2008年 05月 31日
「キスが上手い」 「唇が気持ちいい」 と、キスのあとに言われたことがあるか? 頭の良さや肌の質感は、話したり見つめたりするだけでなんとなくそれと知れるが、キスほど予想のつけにくい体験もないと思う。 セックスのほうが、むしろ愛情の多寡やその場のムードでどうにでもなってしまうのではないか。 キスの上手さは天与の才能だと思う。 映画を観ていて、俳優の唇にはよく注目する。 俳優は見られるのがお仕事だから、顔の隅々まで観察されるのも当たり前だ。 映画の中ではキスシーンもしばしば出てくる。 ベッドシーンはほぼウソだがキスシーンはとりあえず本当に口がくっついているので、いつも、「この人、どんな感触だろう?」としげしげ見ている。 唇の形や大きさが著しく特徴的な俳優だと、想像もつきやすい。 アンジェリーナ・ジョリーやジュリア・ロバーツやスカーレット・ヨハンソンのような、大きくて厚みがある唇は、彼女らとキスしたことはないがだいたい感触の想像ができる。 しかし、多くの人間は、あれほど特徴的な唇を持っていない。 だから、どんなふうだか見当がつかない。 見当がつかないから、いっそう魅惑的に感じる。 想像のつく唇は肉感的だが、知りたいという欲望を起こさせない。 男優にはほとんどなにも感じないが、女優を見ていて、ひどく魅惑的な唇に出会ってしまうことがある。 女優としての知名度には関係なく、唇に一目惚れしてしまう。 自覚もなく、誘っているような形。 厚くも薄くもなく、大きくも小さくもなく、ごく平均的な形なのに、なにか、惹かれる。 子供っぽさ、無邪気さ、無防備さ、はかなさ……奪われやすさ。 こわれやすそう……吸ったら気持ちよさそう。とろけそう。 そんな形。 先日観た、イタリア映画の『向かいの窓』に主演していた女優の唇が、まさにこのど真ん中で、今までまったく知らなかった彼女の顔が映ったとたん、魅惑的な唇に釘付けになってしまった。 ストーリーは淡々とすすむ。 ヒロインは食肉工場で働く、平凡な主婦。 やさしいが甲斐性のない夫と、やんちゃな二人の子供とともに、アパートの一室に暮らしている。 本当の夢は、趣味を活かしてケーキ職人になること。 しかし毎日の仕事に追われ、夢をかなえることなどもはや望んでもいない。 ところが、ふとしたことから伝説の菓子職人の手ほどきを受けることとなり、一歩ずつ夢へ近づいていく。 日々を満たされない思いで送っていたヒロインの密かな愉しみは、向かいのアパートに住むハンサムなメガネの男性の窓をのぞき見ることだった。 メガネの男性は、手を伸ばせば届きそうなほど近くにいながら、決して自分の生活と交わることがない。 無防備に窓を開けて、生活の一端を見せるメガネ氏をぼんやり眺めているつかの間だけ、彼女は主婦でも工場の事務員でもない。 こちらの窓枠からあちらの窓枠へ、交わることのない視線が、夜ごと届けられる。 しかし、一方的な小さなあこがれは、偶然が重なったことにより急転直下の展開となり、彼女はメガネ氏と急速に親しくなっていく。 そして、実はメガネ氏のほうも、自分を密かに想っていたと知る。 彼女から一方的に視線を送っていたのではなく、彼のほうも、彼女を一方的に見つめていたのだった。 メガネ氏は人妻と知りながらも、自分と一緒になってほしいと迫る。 彼女は悩むが、友人からの「一度寝てみればどんな男かわかる」の助言に後押しされて、ついに“あちらの窓枠”の中に入り、メガネ氏のキスを浴びることとなるのだが——と、いう、ヒロインの迷いを縦軸とし、ヒロインを迷いの淵から引き上げる、謎に満ちた伝説の菓子職人の、痛々しくも美しい半生を横軸として、重層的な小品に仕上がっている。 フラストレーションを抱えた主婦であるヒロインの登場は、夫との路上での言い争いから始まる。 険の立った瞳、なのに頼りない子供がそのまま大人になったような唇。 美しさにはっとする。 夫や子供とのやりとり、女友達との会話、謎の老人との触れあい、そして思ってもみなかった、メガネ氏とのつかの間の交流。 ヒロインの長い人生の中、映画でつづられた時間はほんの一瞬だったのかもしれない。 それでも、それはいろんなことがぎゅっと凝縮された時間だった。 ラストのカット、一人きりの路上でふとカメラに目を向けた彼女の顔がどんどんクローズアップされていき、最後にはふたつの瞳だけが大写しになって終わる。 魅惑的な唇にずっと釘付けでいたけれど、最後は瞳。 ふたつの瞳は、“いろいろあったしこれからもあるだろうけど、自分はこれでいい”と、自らを肯定するような深みを湛えている。 短い時間に知った、およそ人に起こりえるすべての感情のうごき。 今それを超えて、ここで生きていこうとしている瞳だった。 唇が肉体への窓を開くなら、瞳は精神への窓を開く。 ラストの、ヒロインの瞳は、自らを恃む人生の、一歩を踏み出すための窓だ。 はからずも美しい唇に魅せられていた私には、最後、唇が消えて瞳が残ったシーンはことのほか象徴的に映った。
by apakaba
| 2008-05-31 00:40
| 映画
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Comments(5)
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キョヤジ
at 2008-06-01 09:34
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あまりの「渾身ぶり」に誰も食いつかないな。(微笑)
マターク知らない映画ですが、見たいような気がしてきましたぞ。 レンタル屋にフツーにあるのかしらん?
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apakaba at 2008-06-01 09:39
あーいつものことだから。
軽い話題のほうがコメントが立つことには慣れています。 劇場公開もなく、いきなりDVDになっていたので、小さいレンタル屋にはないと思います。 とりあえずヒロインの主婦はなんともきれいだ。 でも、本文には割愛したけど、菓子職人ジジイの逸話が、ユダヤ人迫害を絡めていてけっこうずっしり。 コメント立たなくてもこういうレビューのとき、カウントはすごいから、これを読んで誰かが「見てみたいな」と思ってくれると本望です。
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満腹ボクサー
at 2008-06-01 23:48
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おっと。コメ付いてきた・・。
悩んだよ。正面切ってコメするには勇気いったし。どういうベクトルでコメが付くか様子見してたら、コメしやすい展開になってきた・・。 完全に話題を変えるのもなんだし、オバカなふりするのも大人気ないしねぇってね。 「姉さん、困りまんがな~」くらいしか書けないなぁって。
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apakaba at 2008-06-02 00:35
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以前はエイビーロード「たびナレ」や「一生モノ https://issyoumono.com/」などでウェブライターをしていたが今は公立中学校学習支援教員のみ。 子供のHNは、長男「ササニシキ」(弁護士)、次男「アキタコマチ」(フランス料理店料理人)、長女「コシヒカリ」(ライター・編集者) by 三谷眞紀 カレンダー
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