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あぱかば・ブログ篇

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カテゴリ:文芸・文学・言語( 109 )


2020年 04月 28日

徒然草 第百四十二段「心なしと見ゆる者も」

「心なしと見ゆる者も」の段は「人間というものは、親になって初めて人生の機微、人情というものを理解できるのだ」という前半部分が有名だが、後半部分は鬼気迫る政治論だ。
拙訳で申し訳ないが、原文はネット上にいくらでも出てくるので。
なんとなくキヨシローっぽくなってしまったが。

徒然草 第百四十二段「心なしと見ゆる者も」_c0042704_15155777.jpeg


出家して世を捨てた人間が、妻子など縁者の多い人があちこちにぺこぺこして、いろんなことを叶えてもらおうとするのを見て、ダサいねと決めつけるのは間違っているよ。
本人の気持ちになってみれば、心から愛する家族のために、恥も忘れて盗みを働くことだってあるんだから。
だったらそんな泥棒をつかまえたり、悪事を罰するよりも、世の中の人たちが飢えないように、凍えないように政治をおこなってほしいもんだ。

人間というのは、ちゃんとした生業がなくちゃ心だってちゃんと定まっていられないものじゃないのかね。
ほとほと暮らしに困っているから、悪事もしてしまうんだ。
世の中が安定しなくて、凍えたり飢えたりといった困窮状態だったら、そりゃ罪を犯す者は後を絶たないよ。
人を窮乏に陥らせ、そんな人たちに罪を犯させておきながら彼らを罰していくなんて、不適切であわれむべきことさ。

それならどうやって人々を幸せにできるのか?
上に立つ人間が、贅沢や浪費をやめて、民衆を慈しみ、農業を振興すれば、下々の民衆が豊かになることに疑いの余地もないよね。
十分に生活が満ち足りているのに、その上にさらにまちがったことをしようとする輩こそ、モノホンの悪党だと言っておくぜ。


by apakaba | 2020-04-28 15:16 | 文芸・文学・言語 | Comments(0)
2020年 01月 01日

2019年、おもしろかった本と見た映画

あけましておめでとうございます。
10年くらい前までは、今年の映画ベスト10とか今年読んだ本ベスト10を、感想付きで書いていたけれど、いまやそんな気力ゼロ。
しかし実はその後も題名だけはメモしている。
10年空白ができてしまったが、せめて題名だけでも載せておくことにする(いつまで続くか)。

2019年、おもしろかった本と見た映画_c0042704_09374649.jpeg

どれもおもしろかった。
2019年前半は、藤井太洋に凝っていたなー。


2019年、おもしろかった本と見た映画_c0042704_09411941.jpeg
2019年、おもしろかった本と見た映画_c0042704_09413842.jpeg
2019年、おもしろかった本と見た映画_c0042704_09420555.jpeg
ちょっと見にくくなってしまった。
古い映画は自宅鑑賞。
題名だけ見ても思い出せないものもある。
本だとそういうことはほとんどないが、映画はけっこう忘れてしまう。
やっぱり向き合っている時間が短いからかな。
それだけに、よかった作品はずっと余韻が残る。

今年もおもしろい本を読んで、映画を見よう!


by apakaba | 2020-01-01 09:46 | 文芸・文学・言語 | Comments(2)
2019年 11月 16日

この歳になって初めて覚えた「ながながしよを」への違和感


この歳になって初めて覚えた「ながながしよを」への違和感_c0042704_07480624.jpeg


おはようございます。
きのうブログに書いていた、柿本人麻呂のこと。
書いてからずっと気になっていたのだが、「長々し夜(よ)を」って、どうして「長々しき夜を」じゃないの?
連体形接続のはずなのに、なんで終止形なんだろう。
私も人麻呂の真似をして本文に「長々し尾」と書いたけど、これも「長々しき尾」が正解のはずだ。
ひょっとして、古典文法の「正解」である平安時代より前(飛鳥時代とか)の、文法フリー時代の名残なんだろうか。

もやもやしながら寝た。
朝になって検索してみたら、やはり人麻呂は飛鳥時代の人だから、まだそこまで文法のルールが確立していなかった時代の歌のようだ。
これでスッキリ。
それにしても、百人一首を覚えた幼少期には仕方ないとしても、なぜこの歳になるまで、連体形接続になっていないことに一度も違和感を覚えなかったのか。
それでも国語が専門といえるのか。バカバカバカ。
だが耳で覚えると、意外とそうなのかも。

関係ないけど、よく“選ばれし子供たち(元の出典は「デジモン」)”ってフレーズを聞くけど、
どうして「し」だけいきなり古文になるの。
たしかに「選ばれた子供たち」だといきなり平凡でズッコケるが。
いつも変な感じがする。
これは大人になってから聞いたからなんだろうなあ。

きのうのブログはこれです




by apakaba | 2019-11-16 07:52 | 文芸・文学・言語 | Comments(0)
2019年 11月 09日

学校の図書室

学校の図書室_c0042704_20182808.jpeg

先日『驚きの介護民俗学』という本を読んでいることをSNSに書いた。


「ここしばらく並行して読んでいた。『驚きの介護民俗学』中学校図書館にあって借りた。介護と民俗学がダイレクトにつながる爽快さと感動!中国のSF『三体』はまだしばらく楽しめる。日中は紙の本、風呂と布団の中ではKindleと分けている。今年もほんとにおもしろい本ばかり読んでいるなー。」



勤め先の中学校の図書室で借りていて、きのうが返却日だったのでおととい急いで読了し、きのう返しに行った。
この学校の司書の先生と、これまで挨拶以上の会話をしたことがなかったが、休み時間だったので「とてもおもしろかった!」と言って少し話した。

私は中学校2校に勤務しているが、両校の司書の方とも、本当に本が好きなんだなあと強く思わされる。
夫が読書家で、うちにおもしろい本があふれているため、本を借りるということがほとんどない。
それでもたまに図書室に顔を出すと、司書さんがとても喜んでくれて、私の興味に合った本を探してくれようとする。
きっと本好きの生徒が来ても、同じような情熱で本を探してくれ、勧めてくれるのだろう。
職業意識が高いこと以上に、感動的に本への愛情が深い。


学校の図書室_c0042704_20161609.jpeg

私がふと『ようこそ、難民!』という、昨年出た子供向けの本に目を留めると、司書さんが「どうぞどうぞ!」と言って勧めてくる。
私が今年ドイツ(ベルリンだけだけど)に行ったことを話し、ダークツーリズムをしばしばテーマにして旅行していることなども話すと、「じゃあアウシュヴィッツも行ったの?この本は読んだかしら。ミタニさんが興味を持ちそうな本は……」と、楽しそうに探してくれる。
そういえば先日は、もう1校の司書さんからクラウス・コルドンの大長編小説『ベルリン1919』以下三部作を勧められた。
私は本を読むのが絶望的に遅いので、返却期限までに返せないと思って遠慮したが(Kindle化希望!)。

『ようこそ、難民!』は子供向けの本とはいえ、大人も知らないドイツの難民事情が書かれているという。
両校の司書さんとも、世界のいろんな国を旅しているようで、現在とこれからの日本が直面していく問題や、世界と日本で起きた戦争について、本を通して伝えることにも熱意を持っている。
学校にこういう方たちがいて、生徒と関わってくれているのだな。
ありがたいことだ。
というわけで、本を返しに行ってまた借りた本が手元に……。


by apakaba | 2019-11-09 20:19 | 文芸・文学・言語 | Comments(0)
2019年 10月 22日

22年前に書いた『おくのほそ道』評

Facebookに最近出かけた話を書いていて、9月に行った出光美術館の「芭蕉展」のことも書いた。
そのとき、昔このサイトを紙で発行していた時代に『おくのほそ道』の評を書いたことも思い出した。

ありましたー。
最後に「10月22日」の日付が。
22年前のちょうど今日、これを書いたのか。
文章が若くて生意気で、考察が浅い。
22年経つと、文章も歳をとるのねえ。
現在の目で読むと直したい箇所もあるけれど、それはグッと我慢。
ところどころ、機種依存文字のせいか脱落している文字があり、今となっては何が書かれていたかわからないままだ。
文中の自分の旅と重ねている描写は、あきらかにインドだ。

あ!
今気づいたが、22年前は娘の「コシヒカリ」が生まれた年だ。
娘が生まれて3ヶ月後に書いたのね。


22年前に書いた『おくのほそ道』評_c0042704_15030052.jpeg


 9月は雨がよく降った。 
 じとっと湿っぽくて変に肌寒い。
 長袖のシャツにするか、それともきのうまでと同じに半袖のまま過ごすか迷うような朝、外の気温を確かめたくて窓を開けてみる。
 その瞬間、まったく突然に、一年前に行ったボンベイをワーッと思い出してしまったのだ。
 湿気をたっぷり含んだ、雨あがりの風が顔に当たっただけで。

 そこにいるときには、自分をとりまいていた空気のことなんかべつに気にもとめずにいたはずなのに、条件が揃うと記憶のピントがぴたりと合っちゃう。旅先に。たまにそうなることがある。
 私って本当に本当に旅行が好きなんだわ。
 というわけで、今回は芭蕉先生の『おくのほそ道』を読んでみた。
 「閑さや岩にしみ入蝉の声」とか「夏草や兵どもが夢の跡」などの俳諧が詠まれている、かの有名な紀行文である。
 みなさん「月日は百代の過客にして……」から始まる序章を、古文の先生に暗記しろと無理強いされた思い出があるでしょう。
 『おくのほそ道』全文のなかでも、私にはこの序章の部分が一番胸に迫る。 いや、私だけでなく、旅が好きな日本人ならだれでもグッとくるはず。
 なにしろ、旅に出たくていてもたってもいられない、かきたてられるような、灼けつくような気持ちを、300年の隔たりを跳び越えて共有できるのである。
 「そゞろ神の物につきて心をくるはせ、道祖神のまねきにあひて取もの手につかず……」そうなのだ、旅立ちたいという欲求はゆったり落ち着いた気分のなかからわき出てはこない、旅先に思いを馳せると自分でも情けないほど気もそぞろになってしまうものなのだ。
 そんなとき、序章のなかで最も好きな「漂泊の思ひやまず」ということばが、何度頭に立ち現れたことだろうか。

 私にとっては、芭蕉は俳人というよりも、偉大なる旅の先達である。
 当時の東北・北陸への徒歩の旅は、現代の外国への自由旅行以上に、冒険的で、感動的で、ハプニングだらけだったにちがいないから。
 だから、読んでいて、あー私もそう!同じだー、と感じられる箇所に来ると、とても嬉しくなる。
 そういう、「旅仲間気分」を強く味わえるのは、松島・象潟をはじめとする名所を歩き回っている箇所よりも、むしろ、夜、寝るときのことを書いた部分だった。
 観光したり移動したりでくたびれ果て、最後に安宿の部屋にたどり着いて横になったときが、昼間よりもいっそう「非日常」のなかにいる自分を強く意識する時間だと思う(高級ホテルの美しい部屋では、興奮してしまってそんなことを感じている暇がない)。
 シミとカビだらけの壁、前の客の汗くさいシーツ、目を悪くしそうな裸電球、しかも廊下の人の声がうるさい、表通りのバスや列車の音がうるさい、裏通りの牛や犬の吠え声がうるさい。ああこんなんじゃ眠れない。
 なんでこんなとこにいるのだ私は。
 ……でもなんだか、笑っちゃう。
 (脱落)の章に、似たようなエピソードがある。
 (脱落)では、琵琶法師の弾き語りが枕元に近く響き、やかましいと迷惑に感じる気持ちと、いかにも田舎びた調子に風情を感じる気持ちがないまぜになる。
 また、(脱落)は、
 「蚤虱馬の尿する枕もと——一晩中蚤や虱にせせられ眠るどころではない。おまけに、馬の小便する音までが、枕元に近々と響いてくる。何ともわびしくおかしな目にあったものだ——」が詠まれた処である。
 全文中、この句ほど詩的でない句はない。
 けれども旅の同朋としては、こういうのこそワカルワカル!なのだ。

 ここに至るまでの行程がまた泣かせる。
 芭蕉は、現宮城県鳴子温泉のそばにあるから出羽の国(現秋田・山形県)へ抜けようとするが、この道は旅人のめったに通らない所なので、関所の番人に不審を受け、やっとのことで関を越える。
 山を登っていくうちに日が暮れたので、国境を守る番人の家に一夜の宿泊を頼む。
 ところがここで三日も風雨が吹き荒れて、なんの由緒もなく見るものもない山中に逗留するハメに陥ってしまったのだ。
 そこで「蚤虱……」の句が詠まれたわけである。
 ついでにこのわびしい逗留のあとどうなったかというと、出羽の国への山道は危なくて道がはっきりしないと家の主に言われ、道案内に屈強そうな若者を頼むことにする。
 若者のあとについて山道を歩き始めるが、これが実に険しくて、木立の下は夜道のように真っ暗、渓流をじゃぶじゃぶ渡ったり岩につまずいたり藪こぎしたりの大難行となる。
 これまではともかく、今日という今日は絶対に危ない目に遭うにちがいない、とびくびくしながら、冷や汗びっしょりで進んでいく——。

 こんな冒険を、遊行の僧のような風体をした46歳のおじさんがやっているのだと想像すると、読んでいておかしいような切ないような気持ちにはならないだろうか。
 当時の46歳といったら、おじさんというよりはおじいさんと呼べるかもしれない。
芭蕉は胆石症と痔疾が持病だったそうである。
 旅程の前半、(脱落)の章で、
 「粗末な宿に入り、横になったものの、夜中に土砂降りになり、寝ている上から雨漏りしだし、蚤や蚊に責められたあげく、胆石の発作が起きて気も遠くならんばかりとなる」
 という記述がある。
 「遙なる行末をかゝへて、斯る病覚束なし」といったん気弱になるものの、もとより俗世は捨て去った身、旅の途中に道ばたで死んだっていいさ、と観念するに至る。
 もう老年にさしかかり、持病も抱えているのに、なぜ先へと進むのか?
 なんでそこまでするのか?
 この悲壮感さえ漂う旅への執着は、逆に、老年だからこそなのだ、と私は思った。
 もうあとがない、いま発たなければ、前へ歩を進めなければ。
 実際、芭蕉はこの五ヶ月半の旅を最後に、長期の旅に再び出ることなく、五年後に亡くなっている。

 『おくのほそ道』のすごさは、この年齢の隔たり、それ故に生まれる決意の切迫感の差を、若年の読者に充分意識させつつも、同時に、名所での感動、人との出会い、スリル、心ぼそさといった旅ならではの気持ちの動きを確実に共感できるように仕組んでいるところなのである。
 そう、実は『おくのほそ道』にはけっこうウソが多いのだ。
 訪れた場所の順番を入れ替えたり、天気や日付をずらしたり、のみならずあのの章に出てくる発作の苦難の記述さえも、フィクションではないかと研究者には疑われている。
 それもこれも、すべて紀行文をドラマチックに盛り上げ展開させたいがための技巧なのだ。
 だがここでがっかりしてはいけない。
 芭蕉は人生を「旅」と観じていた。
 実人生がそれほどドラマチックであるはずがないから、せめて旅を、より美しく完全な人生の縮小版として残してみたい、そういう欲求は生まれて当然だと思う。
 それなら私たちもそのハッタリに乗せてもらおう。
 芭蕉の軌跡を、文面通りに読むことができれば、私たちの単なる「旅行」も、深遠な思想を帯びた「旅」になり得るのである。(1997年10月22日)


by apakaba | 2019-10-22 15:04 | 文芸・文学・言語 | Comments(0)
2019年 04月 25日

『手塚治虫アシスタントの食卓』

『手塚治虫アシスタントの食卓』_c0042704_21184136.jpg

やっと、読みました……遅い……
新学期がスタートしてドタバタしているのと、連休前に原稿書きをやり終えなければと。
堀田あきお・かよさんによる『手塚治虫アシスタントの食卓』でございます!

あきおさんは今も(ここ数年お会いしていませんが)カッコいいけど、あきおさんがかの手塚先生のアシスタントとして過ごした青春の日々がつづられる。
純真で頼りなく、まだ何者でもなかった時代。
夢だけを頼みにしていた、カッコ悪い時代。
そんなあきおさんはとてもカッコいい。
どの世代の人間が読んでもグッとくる、全方位的におもしろく感動的な逸話集だ。
(私などは若きあきおさんでも手塚先生でもなく、もはや手塚先生のお父様の心持ちにシンクロしてしまったよ。)

堀田夫妻のすべてのマンガに共通することであるが、彼らの作品には「いい人しか出てこない」。
たとえいい人と言い切れないような人でも、読者には憎めない。
それは、堀田夫妻の、人を見るまなざしのやさしさだ。

手塚治虫という巨人が、どんな人だったのか。
マンガの中に描かれる手塚先生の姿は、ほんの一部分だけだろうが、それで人となりに触れられたような、温かい気持ちになる。
まるでこのアシスタント時代の日々がつい最近のことのように、生き生きと感じられる。
そして、手塚治虫はとっくに亡くなったこと、もう新しい作品は生まれないことをはっと思い出し、さびしくなる。
それから、このマンガに出てきた人々——あきおさんをはじめ——が、手塚先生からなにかしらのものを受け継いで、今、活躍していることに思い至り、心強く、うれしくなるのだ。



by apakaba | 2019-04-25 21:19 | 文芸・文学・言語 | Comments(0)
2016年 07月 24日

家族、親子、夫婦、人間として生きることを見つめる——『親の介護、はじまりました。』

堀田あきお&かよ夫妻のことは、伝説の旅行雑誌「旅行人」の執筆陣にいらしたため、90年代から一方的にファンだった。
その後、たまにお会いできるようになってみると、そのお人柄がますます大好きになった。

ご夫妻の新刊『親の介護、はじまりました。(ぶんか社、上下巻)』を、涙をぬぐいつつ一気読みした。
かよさんのお母さんが大腿骨骨折をしたことから寝たきりになっていくまでの介護の日々を描いているが、お父さんや他の家族・親戚の方々、あきおさんのご家族、病院やヘルパーの方々など、多くの登場人物が入れ替わり立ち替わり登場する、にぎやかな群像悲喜劇になっている。
だが、劇であれば「群像悲喜劇」などと他人事の表現ができるけれど、これはフィクションではなく本当の話であり、それだけに、描かれているエピソードは、堀田夫妻が経験しているさまざまなことのほんの氷山の一角にしかすぎないであろうことが伝わってくる。

身をもって体験している人たちにしか書けない、ずっしりと重い現実のストーリーなのに、重さの先にある、人間なら誰でも感じ取れる「温かさ」を、見せてもらえる。
それはマンガならではの力だ。
幼かった子供を育て、やがて自分が老いて子供の世話になっていく、人間の当たり前の営みといってしまえばそうなのだが、その順番をたどっていくことの美しさやつらさが見える場面で、何度も泣いた。

あきおさんとかよさんには、個人的にも本当に感謝している。
次男の「アキタコマチ」が就職して料理人になる前に、旅行関連のイベントであきおさんにお会いした時、急にその場を離れたあきおさんが、いつの間にかお菓子を山ほど買ってくれて「仕事がんばってね」と息子に渡してくれたそうだ。
何度も会ったことがあるわけでもないのに、あきおさんは、そうした親戚のおじさんみたいな自然なやさしさを、子供に見せてくれる。

2年前、私が顔面神経麻痺の後遺症でこの世の終わりのように落ち込んでいたとき、またイベントでたまたまお会いしたかよさんは、「よしよし」と頭を撫でてくれた。
そして、ひらたくやさしい言葉で、力づけてくれた。
私は、その日から、病気でふさいでいた心が軽くなったのだ。
私は友達というより一方的なファンの分際だ。
かよさんは、そんな私にも、そんなふうに分け隔てなく接してくれる。
あきおさんとかよさんの、底知れぬ包容力とやさしさは、こんなふうにたくさんのことを二人で乗り越えてきた結びつきから来ているのだなあと、新刊を読んで改めてわかった。


家族、親子、夫婦、人間として生きることを見つめる——『親の介護、はじまりました。』_c0042704_15553029.jpg
本文と関係ありませんが。
私が最初に読んだ堀田作品『アジアのディープな歩き方』へのオマージュということで……
井の頭公園内、ペパカフェフォレストのガッパオ。


苦しみを知っている人は、奥行きがちがう。
軽いタッチのマンガなのに、端々にグッとくるやさしさがちりばめられている。
私は、マンガの中で、介護の壁にぶち当たるたびかよさんが悲しんでいるときや落ち込んでいるときに、あきおさんがかよさんの手を握ったり、かよさんの肩に手を置いたり頭を撫でたりしている絵がとても好きだ。
それはいつも小さなコマで、ページの端っこでさりげなく描かれているのだけど、見るたびにあきおさんの手の温かさを感じ、まるで自分の体に触れられたかのように、気持ちが温かく、安らいでいくのを感じる。
そうすることで、かよさんがどれだけ救われただろう。
そしてそうすることで、あきおさんもかよさんの体の温かさをたしかめることができ、二人でがんばれるとたしかめることができたのだと思う。

この本は、介護を題材として描かれているが、介護に限ったことではなく、人間が、尊厳を持った人間として生きることそのものを見つめた本だ。
なぜ自分が生まれたのだろう。
自分の人生には、どんな意味があったのだろう。
なぜ今、こうした巡り合わせになっているんだろう。
その答えの片鱗をマンガの中に見るとき、涙があふれてくるのを、抑えることができない。
介護に関わっている人はもちろん、そうでない人も、どんな人にもおすすめする作品だ。


以前書いたブログで堀田夫妻のことを書いたのはこちら→大学生だった私へ……『旅をせずにはいられない、アジアの魅力』


by apakaba | 2016-07-24 16:04 | 文芸・文学・言語 | Comments(0)
2015年 04月 10日

おやゆびひめへの旅路

私が所属している影絵人形劇団の今年度の活動がスタートし、今日は新年度初めての集まりに出た。
まず今年度一発目の壁は、来月に迫った「土曜授業」である。

土曜授業というのは、小学校でこれまで休日だった土曜日にも授業をするようになったため、その授業時間を使って影絵の体験をさせるという活動のことで、今年は2年目となる。
昨年度が初めての試みだったが私は不参加だった。
土曜に仕事があったのが最大の理由だが、いわゆる素人劇団が、学校の授業時間を使って授業をやるなんて、そんな責任重大なことやっていいのかという恐れもあったのだ。
定期公演も授業時間を使って見せているが、あれはリッパに授業時間を使うだけの価値のあるものを作っているという自信がある。
だが、貴重な授業時間を2時間も3時間も使い、子供達に人形を作らせ、役割を振って発表まで持っていくなんて、学校の先生じゃないし経験もない我々おばさんたちが、できちゃうの?
失敗したら誰が責任取るの?
たとえば保護者から文句が出るとか(そんなヒマあったら漢字と計算でもやらせてください!とか)。
が、それはまるっきり私の杞憂で、昨年度の土曜授業は、実に才能豊かで能力も高い我が劇団メンバーが、力業で本番の発表まで形にしてしまえたのだった。
すごいねほんと。
尊敬するわあの人たち。
そこで、保育園もやめて土曜の拘束もなくなったことだし、私も1年遅れながら手伝うことにしたのである。

5,6年生用の題材は『おやゆびひめ』。
台本を作るにあたり、3月からぼつぼつと非公式に話し合ってきた。
外国の昔の童話というのは現代の人間からすると共感しづらい。
話し合いは三歩進んで二歩下がる状態だ。

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本文と関係ありませんが、今日のお昼、中華丼。
冷凍レトルトもの。


ストーリーは簡単。
花から生まれた小さい女の子おやゆびひめが、ヒキガエルにさらわれ、魚達に救い出され、コガネムシにさらわれたのち置き去りにされ、野ねずみの家に居候し、隣家のもぐらと結婚させられそうになる。
しかし瀕死のツバメを介抱してツバメの背中に乗って間一髪脱出し、花の国へ行く。
花の国の王子に見初められて結婚する。
覚えてますか?アンデルセン童話の一つだ。

話は簡単だが、レリゴーが大好きな現代の子供たちには、あまりにも主体性のないおやゆびひめの人物像に魅力を感じられないことだろう。
加えて、「見た目は関係ないよ、心がきれいならいいんだよ」的教育を受けて育っている今の子供たちは、姿の醜い生き物たちに対する苛烈ともいえる拒絶反応に、違和感を覚えるのではないか。
この辺りをどう扱うかでやや頓挫してしまっていた。

今日、少し意見を言ったのだが、私はやはり「授業時間を受け持っている」ことに、いつも立ち返るべきだと思う。
おもしろおかしい劇を作ることが目的であれば、アンデルセンを引いてくる必要はない。
大胆に現代的解釈を加えるにせよ、原作に忠実に書くにせよ、つねに「この話が書かれた時代や場所」を考えることが、作品を知ることになる。
19世紀のデンマーク。
結婚観も今とはちがうし、いかに冬が厳しく、暖かい国への憧れが強く、お日様の光を渇望していたことか。
そんな背景にちょっと思いを馳せるだけで、それはただの「童話」ではなくなり、「文学」を読むこととなる。
背景を知れば、「もぐらと結婚したらもうお日様の光を見ることはできない。さようなら、お日様」というセリフがいかに切実な響きを持つことだろう。

私は子供にそういう体験をしてほしい。
相手が小学生だって手加減しない。
まあやっぱり私は、教育現場が好きなんだろうね。


by apakaba | 2015-04-10 16:22 | 文芸・文学・言語 | Comments(0)
2014年 12月 11日

亀山郁夫×東浩紀 司会:上田洋子 『カラマーゾフの兄弟』からチェルノブイリへ——ロシア文学と日本社会

12月9日に開催されたゲンロン講座「亀山郁夫×東浩紀 司会:上田洋子「『カラマーゾフの兄弟』からチェルノブイリへ——ロシア文学と日本社会」は、片時も間延びした時間のない、エネルギッシュな議論が交わされた会だった。

五反田のゲンロンカフェは、ドストエフスキーを愛好し、亀山先生の新訳版出版によって若き日の衝撃的なロシア文学体験をふたたび胸によみがえらせたであろう、私のような聴衆で満員。
夫と大学生の長男も連れて行ったが、3人で興奮しながら帰途に着き、夫は翌朝亀山訳『悪霊』をKindleで買い求め、長男は東浩紀『弱いつながり』を1時間で読み切っていた(『弱いつながり』は、今年の私の読書ベスト10に入る名著だと思う)。

ドストエフスキーは、高校生から大学生にかけて、取り憑かれたように読みあさり、短編も含め読破した作家だ。
とりわけ『カラマーゾフの兄弟(新潮文庫/原卓也)』は、その疾走感、ドライブ感に完全に巻き込まれ、どんなに眠くても疲れていても目がカラカラに乾いても、読書を中断することができないほどだった。
それはすべての『カラマーゾフの兄弟』経験者に、ある程度共通する体験ではないだろうか。
ところが新訳の亀山版では、なぜかそのドライブ感がなかったのだ。
自分が年を取ったからなのか、それとも訳のちがいに因るところが大きいのか?
私と同じ感想を、夫も長男も持っていた。

しかし亀山先生が、心の底からロシア文学とドストエフスキーとロシアを愛しているというその熱が、ご本人を前にしてみて初めてわかった。
会場全体が、亀山先生の愛の熱で熱くなるのを感じた。
ドストエフスキーは、失語症的(どもっているような感じや同語反復など)な、異様な高揚感のある文体を持っている。
原文に忠実に訳せば訳すほど、わけのわからない(文として破綻した)文章となっていき、読みづらい。
亀山先生は、あえて言葉を整理し、現代的な言葉遣いを用いてドストエフスキーへの壁を低くしてくれたのかもしれない。
ロシアでは、ドストエフスキーは読みづらい作家として、人気がないという。
日本でドストエフスキーの人気が高いのは、亀山先生に連なる多くの諸先生たちが、稀代の作家の高い壁をよじ登り切り崩してこられたご尽力の賜物なのだ。
そう思うと、また胸が熱くなった。

議論はきわめて知的でありながら終始なごやかな笑いに満ちており、真にインテリジェンスの高い人が集まって話すのを聞くのはなんと気持ちのいいことなのだろう、と久々に感動した。
東氏の著書は昔から家族でよく読んでおり、私など知的レベルは足元にも及ばないながら、その活動を全力応援している。
彼の、“「人文」に拠って立つ”とでもいおうか、はっきりした真っ正直な立ち方にとてもシンパシーを感じ、同時に滅びゆくものへの哀惜も感じ、「それでもやはり人文の力を信じたい」という決意の固さになんともいえない美を感じるからだ。

ドストエフスキーに度肝を抜かれた高校生のころから、私も人文畑を進んできた。
私は現在一介の主婦で何者でもないけれど、人文は学問として確実に廃れてきており、これからの時代、ふたたび勢いを盛り返すことは二度とないだろう。
文章をどれだけ読んできたか。
文章をどれだけ書く能力があるか。
そんなこと、この時代にはどんどんどうだってよくなってきている。
人文にさっさと見切りをつけた人間が、うまく立ち回ってお金を儲けられる。
それでも、人文という立ち位置から社会に関与していく人間は、まだ死に絶えてはいない!
東氏が主催しているこの「ゲンロンカフェ」もそうだし、「思想地図β」も、チェルノブイリツアーも、福島第一原発観光地化計画にしてもそうだ。
強靭な知力と力のある言葉、誠実で胸を打つ言葉を彼が持っているからこそ、これだけの活動が(お金が儲かるかは知らないが)立ち上がり存続しえるのだろう。

亀山郁夫×東浩紀 司会:上田洋子 『カラマーゾフの兄弟』からチェルノブイリへ——ロシア文学と日本社会_c0042704_1719495.jpg
ゲンロンカフェ入り口。扉の右上に、大ファンのチームラボ猪子さんのサイン!彼ほどの天才なら、語る言葉は「マジヤバい」だけでもいいんだよ!

本当に感動的な講座だった。
先ほど「読破した」と書いたが、実は『未成年』だけ読んでいない。
なぜなら、私はあまりにも愛好する作家がすでに亡くなっている場合、本当に読破してしまうことを恐れてしまうからだ。
「これを読んでしまったら、もうこの人の新しい作品は読めない……」そう思うと、最後の一作品になるともうだめなのだ。
しかし、訳が変わると何度も別の読書体験をできるということが、『カラマーゾフの兄弟』でわかったのだから、亀山版『未成年』が出たら、新旧の訳を読み比べてもいいかな。
文学に、真の意味で「読破」なんてものは、永遠に来ないのかもしれない。
読書は、人文は、かくもおもしろく奥深い。

by apakaba | 2014-12-11 17:34 | 文芸・文学・言語 | Comments(0)
2014年 01月 28日

ナゼ今さら、2011年に読んだ本メモ

何故なら、ここに書いておかないとなんでもかんでも忘れてしまうからです。
前は今より仕事の時間が少なくて、ブログに読書感想も書いていたけど、だんだん面倒になってしまったな。
せめて、おもしろかった本のタイトルとコメントだけでも書こう。
2011年まで遡って、手帳にメモしていた分だけ発掘。

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贅肉がすごい


『オラクル・ナイト』 ポール・オースター(著),柴田元幸(訳)

読んでいる最中は引き込まれていたが、読後はわりとすぐに忘れてしまったなあ。


『香港路線バスの旅』 小柳淳(著)

この本は、ほんっとにバイブルだった。「あなたを香港・マカオに連れて行くよ」の旅は、この本のおかげでできた。香港バス乗車中の観察眼もさることながら、それを表現する文章力もすばらしい。


『河岸忘日抄』 堀江敏幸(著)

なんと何事も起こらない小説。でも手触りがいつまでも残る。


『アメリカン・デモクラシーの逆説』 渡辺靖(著)

おもしろく読んだのに忘れてしまった……でも新書って「あの本」と思い出せなくても、けっこう身になってる(はず)


『同時代ゲーム』 大江健三郎(著)

なぜかどうしてもおもしろくなかった。無念。『日常生活の冒険』は信じられないほどおもしろかったのに……!


『ひとはどこまで記憶できるのか—すごい記憶の法則—』 田中真知(著)

こうすれば覚えられるし忘れない!という記憶術皆伝の書、というわけではない。真知さんもいろんな本を書いているんだな。


『TRANSIT12号 永久保存版!美しきインドに呼ばれて』 ユーフォリアファクトリー(編集)

記事としてはごく一般的、行き先もごく一般的だけど、豪華な写真を見てると行きたくなるイメージ重視の旅本。


『ふしぎなキリスト教』 橋爪大三郎(著),大沢真幸(著)

もっと突拍子もないおもしろさかと思ったら案外ふつうだった。ある程度知識を持っていればさほど目新しくはない。


『居酒屋』 ゾラ(著),古賀照一(訳)

これはとんでもなくおもしろかったなあ。パリの腐ったにおいがステキ。


『ナナ』 ゾラ(著),川口篤(訳),古賀照一(訳)

無念、『居酒屋』はあんなにおもしろかったのにナゼ『ナナ』はイマイチなんだろう。群像劇が好きなんだよね。というかゾラも書くのに飽きてないか?


『星を継ぐもの』 ジェイムズ・P・ホーガン(著),池央耿 (訳)

これはスゴカッタ!最後50ページほどのクライマックスに向かってまとまっていくばらばらのピース。組み上がっていく快感がスゴい!しかし一つだけ、未来の話としてはありえない描写が……登場人物がみんな、やたら煙草を吸っている。今のアメリカ小説なら絶対ありえないね。


『リヴァイアサン』 ポール・オースター(著),柴田元幸(訳)

あれ?読んだ記憶がまったくないがメモにタイトルがある。自分はオースターファンだと思ってたけど、どうしてこうも忘れてしまうんだろう。読んでいる最中の興奮が好きなだけなのか?大丈夫か。いや、昔読んだものは覚えているから、さほどでもなかったか、年で忘れっぽくなったかだ。


『夜想曲集:音楽と夕暮れをめぐる五つの物語』 カズオ・イシグロ(著),土屋政雄(訳)

悪くもないがさほどよくもない、という感想。『わたしを離さないで』が強烈におもしろかったため、サラサラな印象。


『フェルメール 光の王国』 福岡伸一(著),小林廉宜 (写真)

しばらく「福岡先生もちょっと本書き過ぎでは?内容が薄まってるよ〜」と思って離れていたけど、これは心から興奮しました。 


『思想地図βvol.2 震災以後』 東浩紀 (著, 編集), 津田大介 (著), 和合亮一 (著), 藤村龍至 (著), 佐々木俊尚 (著), 竹熊健太郎 (著), 八代嘉美 (著), 猪瀬直樹 (著), 村上隆 (著), 鈴木謙介 (著), 福嶋亮大 (著), 浅子佳英 (著), 石垣のりこ (著), 瀬名秀明 (著), 中川恵一 (著), 新津保建秀 (著)

労作。東日本大震災について考えるのは、“理系”の人間だけがやることじゃない。おのがじし、自分の持ち場で考えることだ。あらためて“言論”の力を信じる気持ちになった。


『エージェント6』(上下巻) トム・ロブ スミス (著), 田口俊樹 (訳)

やっぱり初作の『チャイルド44』の疾走感が最高だったけど、完結編としての意味が大きい。アフガニスタンの砂漠のシーンもナイス。早いとこ、映画化切望!「主役はどの俳優かな〜」と想像しながら読むのも楽しい。


『僧侶と哲学者—チベット仏教をめぐる対話』 ジャン=フランソワ ルヴェル (著), マチウ リカール (著), 菊地昌実 (訳), 高砂伸邦 (訳), 高橋百代 (訳) 

無宗教で哲学者である父と、もと分子生物学者でダライ・ラマの弟子となった息子との対話。フランス人といえばカトリックと思ってたけどぜんぜんちがうのね。対談内容はオーソドックス。


『ミレニアム1 ドラゴンタトゥーの女』(上下巻) スティーグ・ラーソン (著), ヘレンハルメ美穂 (訳), 岩澤雅利 (訳)
『ミレニアム2 火と戯れる女』(上下巻) スティーグ・ラーソン (著), ヘレンハルメ美穂 (訳), 山田美明 (訳)
『ミレニアム3 眠れる女と狂卓の騎士』(上下巻) スティーグ・ラーソン (著), ヘレンハルメ美穂 (訳), 岩澤雅利 (訳)

6冊一気読み。こんなに読みまくるのって数年に一度しかないわ。とりあえず、日本人憧れの国のひとつスウェーデンなんて、ちっともいい国じゃないぞ!ってわかる。未完で作者急死が悔やまれた!続きを読ませて〜!


だいたい、こんなところ。
2011年は、3月に東日本大震災が起き、それ以来私は本を読むということがほとんどできなくなってしまい、ただただネットばかり見ていた。
読書量激落ち。
そのまんま現在に至るトホホ。
また2012年、2013年の読書メモも書いておこう。

by apakaba | 2014-01-28 14:18 | 文芸・文学・言語 | Comments(0)