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あぱかば・ブログ篇

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2014年 04月 04日

長崎旅行報告・中編(新地中華街・浦上天主堂・長崎原爆資料館)

前編(羽田ファーストキャビン・雲仙地獄ナイトツアー・長崎カトリックセンター・出島)のつづき。

夕方に新地中華街を歩いた。
湊公園というところで、おじさんたちがたむろし、将棋をやっていた。
少し話してみると、この公園で将棋を楽しむ同好会があって、ベニヤ板を使って将棋盤を手作りしているとのことだった。
「(盤を)みんなで作ったんだよ!」
と言うから
「駒は?」
と聞くと、
「駒は、まあ、そこらへんから……」
と言っていた。

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夜は浦上天主堂のミサに参列した。
浦上天主堂は、外見はとても新しいように見えたが、原爆で破壊された教会を再建したのが1959年(昭和34年)とのこと。
その後また改修され、1980年に改修工事が完了したという。

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ミサが始まったら撮影は控えましょう

旅先で、よくキリスト教会の礼拝に参列するのだが、よく思い出してみるとカトリックのミサに出たのは初めてだった。
プロテスタントの礼拝と較べて、なんとなんと難しいこと!
歌も難しい!
プロテスタントの讃美歌は、楽譜を目で見ながらなんとなく唄えてしまうものだが、ミサの歌はメロディも難解だし一音をず〜っと伸ばしてその一音の中で神に捧げる句をず〜っと唱えたりするから、慣れないとテクニックが必要で、ついていくのにもう必死。
神父さまのお話も、(もしかしたら当日の神父さまがそういうタイプだったのかもしれないけれど)非常に儀礼的で遠い存在のような印象を受ける。
いつも、プロテスタントの礼拝に出たあとはヨーガをやったあとのようなスッキリした気分になるのだが、ここでのミサはもっと、なんというか、ランニングでもやったあとのような、「ヒーハーヒーハー(息が上がっている)」という気分になった。
なかなかの経験であったことよ。
プロテスタントの幼稚園にかよっていた娘も、「いや〜難しかったね……」と雰囲気のちがいを実感していた。

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ナゼ、長崎でイタリアン?
浦上天主堂の周りには外食できる店がほとんどなく、飛び込んだのがごく小さなイタリアンだった。
地元の人気店のようで、いい感じだった!

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ちなみに、長崎カトリックセンターのユースホステルには朝食のレストランはなし。
サービスとしてコーヒー一杯とクロワッサン(というかなんというか)一個をラウンジで食べられる。
周りを見回すと、宿泊客はコンビニで買ったものをこれらに足して朝食にしていた。

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翌朝も浦上天主堂。
なにしろ目の前なので。
これがもともとあった浦上天主堂の鐘楼部分。
原爆で吹っ飛んだものがそのまま転がっている。
ここを「長崎の“原爆ドーム”に」という動きがあったそうだが、反対意見のほうが多く、このようなごく一部の遺構をのぞいてすべて新築になってしまった。
これほど立派な教会建築が原爆ドームとして保存されていたら、いかに胸を打つものとなっただろう、と、朝日の中、落ちた鐘楼を見て思っていた。

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同じく、首を飛ばされた天使か使徒の石像も、痛々しい。

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同じく、ガーゴイルも半身を吹っ飛ばされ痛々しい……のだが、教会建築のガーゴイルにはとても見えない、和風というか中華風というか不思議な怪物でちょっと和む。

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つづいて長崎原爆資料館へ。
ちょうど『誰も戦争を教えてくれなかった(古市憲寿・著/講談社)』を読んでいて、古市くんが世界各地の戦争博物館を訪れている記述と重なり、興味深く見学した。
日本で、戦争の記憶をつなぐことはなかなか困難である。
“あの戦争(=第二次世界大戦)”を、国民共通の記憶として残すことなど不可能だ。
だからこそ、「青空」のような「気象現象は実は最も手つかずで残され、当時を感じることができる戦争の風景だ(著作より引用)」。
この一文は著者が土浦にある予科練平和記念館を訪れての感想だが、たまたまこの長崎原爆資料館のアプローチを歩いているときに思い出した。
ゆるやかな螺旋階段の上にはガラスの丸天井がある。
よく晴れた青空。
苦しかった“あの戦争”の、あの夏を思い起こさせることに、まちがいなく一役買っている。

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中二病チックな娘

広島でも平和記念資料館へ行き(平和記念公園で長い戦後を思う)、ここでも平和公園を歩いてみた。
世界で唯一の被爆国である日本の、二つの原爆資料館。
「これでいいのか?この展示方法で?」と、ずっと思いながら巡っていた。
広島でどう思っていたのか、帰ってから自分の旅行記を読み返すとこう書いてあった。


いい建築だなあと思う。
遠目には、そっけなささえ覚える直線的なビルだが、近づいてよく見ると、細かいところに日本的なテイストが取り入れられている。
広々としたピロティの構造や、華美さを斥けたル・コルビュジエ風のモダンなデザインは、近代ヨーロッパ建築のセオリーどおりだが、なぜかその中に、前日に行った宮島で感じたのと共通する、“日本的なものに敬意を持ち、ていねいに継承していく”姿勢を感じ取った。
帰宅してから調べると、設計した丹下健三は、この資料館の建築を、コルビュジエの影響を強く受けながらも、正倉院・伊勢神宮・桂離宮そして厳島神社(出た!)などにデザインソースを求めているというではないか。
おお、すごいな私。
ちゃんと建築家の意図を汲むことができた。
たしかに、海の大鳥居をシンボライズする厳島神社の構図と、慰霊碑越しに「平和の灯」と原爆ドームを見晴らすこの公園の構図には、双方とも、人間の畏敬の念に訴えかける視覚の効果がある。
しかも、「平和の灯」の火は、宮島の弥山山頂付近にある霊火堂から運んできたものだ。
さすが、広島……そしてさすが丹下健三……広島という土地が与えてくれるインスピレーションを正しく読み解き、近代建築の中でリミックスしてみせている。
建築って、おもしろいなあ。」

「恒久の平和をめざしましょう。
戦争は悲惨です。
核の完全に根絶された世界をめざしましょう。
……わかってる。わかっているけれど……
ここヒロシマが、世界のどこよりも、そのキレイな言葉の羅列をキレイゴトではなく発信していることの意味の深さを思う。
現実の国際情勢とのズレを感じてのむなしさと、字面の偽善的な美しさと、しかし決して偽善ではなく平和を訴えることができる、選ばれ(てしまっ)た地であることの大事さとを思う。
被爆当事者や家族の苦しみを、身体的に我が苦しみとして引き受ける感覚にはならなくても、ますます複雑化する国際社会の中で、核兵器よりもことによるとさらにひどい、国際的な搾取や暴力の構造(アフリカや中国や南米など)に、無意識のうちに加担させられているという感覚——「先進国」の誰もが無関係ではいられない、加害者の感覚が呼び起こされてきて、誰が被害者で誰が加害者なのかがもうわからなくなる……戦後に、時間がたちすぎている。

もどかしく、やりきれない気持ちを、“平和”“平和”と合言葉にかかげるこの地で覚え、最後には「それでも、広島の立ち位置は、これで正しいしこれしかない」という結論に達した。
ヒロシマはヒロシマであることをやめずにいていいのだ。
いろいろ考えてみたけど、やっぱり、それが広島の責務だよ。


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マジメに考えていたのね。
このときは、福島第一原発爆発事故以前。
あれをはさんで、この二都市が「被爆」というより「被曝」した場としての役割は大きくなったはずだ。
古市くんはこうも書いている。

「僕たちは、明示的に「残す」という選択をしてこなかった。その代わりに、戦争の記憶をハコモノという形で再現しようとした。だけどそのハコモノはどうしても経年劣化していく。果たして、平和博物館というハコモノにはどれだけの力があるのだろうか。」

たしかに、長崎の原爆資料館はとくにハコモノとしての魅力には乏しい。
だが、ボランティアガイドの口調は、福島以前より熱くなったにちがいない。
「福島の原発事故のあと、一週間後には、この長崎にも放射線は飛んできたんですよ。こんな遠くにもですよ。線量が少ないから、ニュースにもなりませんがね。
あのあと避難区域が何キロ圏内とか期間はどれくらいとかいって、あれこれ揉めたりしていたでしょう。
私たちにいわせれば、あんなものは悪い冗談です。
逃げなければ。」
70歳くらいだろうか、平和案内人という愛称のボランティアガイドさんは団体見学者にこのような弁舌をふるっていた。
これがここのガイドさんの共通認識なのかどうかはわからないが、ずいぶんはっきりと意見を述べるものだなと感心した。
団体見学者は原発事故のことを思い出し、また目の前の原爆の資料に目を戻していく。
結局、“あの戦争”の記憶をつなぐ役目は、「ハコモノ」よりも中で働く「人」が担っている。

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浦上天主堂の無原罪の聖母像。被爆でぼろぼろ

今、福島の原発付近をテーマパークにして人を呼び込もうという計画がある。
私は賛成だが(日本はさまざまな苦難に対して“水に流す”という選択をしすぎていると思うので)、もしも私が原発の被災者だとしても同じように賛成する気持ちになれるかどうかは自信がない。
当事者ではないからわからない。

「もしも浦上天主堂が長崎の原爆ドームとして保存されていたら、それは広島の原爆ドームをしのぐ圧倒的ビジュアルを有するものとなっただろう」と朝は思った。
しかし、ついでにそのまま堂内に入り、朝の光に包まれたミサを見て、“生きた”教会に宿る美しさや幸福感も感じた。
戦争と核爆弾の悲惨さを訴える役割を負って、“死”の姿を永久にとどめることを選択したほうがよかったのか、地元の信徒が日々集い、旅行者も“生”の喜びをお裾分けしてもらえる現役の教会として機能していくのが正しい道なのか。
どちらの道も正解だった、ようにも思うが、実際この浦上天主堂は後者の道を歩いている。
原爆で無惨な姿となった当時の姿は写真に残されているので、それを見て思いを馳せるしかない。

後編(軍艦島ツアー・グラバー園・大浦天主堂)へ続く)

by apakaba | 2014-04-04 16:21 | 国内旅行 | Comments(0)


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