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あぱかば・ブログ篇

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2009年 12月 15日

フォーシーズンズホテル、一泊プレゼント

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先月に書いた、なにをクリスマスプレゼントにするか?の記事のとおり、夫へ早めのクリスマスプレゼントです。
目白のフォーシーズンズホテル一泊朝食付きが半額以下で泊まれるチケットを偶然に手に入れたので、土日で都内豪遊をしました。

写真が多いので、つづきはこちらへ

# by apakaba | 2009-12-15 12:59 | 国内旅行 | Comments(14)
2009年 12月 12日

心はなにによって動くか・・・聖地チベット —ポタラ宮と天空の至宝—

上野の森美術館でやっている聖地チベット —ポタラ宮と天空の至宝— 展には、行くべきではない。来場者がいればいるほど、中国政府が儲かってしまうから」と、何ヶ月か前にニュースなどで見聞きしていた。

チベット美術が大好きなので、是非とも行きたいと開催前から思っていたが、この展覧会は中国政府機関が名を連ねているから、たしかに入場料や土産物の売り上げで中国政府が潤うことになる。
それに加え、展示される“天空の至宝”はほぼ中国がチベットから略奪してきたものであるにもかかわらず、そのことにはまったく触れず、あたかも、古くから中国がチベットに敬意をもって接し、今はチベットの理解ある保護者であるかのように印象づける解説内容である、という指摘を知るにつけ、二の足を踏んでいた。

2004年からアメリカやヨーロッパ各地を巡回しているこの展覧会には、行く先々で抗議行動が起こされ、主催者からの謝罪が発表されるなど、物騒な話題がついて回ってきた。
「行かないことが、抗議になる」と思って、我慢していた。
しかし、会期が残り一ヶ月となってくると、「やっぱり、どうしても見たい!」という気持ちが抑えられず、中国政府が私のチケット代で潤うのはイヤだけどもうそれはしかたないと割り切って、行ってきた。

やっぱり、チベット文化が大好きだよーッ!
出口で叫びたくなるくらいの美術品がそろっており、“至宝”の看板には偽りがなかった。

よほど図録を買おうかと思ったがやめた。
このすばらしさは、写真ではまったく伝わってこないからである。
ほんものでないとダメという芸術作品は、たとえばルノワールの油彩画でも東大寺の盧遮那仏でも同じことだが、チベットのタンカ(仏画)や仏像を前にすると、美術的な巧拙よりもまず、自分の体に“ルン”が強く吹いてきて、呼吸が止まってしまうほどの胸苦しさを覚えるのだ。
“ルン”とはチベット語で“風(象徴的な意味を含む)”という意味である。
2000年にインドのなかのチベット世界を旅行したとき、つねに強い風が吹きつけていた思い出に因るのだと思う。

インドの山奥で、幸運にもダライ・ラマさんにお会いでき、チベット人に囲まれてカーラチャクラの法要に参列できたことが、私がチベット世界に胸苦しいまでの思いを持ち続けることとなったきっかけなのだ。
学生のころから興味はあったしあこがれは持っていたけれど、実際に行くことで、チベットへの感情移入はそれまでとは比べ物にならなくなった。
この展覧会が、中国政府のプロパガンダに利用されていることは承知だ。
ほんとうに、評判どおり、中国にとって都合のいいことしか解説文に書かれていなかった。
それでもなお、ほんものを見に、上野へ行くべきだと敢えて言う(来年は大阪と仙台も巡回するという)。
超一級品のチベット美術を見て、その力に胸を打たれたら、きっと誰でもチベットに関心を持つはずである。
そうすれば、おのずと中国政府のチベットに対する非道は知れていく。

中国は、この展覧会に関して、決定的なことを見落としている。
チベット“族”(“人”ではなく)と良好な関係を築き、「庇護者」としてふるまうことに汲々としている中国政府には、あのチベット芸術そのものの「力」が、見えていない。
あの、ほんものだけが発するとてつもないエネルギーは、見に来た人間すべてを虜にしてしまうのに。
これを見せれば見せるほど、彼らの思惑とは逆に、チベット支援を後押しすることになるのに。

タンカや仏像を、長い時間をかけて眺めるほどに感じるのは、チベット人は「ここに、なにもかもすべてを表したかったのだな」ということだった。
タンカに目を近づけて仔細に見ていくと、一日かかっても足りないと思う。
地獄や極楽の様子や、高徳の僧の生涯を描いた絵には、よーく見ると「こんなところでこんな悪鬼がなにかやってる!」「な、なんか動物がまぎれてる……」「こんな小さい枠に、まだもう一つ、仏さんの顔が描いてあるー!」と、新しい発見を隠してあるからだ。
その小さすぎ詳しすぎる絵を見ていくと、自然と「よくやるね……」と笑いが込み上げてきて、すぐに「よくやるね……」と涙が出そうになるのだ。

カーラチャクラ父母仏立像(ぶもぶつりゅうぞう)や十一面千手千眼観音菩薩立像(せんじゅせんげんかんのんぼさつりゅうぞう)などをはじめとする、銅製の仏像は、美しくてこわくて、見れば見るほど発見があって目をそらせず、おおげさでなくて呼吸を忘れる。
それにしても、チベット人がイメージする仏の条件は、完璧な容貌を有する、ということか?
顔は、どれもこれも皆、美しい。
カーラチャクラの像など、ダルビッシュみたいにハンサムだ。
体格も、いかにも頑健そうな美しさ。
女性尊ダーキニーのくびれたウエストと大胆に開いた脚、カーラチャクラ像の長い脚と引き締まったヒップ、弥勒菩薩立像のくねった腰つきとがっしり張り出した筋肉質な肩。
インドの仏像とも、中国の仏像とも、日本の仏像ともまるで異なるその魅力。
ないものがない……肉体のすべての魅力が、備わっている。
我を忘れて見とれ、頭のどこかがびーんとしびれたようになってしまう。

ダライ・ラマ14世が亡くなったら、チベットの未来はそうとうに暗いだろう。
だからこそ、ほんもののチベット美術を見てほしい。
「見に行ってはいけない」という批判は、政治的には正しいが、やはりまず、チベット文化の物凄さを知ることのほうが大事だと、私は思う。
人の心を最終的に動かすのは、プロパガンダを論じることではなくて息を呑む文化体験だと思うからだ。

# by apakaba | 2009-12-12 00:37 | 歌舞伎・音楽・美術など | Comments(6)
2009年 12月 06日

アダルトになったJAMIE CULLUM『The Persuit』への賛辞

ジェイミー・カラムの、待ちに待ったニューアルバムを買った。
やっと、CATCHING TALES」を書いてから3年近くが経ち、あのときもギュッと大人っぽくなったボーカルに驚いたのだが、新作『The Persuit(ザ・パースート)』は、さらに前作とは比較にならないほどアダルトな1枚になっていた。

以下、アダルトになったジェイミー・カラムに敬意を表し、アダルトなレビューを試みる。

彼の出す声は重く、彼の弾くピアノは軽い。
前回のレビューでは、
声がチャーミングだ。
やや鼻にかかった声が甘さを出し、かなりのハスキーさが甘さを消して渋い陰影をつける。

と表現したが、今の彼は、甘いとかハスキーといったひとことで言い表せる声ではなく、キラキラとギラギラと乱反射するなにかの金属のような——その金属片で、細い爪のように、背中や腕の内側をつーっと引っかかれるような——歌声になっているのである。
痛みと快感を伴ってくるような声なのだ。

私にとっては、これまで世界で一番いい声なのはU2のボノだと思っていたが、ボノにかなり肉薄、いや匹敵といってもいいくらい、好きな声だ。
しかし聴く人によっては、むしろヘタに聞こえてしまうかもしれない。
「低すぎる?音程が、低いほうに流れてる?」
と聞こえるような。
彼の声は、“低めチューニング”に聞こえる。
音程が、外れてはいないけれど、常に下ぎみに唄うように聞こえる。
それが、もとの声質の低さに加えてさらに“重み”となってずっしりくる。
2005年の2月に書いた、映画「モーターサイクル・ダイアリーズ」のレビューで“心地よい重み”について触れているがまさにそんな感じ。

クリント・イーストウッド監督・主演の最新作『グラン・トリノ』のテーマ曲も収められている。
しみじみといい映画だった……という余韻をいつまでも残させる名曲だ。
ほかに、ジャズのスタンダードのカバーもあるが、なかでも私が毎日1回は聴きたくなるほど好きな曲は、『Don't stop the music』だ。
そう、あのリアーナの大ヒット曲の、大胆不敵なカバーなのである。



リアーナの原曲(忘れた方・知らない方は是非とも聴き較べてほしい)が、ダンサブルでいかにも“今”っぽい気分をいっぱいに表しているのに対し、ジェイミー・カラムのアレンジは“今”の気分だけでなく、かつて過去に置いてきた、さまざまなめくるめく思い出のシーンを思い起こさせるような、人の感情の細かいひだの間を自由自在に行き来するような音を以て、原曲にオマージュを捧げながらも野心的に彼からの回答を出す。
彼が「 I wanna take you away 」と唄うと男の歌になる。
あの声で「 I 」を発音するとき、荒っぽく肩を抱かれてどこかへ連れ去られていくような感覚になる。
彼はカバーが好きだ。
リアーナではほかにも『Umbrella』のカバーもしているし、レディオヘッドの『High and dry』も、あの独特のダウナーヴォイスのトム・ヨークの向こうを張って、すばらしいアレンジをしていた。
よほど、自信のある人なのだろう。
だからこその、連れていかれてしまいそうな感覚なのだろうと思う。

クルマのなかで大音量で流しっぱなしにしておけば、“ヤバくカッコいい”気分になれる。
口説けます!!
息遣いや椅子の軋みもわざと収録するという、ジャズのライヴっぽさを取り入れるバランスも巧妙。
金属片のような声が嫌いでなければ、絶対おすすめ。

# by apakaba | 2009-12-06 00:57 | 歌舞伎・音楽・美術など | Comments(3)
2009年 12月 04日

感謝しています

広島・岡山旅行記を完結させてから、しばし書く気ダウン。
受験生がふたりいて、朝早い夫と夜型の受験生たちの両方に生活を合わせるのが堪えるためと、小学校の委員会活動などの用事が込み合っていたためである。
なにより、せっかく久しぶりに一生懸命書いてきた連載に、はなはだ反応が薄かったからだ。
(コメントくれた方ありがとうございました。)

更新すればアクセスは上がるし、アクセス数とコメント数が正比例ではないことは、よそのブログなどを見てもわかっているけれど、私はアクセス数よりも、読む人が読んでくれて、もしそれが批判だとしても感想や意見を知らせてくれるほうがうれしいタイプなので、「やっぱり、つまらなかったのだな。」とがっかりした。

それで気分転換に、女同士を毛糸でつなぐ夢、というより野望を書いてからなかなか進まなかったマフラーを、だらだらネットを見る時間をカットして編み始めた。
やらなきゃ冬が終わっちゃうしね。

編み目記号もなにもかも忘れ果てていたところからの再開なので四苦八苦し、隣の母に教えてもらったりしてどうにか軌道に乗った。
「やったー!思い出した!楽しいわー!」
すっかりうれしくなって、きのう2時間くらい編んじゃった。

しかし久方ぶりにやってみてわかったけれど、模様編みのつづく編み物って、やりながらでは本も読めず、お風呂にも入れず、当然ネットや映画を見ながらやることもできず、音楽でもかけながらやるしかないのね。
必然的に、編み物にまつわるいろんな昔のことなどを思い出したり、心に自然と浮かんでくる物事を自分で反芻しながら編んでいくしかない。
編み物というのはなかなか内省的な趣味だな。
いかに今の自分が、目からせわしない刺激を受けて暮らしているのかがわかったよ。

昔、母からも編み方を教わったけれど、なぜかよく覚えているのは、伯母が教えてくれた思い出だった。
「おばちゃんは左利きだから、ふつうと逆回りに編むんだよ。」
「お前はずいぶん手が固いね(編み方がきついという意味)。ほら見てごらん、おばちゃんなんかうーんとゆるゆるに編むよ。これだとゲージが変わるからね。お前の手(編み方)だと、できあがりが小さくなっちまう。」
もうとっくに亡くなった伯母には、娘がいなかったから、私が編み物を聞いてくるのは嫌ではなかったのかもしれないな。

編み物は、はじめはネットに較べてあまりにものんびり時間が流れるのがもどかしく感じるが、つれづれと思い出が湧いてくるのが楽しい。
永久に編んでしまいそうなのを自制し、テーブルに編みかけを置いて、買い物に出た。

戻ってきたら、えらい惨事になっていた。
コーシローが、毛糸玉をメチャクチャにこんがらかしてしまっていた!
犬は、動物のにおいのする暖かいものにじゃれつくのが大好き。
留守中に、牙や前足でさんざんほどき、ひっくりかえって体をなすりつけて恍惚としている様子がすぐに浮かぶ。
そして私は、こんがらかった毛糸をほどくのが、大の苦手!
衝動的に、この一玉まるごと捨ててしまいたくなるが、これはなかなか高級な糸だったのでそれももったいない。
泣きべそになっていると、娘の「コシヒカリ」が、
「うわー、コーシローやっちゃったね!わたしがほどいてあげましょうか。」
と言う。
「え、でもこれすごいよ。大変よ。おかーさんもうイヤー!やりたくないー!」
「まあまあ。わたしにまかせなさい。」
この会話ではどっちが子供だかわからない。

1時間半かけて、すっかりきれいにほどいて巻き直してくれた。

私はこういう根気強いことが本当に苦手なので、自分と娘との性格のちがいに驚いた。
「ありがとう!もうダメかと思ってた。」
「うん、いいの。わたしこういうこと好きだから。がんばって編んで仕上げてね。」
「ありがとう!がんばるね!今度、お礼になにか買ってあげるね。」
というやりとりをしながら、昔にもこんなことがあったなと思い出していた。
当時つきあっていた男の子に、セーターだかなにかを作っている途中、やっぱりなにかのはずみに糸がからんでしまい、「ぎゃああもう無理!」と私が騒いだ。
彼はまるで今の娘のように、「まあまあ」となだめながら、コツコツほどいてくれた。
あの人は、どうしているだろう。

「おかーさんって、編み物できるんだね。」
「昔はなんでもできたんだけどねえ。でも、これが初めて自分用に作るのよ、今まで人にあげたことしかなかったの。」
「え。そうだったの!誰に作ってたの?」
「昔つきあってた男の子とか(そろそろお年ごろの娘は、そこでパッと目がまん丸)。あと、子供たちにも昔は。」
「へえー!」

そうか、編み物は、本もテレビもネットも見ることができないけど、おしゃべりはできるんだな。

旅行記のことがすっかり頭から遠ざかっていた。
夜になってメールチェックをすると、ある人からのメール。
広島・岡山旅行記の感想を、とても、とても、とてもていねいに書いていただいていた。
コメント欄に書いてほしかったと一瞬思うが、コメント欄ではこんなにていねいには書ききれないだろう。
つまらなかったのだなとがっかりしていた気持ちが吹き飛んだ!

昔も今も、いろんな人にお世話になっているものだなと思ったわ。
母や、伯母や、娘や、昔のカレや、ていねいにコメントをくれる人や……直接のコンタクトがなくても、ほかにもどっさりと。
長く生きれば、だれでも同じなんだろうけど、ふだんは意識しないもんね。
やっぱり編み物を再開してよかったなあ。

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毛糸玉では絶望にたたき落としてくれたこの犬にも、感謝?

# by apakaba | 2009-12-04 09:25 | 生活の話題 | Comments(4)
2009年 11月 30日

広島・岡山旅行その8(完結) 大原美術館とからくり時計の残響

その7 平和記念公園で長い戦後を思うのつづき。

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広島風お好み焼きを、広島の旅のピリオドとした。
滞在できるのがわずか数時間だけとわかっているが、岡山へ移動する。
岡山でひとつだけどうしても行きたかった、倉敷の大原美術館に急いで向かう。

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日本初の、西洋美術のコレクションを中心とした私設美術館である。
当然、目玉はエル・グレコの「受胎告知」だが、行ってみて初めて、建築そのもののすばらしさを知った。
文化に関して、東京の一極集中化は、すべての日本国民にとって嘆かわしい現象だと思う。
このような一地方都市に、これほどすばらしい所蔵品と建物が根を下ろしていることに、非常に感銘を受けた。

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本館・分館・工芸館・東洋館など、さほど広大ともいえない敷地に効率良く配置された建築物は、所蔵されている作品と同等の価値ある存在だと思った。
一歩ごとにギイギイと鳴る床を踏み、曲線で彩った窓の意匠を見ながら歩き回る。
そのことがここまで心躍る美術館はめったにない。
オルセーをはじめ、いくつかの“建築そのものが超一級の美術品”である美術館の思い出がよみがえってくるような……、岡山が、というより日本が世界に誇れる美術館だと思った。
もしも中国地方を旅行する機会があったら、いや、なくても、この大原美術館に行くためだけに旅を計画する価値はある。と、私は思う。

しかし、もう時間がなくなってきた。
ここから、東京は遠い!
倉敷の美観地区を歩くこともせず、本当に大原美術館1箇所だけを堪能してから、また駆け足で倉敷駅に戻った。

新幹線に乗るまで少し時間があるので、倉敷駅北口に出てみると、そこに思いがけず大きなからくり時計があって、ちょうど5時を告げていた。

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暮れ始めた心もとない空の下、不思議な静寂を感じた。
アンデルセン童話のいろいろな場面をぎしぎし動く人形で再現している様子を、親子連れやカップルが、とくに歓声を上げるわけでもなく眺めていた。
なんだろうこの広場は?と少しだけとまどい、ああこれは、去年、経営難のために営業を終了した「チボリ公園」の名残なのだなと気づいた。

たっぷり5分間くらいは、アンデルセン童話のシーン再現がつづいた。
暗くなってきているし、時計まで遠いので、せっかくの人形の動きも今一つはっきりと見えない。
これ以上近くで見ることができない。
背の高い駅ビルに向かって発せられた音楽は独特な反響をする。
その様子を、おそらく地元の人であろう佇む人々の肩越しに、しばし眺める。

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飛行機雲は東を指す。
帰るかー。
絶妙に距離感のあるからくり時計、駅前広場に啓示のように奇妙に響き渡るオルゴール風の音楽、わずかな演奏時間にもどんどん光を失う空。
ここに立っていたのはほんの5分のことだったが、そしてこの旅行自体がほんの短い間だったが、その5分は、いろんな国を歩いたあげく“帰国便に乗らなければならない最終日の夕刻”の感慨にぴったりと当てはまった。

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あらざらむ……ってわけではないけど、この世のほかのおもひでに?いまひとたびの逢うこともがな。ですよ。
その地へ行けば、その地のお酒ね。
岡山の地ビール「独歩」を1本だけ。

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ままかりの握りは大変おいしい。
いわゆる普通の江戸前寿司は、やっぱり東京の名店にはかなわないけれど、このままかり寿司は、短い旅を締めくくるにふさわしい“土地の味”だった。

しかしたった一泊二日で、いろんなものを見て、あれこれと考えまくったものよ。
宮島の厳島神社、弥山登山、原爆ドーム、酒造りの町・西条、平和記念公園、大原美術館と。
今は長い海外旅行をすることが難しいけれど、自分が、短くても国内でもどこへ行っても同じように感銘を受けていろいろ考えて楽しめることがわかって、それが一番おもしろかったな。

# by apakaba | 2009-11-30 22:58 | 国内旅行 | Comments(6)