内旅行 | Comments(2)
Commented by ぴよ at 2012-07-28 22:40 x
修学院離宮編、一気読みしました。
私はまだ行った事がないんだけど、亡き父が何度か訪れていて、
「ここは死ぬまでに一度は行かなければいけない」と言ってた場所の一つですわ。

父は写真が趣味だったので、紅葉シーズンを狙って何度か訪れていて、ここで撮影した写真を私に見せながら「ここから眺める景色は後水尾上皇が眺めたその時の景色ときっと寸分違わぬ状態で今も残っていると思うんだよ。そんな場所、日本でも本当に数少ないと思うんだ」と、何度も何度も同じ話を聞かされたなぁ~と眞紀さんのこの記事を読んで今更ながら思い出しました。

いつか、私も必ずここは訪れます!
Commented by apakaba at 2012-07-30 07:23
ぴよさん、なにしろ「タダ」ですからー!
参観希望の日を申し込んでおけば、ていねいな解説とともにタダでまわれるんです。
とにかく是非。

お父様の言葉いいですねえ。
私の気持ちも、お父様と通じ合っていると感じました!

でも、写真はogawaさんのほうの修学院離宮写真がモノスゴクいいんだわ。
是非、ここ読んだらあっちの写真(とくにフィルムの分)を見てね。
私もこの連載書くのに、自分の撮ったヘボ写真はまったく見ないで、あちらの写真をずっと見ながら文章を作っていったの。写真は120%、あっちがオススメよ!


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