2006年 02月 24日
<初めて読まれる方へ> この旅行記は、私が大学卒業旅行でタイ・インド・パキスタン・ネパールを一ヶ月半まわっていたときの日記を、不定期に載せているものです。 文章(註・レート換算含む)はすべて22歳当時のままです。 前回までのあらすじ インドのデリーから北上してアムリトサルへ。 2月1日(つづき) 体調があれこれよくないわりには、一日中歩き回っていた。朝食はWINPYへ行こう、とコンノート・プレイスまで歩く。コンノートは銀座のようなところであった。身なりのいい人がたくさんいる。ヒロはおもしろみのない所だと言うが、私は初めての場所なのですごくおもしろい。アーケード(と言っても石造りの重厚なもの)の柱の陰に、唾を吐く所があり、へえーと感心する。本当は唾ではなく、赤い色をした繊維質のもの(パーンという)をペッ!と吐き捨てるのだが、血を吐いているように見えて最初はちょっとびっくりした。 WINPYをさがしてものすごく歩いた。コンノートは公園を中心にして放射状に道路が延びており、ブロックに区画されている。だから本来ならこれほど道に迷わない所はないはずなのだが、方向音痴の私たちは泣きたくなるほど迷ってしまった。空腹に耐えかね、あきらめてNirula(ニルラ)という店のハンバーガーを食べた。アイスコーヒーはおいしかった。ハンバーガーはスパイシーでした。このころは胃がサイアクだった。 コンノートをうろうろと歩き回る。 中央の公園で鳥を撮った。カラスが、真っ黒でなく、なんだか色あせたような灰色をしている。特に頭のてっぺんが白っぽい。スズメもグレーがかったような変な色だった。場所によって鳥も微妙に違うのね。 インド男性はベストを着ている人がたくさんいて、なんだかそれにすごく目がいく。色はおもに白で、とても細い糸で編んである。インド人は痩せ型の人が多い上に、このベストはやたらカラダにぴったりしているので、ますます体格の悪さが際だってしまうと思った。 公園の地下のショッピングセンターに入ってみた。かなり混んでいた。さすがイギリスの建設した計画都市。正直言って、これほどニュー・デリーが栄えているとは予想していなかった。インドについての予備知識をほとんど持たないままやって来て、何を見てもおおおー!と驚嘆している。しかしまあいくら「歩き方」を熱心に読んだところで、ベストや色のうすいカラスのことは出ていない。働く牛も見た。野良牛よりずっとリッパで、荷車を引いていた。インドの牛はみんながみんな、ブラブラウロウロと生きているとばかり思っていたので、かなり感動する。 街頭のモノ売りがすごくおもしろい。屋台で売っているスナック菓子は、どれもカライカライ色をしていた。そして人々はそのカライカライ色のスナックに、さらにどばどばとチリ(赤唐辛子)をぶっかけ、その上に緑の唐辛子をのっけておいしそうにぱくついていた。辛いものが人より苦手な私には信じがたい味覚である。胃や腸はどうなってんだ。 ↑ コンノート・プレイスの中央にある公園。 いい大人がたくさんだらけている。 ↑ 素早くインド人の真似をしてだらだらしてみるワタシ。 今日はいろんな店に入ったなあ……Nirulaのあと、茶店でPlain coffeeを飲んだ。おいしくなかった……ただのお湯だった(*1)。 *1・・・南インドではおいしいコーヒーが飲めるらしいが、teaが主流の来たインドではコーヒーといえばネスカフェ。しかもけっこう高い。 Pizza Kingにも行ったが、残念なことにつぶれていた。と、午前中にあれほど探し求めていたWINPYが突然見つかったので、なんとなく紅茶(ティーバッグ)を飲む。しょっぱかった。 WINPY、Nirula、Pizza Kingと、まるでファストフードが大好きなバカなアメリカ人のようだが、これには一応理由があるのだ。一つは、お腹をこわした時に入るため。インドではとにかく何でもかんでも辛くて、辛くないものを食べようとすると高い。お手軽でお腹にやさしいものはファストフードくらいなのだ(ホントはやさしいとは言いにくいけど)。もう一つは、単にものめずらしいのよネ。 インドは変わらない!と、いろんな人が言いきってるけど、私は変わると思う。タイでも思ったけど、ロマンじゃ片づけられない。インドに来て、いいなあ〜と感じ、変わってほしくないなあと思うのは、旅行者の勝手な願望だ。ファストフードもはやるし、サリーも着なくなる。と確信しているの。 郵便局で、母と美奈子(*2)にハガキを出す。母には「とっても元気です。楽しいです」と書き、美奈子には「コブができた。お腹が痛い。リンパ腺が痛い」と書く。 *2・・・去年、おととしと、ヒロとともにインドを旅したクラスメイト。 私があれこれ病気になるので、ヒロに心配かけて申し訳ない。しかし本当にお腹の調子が悪い。肌もアレているー。夜は奮発して、Belcosというちょっと高級なレストランに入り、おいしいスープを飲んだ。 2月2日(金)晴 熱っぽいのアタシ。ゆうべの夜行は寒かった。寝台だから「八甲田(*3)」よりずっと楽だけど、寒さにはやっつけられました。ジャンパー、バスタオル、スエットなど、何でもかんでもかぶって寝たのだが。 車内いっぱいにぎゅうぎゅうにインド人が詰め込まれて異様な雰囲気。目ばかりぎょろぎょろしている。列車に乗るのも初めてなので楽しい。朝になって窓の外を見たら、「急行利尻」から見たサロベツ原野を思い出したよ。目の前を流れるのは全然違う景色なのに……寝不足と、振動の中で、ボーッと景色を眺めるシチュエーションが、サロベツだなあ……と感じさせた。 *3・・・上野〜青森間を走る夜行列車。すべて椅子席、シーズンにはジゴクの混み方をする。学生時代、異常に北海道にとりつかれていた私は何度もこの列車を利用した。北海道行きはいわば旅の原点だった。後出の「急行利尻」は札幌〜稚内間の夜行。朝5:00頃、サロベツを通る。 6:10AM、アムリトサル駅に到着。客引きに遭う。駅員(かなりえらいみたい)で、自宅が民宿らしい。「客引き」という卑屈な雰囲気はまったくなく、むしろ泊まる所のないあわれな女学生を救ってあげようとでもいうような態度。そこが気に入ったので、彼についていくことにする。お抱えの運転手(ヒトラーに似ている)がザックを車に運び入れ、宿まで私たちを乗せて行った。やっぱり地位のあるおじさんのようだ。駅長かもしれない。 部屋は広くてきれいだし、シャワーも熱いのが使えて快適。管理人のオババ(駅長の妻)が非常にNiceであった。どっしりした体格に、すぐ心を開けるような笑顔の、他人とは思えない感じのオババである。英語は我々よりずっと達者であった。 朝食にタマゴが二つ出て、ぺこぺこだったのでおいしく食べた。こっちのタマゴは何故か黄身の色がとても薄く(ほとんどレモン色)、味も水っぽい。それからコーンフレークは、こんなもの食べるなんて気が知れないけどガイジン旅行者が喜ぶから出してんだよ、とでもいうような味。ホットミルクをどばどばとかけるので、あっという間にオートミール風になってしまう。ズブズブ、べしゃべしゃなコーンフレークなのだ。 とにかく寒さにやられている。こんなに寒いとは思ってなかった。天気はいいので、洗濯をいっぱいした。屋上にロープを張り、下着以外のものを干す。下着は部屋の中に。隣の屋上から凧が揚がっていた。この街はどうも凧揚げがすごくハヤッているようで、大人の男が二人でやっていた(*4)。高く揚がっていたのでパチパチと拍手してあげる。二人はうれしそうに笑った。 *4・・・実は凧揚げはパキスタンでも盛んに行われていた。子供の遊びとは限らず、「オトコの遊び」。女性はやらない。 ↑ アムリトサルの宿の屋上から。 洗濯物もよく乾きそう。 一人のリキシャマンが「街を案内してやる」と駅からついてきて、シャワーと洗濯の間中ずっと門の前で待っていた。その熱意をかって、今日の行動は彼に任せてみた。 結果から言って、彼はとてもいい人だったのだが、一日のうちに何度も疑った。インドに来ると必ず誰でも一度は「こんなとこイヤ、来るんじゃなかった」と思うと言われるが(*5)、私はまだ思ったことがない(3日しかたってないけど)。これまですごくラッキーで、好い人にばかり会っている。「こんなはずではない」とヒロは首をひねる。彼女は前回、前々回のインド行きでは幾度か痛い目にあっているのだ。まあ、先は長い。何があるかわからん。 *5・・・理由は様々。下痢をはじめとする肉体的ダメージ、不潔、貧困を目の当たりにした精神的ショック。そして最も多いのは、したたか者のインド人に「ハメられる」こと。 「炎のリキシャマン」に比べてルックスががくんと落ちるので、ベスト2とし、「誇りのリキシャマン」と名付けてあげた。彼は日本のことをやたらによく知っていて、「トラトラトラ」「日光」「大阪」「高倉健」という単語を連発し、我々を唸らせた。しかしこういう日本通を気取る人々が必ず口に出す「トーキョー」という言葉を一度も発しなかった。通の作戦のうち、と考えるのは深読みすぎるか。頭の回転もとても速く、雰囲気を察したり、物事を理解するのが早い早すぎる。我々が日本語で話し合っているのが分かるのではないかと疑ってしまった。 まずはこの街最大の観光名所、黄金寺院(Golden temple)へ向かう(*6)。その道中、結婚式をやっていたので立ち寄ってみた。 *6・・・アムリトサルはシーク教(ヒンドゥーを改革した宗教)の聖地。ターバンと髭がシンボル。頭髪や髭を切ってはいけないため。インド人はみんなターバンをかぶっていると思う人もいるが、これは間違いです。 盆踊りや運動会の時に、町長やPTA会長が座っているようなテントがあるでしょう。あれを巨大にしたようなテントの中で、人々がバンドの絶叫に合わせて踊りまくっていた。取材記者のようにだだっと最前列に詰め寄った時が、まさにウエディングケーキ入刀!の瞬間であった。ターバンに背広姿の新郎は、老けていた。嫁さんはベッピンでかわいかった。神妙なカオをしていた。そしてウエディングケーキは激しく毒々しい、合成着色料タップシ!な色だった。二人は入刀のあと、ケーキを一口ずつ相手に食べさせる。花嫁はこの時すら全く顔を上げず、下を向いたままフォークを相手の口に突っ込んだ。「笑って笑って」「こっち向いて〜」と、すっかりいやな東洋人になったなった私たちは、写真をバシバシ撮るだけ撮ってさーっと消えた。ダンスくらい踊ればヨカッタかな。結婚式はいいねエ!うん。人の結婚式ってホントいいよ(*7)。 *7・・・1年後に自分が結婚してしまうとは、この時は考えてもいなかった。 ↑ 結婚式で、勝手に最前列まで行って写真を撮った。
by apakaba
| 2006-02-24 18:25
| 1990年の春休み
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Comments(20)
面白いなぁ~
この頃って、蔵前氏をはじめとして個人旅行記が本として次々刊行されていましたね・・・まだインターネットが普及する前だったので、旅行記が情報として読まれていた時代でした。 文の構成から、当時読んだいくつかのインド旅行記を思い出しました。 それに眞紀さん独特の言い回しが、良いです。 さてさて、体調を崩しながらも、旅はディープなインドに突き進んでいくんですね。
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apakaba at 2006-02-24 21:52
ogawaさん、うええ?!おもしろいですかあ!?ワタシ、自分で書いててぜんぜんおもしろくないばかりか、「これは別人。私じゃないのよ」と言い聞かせているんですが。
蔵前さんの「ゴーゴー・インド」はもちろんバイブルでしたね。あれは本っ当に、おもしろかった……後年、ナマ蔵前さんと会ってお話させてもらったときには天にも昇る気持ちだったことじゃよ。雲上のヒトでしたからね……思い出話はどうでもいいんですが、構成とかなんにもないです。日記を丸写ししているだけなので……お恥ずかしい。 そんでこのあと、アムリトサルを最後としてインドはいきなり去ってしまい、パキスタンに滞在します。 これから先、だーんーだーんーと、本格的におもしろくなってくるはずなのですよ、大風呂敷的言説ですが。
レスのレスになってスミマセン。
面白い・・・という意味の書き方がまずかったですね。 当時の多くの旅行記のスタイルに眞紀さん言い回しが入っている と言いたかったのです(^^) たぶん、当時読まれていた旅行記の影響を受けているなぁ~と。 次はパキスタンですか・・・そいつはなおのこと楽しみ。
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キョヤジ
at 2006-02-24 22:44
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apakaba at 2006-02-24 22:51
にゃにーっ、じゃあほんとはおもしろくないというのねっ。(からみグセ、だめじゃん)
まあ、大風呂敷とともにある人生です。 誇大広告カモーンです。 この先、10話くらい話が進むと、抜群におもしろくなっていくはず……だ。 あのねえキョヤジさん、私はねえ、実はちょっと悲しいの。 亀が一匹、死んでしまったんだよ。 でも今夜はワイン飲んでたのしいんだよ。 ちょっと待って、少し時間を
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apakaba at 2006-02-25 10:42
ogawaさんキョヤジさん、どうもすみません。なんとバカみたいなヨッパライなんでしょう。「少し時間を」とか言いながら寝るし。すごいヤなんですけど。せめて人様への書き込みでないのが救いだよ。
このあと、インドはすぐに出てパキスタンで2週間ほどぼけぼけし、またインドに戻ってきます。なのでインド篇は2部あります。 最初のうちは詳細な日記を書くことにも慣れていないので、ほんとにだらだら綴っているだけなんだけど、40日間あるとそれなりに成長していって、オリジナルな感じになっていくのです。でもその変化がすご〜くゆっくりなので、イヤになるかも……損はさせません。捨てないでください。
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紫陽花。
at 2006-02-25 11:17
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損はさせません。>はい、信じてます。。
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喜楽院
at 2006-02-25 13:09
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apakaba at 2006-02-25 13:48
正確には46日間でした。ヒマだったんだよな。
紫陽花。さん、損はさせませんと言ってしまった手前、新たな企画を考えついてしまいました。乞うご期待……といいたいけど、おもしろいかな……
あの頃、なぜかタビビト(含む自分)は北を目指していましたね。
それもみちのくは素通りして蝦夷地へ。 直角ボックスシートの八甲田・利尻・礼文が懐かしいです。 夜が明ける頃、進行方向左に見える利尻岳の記憶が、 私にとっての旅の原点のひとつです。 パキスタンは半日(苦笑)だけ滞在したので、今から楽しみっス。
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apakaba at 2006-02-25 17:22
Morikonさん、やっぱり同世代だなー!握手握手。
同じ列車に乗っていたかもね。Morikonさんは「女王陛下のユリシーズ号」を読んで泣いていたんでしたよね。 なんか突然思いついて、リミックスバージョンまで作ってしまったので、三歩進んで二歩下がる状態ですが、損はさせません……(弱腰!)
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K国
at 2006-02-25 21:55
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私は会社を辞めて旅行をして、お金がなくなる前に仕事を見つけて働いてました、ですので20日間以上の旅行はした事が無い
残りのお金を計算しながら旅行してました、旅行と言うより現実から離れたかっただけかも、働いてると世の中の流れの中に居る感じなのですが 旅行中は糸の切れたタコですのでくらげのように漂ってます バイクが主体だったのも関係してる、どこに行くかどこまで行くか勝手ですから
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K国
at 2006-02-25 21:58
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私らが若いときには海外は発想の中には出てこなかった
35年前、新婚旅行も宮崎が流行の先端の時代
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喜楽院
at 2006-02-25 23:18
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1979年夏。
札幌から稚内へ2輪で移動中、海上に浮かぶ利尻を見て驚愕。 神の存在を確信し、同時に神の啓示を受ける。 「アナタハ、アノ頂へ行カナケレバナラナイ。」 2年後に、と決意する。 1981年夏。 天売YHで、住み着いていた早大5年生に島を案内される。 風が吹き渡る丘の上、果てしなく広がる海を見ながら 「♪見よ。風に舞う、この旗を。」を歌う。 意味不明。 あの早大生は何者だったのか、いまでも気になる。 その後、礼文・桃岩YH、そして利尻・鴛泊YHに宿泊。 ここでの記憶は、喜楽院の宝物のひとつ。 利尻登山は入山直後の激しい雷雨発生で断念。 泣く。 1985年夏。 捲土重来での利尻岳初登頂。 霧雨。何も見えないが十分満足。 日航機御巣鷹山墜落事故の2日後のこと。 下山時、飲み水を切らし、死ぬ思いで麓の「甘露泉」にたどり着く。 渇きの極致。 日本屈指の名泉を鯨飲し、蘇生する。 このうまさを忘れない。 直後、酒屋でキリン一番搾りリッター缶を購入、店頭で一気飲み。 このうまさも忘れられない。
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喜楽院
at 2006-02-25 23:29
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記憶では「一番搾り」だったのですが、
気になって調べてみたら「一番搾り」は1990年デビューとのこと。 あれあれ?。あのリッター缶は「ラガー」だったのか? あてにならん記憶だのぉ。 どうでもいいけど。
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apakaba at 2006-02-25 23:45
旅の思い出をいろいろとありがとうございます。人の旅バナシを聞くのも好きです。若かった私のくだらん旅日記からいろんな人の昔の旅バナシが引き出されてくるのはたのしいです。
喜楽院さん、私はレンタサイクルで利尻一周15キロをやりました。 そのときも、ヒロミさんは道連れでした。 桃岩ユース、泊まりました。独立峰は登るとつまんないけど見る分には美しいです。私も利尻は思い出のたくさんある大好きなスポットです。
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Morikon
at 2006-02-26 01:21
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マキさ~ん、利尻島は周囲63キロですよぉ。
利尻富士、2年連続で夜間登山しましたが、 確かに登山路は単調で面白くなかったですね。 でも、頂上でのご来光はサイコーでした。 50キロ北の樺太もバッチリ拝めましたし。
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apakaba at 2006-02-26 10:44
Morikonさん、そうなの。ゆうべ、お布団に入ってから、「あ、まちがえてるじゃん。そんな短いわけないじゃん」と思ったんです。
15キロはね、釧路湿原を歩くコースの長さでした。あれはあれで疲れたな。 もうヨッパライだし明日こっそり直そう……と思ったけど宵っ張りのMorikonさんに負けたー。 利尻一周したときには下半身ガクガクになりましたね。 景気づけに順番に歌を歌ったりして、若かった。
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のこのこ
at 2006-03-01 13:03
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コンノートかぁ。懐かしいな。(って懐かしいって言葉ばっかり)
体調を悪くすると、あのマサラで辛い食べ物が受けつけなくなるんですよね。風邪をひいてしまった相棒はマサラチャイすら飲めなくなり、大変な思いをしました。 路上でホットサンドの屋台、ありませんでしたか? バターたっぷり塗ったパンを焼いて卵とかを挟んでくれるヤツ。 あれは疲れたココロと体に優しい食べ物でした~。 西ヘ向かう人はいいんですが、東に向かった我々はアグラーだのバラナシだの、インドの一番イヤな部分を見ていくのですよ。 西に行くとムスリムが多くなり、えらくほっとした記憶が。
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apakaba at 2006-03-01 13:21
のこのこさん、確実に読んでくれてありがとう。
ホットサンドは食べずじまいでしたね。ハンバーガーと中華に逃げてた。 ヴァラナシには最後のほうで行きます。 でもじつは、アーグラーに行ったことがないのですよ。 行ってみたいような気持ちもあるけど、わざわざ行くほどでもないような気もしていて、足が向きませんね。 |
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以前はエイビーロード「たびナレ」や「一生モノ https://issyoumono.com/」などでウェブライターをしていたが今は公立中学校学習支援教員のみ。 子供のHNは、長男「ササニシキ」(弁護士)、次男「アキタコマチ」(フランス料理店料理人)、長女「コシヒカリ」(ライター・編集者) by 三谷眞紀 カレンダー
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