人気ブログランキング | 話題のタグを見る

あぱかば・ブログ篇

apakaba.exblog.jp
ブログトップ
2014年 12月 11日

亀山郁夫×東浩紀 司会:上田洋子 『カラマーゾフの兄弟』からチェルノブイリへ——ロシア文学と日本社会

12月9日に開催されたゲンロン講座「亀山郁夫×東浩紀 司会:上田洋子「『カラマーゾフの兄弟』からチェルノブイリへ——ロシア文学と日本社会」は、片時も間延びした時間のない、エネルギッシュな議論が交わされた会だった。

五反田のゲンロンカフェは、ドストエフスキーを愛好し、亀山先生の新訳版出版によって若き日の衝撃的なロシア文学体験をふたたび胸によみがえらせたであろう、私のような聴衆で満員。
夫と大学生の長男も連れて行ったが、3人で興奮しながら帰途に着き、夫は翌朝亀山訳『悪霊』をKindleで買い求め、長男は東浩紀『弱いつながり』を1時間で読み切っていた(『弱いつながり』は、今年の私の読書ベスト10に入る名著だと思う)。

ドストエフスキーは、高校生から大学生にかけて、取り憑かれたように読みあさり、短編も含め読破した作家だ。
とりわけ『カラマーゾフの兄弟(新潮文庫/原卓也)』は、その疾走感、ドライブ感に完全に巻き込まれ、どんなに眠くても疲れていても目がカラカラに乾いても、読書を中断することができないほどだった。
それはすべての『カラマーゾフの兄弟』経験者に、ある程度共通する体験ではないだろうか。
ところが新訳の亀山版では、なぜかそのドライブ感がなかったのだ。
自分が年を取ったからなのか、それとも訳のちがいに因るところが大きいのか?
私と同じ感想を、夫も長男も持っていた。

しかし亀山先生が、心の底からロシア文学とドストエフスキーとロシアを愛しているというその熱が、ご本人を前にしてみて初めてわかった。
会場全体が、亀山先生の愛の熱で熱くなるのを感じた。
ドストエフスキーは、失語症的(どもっているような感じや同語反復など)な、異様な高揚感のある文体を持っている。
原文に忠実に訳せば訳すほど、わけのわからない(文として破綻した)文章となっていき、読みづらい。
亀山先生は、あえて言葉を整理し、現代的な言葉遣いを用いてドストエフスキーへの壁を低くしてくれたのかもしれない。
ロシアでは、ドストエフスキーは読みづらい作家として、人気がないという。
日本でドストエフスキーの人気が高いのは、亀山先生に連なる多くの諸先生たちが、稀代の作家の高い壁をよじ登り切り崩してこられたご尽力の賜物なのだ。
そう思うと、また胸が熱くなった。

議論はきわめて知的でありながら終始なごやかな笑いに満ちており、真にインテリジェンスの高い人が集まって話すのを聞くのはなんと気持ちのいいことなのだろう、と久々に感動した。
東氏の著書は昔から家族でよく読んでおり、私など知的レベルは足元にも及ばないながら、その活動を全力応援している。
彼の、“「人文」に拠って立つ”とでもいおうか、はっきりした真っ正直な立ち方にとてもシンパシーを感じ、同時に滅びゆくものへの哀惜も感じ、「それでもやはり人文の力を信じたい」という決意の固さになんともいえない美を感じるからだ。

ドストエフスキーに度肝を抜かれた高校生のころから、私も人文畑を進んできた。
私は現在一介の主婦で何者でもないけれど、人文は学問として確実に廃れてきており、これからの時代、ふたたび勢いを盛り返すことは二度とないだろう。
文章をどれだけ読んできたか。
文章をどれだけ書く能力があるか。
そんなこと、この時代にはどんどんどうだってよくなってきている。
人文にさっさと見切りをつけた人間が、うまく立ち回ってお金を儲けられる。
それでも、人文という立ち位置から社会に関与していく人間は、まだ死に絶えてはいない!
東氏が主催しているこの「ゲンロンカフェ」もそうだし、「思想地図β」も、チェルノブイリツアーも、福島第一原発観光地化計画にしてもそうだ。
強靭な知力と力のある言葉、誠実で胸を打つ言葉を彼が持っているからこそ、これだけの活動が(お金が儲かるかは知らないが)立ち上がり存続しえるのだろう。

亀山郁夫×東浩紀 司会:上田洋子 『カラマーゾフの兄弟』からチェルノブイリへ——ロシア文学と日本社会_c0042704_1719495.jpg
ゲンロンカフェ入り口。扉の右上に、大ファンのチームラボ猪子さんのサイン!彼ほどの天才なら、語る言葉は「マジヤバい」だけでもいいんだよ!

本当に感動的な講座だった。
先ほど「読破した」と書いたが、実は『未成年』だけ読んでいない。
なぜなら、私はあまりにも愛好する作家がすでに亡くなっている場合、本当に読破してしまうことを恐れてしまうからだ。
「これを読んでしまったら、もうこの人の新しい作品は読めない……」そう思うと、最後の一作品になるともうだめなのだ。
しかし、訳が変わると何度も別の読書体験をできるということが、『カラマーゾフの兄弟』でわかったのだから、亀山版『未成年』が出たら、新旧の訳を読み比べてもいいかな。
文学に、真の意味で「読破」なんてものは、永遠に来ないのかもしれない。
読書は、人文は、かくもおもしろく奥深い。

by apakaba | 2014-12-11 17:34 | 文芸・文学・言語 | Comments(0)


<< 『ゴーン・ガール』——「ニック...      丸呑み >>